1. 概要
{{File:Shun'ichi Amachi 1950 Scan10003.jpg|thumb|right|1950年頃の天知俊一}}
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月20日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の日本の野球指導者、野球解説者、野球評論家。現役のプロ野球選手としての経験を持たないにもかかわらず、プロ野球監督として唯一日本シリーズを制覇した人物として知られる。彼のリーダーシップは、選手への深い愛情と人間味あふれる指導で特徴づけられ、「人情派監督」として日本プロ野球界に多大な影響を与えた。
2. 生涯
天知俊一の幼少期から、野球との深い関わりを経てプロ野球監督となるまでの足跡を辿る。
2.1. 学生時代・アマチュア審判時代
天知は1903年12月20日に兵庫県西宮市で生まれた。彼の学生生活は波乱に富んだものであった。まず旧制甲陽中学校に2年間在籍した後、攻玉社中学校へ転校した。さらに明治大学予科への進学を目指したが、当時の旧制中学校3年修了では入学資格がないとされ、旧制下野中学校へ再入学させられることになった。下野中学校で4年間を修了したことにより、改めて明治大学予科への進学資格を得て、再び明治大学へ進学した。明大時代は捕手としてプレーし、後に毎日オリオンズで監督を務めることになる湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。
また、天知は大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた1学年先輩の二出川延明から、野球のルールに関する難問を毎朝10問「宿題」として課され、練習開始時間までに全問解答する訓練を受けた。この「宿題」を通してルールを熟知した天知は、1929年に東京六大学野球連盟の専属審判員に就任。同年秋には、昭和天皇が初めて神宮球場を訪れて観戦した早慶戦の球審を務めた。しかし、1931年春に発生した八十川ボーク事件の責任を取り、専属審判6人が総退陣した際、天知もこれに倣って辞職した。
その後は報知新聞記者として勤務する傍ら、甲子園大会などのアマチュア野球で審判員を務めた。第25回全国中等学校優勝野球大会では、海草中学校の嶋清一が2試合連続でノーヒットノーランを達成する快挙を成し遂げたが、そのうちの決勝戦の球審を務めたのは天知であった。嶋が明大へ進学すると、合宿所近くに住んでいた天知は嶋と親交を結び、嶋も彼を「あまっさん日本語」と呼んで慕ったという。このように、中日ドラゴンズ監督就任前はアマチュア野球の審判員を歴任しており、1942年に文部省主催で開催された1942年の全国中等学校野球大会(幻の甲子園)では、平安と徳島商の決勝戦で主審を務めた。
その後、天知は旧制帝京商業学校で英語教師を務めながら野球部監督に就任。この時の教え子に杉下茂がおり、杉下が明大へ進学した後も個人的に指導を続け、1922年に来日した全米野球団から教わっていたフォークボールを伝授した。
3. プロ野球監督時代
天知俊一は、特に中日ドラゴンズの監督として、数々の歴史的な功績を残した。選手経験がないにもかかわらず、その卓越した指導力と人間性でチームを率いた彼の時代は、日本プロ野球史に特異な足跡を刻んでいる。
3.1. 初めての監督就任
1949年、教え子である杉下茂が中日ドラゴンズへ入団すると同時に、天知も中日の監督に就任した。しかし、1952年には実権の無い総監督へと異動することになった。
3.2. 1954年の日本一達成
1954年に監督へ復帰した天知は、チームを初のセントラル・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に導いた。プロ野球選手経験のない監督の球団が日本シリーズを制したのは、2023年現在でも唯一の事例であり、その歴史的な意義は大きい。日本シリーズを制した瞬間、天知は涙が止まらず、選手たちから胴上げされる時も涙を拭いながら宙に舞った。選手たちも「人情派監督」の日本一に感激し、ほとんどの選手が涙を流したという。
1955年には球団副代表に就任する形で監督を退任した。日本シリーズを優勝した直後に監督を退任したのも天知が初めてのケースである。この後、2014年には福岡ソフトバンクホークスを率いた秋山幸二監督も同様に日本シリーズ優勝直後に退任している。
3.3. 再度の監督就任とその後
1957年に3期目となる監督復帰を果たした。これは、ベテランの西沢道夫や児玉利一が天知に対し「戻ってきてほしい」と懇願して実現したものだった。しかし、杉下茂は天知が肝臓を悪くしているのを知っていたため、日本シリーズを制した直後に「身体のために早く(監督を)辞めて下さい」と語っていたという。天知は1958年まで監督を務め、1959年から2年間はヘッドコーチとして、選手兼任監督となった杉下茂と共にシーズンを戦った。
その後は報知新聞評論家として健筆を振るった。メジャーリーグにも精通していた天知は、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの通算本塁打記録を抜いた時でも、最高の外野手はウイリー・メイズであるという持論を曲げなかった。
天知は、杉下茂が1964年に阪神タイガース一軍投手コーチに就任する際にも影響を与えている。杉下が天知に呼び出されて東京・新橋の料亭へ向かうと、そこには天知と阪神タイガース監督の藤本定義がおり、天知は杉下に「野球はオレの野球だけじゃない。藤本さんの野球を勉強してこい」と語り、その就任が決まった。
また、天知は晩年においてもその影響力を発揮した。1976年には読売ジャイアンツが前年に球団史上初の最下位となり、V9戦士の衰えが目立っていたため、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二が杉下茂に「どう思う?何とかしてやれ」と助言を求めた。杉下は、天知の最晩年である1976年3月に彼を見舞いに行くと、「大の長嶋シンパ」であった天知から「大変なのは分かってるが、長嶋を助けてやれ」と頼まれた。杉下は天知に「大変を通り越していますよ」と答えたという。
4. 死去
天知俊一は1976年3月12日に死去した。享年72歳。
5. 評価と影響
天知俊一は、その生涯を通じて日本野球界に多大な足跡を残した。特に、選手経験を持たない監督として成し遂げた偉業は、彼の卓越したリーダーシップと人間性を象徴している。
5.1. 野球殿堂入り
1970年、天知俊一は日本の野球殿堂に競技者表彰として選出され、殿堂入りを果たした。これは彼の長年の功績が正式に認められたことを意味する栄誉である。
[https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-035/ 野球殿堂 天知俊一]
5.2. 功績と人物像
天知俊一の最大の功績は、プロ野球選手経験を持たない監督として唯一日本シリーズを制覇したことである。この異例の業績は、彼が単なる戦術家ではなく、選手たちの能力を最大限に引き出し、チームをまとめ上げる卓越した人間的指導力を持っていたことを示している。
彼は「人情派監督」として知られ、選手への深い理解と愛情を持って接した。1954年の日本一達成時に見せた涙と、それに応えるように涙を流した選手たちの姿は、彼の人間味あふれるリーダーシップがチームに強い絆をもたらしていたことを象徴している。
また、杉下茂へのフォークボール伝授や、杉下の阪神タイガースコーチ就任への後押し、さらには晩年の長嶋茂雄監督への助言を杉下へ依頼するなど、多くの選手や後進の指導者たちに教育者として大きな影響を与えた。その人柄は、彼の指導を受けた多くの人々から慕われた。
なお、俳優の天知茂の芸名は、天知俊一の苗字と投手の杉下茂の名前が由来とされている。また、天知をモデルとした監督が主人公の映画『男ありて』には、志村喬が主演している。
6. 詳細情報
天知俊一の野球人生における詳細なデータと関連情報。
6.1. 学歴
- 旧制甲陽中学校
- 旧制攻玉社中学校
- 旧制下野中学校(現:作新学院高等学校)
- 明治大学
6.2. 年度別監督成績
{{File:Home Run (magazine) 1949 03.jpg|thumb|150px|right|天知が表紙を飾った『ホームラン』(1949年3月号)}}
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1949 | 中日 | 5位 | 137 | 66 | 68 | 3 | .493 |
1950 | 2位 | 137 | 89 | 44 | 4 | .669 | |
1951 | 名古屋 | 2位 | 113 | 62 | 48 | 3 | .564 |
1954 | 中日 | 1位 | 130 | 86 | 40 | 4 | .683 |
1957 | 3位 | 130 | 70 | 57 | 3 | .550 | |
1958 | 3位 | 130 | 66 | 59 | 5 | .527 | |
通算:6年 | 777 | 439 | 316 | 22 | .581 |
- 太字は日本一
6.3. 表彰
- 野球殿堂競技者表彰(1970年)
6.4. 背番号
- 30 (1949年 - 1951年、1954年、1957年 - 1958年)
- 60 (1959年 - 1960年)