1. 生涯
宗尊親王の生涯は、皇族としての複雑な立場と、鎌倉幕府の将軍という象徴的な役割、そして文化人としての活動によって特徴づけられる。
1.1. 出生と家族
宗尊親王は、寛元2年12月15日(1242年12月15日)に、後嵯峨天皇と平棟子(平棟基の娘)の間に生まれた。彼は後嵯峨天皇の事実上の長子であった。兄に円助法親王がいたが、父である邦仁王(後の後嵯峨天皇)が正式な元服を行っていない不遇な状況下で誕生した子であったため、将来的に僧侶となる運命にあった。
1.2. 皇族としての地位と教育
宗尊親王は父の後嵯峨天皇から深く寵愛され、その育ての親ともいえる承明門院のもとで育てられた。寛元2年(1244年)には、既に久仁親王(後の後深草天皇)が誕生していたにもかかわらず親王宣下を受け、同5年(1247年)には式乾門院の猶子とされた。その翌年には式乾門院の姪である室町院とも猶子関係を結んだ。
寛元7年(1249年)、式乾門院は後高倉院から継承した膨大な荘園群を姪の室町院に一期分として譲り、宗尊親王をその未来領主に指定した。これは、式乾門院・室町院に所領を継承させる子孫がいなかったため、両者が死去した場合にはその荘園が全て宗尊親王のものになる予定とされたためである。さらに後嵯峨天皇は宣陽門院に対しても親王を猶子として長講堂領を譲るように求めたが、これは拒否された(最終的には両者の妥協として後深草天皇に譲られることになった)。
一方で、母である平棟子の身分が低かったため、宗尊親王が皇位を継承する望みは絶望的であった。後嵯峨天皇は、このため親王の将来を深く危惧していた。ただし、後深草天皇誕生以前は宗尊親王が最も有力な皇位継承権者であり、その後も万一の事態に備えて出家させずに置かれていた。また、当時の京都では後嵯峨天皇の即位を認めない順徳上皇系の人々(生母の修明門院や正妃であった東一条院、皇子である忠成王・善統親王)の動きがあり、彼らに対抗する意味でも複数の親王を必要としていたとする説もある。
1.3. 将軍任命に至る政治的背景
第5代将軍の藤原頼嗣が京に送還された後、鎌倉幕府の将軍職は空席となった。当時、将軍家と摂関家の両方を支配しようと幕府政治への介入を強めていた九条道家(頼嗣の祖父であり、東一条院の実弟)に対し、執権北条時頼は強い危機感を抱いていた。時頼は、九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。
この時、皇位継承の望みが薄い宗尊親王の将来を案じる後嵯峨天皇と、九条家排除を望む北条時頼の思惑が一致した。これにより、皇族を将軍として迎える「宮将軍」の誕生が実現した。宗尊親王が鎌倉に下る際には、近衛左中将藤原隆茂、式乾門院蔵人上杉重房、左近大夫石川新兵衛源宗忠の3人の近侍が随行したとされている。
2. 将軍在任
宗尊親王の将軍在任期間は、北条氏執権の強い統制下にあり、その政治的権限は極めて限定的であった。
2.1. 任命と在任期間
宗尊親王は、建長4年4月1日(1252年5月10日)に鎌倉に迎えられ、11歳で後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受けた。これにより、彼は鎌倉幕府の第6代将軍に就任した。北条時頼と北条重時は、将軍就任のために京都から宗尊親王を鎌倉へ迎える使者を派遣した。
彼の将軍在任期間は、建長(1249年 - 1257年)、康元(1256年 - 1257年)、正嘉(1257年 - 1259年)、正元(1259年 - 1260年)、文応(1260年 - 1261年)、弘長(1261年 - 1264年)、文永(1264年 - 1275年)の複数の元号にまたがる1252年から1266年までの14年間であった。
2.2. 執権北条氏による統治
当時の鎌倉幕府は、既に北条氏による専制体制が整っており、将軍には実質的な権限がほとんどなかった。宗尊親王は、北条氏執権の統制下にある傀儡将軍としての地位に甘んじ、政治の実権は得宗を中心とする北条氏が握っていた。
2.3. 在任中の執権
宗尊親王が将軍に在任していた期間に執権を務めたのは以下の人物である。
執権名 | 備考 |
---|---|
北条時頼 | 第5代執権。得宗。子の北条時宗には宗尊親王から偏諱が与えられた。 |
北条長時 | 第6代執権。北条重時の子。 |
北条政村 | 第7代執権。北条義時の子。 |
なお、北条時宗が第8代執権となったのは、宗尊親王が将軍職を辞した2年後の文永5年(1268年)である。
2.4. 幕府での官職
宗尊親王が将軍在任期間中に受けた公式な役職や称号は以下の通りである(日付は旧暦)。
年月日 | 役職・事項 |
---|---|
寛元2年(1244年)1月28日 | 立親王 |
建長4年(1252年)1月8日 | 元服、三品に叙される |
建長4年(1252年)4月1日 | 征夷大将軍宣下 |
文永2年(1265年)9月17日 | 一品に昇叙し、中務卿に任官 |
文永3年(1266年)7月20日 | 征夷大将軍辞職 |
この時の将軍宣下を記した宣旨は『吾妻鏡』に以下のように記されている。
三品 宗尊親王
右被左大臣宣偁件親王宜爲征夷大將軍
建長四年四月一日 大外記中原朝臣師兼奉
(訓読文)
三品 宗尊親王
右、左大臣(鷹司兼平)の宣を被るに偁(い)はく、件(くだん)の親王、宜しく征夷大将軍に為すべし
建長4年4月1日 大外記中原朝臣師兼(押小路師兼)奉(うけたまは)る
3. 文化活動
宗尊親王は、政治的権限が限定されていた一方で、文化活動、特に和歌の創作に深く傾倒し、当時の鎌倉文化に大きな影響を与えた。
3.1. 和歌の創作
宗尊親王は、将軍として実権を持たない立場であったため、和歌の創作に打ち込むようになった。彼は頻繁に歌会を催し、その結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇は隆盛を極めた。この歌壇からは、後藤基政や島津忠景といった御家人出身の有能な歌人が多数輩出された。
鎌倉歌壇は、勅撰和歌集である『続古今和歌集』の撰者の人選にも影響を及ぼした。宗尊親王自身も同集に最多の歌が入選しており、その芸術的才能が認められていた。彼の代表的な歌集には『柳葉和歌集』、『瓊玉和歌集』、『初心愚草』がある。
3.2. 書跡
宗尊親王の書跡として現在に伝わるものには、「有栖川切」、「催馬楽切」、「古今集切」、「神楽歌切」などがある。これら以外にも宗尊親王の真跡とされるものは数多く存在するが、その多くは親王が愛玩あるいは愛好した平安時代の名筆である可能性が高く、真跡であるか不明なものも多いとされる。しかし、彼が名筆家であったという評価は揺るがない。
3.3. 偏諱
宗尊親王は、当時の慣習に従い、自身の名から一字を主要な人物に与える「偏諱」を行った。これは、将軍と家臣の間の主従関係を強化する重要な行為であった。彼から偏諱を受けた主な人物は以下の通りである。
- 北条時宗:北条時頼の子。康元2年(1257年)2月26日に宗尊親王を烏帽子親として元服したと『吾妻鏡』に記されている。
- 北条義宗:赤橋流北条氏の人物。義宗の子の北条久時は久明親王、孫の北条守時は守邦親王と、赤橋流北条氏の当主は代々、皇族将軍と烏帽子親子関係を結んでいた。
- 結城宗重(大内宗重):結城広綱の子。『続群書類従』の「結城系図」には「宗尊親王賜諱字。」と記されている。
4. 廃位と晩年
宗尊親王は将軍職を廃され、京都へ帰還した後も波乱の人生を送った。
4.1. 廃位の経緯
宗尊親王は文永3年(1266年)に将軍職を解任された。その経緯は複雑であり、複数の要因が絡み合っていたとされる。
同年3月、宗尊親王の内々の使者として藤原親家が上洛した。6月5日、親家が京から戻ると、後嵯峨上皇から宗尊親王に対し、正室である近衛宰子に関する内々の諷諫(遠回しな忠告)が伝えられた。19日には幕府の使者として諏訪盛経が上洛。20日には北条政村(執権)、北条時宗(連署・得宗)、北条実時、安達泰盛による「深秘の御沙汰」が行われた。同日、幕府護持僧の松殿僧正良基が何らかの理由で御所を退出して逐電した。
23日には、宰子と娘の掄子女王がにわかに時宗の山内殿に入り、嗣子の惟康親王も時宗邸に入った。この理由のわからない騒動に御家人たちが鎌倉に馳せ集まり、7月4日には名越流北条氏の北条教時が武装した軍勢を率いて示威行動を行った。時宗はそれを制止し、その軽率さを叱責した(この教時の示威行動は、後の二月騒動における教時の粛清にも繋がった)。同日、宗尊親王は女房輿で北条時盛邸に移され、7月8日に京へ送還された。
宗尊親王が将軍を解任され京へ送還されるに至った詳しい事情は不明な点が多いが、宰子と良基の密通事件が口実となり、宗尊親王に謀反の嫌疑がかけられて将軍の解任と京への送還が決定されたとする見方がある。また、宗尊親王が宰子を離縁するような強硬な措置を取ろうとして父の後嵯峨上皇に相談したが、後嵯峨上皇がそれを好まず、幕府にとっても宗尊親王の行動が執権・連署との相談なしの独走であったため、宗尊親王が孤立してしまったのではないかとする推測もある。
なお、弘長3年(1263年)6月には宗尊親王が征夷大将軍として上洛することが発表され、8月9日には供奉する御家人の名簿と10月3日に鎌倉を出発する日程まで発表されていたが、25日には上洛が一転中止された。公式には災害を理由とするが、御家人の経済的負担の大きさが一番の理由とみられる。さらに、前執権北条時頼の健康悪化(11月22日死去)や、鎌倉にいた土御門顕方(権大納言で後嵯峨院の外戚)が皇位継承の可能性が残されていた宗尊親王を唆して京都で政変を画策していたことが発覚したためだとする説も存在する。
4.2. 京都への帰還と家族関係
宗尊親王は7月20日に入京し、北条時茂の六波羅邸に入った。宗尊親王の送還を知った両親は義絶を宣言した(『外記日記』『五代帝王物語』)。7月24日には、鎌倉で子の惟康王が次の将軍に就任した。
10月、宗尊親王は承明門院旧邸に移った。後嵯峨上皇による義絶を知った幕府は、11月に武藤景頼を派遣して後嵯峨上皇に取り成した上で、宰子と掄子を京に送還し、宗尊親王の今後の生活のために所領5か所を献上するなど、これ以上罪を問うことはないことを明確にした。宗尊親王は12月にようやく父の後嵯峨上皇と対面し、和解に至った。
4.3. 出家
文永4年(1267年)9月4日に正室の宰子が出家した。文永7年(1270年)には宗尊親王の妻妾である堀川具教の娘が次男の早田宮真覚を出産している。
文永9年(1272年)2月、二月騒動で側近の中御門実隆が拘束された。その直後、父の後嵯峨法皇が崩御したことに伴い、宗尊親王も出家した。法名は覚恵、または行証(行勝)と伝わる。また同年、堀川具教の娘が次女の瑞子女王を出産している。
4.4. 死去
宗尊親王は文永11年9月2日(1274年9月2日)に、33歳で死去した。死因は不明である。
5. 家族
宗尊親王は、皇族としての血筋と、将軍としての地位を通じて、多くの家族関係を持った。
5.1. 父・母
- 父:後嵯峨天皇(1220年4月1日 - 1272年3月17日)
- 母:平棟子(? - 1302年) - 平棟基の娘。
5.2. 妻・子
- 正室:近衛宰子(1241年生) - 近衛兼経の娘。
- 男子:惟康親王(1264年5月26日 - 1326年11月25日) - 第7代将軍。
- 女子:掄子女王(1265年生) - 准三后。後宇多天皇後宮。
- 側室:堀川具教の娘(堀川局)
- 男子:早田宮真覚
- 女子:瑞子女王(永嘉門院)(1272年 - 1329年) - 亀山天皇養女、後宇多天皇後宮。
真覚には、植田宮、源宗治、弘徽殿の西台(塩冶高貞の妻)の3子がおり、植田宮には孫の水上王が、水上王には長男と次男の玉岫英種がいたことが知られている。
6. 評価と影響
宗尊親王は、皇族将軍という特異な立場と、文化人としての才能によって、後世に様々な評価と影響を残した。
6.1. 歴史的評価
宗尊親王は、鎌倉幕府史上初の皇族将軍として重要な存在であった。しかし、その将軍としての実権は極めて限定的であり、北条氏執権による専制的な統治の下、彼は傀儡としての役割を担った。彼の任命は、将軍家と摂関家の両方を支配しようとする九条道家の政治的介入を排除し、幕府の安定を図ろうとした北条時頼の意図によるものであった。彼の廃位もまた、北条氏の政治的都合によるものであり、将軍の権力の限界と執権政治の強大な影響力を示す事例となった。
6.2. 文化的影響
宗尊親王は、政治的制約の中で、和歌の創作に情熱を傾けた。彼の積極的な歌会開催は、鎌倉における武家歌壇の発展に大きく貢献し、多くの有能な歌人を輩出した。勅撰和歌集である『続古今和歌集』に最多の歌が入選したことは、彼の歌人としての実力の高さを示している。また、彼の書跡とされる多くの作品が伝わることから、書家としても高い技量を持っていたと評価されている。これらの文化的業績は、当時の鎌倉文化の隆盛に寄与し、後世の和歌や書道にも影響を与えた。
6.3. 論争点
宗尊親王の生涯には、いくつかの論争点が存在する。特に、彼の将軍廃位の経緯については、近衛宰子と僧侶良基との密通事件が口実とされたという説がある一方で、宗尊親王が宰子との離縁を巡って父の後嵯峨上皇と対立し、幕府との連携を欠いた独走が孤立を招いたとする推測も存在する。また、将軍として上洛が発表されながら中止された事件の背景についても、経済的負担や北条時頼の健康問題、さらには京都での政変画策の嫌疑など、複数の説が提唱されており、その真相は未だに明確ではない。これらの論争は、当時の複雑な政治状況と、将軍という地位の不安定さを浮き彫りにしている。