1. 概要
姜宇奎(강우규カン・ウギュ韓国語)は、李氏朝鮮末期から日本統治時代にかけて活動した漢方医であり、朝鮮の独立運動家である。彼は、1919年に朝鮮総督として赴任した斎藤実に対する暗殺未遂事件を主導したことで知られる。この事件は、三・一運動以降の日本統治に対する最初の直接的な抵抗行動の一つであり、国内外の朝鮮人の民族意識を高める上で大きな影響を与えた。姜宇奎の生涯は、祖国の民族自決権と自主独立を求める彼の揺るぎない闘争を象徴している。彼の義挙は、その後の独立運動に多大な影響を与え、抵抗の象徴として記憶されている。
2. 生涯
姜宇奎は、朝鮮の独立のために生涯を捧げた人物であり、特に朝鮮総督暗殺未遂事件で知られる。彼の生涯は、激動の時代における教育者、医療従事者、そして独立運動家としての多岐にわたる活動によって特徴づけられる。
2.1. 出生と初期の生涯
姜宇奎は、1855年7月14日に李氏朝鮮の平安道徳川郡(現在の平安南道徳川市)で生まれた。彼の本貫は晋州姜氏であり、号は왈우(ワル)、字は燦九である。幼少期には慶尚道晋州市や密陽市で一時を過ごした。
2.2. 教育と医療活動
故郷である平安道徳川に帰郷後、彼は幼い頃から漢方医学を学んだ。1884年からは咸鏡道洪原郡に移住し、漢方医として人々に医療を施す傍ら、子供たちに儒学や漢文を教える教育者としても活動した。当時の記録によれば、彼が洪原に移住したのは、何らかの愛国運動に関与したことで身の危険を感じ、それを避けるためであったと伝えられている。
2.3. 商業活動と亡命準備
洪原での生活において、姜宇奎は漢方医としての活動に加え、商業にも従事した。彼は洪原に移住した際にかなりの金額を持参したとされており、主に町の中心部である南門街で息子の中建とともに雑貨店を経営した。この店では、水彩絵具、煙管、綿糸、反物などを販売していた。また、彼は商人たちに低利で資金を貸し付けるなど、金融業にも関わっていた。
1905年の乙巳条約締結とそれに続く1910年の日韓併合により、朝鮮が日本の植民地となったことに姜宇奎は深く憤慨した。当時50歳を過ぎた中老年の身であったが、彼は祖国の国権回復のために亡命を決意した。1910年の秋には、まず長男の中建とその家族をハバロフスク(当時のロシア領)に移住させた。そして翌1911年の春には、彼自身も咸鏡南道洪原郡龍源面を離れ、清国の満州北間島にある杜道溝へと亡命し、そこで漢方薬店を経営した。
3. 独立運動活動
姜宇奎は、祖国の独立を回復するために、満州とシベリアを拠点に多岐にわたる独立運動を展開した。
3.1. 満州・シベリアでの亡命生活
1915年には、吉林省饒河県の遼東に移り住み、ウラジオストクとの間を往来しながら独立運動を計画した。彼は饒河周辺の農地を開墾し、朝鮮人村である新興村を建設した。この村は、姜宇奎の献身的な努力によって築かれ、後にロシア領および北満州で活動する独立軍の主要な拠点となった。
1917年には、吉林省通化県に光東中学校を設立し、同胞の教育に尽力することで独立精神の鼓舞に努めた。彼は長老教の信徒であり、教会の学校の立場を利用して、生徒や近隣に住む朝鮮人の間で反日感情を高めた。姜宇奎は生徒たちに日本の戦争犯罪を非難する教育を行い、時には村人を学校の講堂に集めて民族意識を高める活動も行った。
1919年の三・一運動の報を聞くと、姜宇奎は光東中学校の生徒や同胞を集め、饒河県を中心に独立運動を組織した。彼は単なる独立運動では祖国独立には繋がらないと考え、李東輝が活動していたウラジオストクへ向かった。そこで彼は、李東輝の父である李承橋らとともに大韓民国老人同盟団饒河県支部長を務めた。
3.2. 朝鮮への潜入と挙兵計画
その後、姜宇奎は光東中学校と新興村を他の朝鮮人同胞に譲り渡し、日本統治下の朝鮮半島への潜入を計画した。1919年の三・一運動の勃発を受けて、彼は朝鮮総督の暗殺を決意した。同年、彼はロシア人から手榴弾を購入し、許蘅とともに元山府を経て京城府(現在のソウル)へと秘密裏に潜入した。当時の日本の警備は、入国者に対して厳格な荷物検査を実施していたが、60歳以上の高齢者は例外的に免除されていた。姜宇奎はこの盲点を突き、爆弾を下着の中に隠して警備をすり抜けた。
3.3. 斎藤総督暗殺未遂事件
1919年9月2日、姜宇奎は国内外の情勢と総督の動向を注意深く見守っていた。そして、長谷川好道の後任として斎藤実が新任の朝鮮総督として赴任することを知り、斎藤が朝鮮に到着する当日に、現在のソウル駅である南大門駅(当時)で斎藤総督を爆殺するため、彼が乗る馬車に爆弾を投擲した。

爆弾は爆発したものの、斎藤総督には命中せず、多数の傍観者が負傷した。姜宇奎が投擲した爆弾は甚大な威力を発揮し、新任総督斎藤を出迎えるために集まっていた日本の官憲やその追従者を含む37人に重軽傷を負わせた。現場に居合わせたオリバー・アヴィソン博士が尹致昊に送った書簡によれば、爆弾は斎藤総督一行には当たらず、傍観者たちが負傷したという。負傷者の中には、ニューヨーク市長の娘や、1893年に暗殺された元シカゴ市長カーター・ハリソン・シニアの親戚であるアメリカ人も含まれていたことが、当時の『エルパソ・ヘラルド』紙によって報じられている。南大門駅広場はたちまち阿鼻叫喚の巷と化した。
4. 逮捕、裁判、そして殉国
事件後、姜宇奎は現場から身を隠したが、最終的に逮捕され、裁判を経て殉国した。
4.1. 逮捕と裁判の過程
姜宇奎は事件現場から逃走し、呉泰泳の紹介で張翊奎や林昇華らの家に身を潜めていた。しかし、逃亡中に朝鮮総督府高等係の刑事で親日派の金泰錫らによって逮捕され、同年9月17日に収監された。この爆弾事件に関連して、彼以外にも5人が逮捕された。
彼は総督府高等法院で裁判を受け、最終的に総督暗殺未遂および民間人死傷の容疑で死刑を求刑された。逮捕されてから裁判を受け、絞首刑に処されるまで、彼は法廷で自身の立場を一切曲げず、堂々とした態度を貫いたと伝えられている。
4.2. 殉国と遺言
1920年11月29日、姜宇奎は京城の西大門刑務所で絞首刑が執行され、殉国した。死刑が確定した後も、彼は毎日聖書を読み、朝晩の祈りを欠かさず、落ち着いた心境で最期の日を待ったという。
獄中で姜宇奎は息子たちに対し、「私の死について何もするな。私は生涯祖国のために何もできなかったことをむしろ恥じている。私が寝ても忘れられないのは、若者たちの教育である。私の死が若者たちの心に少しでも拍車をかけるならば、それが私の願いである」と語った。また、非公式には、彼の遺志を全国の学校や教会に広めるよう伝えたとされる。
彼は最期まで自身の信念を曲げることなく、堂々たる態度で臨んだ。彼の処刑後、日本は朝鮮における警察の数を12,000人から20,000人に増強した。
独立記念館には、西大門刑務所で死刑に処される直前に彼が残した漢詩が刻まれた詩語録碑が保存されている。
断頭台上に独り立てば 春風が漂うがごとし
身はあれど国なくば いかに感慨なからんや
姜宇奎の家族は、長男の姜中根とその孫娘の姜英才がいたが、1985年12月に姜英才が死去した後は、後孫は途絶えている。
5. 死後の評価と影響
姜宇奎の死後、彼の功績は高く評価され、様々な形で記念されている。
5.1. 叙勲と記念
姜宇奎の遺骸は、当初、現在の恩平区新沙洞にある共同墓地に埋葬された。その後、1954年に水踰里へ、さらに1967年には国立墓地(愛国志士墓域)へと移葬された。
1962年3月には、大韓民国政府から建国勲章大韓民国章(当初は建国功労勲章重章)が追贈された。


2011年9月2日には、ソウル駅前の広場に姜宇奎の銅像が建立された。この銅像は高さ4.9 mで、姜宇奎義士記念作業会が3年間で集めた募金と政府支援金を含む総額8.20 億 KRWを資金として建設された。

5.2. 歴史的評価と批判
姜宇奎の行動に対しては、様々な歴史的評価が存在する。
当時の京畿道警察部長であった千葉は、「憎い気持ちはありません。立場を変えれば、姜宇奎は愛国志士でした」と評価したと伝えられている。
一方で、尹致昊は事件直後の感想として、「アヴィソン博士の話によれば、何という間抜けが斎藤総督に爆弾を投げたが、彼を外れた爆弾により数名の野次馬が負傷したという。私はこの話を聞いて愕然とした。実に哀痛なことだ。朝鮮人は伊藤博文暗殺が日韓併合を促進したことを忘れたというのか。馬鹿共めが」と批判し、伊藤博文暗殺事件後のようにテロ行為は逆効果であると指摘した。日本の資料や一部の批評家からは、この事件は多数の民間人を巻き込んだテロ行為であると批判された。
5.3. 独立運動への影響
姜宇奎の義挙は、三・一運動以降、日本統治に対する最初の暴力的な抵抗運動として大きな意味を持った。これは、新任総督として赴任する斎藤実に対する強力な警告となっただけでなく、国内外の朝鮮人の民族意識を高める上で大きく貢献した。特に、彼の義挙だけでなく、裁判過程や収監生活、そして処刑に至るまで堂々とした姿を示したことは、裁判過程自体が独立運動の延長線上にあるものとして、当時の朝鮮人たちに大きな感動を与えた。彼の揺るぎない信念は、独立運動を続ける同胞たちに大きなインスピレーションを与え、抵抗の象徴として記憶されている。