1. 生い立ちとプロ入り前
安藤優也は大分県大分市に生まれ、小学生の時に「ふじが丘少年野球団」で野球を始めた。小中学校の後輩には鉄平がいる。
1.1. 学歴
大分雄城台高校時代は、県大会でベスト8が最高成績であり、比較的無名の存在だった。同郷の山中正竹監督が率いる法政大学に進学後は、2年時に慶応大学の高橋由伸に、大学の先輩である田淵幸一が持っていた東京六大学リーグ通算本塁打記録を破る23本目の本塁打を打たれた経験を持つ。大学時代は右肩の故障などもあり、通算7勝4敗の成績だった。
1.2. 社会人野球時代
大学卒業後、安藤は地元の大分銀行に就職し軟式野球に転向する予定だった。しかし、後に夫人となる大学の同級生の勧めもあり、「23本目を打たれた投手と言われ続けるのは嫌だ」という思いから、内定を辞退して社会人野球のトヨタ自動車に入社した。この際、プロ入り後の契約金を全額大分銀行に預金することで"恩返し"をしたというエピソードがある。
トヨタ自動車時代には、最速150 km/hの速球を投げる本格派右腕として頭角を現した。第71回都市対抗野球大会と第72回都市対抗野球大会に2年連続で出場し、2001年のIBAFワールドカップでは日本代表にも選出された。同大会では2勝0敗、防御率2.45を記録し、11イニングで5安打に抑え、14奪三振を奪う活躍を見せた。
2. プロ野球選手としての経歴
安藤優也は、2001年のドラフト会議で自由獲得枠として阪神タイガースに入団し、背番号は16を与えられた。大学の後輩でバッテリーを組んでいた浅井良も同時に阪神に入団した。入団した年にコーチに就任した田淵幸一からは、自身の持つ本塁打記録を破られたことを挨拶代わりにいじられたという。
2.1. キャリアの変遷
安藤のプロ野球選手としてのキャリアは、役割の変化と試練、そして復活の連続であった。
2.1.1. 初期キャリアとリリーフ転向
2002年は4月14日の対横浜ベイスターズ戦でプロ初勝利を挙げたものの、その後は打ち込まれるケースが多く、シーズン3勝に終わった。
2003年には中継ぎに転向。この年に阪神へ移籍してきた伊良部秀輝のアドバイスもあって、一軍公式戦51試合に登板し、防御率1点台を記録する安定感を見せた。シーズン中盤からはクローザーに定着したジェフ・ウィリアムスとの「勝利の方程式」の一員として、チームの18年ぶりとなるセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。この活躍により、シーズン終了後には推定年俸4100.00 万 JPY(2600万円増)で契約を更改した。
2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出され、シーズン途中にオリンピックへ出場した。しかし、シーズン全体では防御率が3.58に上昇するなど、前年ほどの安定感は見られなかった。
2.1.2. 先発投手時代
2005年には岡田彰布監督の意向と本人の希望から先発投手に再転向した。投球フォームを二段モーションから一段に変え、このシーズンは11勝を挙げ、規定投球回数にも到達。リーグトップの勝率.688を記録し、チームの優勝に貢献した。
2006年も先発でスタートしたが、序盤に急性扁桃腺炎で一時登録抹消された。その後、久保田智之の離脱による投手陣再編で一時的に中継ぎに回った。夏から再び先発ローテーションに復帰し、9月3日の対横浜戦でプロ初完封勝利を達成するなど、2年連続の2桁勝利を記録した。シーズン終了後の契約交渉では、推定年俸9800.00 万 JPY(前年より2000万円増)で契約を更改した。
2.1.3. 試練と復活
2007年は春季キャンプで右足を故障し出遅れ、その後右肩にも違和感を覚えて「右肩肩峰下滑液包炎」と診断され、長く二軍での調整が続いた。8月28日にリリーフとしてシーズン初登板し、その後先発にも復帰したが、終盤に3連敗を喫するなど不本意なシーズンとなった。このため、シーズン終了後には推定年俸7800.00 万 JPYで契約を更改した。
2008年は春季キャンプからハイペースで調整を続け、オープン戦でも好調を維持した。3月28日の対横浜戦で自身初の開幕投手を務め、5回2失点で勝利投手となった。この年はシーズンを通して先発の柱として活躍し、チーム最多で自己新記録となる13勝を挙げた。10月8日の読売ジャイアンツとの同率首位直接対決(東京ドーム)に先発するも、先制を許し4回2失点で敗戦投手となった。シーズン終了後には推定年俸1.20 億 JPYで契約を更改し、プロ入り後初めて年俸が1億円に到達した。
2009年も開幕投手を務め、先発ローテーションの一角として活躍したが、4月29日の対横浜戦で自己ワーストの1イニング6失点を喫するなど、年間を通じて全体的に調子が上がらなかった。好投しても味方打線が抑えられる不運もあり、9月1日の先発勝利を最後に勝ち星から遠ざかり、8勝12敗の成績に終わった。9月末からはクライマックスシリーズへの出場権をかけた東京ヤクルトスワローズとの直接対決6試合のうち、9月28日・10月3日・10月8日の3試合(2度の中4日という過密日程)で先発起用されたが、安藤が登板した3試合全てでチームは敗戦し、クライマックスシリーズへの出場権を逃した。
2010年に向けオフには減量に取り組んだが、開幕に向けた最終調整の場であった3月20日のオープン戦では1イニングに7安打を打たれ6失点を許し、不安を残したまま3年連続の開幕投手を務めることとなった。3月26日の開幕戦(対横浜)でも不安定な投球を見せ、5回3失点ながら味方の反撃により辛くも勝利投手となったものの、以後の登板でも球威の低下が目立ち、4戦連続で勝ち星を挙げられないまま4月26日に二軍落ちとなった。シーズン半ばに一軍復帰し、先発、中継ぎとあらゆる形で登板するも、7月8日の対ヤクルト戦で自己ワーストを更新する1イニング7失点を喫するなど投球内容は好転せず、8月には二軍へ再降格した。終盤には右肩を故障するなど、投球回を大きく上回る被安打を許し、防御率7.27・WHIP1.77とプロ入り後ワーストの成績に終わった。シーズン終了後の契約交渉では、球団から2年連続の減俸を提示され、推定年俸7700.00 万 JPYで契約を更改した。
2011年は右肩の故障の影響もあってオープン戦・公式戦ともに二軍スタートとなった。ウエスタン・リーグ公式戦での好投が認められ、6月12日の対埼玉西武ライオンズ戦に先発で一軍復帰を果たしたが、2イニングを持たずに3失点で交代を命じられた。結局、一軍公式戦への登板はこの試合だけにとどまったため、プロ入り初めて未勝利でシーズンを終了した。シーズン終了後には推定年俸5800.00 万 JPYで契約を更改した。
2012年は、中継ぎから先発に転向する小林宏と先発6番手を争い、オープン戦は好調で先発6番手の座を得た。4月5日の対ヤクルト戦で先発登板し7回無失点の好投で、2010年8月19日以来595日ぶりの勝利を挙げた。しかし、一軍公式戦全体では、13試合の登板で3勝7敗、防御率4.05という成績にとどまった。
2013年には、再び中継ぎに転向。6月2日の交流戦対福岡ソフトバンクホークス戦で9年ぶりのセーブを挙げた。開幕から公式戦で12試合連続無失点を記録するなど、58試合に登板し23ホールドを挙げた。その結果、シーズン終了後には推定年俸7500.00 万 JPYで契約を更改した。
2014年は一時は先発再転向も囁かれたが、シーズンに入ると中継ぎとして起用された。前年ほどの安定感は無かったものの、レギュラーシーズンでは2年連続で50試合以上の一軍公式戦に登板。防御率は3.80ながら、6勝2敗を記録するとともに、2年連続で23ホールドを挙げた。さらに、チームのシーズン2位で迎えたクライマックスシリーズではポストシーズン初勝利を記録した。シーズン終了後には推定年俸8500.00 万 JPYで契約を更改した。
2015年には、開幕直後に右肩の張りを訴えて一時戦線を離れながらも、一軍公式戦で3年連続の50試合登板を達成した。シーズン前半に逆転本塁打を打たれて2敗を喫するなど不調だった影響で、通算成績は5勝4敗15ホールドにとどまった。しかし、通算防御率は3.02で、前年より1点近く改善した。シーズン終了後の契約交渉では、本人や大方の予想に反して球団から減俸を提示され、推定年俸8200.00 万 JPYで契約を更改した。
2016年には、開幕を二軍で迎えたが、4月10日に一軍登録された。一軍公式戦全体では、4年連続で50試合登板を達成するとともに、0勝1敗11ホールドながら防御率を2.53にまで改善した。
2.1.4. 最終シーズンと引退
2017年には、2015年まで自身と共に救援陣の一角を担ってきた福原忍の引退(二軍育成コーチへの転身)によって、チームの現役最年長投手(野手を含めれば福留孝介と並ぶ最年長選手)としてシーズンに臨んだ。しかし、前年は二軍生活に終始していた桑原謙太朗がオープン戦から救援で好投を続けた影響などから、公式戦を二軍でスタートした。二軍では、ウエスタン・リーグの公式戦で7月下旬までに23試合の登板(通算投球回数22イニング)で防御率0.41を記録するなど、セットアッパーとして好投を続けていた。それでも、若手投手を重用するチーム事情との兼ね合いで、一軍昇格の機会がなかった。さらに、体力の衰えを感じたことから、8月頃からこのシーズン限りでの現役引退を模索した。9月5日の登板が結果的に引退発表前最終登板となり、1回を投げ石川駿から3点適時三塁打を打たれるなど4失点した。その後の9月12日に引退の意思を球団へ伝えると、14日には球団を通じて引退を発表した。翌15日に臨んだ引退会見では、「毎日身体の心配をしなくても良いので、引退を決めたことで肩の荷が下りた」「小さい頃から憧れていた甲子園で一軍初勝利を挙げられたばかりか、仕事場になったのは夢のようで、(ファンの)声援が力になった」と涙ぐみながら語った。
阪神球団では、一軍の2017年レギュラーシーズン最終戦に当たる甲子園球場での中日戦を、安藤の「引退試合」として10月10日に開催した(当初は10月6日に予定されていたが、雨天中止によって延期されていた)。安藤は、この試合の8回表に現役最後のマウンドへ臨んだが、最初に対戦した石川駿から一軍公式戦初本塁打を打たれた。次に対戦した代打の野本圭にも三遊間に痛烈なゴロを打たれたものの、試合前に現役引退を表明したばかりの三塁手・新井良太のダイビングキャッチによって、この年唯一の一軍公式戦登板を終えた。試合終了後に催された引退セレモニーでは、「大した能力もなく大した選手ではなかったが、阪神で能力を出し切った。現役生活にほぼ悔いはない」と述懐しつつも、「日本シリーズに3度出場しながら、1度も日本一を達成できなかったことだけが心残り」と告白した。その上で、4日後(10月14日)からクライマックスシリーズに臨む阪神ナインを念頭に、「『日本一』という名誉や目標を、今ここにいるチームメイトや、鳴尾浜で一軍を目指して必死に頑張っている後輩に託してユニホームを脱ぎたい」と語った。その後でナインから胴上げされると、新井と一緒に甲子園の場内を一周することで、阪神一筋の現役生活を締めくくった。10月26日付で、新井と共に、NPBから任意引退選手として公示された。
2.2. オリンピック出場
安藤は2004年アテネオリンピックの日本代表に選出され、同大会で銅メダルを獲得した。
2.3. 選手としての特徴
安藤優也は、最速150 km/hの速球と変化球のキレに定評がある投手であった。変化球はスライダー、シュート、フォーク、カーブを駆使した。
抜群の制球力も武器であり、同僚であった中谷仁は「(安藤さんの)右打者への外角低めのコントロールはチームの中でも群を抜いていた」と語っている。多くの同僚が「理想」と憧れる美しく理にかなった投球フォームの持ち主であった。同僚であった藤川球児と藤田太陽は「(安藤さんは)ゆっくり足を上げて、しっかり体重移動をし、腕の振りはそこまで速くないのに球速がある。あの投げ方であれだけの球が来たら、打者は打ち辛い」と絶賛していた。
3. コーチとしての経歴
現役引退後、安藤は阪神タイガースのコーチとして指導者の道を歩んでいる。
2017年10月23日、新井良太と共に、2018年から阪神の二軍育成コーチを務めることが発表された。背番号は86。福原忍が二軍投手コーチへ異動することに伴う就任で、育成コーチとしては若手投手の指導を担当した。
2020年まで同コーチを務め、2021年から2022年は二軍投手コーチを務めた。この期間に村上頌樹を育てたことでも知られる。
2023年からは一軍投手コーチを務め、背番号は88に変更された。同年は中盤からリリーフ9人体制を敷いたことが奏功し、安藤は「うまくはまりましたよね。連投した投手、球数投げた投手、状態が悪い投手を休ませながら使えた」と語った。監督の岡田彰布は当初の方針ではなかったワンポイント起用も導入し、湯浅京己の離脱や浜地真澄の不調など誤算があった一方、先発候補だった桐敷拓馬が中継ぎとして台頭するなどうれしい誤算もあった。チーム防御率は12球団トップの2.66を記録し、リーグ優勝、日本一に貢献した。
2025年からは一軍投手チーフコーチに肩書が変更された。
4. 人物・その他
安藤の愛称は「安ちゃん」である。
阪神入団後は同僚の金本知憲が企画したノルマ達成(先発投手は10勝以上など)なら高級腕時計をプレゼント、達成しなかった場合は罰ゲームが行われる「金本賞(2007年から開始)」の常連であった。ノルマに達成しなかった2009年、翌2010年と2年連続で丸刈り姿になっている。
登場曲には、2004年にDo As Infinityの「冒険者たち」、2005年にJoss Stoneの「You Had Me」、2006年から2017年までスーパーバンドの「元気だしていこうぜ!!」を使用していた。スーパーバンドの楽曲は、阪神のキャンプ地の1つである高知県を中心に活動している縁で、安藤のために書き下ろされたものである。
また、2007年公開の映画『青空のルーレット』では、チームメイトの福原忍と共演している。
5. 受賞歴・タイトル
5.1. タイトル
- 最高勝率:1回(2005年)
- 当時は連盟表彰なし。セントラル・リーグでは、1972年までと2013年以降に表彰されている。
5.2. 表彰
- 月間MVP:1回(2006年9月)
- JA全農Go・Go賞:1回(救援賞:2003年7月)
5.3. 国際大会
- アテネオリンピック 銅メダル(2004年)
6. 記録
6.1. 初記録
6.1.1. 投手記録
- 初登板・初先発:2002年4月7日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、6回1失点
- 初奪三振:同上、2回裏に岩村明憲から空振り三振
- 初勝利・初先発勝利:2002年4月14日、対横浜ベイスターズ6回戦(阪神甲子園球場)、8回無失点
- 初セーブ:2003年5月3日、対ヤクルトスワローズ7回戦(阪神甲子園球場)、8回表二死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 初完投勝利:2005年7月28日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、9回1失点
- 初ホールド:2006年7月6日、対横浜ベイスターズ12回戦(阪神甲子園球場)、7回表に2番手で救援登板、1回無失点
- 初完封勝利:2006年9月3日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)
6.1.2. 打撃記録
- 初安打:2002年5月3日、対ヤクルトスワローズ7回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に石川雅規から左前安打
- 初打点:2005年9月3日、対横浜ベイスターズ19回戦(札幌ドーム)、6回表に門倉健から投手前適時内野安打
6.2. 節目の記録
- 1000投球回:2014年5月13日、対広島東洋カープ7回戦(どらやきドラマチックパーク米子市民球場)、9回裏に廣瀬純を一邪飛に打ち取って達成 ※史上339人目
6.3. 背番号
- 16(2002年 - 2017年)
- 86(2018年 - 2022年)
- 88(2023年 - )
7. 通算成績
7.1. 年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 数 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 故 意 四 球 | 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | 阪神 | 17 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 253 | 59.2 | 51 | 7 | 22 | 0 | 3 | 40 | 5 | 1 | 31 | 25 | 3.77 | 1.22 |
2003 | 51 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 5 | -- | .714 | 245 | 61.0 | 44 | 2 | 19 | 2 | 1 | 60 | 1 | 0 | 11 | 11 | 1.62 | 1.03 | |
2004 | 57 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | 5 | -- | .385 | 254 | 60.1 | 53 | 10 | 20 | 0 | 3 | 72 | 1 | 0 | 25 | 24 | 3.58 | 1.21 | |
2005 | 24 | 23 | 3 | 0 | 2 | 11 | 5 | 0 | 0 | .688 | 592 | 146.0 | 142 | 15 | 25 | 0 | 7 | 119 | 2 | 0 | 56 | 55 | 3.39 | 1.14 | |
2006 | 31 | 20 | 2 | 1 | 0 | 10 | 3 | 0 | 3 | .769 | 546 | 129.0 | 139 | 7 | 31 | 1 | 4 | 103 | 5 | 1 | 52 | 48 | 3.35 | 1.32 | |
2007 | 8 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 1 | .400 | 141 | 33.0 | 30 | 4 | 14 | 2 | 1 | 17 | 1 | 0 | 17 | 16 | 4.36 | 1.33 | |
2008 | 25 | 25 | 2 | 0 | 1 | 13 | 9 | 0 | 0 | .591 | 656 | 154.2 | 158 | 8 | 41 | 2 | 8 | 111 | 2 | 1 | 57 | 55 | 3.20 | 1.29 | |
2009 | 28 | 28 | 2 | 0 | 0 | 8 | 12 | 0 | 0 | .400 | 714 | 164.0 | 180 | 18 | 51 | 6 | 6 | 97 | 5 | 1 | 80 | 71 | 3.90 | 1.41 | |
2010 | 19 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | .400 | 246 | 52.0 | 78 | 9 | 14 | 1 | 0 | 31 | 4 | 1 | 45 | 42 | 7.27 | 1.77 | |
2011 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 12 | 1.2 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 3 | 3 | 16.20 | 4.20 | |
2012 | 13 | 13 | 0 | 0 | 0 | 3 | 7 | 0 | 0 | .300 | 310 | 73.1 | 78 | 6 | 15 | 0 | 1 | 42 | 2 | 1 | 36 | 33 | 4.05 | 1.27 | |
2013 | 58 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 1 | 23 | .667 | 219 | 51.1 | 53 | 1 | 18 | 5 | 3 | 32 | 0 | 0 | 14 | 13 | 2.28 | 1.44 | |
2014 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 23 | .750 | 206 | 47.1 | 53 | 2 | 16 | 2 | 0 | 41 | 2 | 0 | 21 | 20 | 3.80 | 1.46 | |
2015 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 15 | .556 | 184 | 44.2 | 43 | 4 | 11 | 2 | 2 | 32 | 1 | 0 | 17 | 15 | 3.02 | 1.21 | |
2016 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 11 | .000 | 164 | 42.2 | 29 | 4 | 12 | 0 | 0 | 24 | 0 | 0 | 13 | 12 | 2.53 | 0.96 | |
2017 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 2 | 0.1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 27.00 | 3.00 | |
通算:16年 | 486 | 133 | 9 | 1 | 3 | 77 | 66 | 11 | 76 | .538 | 4744 | 1121.0 | 1137 | 98 | 311 | 23 | 39 | 822 | 31 | 7 | 479 | 444 | 3.56 | 1.29 |
7.2. 年度別守備成績
年 度 | 球 団 | 投手 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2002 | 阪神 | 17 | 1 | 13 | 0 | 0 | 1.000 |
2003 | 51 | 5 | 9 | 0 | 1 | 1.000 | |
2004 | 57 | 0 | 9 | 0 | 0 | 1.000 | |
2005 | 24 | 4 | 17 | 0 | 1 | 1.000 | |
2006 | 31 | 3 | 20 | 1 | 1 | .958 | |
2007 | 8 | 5 | 9 | 0 | 0 | 1.000 | |
2008 | 25 | 7 | 14 | 2 | 0 | .913 | |
2009 | 28 | 3 | 23 | 1 | 1 | .963 | |
2010 | 19 | 2 | 16 | 0 | 0 | 1.000 | |
2011 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | |
2012 | 13 | 3 | 10 | 0 | 0 | 1.000 | |
2013 | 58 | 1 | 16 | 0 | 3 | 1.000 | |
2014 | 53 | 2 | 12 | 0 | 0 | 1.000 | |
2015 | 50 | 4 | 8 | 0 | 1 | 1.000 | |
2016 | 50 | 2 | 7 | 0 | 0 | 1.000 | |
2017 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | |
通算 | 486 | 42 | 183 | 4 | 8 | .983 |
8. 評価と功績
安藤優也は、阪神タイガース一筋で16年間プレーし、先発と中継ぎの両方でチームに貢献した稀有な存在である。特に2003年のリーグ優勝時には「勝利の方程式」の一角を担い、2005年には先発としてリーグ最高勝率を記録し、再びチームを優勝に導いた。度重なる故障や不振に見舞われながらも、その都度役割を変え、粘り強く一軍のマウンドに戻り続けた姿は、多くのファンに感動を与えた。
現役最後の試合では、日本一になれなかったことへの悔しさを語り、その夢を後輩たちに託す言葉を残した。引退後も指導者として阪神に残り、特に二軍育成コーチや二軍投手コーチ時代には村上頌樹などの若手投手を育成し、その才能を開花させた。2023年には一軍投手コーチとして、チーム防御率12球団トップという投手陣を率い、リーグ優勝と日本一という長年の目標達成に大きく貢献した。安藤の野球人生は、選手としての輝かしい功績だけでなく、指導者としての育成手腕とチームへの献身によって、阪神タイガースの歴史に深く刻まれている。