1. 概要
姫鵬飛(姬鹏飞チー・ペンフェイ中国語、1910年2月2日 - 2000年2月10日)は、中華人民共和国の政治家であり外交官です。彼は中国人民解放軍の紅軍に加わり、中国共産党の古参党員として長征にも参加しました。中華人民共和国成立後は外交畑を歩み、初代東ドイツ駐在大使、外務次官、そして外交部長を務め、特に1972年の日中共同声明の署名に貢献し、日中国交正常化を実現させました。文化大革命後も国務院副総理や国務院香港マカオ事務弁公室主任など、党と国家の要職を歴任し、香港・マカオの返還準備に尽力しました。しかし、晩年には息子の汚職事件に関与した疑惑が浮上し、その死因についても論争が残されました。彼の功績は新華社によって「傑出した共産主義の闘士」と称賛され、生誕100周年記念式典も開催されましたが、息子の事件は彼の評価に影を落とすこととなりました。
2. 生い立ち
姫鵬飛の生い立ちは、彼が清朝末期の混乱期に生まれ、軍医としての訓練を受けたことに特徴づけられます。これらの初期の経験は、彼の後の革命活動と外交官としてのキャリアの基盤を築きました。
2.1. 出生と家族
姫鵬飛は1910年2月2日に清の山西省運城市臨晋県(現在の臨猗県)で生まれました。本名は姫宏邠(き こうひん)、旧名は吉洛(きっらく)です。彼の妻は徐漢冰(徐汉冰シュー・ハンビン中国語)で、息子に姫勝徳(姬胜德ジー・ションドー中国語)がいます。
2.2. 教育
彼は軍医としての訓練を受け、長期間にわたり部隊の衛生および政治活動に深く関わりました。この経験は、彼の後のキャリア、特に外交官としての活動においても、人道的な視点や組織運営の能力に影響を与えたと考えられています。
3. 革命経歴
姫鵬飛の革命経歴は、中国紅軍への参加と中国共産党への入党から始まり、長征という中国革命史における重要な出来事を通じて形成されました。
3.1. 紅軍への参加と共産党入党
姫鵬飛は1931年に寧都暴動の後、中国紅軍に加入しました。その後、1933年に中国共産党に入党し、党の古参党員となりました。彼は紅軍で軍医としての訓練を受け、部隊の衛生と政治活動に長期間従事しました。
3.2. 長征
姫鵬飛は1934年から1936年にかけて行われた長征にも参加しました。この過酷な行軍は、彼の思想形成に大きな影響を与え、中国共産党への忠誠心をより強固なものにしました。長征における経験は、彼の後の公職における困難な状況への対処能力にも繋がったとされています。
4. 外交・公職経歴
中華人民共和国の成立後、姫鵬飛は外交畑に転じ、中華人民共和国外交部で重要な役割を担いました。彼は中国の国際関係の構築と発展に大きく貢献し、特に日中共同声明への署名など、歴史的な外交成果を残しました。
4.1. 外交部での活動
姫鵬飛は中華人民共和国の成立後、外交部に転身し、外交官としてのキャリアをスタートさせました。彼は中国の国際関係の構築と発展に尽力し、数々の重要な外交政策の立案と実行に携わりました。
4.1.1. 東ドイツ駐在大使

1953年、姫鵬飛は東ドイツの初代駐在大使に任命されました。当時43歳であった彼は、中華人民共和国の大使としては最年少でした。彼は大使に就任する以前にも、東ドイツへの外交使節団を率いていました。この初期の外交活動は、中国が社会主義国との関係を強化する上で重要な一歩となりました。彼は1950年9月から1955年1月までこの職を務めました。
4.1.2. 外務次官
1955年、姫鵬飛は外務次官として本国に召還されました。彼は周恩来(1949年から1958年まで外交部長)、陳毅(1958年から1972年まで外交部長)と共に中国外交を支え、主要な外交政策の策定と実行に貢献しました。
4.1.3. 外交部長
1972年に陳毅が死去した後、姫鵬飛は彼の代理として外交部長の職務を代行し、後に正式に外交部長に就任しました(1972年6月6日から1974年11月まで)。この任期中、彼は中国共産党中央委員会の委員にも選出されました。
4.2. 日中共同声明への署名
1972年、日本の田中角栄内閣総理大臣が中国を訪問し、日中国交正常化が実現しました。この歴史的な出来事において、姫鵬飛は周恩来首相、田中角栄首相、大平正芳外相と共に日中共同声明に署名しました。この署名は、両国間の長年の断絶を終わらせ、新たな友好関係を築く上で極めて重要な意義を持ちました。
4.3. 文化大革命期における活動
文化大革命が勃発した際、姫鵬飛は陳毅や喬冠華と共に「外交部を支配する反革命派の一員」として当初は標的とされました。しかし、彼は比較的大きな影響を受けることなく、その職務に留まり続けました。これは、当時の複雑な政治状況下において、彼が一定の政治的保護を受けていたことを示唆しています。
4.4. 文化大革命後の主要公職
文化大革命の終結後、姫鵬飛は再び中国の政治舞台で重要な役割を担うことになりました。彼は党および国家の複数の要職に就任し、改革開放路線の推進と香港・マカオの返還準備に貢献しました。
4.4.1. 全国人民代表大会常務委員会
1975年、姫鵬飛は全国人民代表大会常務委員会の秘書長に任命され、1978年にその職が確認されました。また、1978年3月5日から1983年6月6日まで、彼は第5期全国人民代表大会常務委員会副委員長兼秘書長を務めました。
4.4.2. 国務院および党内の要職
1979年、姫鵬飛は中国共産党中央対外連絡部長に任命され、1982年までその職を務めました。その後、1980年から1982年にかけて国務院副総理兼秘書長を務め、1982年には国務委員に就任しました。さらに、彼は中国共産党中央顧問委員会の常務委員を1985年9月24日から1992年10月12日まで務め、引退した古参幹部の助言機関として党に貢献しました。
4.4.3. 香港・マカオ事務担当
1983年から1990年まで(ベトナム語資料では1987年から1990年まで)、姫鵬飛は国務院香港マカオ事務弁公室主任を務めました。この期間、彼は香港特別行政区基本法起草委員会の主任も兼任し、香港とマカオの返還に向けた事前準備を主導しました。彼は香港問題に関する中英共同声明の調印式にも出席するなど、両地域の将来を決定する上で中心的な役割を果たしました。
5. 私生活と論争
姫鵬飛の晩年は、彼の息子が関与した汚職事件と、それに続く彼の死に関する疑惑によって影を落とされました。これらの出来事は、彼の公的な業績とは対照的に、個人的な悲劇と政治的圧力の側面を浮き彫りにしました。
5.1. 息子の汚職事件
1999年、姫鵬飛の息子である姫勝徳(当時中国人民解放軍情報部の高官)が、遠華密輸事件に関与したとして逮捕・起訴されました。姫勝徳は、機密情報の売却や公的資金の横領といった汚職の罪に問われ、当初は死刑判決を受けました。しかし、盗んだ資金を返還し、他の不正行為を告発したことにより、判決は執行猶予付きの死刑、後に無期懲役に減刑されました。この事件は、中国共産党内部の腐敗問題が、最高幹部の家族にまで及んでいたことを示すものとして注目されました。
5.2. 死に関する疑惑
姫鵬飛は2000年2月10日に90歳で死去しましたが、その死因については疑惑が残されています。特に、息子の姫勝徳の汚職事件に関連して、江沢民国家主席(当時)に対し、息子の冤罪による免除を要求したが拒否されたため、抗議の服毒自殺をしたという説が広く囁かれました。この疑惑は、中国政府によって公式には否定されていますが、彼の葬儀が異例に地味なものとなり、2001年10月に新華社から出された死亡記事も非常に簡潔なものであったことから、憶測を呼びました。これらの状況は、彼の死が単なる自然死ではなかった可能性を示唆しています。
6. 評価と遺産
姫鵬飛は、中華人民共和国の建国と発展、特に外交分野において重要な貢献をした人物として評価されています。しかし、晩年の家族に関わる論争は、彼の遺産に複雑な側面をもたらしました。
6.1. 功績と記念
姫鵬飛は、新華社によって「傑出した共産主義の闘士」であり、「外交戦線における傑出した指導者」として高く評価されています。彼は、中国の外交政策の形成と国際的地位の向上に多大な功績を残しました。特に、日中国交正常化における彼の役割は、両国関係の歴史において重要な転換点となりました。彼の生誕100周年にあたる2010年2月22日には、北京の人民大会堂で「姫鵬飛生誕100周年記念座談会」が開催され、その功績が改めて称えられました。この式典は、彼の革命家および外交官としての貢献を公式に記念するものでした。