1. 概要
天武天皇は、舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、兄である天智天皇の崩御後、672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を破り、翌673年に即位した。治世は14年間、即位からは13年間にわたる。この時代は、続く持統天皇の治世と合わせて「天武・持統朝」と一括されることが多く、日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代である。持統天皇の統治は天武天皇の路線を引き継ぎ完成させたものであり、その発意の多くは天武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代に当たる。
天武天皇は、人事において皇族を要職に登用し、他の氏族をその下位に置く皇親政治を推進したが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓を制定して従来の氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新たな都である藤原京の造営、そして『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が開始し、崩御後に完成した事業である。
宗教面では、道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他、日本土着の伝統文化の形成に大きな影響を与えた。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われている。
2. 名前と称号
天武天皇の諱は大海人(おおあま)である。幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむと推測されている。『日本書紀』には直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯の際に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこの説が有力視される。
和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。「瀛」(おき)は中国の道教における東方三神山の一つである瀛州を指し、「真人」(まひと)は優れた道士を意味する。これらはいずれも道教的な言葉であり、天武天皇が道教に深く関心を持っていたことを示唆している。
漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代の森鷗外は中国の歴史書『国語』の楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。また、前漢の武帝になぞらえたものとする説や、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」という故事に由来するという説もある。
天武天皇は、日本の君主として初めて「天皇」という称号を同時代的に用いた人物であるとされている。また、「日本」という国号を採用したのも天武天皇であるという説が有力である。天武朝に成立し、『日本書紀』編纂に利用された『日本世記』の存在などがその理由として挙げられる。「日本」という字に込められた意義については、「日」を中心とした国という思想を表し、神が天から降した「日嗣ぎ」が代々の君主であるとする神話に即したものとする説や、単に東方の美称とみる説など諸説ある。
3. 生涯
3.1. 出生と出自
天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がなく、これは同書において珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇の死亡時の年齢や、天智天皇の舒明天皇13年(641年)時点での年齢が記されているのがむしろ例外的である。
天皇の年齢を詳しく載せるのは、鎌倉時代に成立した年代記・系図類である。『一代要記』や『本朝皇胤紹運録『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。このため、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古くから行われてきた。
1974年に作家の佐々克明がこの年齢の食い違いに着目し、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている。漢皇子とは、皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王(用明天皇の孫)との間に設けた子で、天智天皇の異父兄にあたる。
しかし、『一代要記』などの中世史料では天智天皇の年齢も記されており、そこでは天智天皇は天武天皇より年上である。中世史料内部で比較すれば天智・天武の兄弟関係は揺るがないため、年齢逆転説は、『日本書紀』の天智生年と、中世史料から天武生年だけを取り出して比較したときに生じる矛盾である。このような操作を通じて得た矛盾によって、父母を同じくする弟と明記する『日本書紀』を覆すことに、坂本太郎ら歴史学者は総じて否定的である。しかし論争の中では数字をひっくり返してつじつまを合わせる史料操作も批判され、56歳没説も支持されなくなった。結局、天武天皇の正確な生年は不明ということになる。
史料 | 天智天皇の生年 | 天武天皇の生年 | 乙巳の変時年齢 | 天智没時年齢 |
---|---|---|---|---|
日本書紀 | 推古天皇34年(626年) | 不明 | 天智20歳 天武 --歳 | 天智46歳 天武--歳 |
(天武56歳没説) | 推古天皇34年(626年) | 舒明天皇3年(631年) | 天智20歳 天武15歳 | 天智46歳 天武41歳 |
一代要記 | 推古天皇27年(619年) | 推古天皇30年(622年) | 天智27歳 天武24歳 | 天智53歳 天武50歳 |
仁寿鏡 | 推古天皇22年(614年) | 不明 | 天智32歳 天武--歳 | 天智58歳 天武 --歳 |
興福寺略年代記 | 舒明天皇3年(631年) | 舒明天皇12年(640年) | 天智15歳 天武6歳 | 天智41歳 天武32歳 |
神皇正統記・如是院年代記 | 推古天皇22年(614年) | 推古天皇22年(614年) | 天智32歳 天武32歳 | 天智58歳 天武58歳 |
神皇正統録・本朝皇胤紹運録 | 推古天皇22年(614年) | 推古天皇30年(622年) | 天智32歳 天武24歳 | 天智58歳 天武50歳 |
皇年代略記 | 推古天皇22年(614年) | 推古天皇31年(623年) | 天智32歳 天武23歳 | 天智58歳 天武49歳 |
大海人皇子の父である舒明天皇は彼がまだ幼い頃に崩御した。大海人皇子は主に母である皇極天皇(斉明天皇)の指導の下で育った。兄である中大兄皇子(後の天智天皇)が皇太子であったため、大海人皇子が皇位に就くことは期待されていなかった。
3.2. 天智天皇時代と皇位継承
中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、陰謀には関わらなかったと推測される。事件の結果、皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位した。同母姉の間人皇女が皇后となり、大海人皇子は「皇弟」(すめいろど)と呼ばれた。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭に移ったとき、皇祖母尊(皇極天皇)・皇后・皇弟らは行動をともにした。やがて孝徳天皇が病で崩じ、皇祖母尊が斉明天皇として再び天皇になった。
大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った。旅の途中、斉明天皇7年(661年)1月8日に妻の大田皇女が大伯海(現在の岡山県東部)で大伯皇女を生み、大津皇子の名も筑紫の娜大津(現在の福岡市)での出生に由来すると言われる。大海人皇子は額田王を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説があり、賛否両論がある。
母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位二十六階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。
7年(668年)1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になったことは『日本書紀』の巻28、天武天皇の即位前紀に記されているが、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟、東宮太皇弟、東宮などと記される。『日本書紀』は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記すなど、天武の地位について信頼を置けないところがある。そのため、書紀が書く通り大海人皇子が皇太子であったとする学者もいるが、大皇弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説や、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないなど、疑う説も有力である。しかし、皇位継承者と認定されていたかはともかく、大海人皇子が非常に重要な地位にあったことは認められている。
藤原氏の家伝である『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。これは天智天皇7年(668年)のことと推測される。
天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣、右大臣と御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『懐風藻』によれば大友皇子が太政大臣になったのは5年前になる。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、この記事を天智天皇3年(664年)2月9日の冠位26階制の重出と見ている。ともかくも、大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである。これは天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる。
671年、大海人皇子は自らの身に危険を感じ、自ら皇太子の職を辞して出家を願い出た。彼は大和国吉野(現在の奈良県吉野町)の山中に隠棲するため移り住んだ。彼は息子たちと妻の一人である鸕野讃良皇女(天智天皇の娘)を連れて行ったが、他の妃たちは都である近江国大津宮(現在の大津市)に残した。
3.3. 壬申の乱
吉野での逼塞から、わずかな供を連れ逃れるように東行し、たちまち数万の軍を起こして勝利を得た天武天皇は、人々に強い印象を与えた。
翌年(672年)、天智天皇が崩御し、大友皇子が弘文天皇として即位した。同年6月22日、大海人皇子は挙兵を決意し、美濃に村国男依ら使者を派遣した。2日後、自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があり、湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海(尾張など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結させ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。これにより壬申の乱は終結した。
壬申の乱の終結後、大海人皇子はしばらく美濃に留まり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。これら二つの宮を合わせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
4. 治世 (673-686)
4.1. 即位と首都建設
673年2月27日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、鸕野讃良皇女を皇后に立てた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。
天武天皇の治世は、壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げることで、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。これは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測される。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、『古事記』序には「絳旗」と記され、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される。
天武天皇の新しい都である飛鳥浄御原宮は、飛鳥の古い京に帰還する形で建設された。この宮は、斉明天皇の飛鳥岡本宮をそのまま使い、考古学者がいうエビノコ郭を追加したものが主要部である。エビノコ郭には一つの大きな殿舎があり、当時これを大極殿と呼んでいた。天武天皇の即位後、この宮で多くの重要な政治的・文化的な活動が行われた。
『万葉集』には、壬申の乱終結後に詠まれた歌が収められている。
:おおきみは神にしませば
:::真土(まつち)をなみ
:::沼(ぬま)を都と
:::なしたまひつ
:::まそらに
:::馬並めて
:::いざ見に行かな
:::吉野の宮を
::::::- 大伴御行
この歌は、天武天皇の都が飛鳥の清御原(きよみはら)の地に建設されたことを指している。
4.2. 政治・行政改革
天武天皇の治世は、天皇の権力強化と中央集権化を特徴とする政治・行政改革が推進された。
4.2.1. 皇親政治と中央集権化
天武天皇は、即位後、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。これは、天皇個人に権力を集中させることを意図したものであり、日本史上まれに見る権力集中をなしとげた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という。皇族は冠位二十六階とは別に五位までの皇族専用の位を帯びた。
しかし、皇族が政権を掌握したわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマ性を持ち、古代における天皇専制の頂点となった。天武天皇は大臣のみならず、後世の議政官に相当する高官任命も行わず、冠位の昇進においても、制度上こうした地位への任官資格を得られる大錦下(官制改革後は直広弐)以上の上位の冠位への昇進も許さずに全体的な冠位昇進を抑制する方針を採った。その一方で下位の冠位に関しては壬申の乱によって減少した官吏の補充の意味も含めて昇進促進を図っている。これは方針の矛盾ではなく、自己の専制を抑制し得る臣下の出現を阻止しつつ、自己に忠実な官人層を形成して政権基盤を安定させる構想によるものと考えられている。こうした人事政策の反映として、壬申の功臣の1人で天智天皇の時代に既に大錦下の地位を得ていた羽田八国に至っては冠位四十八階への移行時に現任の大弁官であるにもかかわらず事実上の冠位の降格となっている。
ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、壬申の功臣でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままであった。壬申の乱が本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、日本では最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったのである。
4.2.2. 氏姓制度改革(八色の姓)
天武天皇は、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった。まず、天武天皇4年(675年)2月15日に、天智天皇3年(664年)から諸氏に認められていた部曲と、皇族・臣下・寺院に認められていた山沢、島浦、林野、池を取り上げるという詔を下した。続いて、有力者が私的に支配を及ぼすのを否定して、官位官職や功績に応じて個人に封戸(食封)を与える形式に切り替えた。封戸の導入自体は天武天皇の代以前からのもので、内実の転換が段階的に進められた。まず5年(676年)5月14日に西国にある封戸の税を取り上げて東国に替え、長期間同じ場所に封じることで発生する主従的関係を断ち切ろうとした。8年(679年)8月2日に、小錦以上の皇族・臣下に一斉に食封を与え、新制度への転換が完了した。これと前後して8年(679年)4月5日に寺の食封の調査を命じ、9年(680年)4月にその年限を30年に限った。判じかねるのは11年(682年)3月28日の詔で、食封を止めて公に返せと命じたが、実際にはこの後も封戸は続いている。何らかの制度改正、おそらく食封の管理への関与を禁じるような措置ではないかと推測されている。
豪族の私的支配の否定は、天皇を頂点とする国家の支配を貫徹しようとするものではあったが、生まれの貴賤による差別を否定したり、平等な能力主義にもとづく官僚制を志向するものではなかった。天武天皇7年(678年)1月7日には、身分の低い母を拝むことを禁止するという奇妙な詔を下している。
天皇の意図は貴賤の違いを自己の望み通りに秩序づけようとすることであって、まずいくつかの氏族の姓(カバネ)を引き上げて優遇する措置をとり、天武天皇13年(684年)10月1日に八色の姓を定めて全面的に再編成した。皇族の裔を真人、旧来の臣の氏族を朝臣、連を宿禰などとして、壬申の乱での功績も加味するものであった。氏族政策については、壬申の乱の支持勢力にかんする説と関係づけてその意図が様々に唱えられる。一つは中小豪族を統べて大豪族を抑圧したとする説、もう一つは畿内豪族の優遇にあるとする説、特定階層を優遇したとは言えないとする説である。
4.2.3. 律令制定(飛鳥浄御原令)
天武天皇は、即位後間もない2年(673年)5月1日に、初めて宮廷に仕える者をまず大舎人とし、ついで才能によって役職につける制度を用意した。あわせて婦女で望む者にはみな宮仕えを許した。天武天皇5年(674年)1月25日には畿内・陸奥・長門以外の国司には大山位以下を任命することを定めた。官位相当制の端緒である。同じ勅で外国(畿外)の臣・連・伴造・国造の子と特に才能がある庶人に宮への出仕を認めた。7年(678年)10月26日には毎年官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、その事務を法官がとること、法官の官人については大弁官がとることを定めた。官人に定期的・体系的な昇進機会を与える考選法の初めとされる。14年(685年)には新しい冠位を定めた。こうして整えられた官制は、生まれによる差別を否定するものではない。11年(682年)8月22日に、天皇が考選(勤務評定)において族姓を第一の基準とするよう命じたことからもわかるように、生まれの貴賤は官僚制度の中に織り込まれるべきものであった。
天武天皇10年(681年)2月25日に、律令を定め、法式を改める大事業に取りかかった。官人を分担させて進められたようだが、存命中には完成せず、持統天皇3年(689年)6月29日に令のみが発布された。これが飛鳥浄御原令である。
冠位制度は、天智天皇が定めた大織から小建までの冠位26階制を踏襲した。実際に見える存命中の冠位は美濃王(三野王)と当麻豊浜の小紫が最高である。死後の贈位ではこれより高い位も授けられた。これと平行して天武天皇4年(675年)3月16日を初見として諸王対象に四位、五位など数字に「位」を付ける諸王の位が作られた。存命中の人の位としては三位から五位までが見える。このときも親王には位が授けられなかった。天武天皇14年(685年)1月21日に新しい冠位四十八階を定めた。皇族と臣下では異なる位階を用意し、親王にも位が授けられた。実際に授けられた最高位は草壁皇子の浄広壱である。明・浄・正・直といった修飾語は、神道が尊ぶ価値で、天武天皇の道徳・宗教観を反映したものであろう。
冠と密接に関わる服装についても様々な規制を加えた。天武天皇11年(681年)にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じた。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。また、天武12年(682年)には位階を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更した。これらは官人の勤務時の服装規定で、帰宅後の服装や民衆の服装まで及んだものではないと考えられている。
天武天皇が確立したこれらの諸制度には、後の大宝律令・養老律令と細かな点で異なるところが見受けられるが、実質的な意義・内容は同じで、律令官人制の骨格をなすものである。当時の官制は明確に知られていないが、政務を議論する複数の納言からなる太政官、その下に民官・法官・兵政官・大蔵・理官・刑官の六官、さらにその他の官司があったと推定されている。学者により天武朝の重みの評価は異なるが、「天武政権のもとで、日本律令体制の基礎が定まった」など、天武朝の意義を最大とみる人も多い。
4.3. 経済・社会政策
4.3.1. 通貨と租税
日本最初の貨幣とされる富本銭が鋳造されたのは、天武天皇の時代である。ただ、富本銭はまじない用で流通貨幣ではなかったという説、富本銭に先行して無文銀銭があったとする説もある。しかし、近年では富本銭は無文銀銭の後に鋳造され、まじない用ではなく流通貨幣だったとする説が有力である。

天武天皇は、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった。まず、天武天皇4年(675年)2月15日に、天智天皇3年(664年)から諸氏に認められていた部曲と、皇族・臣下・寺院に認められていた山沢、島浦、林野、池を取り上げるという詔を下した。続いて、有力者が私的に支配を及ぼすのを否定して、官位官職や功績に応じて個人に封戸(食封)を与える形式に切り替えた。封戸の導入自体は天武天皇の代以前からのもので、内実の転換が段階的に進められた。まず5年(676年)5月14日に西国にある封戸の税を取り上げて東国に替え、長期間同じ場所に封じることで発生する主従的関係を断ち切ろうとした。8年(679年)8月2日に、小錦以上の皇族・臣下に一斉に食封を与え、新制度への転換が完了した。これと前後して8年(679年)4月5日に寺の食封の調査を命じ、9年(680年)4月にその年限を30年に限った。判じかねるのは11年(682年)3月28日の詔で、食封を止めて公に返せと命じたが、実際にはこの後も封戸は続いている。何らかの制度改正、おそらく食封の管理への関与を禁じるような措置ではないかと推測されている。
4.3.2. 土地・労働政策
天武天皇は、豪族の私的支配の否定は、天皇を頂点とする国家の支配を貫徹しようとするものではあったが、生まれの貴賤による差別を否定したり、平等な能力主義にもとづく官僚制を志向するものではなかった。天武天皇7年(678年)1月7日には、身分の低い母を拝むことを禁止するという奇妙な詔を下している。
天武天皇5年(676年)5月7日には下野国司が「百姓が凶作のため飢えたので、子供を売りたい」と申し出があったが朝廷は許さなかった。
4.3.3. 動物保護政策
天武天皇4年4月17日(675年5月19日)に、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止した。しかし、これらの動物の肉食は、稲作期間に相当する4月から9月に限って禁じられただけであり、農閑期である10月から翌年3月までは禁止されていない。また、当時の都で牛馬の肉が食べられていたことは、骨に残った痕跡からも確認されている。加えて、当時の狩猟の主な対象であり、また、稲作の害獣と見なされた鹿と猪については、狩猟方法に規制をかけただけであり、肉食は禁じられていない。これは、肉食の全面的な禁止を目的としたものではなく、律令国家を運営していく上での税収の安定的な確保の為に稲作を促進する観点から、ウシやウマなど稲作に役に立つ動物の保護を目的とした法令と見なすべきである。しかし、律令国家体制の下で、貨幣になり得るものとしての米の神聖さが一層強調され、稲作の促進の為の動物の保護と肉食の制限・禁止を目的とした、類似した内容の法令は後の時代にも繰り返された。その結果として、日本人は、しだいに肉食そのものを稲作に害をもたらす穢れと見なし、表向きは遠ざかるようになっていった。
4.4. 軍事政策
天武天皇は、官人と畿内の武装強化を特別な政策とした。天武天皇4年(675年)10月20日に諸王以下、初位以上の官人の武装を義務付けた。命じた後には、5年(676年)9月10日に武器を検査した。8年(679年)8月に迹見駅家から王卿の馬を駆けさせ、9年(680年)9月9日には長柄神社で大山位(大山上・大山中・大山下)以下の馬を閲して騎射させた。その後、13年(684年)閏4月5日に「政の要は軍事である」と述べて文武の官と諸人に用兵と乗馬を習えと改めて命じ、武装に欠ける者がいれば罰すると詔した。その上で翌14年(685年)8月11日に京と畿内の人夫の武器を検査した。官人武装政策は、天武・持統朝に特徴的で、前後には見られない。
8年(679年)11月には竜田山と大坂山に関を置き、難波には外壁を築かせた。12年(683年)11月4日に、諸国に陣法を習わせよと命じた。14年(685年)11月4日には軍隊指揮用具と大型武器を評の役所に納めさせた。
律令制下で国軍主力の位置にあった軍団は、この時代にはまだ設置されていなかった。官人の武装化は軍団創設以前の事情に対応したもので、指揮用具を評に収めさせたのも同じであろうが、当時の全国的な兵制については学説が分かれている。評造・評督が兵士を率いる評制軍(評造軍)があったとする説、軍団とほぼ同じものが成立していたとする説、国造が伝統的な支配下の人民を領導する国造軍がそのまま続いていたとみる説がある。
4.5. 外交政策

壬申年の挙兵は、唐の使者郭務悰が5月30日に帰国してから約1か月後の6月22日に決断された。白村江の戦いでの敗戦はあったが、その後唐と新羅は互いに朝鮮半島の支配をめぐって争い、それぞれ日本との通交を求めており、外交的な環境はやや好転していた。天武天皇は征服・干渉のための軍を起こさず、即位後は内外に戦争がなかった。
天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。天武天皇は、676年に朝鮮半島を統一した新羅との関係を強化し、唐との外交関係を断絶した。これは、新羅との良好な関係を維持することを目的としたと考えられている。
この時代には西方海上の済州島にあった耽羅からも使節が来た。11年(682年)7月25日には南西諸島の多禰(種子島)、掖玖(屋久島)、阿麻弥(奄美大島)の人に禄が下された。東北では11年(682年)3月2日に陸奥国の蝦夷に冠位を授け、4月22日には越の蝦夷伊高岐那に評を建てることを認めた。
天智天皇との対比で、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、国内的には新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したわけでもない。天武天皇2年(673年)閏6月6日の沙宅昭明、3年(674年)1月10日の百済王昌成への贈位、14年(685年)10月4日の百済僧常輝への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年(672年)から10年(681年)まで課税を免除し、10年後の8月10日には入国時に子供だった者にも免除を広げた。
4.6. 宗教政策
天武天皇の治世は、神道、仏教、そして道教という複数の宗教に対する政策が特徴的であった。
4.6.1. 神道と国家神道
天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。
その際、天武天皇は伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大神を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。即位後の天皇は、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、斎王として仕えさせた。4年2月13日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮の式年遷宮開始年については天武天皇14年(685年)と持統天皇2年(688年)の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう。また、伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている。
そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。無から創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという説である。これについてはタカミムスヒが旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたという説もある。斎王は、雄略天皇から推古天皇のときまであったと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても実は大来皇女が最初なのだとする説がある。
他に、天武天皇3年(674年)8月3日には石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年(675年)4月10日には、竜田の風神を祀るために美濃王らを、広瀬の大忌神を祀るために、間人大蓋らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もある。
4.6.2. 仏教振興

天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺で一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である。
天武天皇2年(673年)12月17日に、美濃王と紀訶多麻呂を造高市大寺司に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。9年(680年)11月12日に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。
天武天皇14年(685年)3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明で、有力豪族ごとに一つと解する説のほかに、「諸国の家」を国衙と解して国ごとに一つと解したりする説があるが、仏教を広めようとしたのは間違いない。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる。
天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求め、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である。天武天皇4年(675年)に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年(679年)には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正・僧都を復活して僧綱制を整えた。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まった。
天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった。
4.6.3. 道教の影響
天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。
道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。
4.7. 文化政策
天武天皇は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れた。外来のものが排斥されたわけではないが、以前と以後の諸天皇の事業と比べると、土着文化の掘り起こしと整頓に向けた努力が著しい。天武天皇が壬申の乱に敗れていれば、『古事記』『万葉集』に代表されるような土着的な文化は、『日本書紀』『懐風藻』に代表されるような中国風の文化に侵食され、あるいは伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われる。
天武天皇は民間習俗を積極的にとりこみ、それを国家的祭祀とした。五節の舞がその確実な例であり、新嘗祭を国家的祭祀に高め、特に大嘗祭を設けたのも、天武天皇であろうと言われる。現代の歴史学者の多くが、後述する神道の祭祀も含め、後代に伝統として伝えられた主要な宮廷儀式の多くが、天武天皇によって創始されたか大成されたと推測している。
天武天皇4年(675年)2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年(685年)9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。
4.7.1. 歴史書編纂(日本書紀、古事記)
天皇は、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうに天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される。
4.7.2. 文学・芸術(万葉集)
天武天皇は、歌や笛の才能を重んじ、宮廷に優れた歌人や伎人(芸能者)を集めた。彼の治世中には、歌の才能を持つ男女や侏儒(小人)、伎人たちが宮廷に集められ、褒賞を与えられた。これは、彼の個人的な好みと、民衆(より具体的には地方豪族層)の心をとらえる意図があったかもしれない。
天武天皇の和歌は、『万葉集』に収められている。
- むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも(『万葉集』巻一、21)
天智天皇7年、天智天皇が蒲生野に遊猟に出かけたときに、額田王が皇太子、すなわち大海人皇子に「野守は見ずや 君が袖振る」と歌ったのに答えた。額田王ははじめ大海人皇子に嫁し、後に天智天皇の妻となった。
- み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪はふりける ひまなくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の ひまなきがごと くまも落ちず 念ひつつぞ来し その山道を(『万葉集』巻一、25)
吉野の山道を沈痛憂鬱に詠んだもの。憂鬱の内容は恋とするのが古い解釈であったが、江戸時代以降は契沖以降賀茂真淵、橘守部、山田孝雄、高木市之助ら、天智天皇重病時に剃髪して吉野に入ったときのこととする。
- よき人の 良しとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見つ(『万葉集』巻一、27)
漢詩を作ったとする史料はない。学者には伝えられていないだけとする人もいるが、ここに彼の趣味嗜好を見る人もいる。
4.7.3. 天文・暦法
天武天皇は、本人が天文に長じており、『日本書紀』には天文・遁甲をよくするとある。天武天皇4年(675年)1月5日に日本初の占星台(天文台)を建てさせた。
4.8. 粛清と統制
天武天皇は、皇族臣下の高位者に流罪以下の処分を多く下した。処罰は天武天皇4年(675年)4月8日に朝参(宮に仕事に来ること)を禁じられた当摩広麻呂と久努麻呂に始まり、4月23日に因幡に流された三位の麻続王のような高官に及んだ。11月3日には宮の東の山に登って妖言して自殺した人が出た。「妖言」の内容は伝わらないが、天皇の政治を批判したものであろう。5年(676年)9月12日には、筑紫大宰の屋垣王が土左(土佐)に流され、6年(677年)4月11日には杙田名倉が伊豆島(伊豆大島か)に流された。杙田名倉は天皇を非難したためだが、他の人の処罰理由は伝わらず、麻続王については『万葉集』に同情する人との歌のやりとりが採録された。人々の心が「おおきみは神にしませば」の歌にみるような天皇賛美一色で染まっていたと考えるべきではない。皇親政治を担ったはずの皇族まで含め、不満が存在した。
威嚇的な詔も複数回だされた。4年(675年)2月19日に、群臣、百寮、天下の人民に、諸悪をするなと詔を下した。6年(677年)6月には、東漢氏が政治謀議に加わった過去を数十年前まで遡って責め、大恩を下して赦すが今後は赦さないと詔した。8年(679年)10月2日には、王卿らが怠慢で悪人を見過ごしていると言って戒めた。
こうした処罰は、天皇への権力集中への反発ではないかとも、専制君主の猜疑の現れとも評される。だが、処罰は天武天皇4年(675年)から6年(677年)に集中しており、威嚇的な詔もこれに重なる。この頃、天皇は部曲と山沢などを取り上げる詔を出し、食封の改革を進めていた。これが不利益層の反発を生み、処罰が続いたのかとも言われる。また、壬申の乱の戦後処理をのぞき高官への死刑は宣告していない。恩赦もしばしば下し、8年(679年)12月2日の恩赦によってそれまでに流罪になった者も赦されたはずである。
5. 皇后と子女
天武天皇は多くの皇后、妃、夫人、嬪をもち、その間に多くの皇子・皇女が生まれた。彼の家族関係は、当時の皇室における政治的結合の重要性を示している。
- 皇后:鸕野讃良皇女(後に持統天皇) - 天智天皇皇女
- 第二皇子:草壁皇子(662年 - 689年) - 元正天皇・文武天皇・吉備内親王の父
- 妃:大田皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女の同母姉
- 第二皇女:大来皇女(661年 - 701年) - 伊勢斎宮
- 第三皇子:大津皇子(663年 - 686年)
- 妃:大江皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女の異母妹
- 第七皇子:長皇子(生年不詳 - 715年) - 文室真人・文室朝臣などの祖
- 第九皇子:弓削皇子(生年不詳 - 699年)
- 妃:新田部皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女の異母妹
- 第六皇子:舎人親王(崇道尽敬皇帝)(676年 - 735年) - 淳仁天皇の父、清原真人などの祖
- 夫人:氷上娘 - 藤原鎌足の娘
- 皇女:但馬皇女(生年不詳 - 708年) - 高市皇子妃
- 夫人:五百重娘 - 藤原鎌足の娘、氷上娘の妹、後に藤原不比等の妻、藤原麻呂の母
- 第十皇子:新田部親王(生年不詳 - 735年) - 氷上真人・三原朝臣の祖
- 夫人:大蕤娘 - 蘇我赤兄の娘
- 第五皇子:穂積皇子(生年不詳 - 715年)
- 皇女:紀皇女(生年不詳 - 没年不詳)
- 皇女:田形皇女(675年 - 728年) - 六人部王室、伊勢斎宮
- 嬪:額田王 - 鏡王の娘
- 第一皇女:十市皇女(653年? - 678年) - 大友皇子(弘文天皇)妃、葛野王の母
- 平安時代の一条天皇は、十市皇女の12世孫(天武天皇の女系13世孫)にあたる。
- 第一皇女:十市皇女(653年? - 678年) - 大友皇子(弘文天皇)妃、葛野王の母
- 嬪:尼子娘 - 胸形徳善の娘
- 第一皇子:高市皇子(654年 - 696年) - 長屋王・鈴鹿王の父、高階真人・高階朝臣などの祖
- 嬪:かじ媛娘 - 宍人大麻呂の娘
- 第四皇子:忍壁皇子(生年不詳 - 705年) - 龍田真人・清滝真人・御高真人の祖、後に知太政官事
- 皇子:磯城皇子(生年不詳 - 没年不詳) - 三園真人・笠原真人・清春真人の祖
- 皇女:泊瀬部皇女(生年不詳 - 741年) - 川島皇子妃
- 皇女:託基皇女(生年不詳 - 751年) - 志貴皇子妃
6. 人物像と歴史的評価
6.1. 性格と関心事
天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かった。『日本書紀』には天文・遁甲をよくするとあり、壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったが、これらは道教的な技能である。『古事記』は、天武天皇が夢の中の歌を解き、夜の水に投じて自分が皇位につくことを知ったと記す。『日本書紀』では、壬申の乱のときに式をとって占い天下二分の兆しと解き、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたという。占いも神助も現代の学者のとるところではないから、諸学者はこれらを天皇の権謀とみたり、偶然の関与とみたりするが、このような予言者的能力によって天皇は神と仰がれるカリスマ性を身に帯びた。即位後の政治にも宗教・儀式への関心がうかがえるが、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強い。
天武天皇の和歌は、蒲生野で額田王と交わした恋の歌、藤原夫人と交わしたからかい交じりの歌、吉野の「よし」を繰り返す歌、そして吉野の道の寂しさを歌う暗い歌が伝わる。漢詩を作ったとする史料はない。学者には伝えられていないだけとする人もいるが、ここに彼の趣味嗜好を見る人もいる。天武天皇の趣味は無端事(なぞなぞ)のように庶民的なものがあり、天武天皇14年(674年)9月18日に大安殿で博戯(ばくち)の大会を開くといった遊侠的なものさえあった。「#文化政策」で挙げた各種芸能者への厚遇も、天皇の好みと無関係ではないだろう。こうした側面に、民衆(より具体的には地方豪族層)の心をとらえるものがあったかもしれない。
文暦2年(1235年)の盗掘後の調査『阿不幾之山陵記』に、天武天皇の骨について記載がある。首は普通より少し大きく、赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは48 cm、肘の長さ42 cmあった。ここから身長175 cmくらい、当時としては背が高いほうであったと推定される。藤原定家の日記『明月記』によれば、白髪も残っていたという。
6.2. 歴史的意義と評価
天武天皇の統治と政策は、後世の日本に多大な影響を与えた。彼は、壬申の乱での勝利を通じて天皇の権威を確立し、中央集権的な律令国家体制の基礎を築いた。彼の治世に始まった飛鳥浄御原令の編纂は、後の大宝律令・養老律令へと繋がり、日本の法体系の基盤となった。
また、八色の姓の制定は、氏族制度を再編し、天皇を中心とする新たな官僚体制を構築する上で重要な役割を果たした。経済面では富本銭の鋳造や封戸制度の改革を通じて財政基盤を強化し、軍事面では官人の武装化や防衛体制の整備を進めた。
外交においては、新羅との関係を重視し、唐との関係を断絶するなど、当時の国際情勢に対応した独自の政策を展開した。宗教面では、伊勢神宮の地位向上や斎王制度の確立、仏教の振興と国家統制を通じて、天皇の権威と国家の統合を強化した。特に、国家神道と国家仏教の原型が形成されたことは、その後の日本の宗教・政治構造に大きな影響を与えた。
文化面では、『日本書紀』『古事記』の編纂を命じ、日本の歴史と神話の体系化を推進した。これは、日本の民族意識と文化の確立に貢献するものであった。また、万葉集に収められた和歌や、天文・暦法の発展にも関心を示し、文化的な基盤を整備した。
彼の統治は、強力な専制君主としての側面が強く、政敵や潜在的な脅威に対する粛清や統制も行われた。しかし、これらの政策は、天皇の権力集中と国家の安定化という目的のために行われたものであり、彼の治世が日本の古代国家形成における画期的な時代であったことは、歴史的に高く評価されている。
天武天皇の血筋は、玄孫の称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移った。光仁天皇には皇后井上内親王を通じて天武系の血を引く皇太子・他戸親王がいたが廃太子とされ、側室を母に持つ桓武天皇の系統が長く現在まで続くことになる。しかし、天武天皇の血筋は一度皇統から消えたものの、986年に即位した一条天皇が天武天皇の皇女十市皇女の12世孫にあたることから、女系を介して血が入っており今日の皇室まで受け継がれている。また、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となるなど、後世まで長く繁栄する。ただし高階氏に関しては、天武天皇の雲孫(8代孫)に当たる高階師尚を在原業平の落胤とし、以降天武天皇の血筋は継いでいないとする説もある。
7. 死と陵墓
天武天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。合わせて、宮殿の名前も「飛鳥浄御原宮」と命名した。朱鳥は道教の発想で生命を充実させ、衰えた生命を蘇らせる存在とされている。また、浄御原という宮名も病魔を祓い浄めることを願ったものであるとされている。いずれも、天皇の病気平癒の願いを込めた応急措置的な発想であったと考えられている。その後も神仏に祈らせたが、9月9日に崩御した。
10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が薨去したため、皇后が即位した。持統天皇である。
天武天皇の陵は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。持統天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」。


古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。文暦2年(1235年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。藤原定家が『明月記』に盗掘の顛末を記す。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子がある。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)では、天武天皇と持統天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。