1. 生涯
宗義智の生涯は、対馬宗氏の家督相続から始まり、豊臣秀吉の朝鮮侵攻計画における外交的・軍事的役割、そして江戸時代初期の日朝関係修復への尽力と、その後の対馬藩主としての治世にわたります。
1.1. 出生と家系
宗義智は永禄11年(1568年)に、宗家第15代当主である宗将盛の四男(異説として五男)として生まれました。彼の初名は「昭景」であり、この「昭」の字は天正5年(1577年)12月に室町幕府の第15代将軍・足利義昭から賜った偏諱です。後に豊臣秀吉から「羽柴」の名字と「吉」の字を賜り「吉智」(よしとし)と名乗り、さらにその後「義智」に改名しました。彼の妻は小西行長の娘で、洗礼名「Mariaマリアラテン語」といいました。
1.2. 家督相続
義智が生まれた当時、宗氏の家督は長兄の宗茂尚が継ぎましたが、茂尚は早世しました。その後を継いだ次兄の宗義純もまた早世したため、天正7年(1579年)1月に宗家第17代当主であった宗義調の養子となり、宗家の当主となりました(天正8年(1580年)に家督を相続したとする説もあります)。
天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉による九州征伐が始まった際、隠居していた養父・義調が当主として復帰したため、義智は家督を義調に返上しました。義智は義調と共に秀吉に従い、これにより対馬国一国を安堵されました。この頃、秀吉から李氏朝鮮を服属させるよう命じられ、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力しました。しかし、天正16年(1588年)に義調が死去するなどの悪条件が重なり、交渉は思うように進みませんでした。義調の死後、義智は再び家督を継ぎ、宗家の当主となりました。
2. 朝鮮との外交・関係
豊臣秀吉の朝鮮侵攻計画に伴う宗義智の外交的努力と、その結果として勃発した文禄・慶長の役における彼の軍事的役割、そして講和交渉への関与について詳述します。
2.1. 秀吉の要求と交渉
豊臣秀吉は、織田信長の権威と領土を引き継ぎ、その野望を達成するために明の征服を最終目標としていました。また、日本の統一後には膨大な数の武士階級と武装勢力が存在し、これらが国内の安定を脅かす可能性があったことも、秀吉が海外遠征を計画した実用的な理由の一つでした。秀吉は李氏朝鮮との外交関係を再構築し、朝鮮を明への遠征計画に加えることを望みました。
このため、義智は天正17年(1589年)に秀吉の代理として朝鮮との交渉を組織する任務を負いました。秀吉は朝鮮に対し、明への遠征に協力するか、さもなくば日本との戦争に直面するかの選択を迫る要求を伝えさせました。宗氏の家は、朝鮮との特別な貿易特権を有しており(当時、対馬は日本から朝鮮へ向かう全ての船の唯一の検問所でした)、朝鮮と日本の間の紛争を阻止することに大きな利害を持っていました。義智は、天正15年(1587年)に失敗した最初の外交使節団に続く第二の使節団として任命されましたが、交渉を約2年間遅らせました。
秀吉が要求を更新し、義智にメッセージを伝えるよう迫った後も、義智は秀吉の要求をそのまま伝えるのではなく、朝鮮宮廷への訪問を両国間の関係改善のためのものに限定しました。彼は天正18年(1590年)に朝鮮からの外交使節団を日本に招致することに成功しました。しかし、朝鮮使節が秀吉から受け取ったメッセージは、無礼であるとして修正を求められた後も、朝鮮に日本への服属と中国との戦争への参加を促す内容でした。
朝鮮は明の冊封さくほう中国語国であり同盟国であったため、선조宣祖韓国語は日本軍が朝鮮を通過して明を侵攻することを拒否しました。これを受けて秀吉は、中国征服という最終目標を達成するための第一歩として、朝鮮への軍事侵攻を計画しました。
2.2. 文禄・慶長の役への参戦
宗義智は秀吉の朝鮮侵攻の開始において極めて重要な役割を果たしました。対馬が朝鮮と日本の間に戦略的に位置していたこと、そして彼が朝鮮に関する知識と経験を持っていたことから、義智は文禄元年(1592年)4月13日の釜山攻囲戦という、この戦争における最初の大規模な陸上攻撃を率いる任務を負いました。この作戦では、彼の義父である大名小西行長の支援を受けました。義智はその後もいくつかの戦闘で指揮を執り続けました。
2.2.1. 初期攻勢
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、義智は一番隊の先導役を任され、日本軍の最先鋒として戦いました。一番隊は以下の構成で、総計18,700人の軍勢でした。
将軍 | 兵力 |
---|---|
小西行長 | 7,000人または11,000人 |
宗義智 | 5,000人または1,000人 |
松浦鎮信 | 3,000人 |
有馬晴信 | 2,000人 |
大村喜前 | 1,000人 |
五島純玄 | 700人 |
義智は5,000人の軍勢を率いて文禄元年(1592年)4月12日に対馬北端の大浦を出港し、釜山に上陸しました。翌4月13日に総攻撃をかけて釜山を攻略したのを皮切りに、4月14日に東萊、4月15日に機張、左水営、4月16日に梁山、4月17日に密陽を次々と攻略しました。その後も大邱、仁同、善山を攻略し、4月26日には慶尚道巡辺使・李鎰 (이일李鎰韓国語)を尚州で撃破しました。4月27日には慶尚道を越えて忠清道へ進軍し、弾琴台の戦いで迎撃に出た申砬 (신립申砬韓国語)率いる朝鮮軍を壊滅させ、忠州を攻略しました。京畿道に進み、5月1日に麗州を攻略した後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達し、翌5月3日には首都漢城に入城しました。
諸将と漢城会議を行った後、5月11日に義智はさらに北に向かって進撃し、5月18日に臨津江の戦いで金命元 (김명원金命元韓国語)などの朝鮮軍を撃破しました。5月27日には開城を攻略し、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と攻略しました。平安道に進み、6月8日に大同江の辺りに達し、朝鮮軍の夜襲を受けましたが、自ら奮戦して撃退しました(大同江の戦い)。敗退し平壌城を朝鮮軍が放棄すると、6月16日にはこれを接収し、ここで進撃を停止しました。
2.2.2. 明との交戦と講和交渉
文禄元年(1592年)7月16日、明の遼東副総兵・祖承訓 (祖承訓そしょうくん中国語)が平壌を攻撃してきましたが、義智らはこれを撃退しました。このとき義智は小西行長とともに敗走する明軍を追撃し、明将史儒しじゅ中国語・千総張国忠ちょうこくちゅう中国語・馬世隆ばせいりゅう中国語などを討ち取りました。7月29日には李元翼 (이원익李元翼韓国語)率いる朝鮮軍が平壌に攻め寄せてきましたが、これも撃退しました。しかし、海上輸送による補給物資が李舜臣 (이순신李舜臣韓国語)率いる朝鮮水軍によって阻まれたため、日本軍は平壌からさらに進軍することができなくなりました。9月には明の遊撃沈惟敬 (沈惟敬しんいけい中国語)が小西行長に和議を打診し、これを受けて義智は僧侶景轍玄蘇と交代で沈惟敬を訪ね、彼と談判しました。
文禄2年(1593年)1月7日、明は李如松 (李如松りじょしょう中国語)を提督とする約4万人の明軍に金命元 (김명원金命元韓国語)率いる1万人の朝鮮軍を加え、平壌に攻め寄せました。明軍が平壌城の城門を突破すると、日本軍は北部丘陵地域の陣地に退避しました。ここで李如松は「退路を与えるから城を明け渡せ」と伝え、日本軍はこれを受け入れ南に向かって撤退を開始しましたが、背後から追撃を受け厳しい退避行となりました。漢城を目指して進撃する明軍に対し、日本軍は諸方面の各軍を漢城に結集した後出撃し、これを大いに破りました。これが碧蹄館の戦いです。明軍ではこの敗戦の結果講和の機運が起こり、日本軍も兵糧が不足したため、講和交渉の開始を約し釜山周辺域まで撤退しました。
義智は行長と共に明側の講和担当者・沈惟敬らと和平交渉に奔走しましたが、双方の求める和平条件は合意に至るはずもないかけ離れたものでした。そのため、義智らは国書の内容を双方に都合の良い条件に改竄するなどして和平成立を目指しました。しかし、こうした欺瞞行為をともなう交渉は実ることなく、各国に混乱を与え、交渉は決裂しました。この結果、慶長の役を防ぐには至りませんでした。
2.2.3. 慶長の役
慶長2年(1597年)2月、秀吉は朝鮮再出兵の号令を発しました。日本軍の作戦目標は全羅道を完全に制圧し、忠清道・京畿道その他も可能な限り侵攻することでした。目標達成後は城郭を建設し、在番の諸将を定め、その他の軍は帰国させる計画でした。当初、義智は左軍に属し、再び文禄の役と同じメンバーで行動しました。
義智ら日本軍は全羅道に向かって進撃を開始し、慶長2年8月13日に南原攻略戦を開始しました。4日目に攻略を果たし(南原城の戦い)、次に全羅道の道都全州に向かい占領し、全羅道を制圧しました。さらに日本軍は忠清道を制圧し、京畿道まで侵攻して作戦目標を達成すると、当初の予定通り文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部に城郭を建設するため撤収しました。
以後、義智は在番の将として南海倭城に在城していましたが、慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると、朝鮮に派遣されていた日本軍に10月15日付で帰国命令が発せられました。義智は小西行長と昌善島で集合し共に帰国する手筈でしたが、このとき順天倭城に在番していた小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄は明・朝鮮水軍に撤退を妨害され、順天から動くことができませんでした。これを見た宗義智は、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、寺沢広高らとともに水軍を編成し、順天に救援に向かいました。このとき露梁海峡で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と交戦しました(露梁海戦)。小西行長らは、この戦いの間隙をぬって脱出に成功しました。義智は小西行長らとともに釜山を経て帰国を果たし、前後7年に及ぶ朝鮮出兵は終結しました。
3. 関ヶ原の戦いと戦後処理
関ヶ原の戦いにおける宗義智の立場と、その後の徳川家康による日朝関係修復の命、そして彼が果たした朝鮮との国交再開への尽力について詳述します。
3.1. 関ヶ原の戦いにおける立場
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、宗義智は義父である小西行長に与して西軍に属しました。彼は伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を代理として参加させました。関ヶ原の戦いで西軍が敗北し、多くの西軍大名が領地を没収されたり処刑されたりする中、義智の義父であった小西行長もまた石田三成や安国寺恵瓊らと共に処刑されました。
しかし、戦後、徳川家康は悪化した朝鮮との国交修復を迅速に進めることを強く望んでおり、朝鮮外交における宗氏の特殊な役割を認識していました。このため、義智は罪に問われることなく、その所領を安堵され、対馬府中藩の初代藩主となりました(石高10.00 万 石)。この時、徳川家康の命により、彼は正室であったMariaマリアラテン語(多恵)を離縁しています。これは、徳川家康が小西行長の一族を滅ぼそうとしていたため、その禍が対馬に及ばないようにするための政治的な選択でした。
3.2. 朝鮮との国交再開への尽力
宗義智は、徳川家康から文禄・慶長の役によって悪化した朝鮮との関係を修復するよう命じられました。対馬に撤退した直後から、義智は朝鮮への国交再開要請に尽力し、複数の使節を派遣しましたが、当初は明軍に捕らえられたり、朝鮮側の根深い怨恨のために成果が得られませんでした。
慶長6年(1601年)に義智が派遣した橘智正が翌年朝鮮から使節孫文旭 (손문욱孫文旭韓国語)を招致し、慶長9年(1604年)8月には朝鮮から回答兼刷還使として僧侶惟政 (유정惟政韓国語)(四溟堂 (사명당四溟堂韓国語))と孫文旭 (손문욱孫文旭韓国語)が対馬を訪れ、対馬人が釜山で貿易することを許可する文書を伝えました。惟政 (유정惟政韓国語)は翌年4月、京都の伏見城で徳川家康と徳川秀忠に会見しました。
同年秋、義智は再び釜山に使いを送り、徳川家康が朝鮮からの通信使派遣を求めていることを伝えました。朝鮮朝廷は全啓信 (전계신全啓信韓国語)を対馬に送り、通信使派遣の条件として、徳川家康がまず国書を送ること、そして以前朝鮮の宣靖陵 (선정릉宣靖陵韓国語)を盗掘した犯人を捕らえて送ることを要求しました。日本側が先に朝鮮に国書を送ることは、日本側が和解を求め、日本が起こした戦争に対して朝鮮側に謝罪するという意味合いを含んでおり、また宣靖陵 (선정릉宣靖陵韓国語)を盗掘した犯人を捕らえることも困難な要求でした。
慶長9年(1604年)11月12日、対馬側の橘智正は徳川家康の書契と共に、마고사구麻古沙九韓国語と마다화지麻多化之韓国語の二人を宣靖陵 (선정릉宣靖陵韓国語)を盗掘した犯人として捕らえ、朝鮮に送りました。しかし、彼らの供述では、自分たちは朝鮮に来たこともなく、来たとしても釜山以外には出たことがないと主張し、橘智正が彼らを犯陵罪人として偽って送ったことが明らかになりました。それでも朝鮮側はこれ以上問題にせず、彼らを処刑し、日本に回答兼刷還使を送ることを決定しました。
慶長12年(1607年)、呂祐吉 (여우길呂祐吉韓国語)を正使、慶暹 (경섬慶暹韓国語)を副使、鄭好寬 (정호관鄭好寬韓国語)を書状官とする朝鮮の回答兼刷還使は2月末に釜山を出発し、3月3日に対馬府中藩に到着しました。彼らは大阪と京都を経て5月下旬に江戸に到着し、6月6日に将軍徳川秀忠に謁見しました。6月11日には将軍徳川秀忠の朝鮮国王に対する回答書契が朝鮮使節の宿舎に届けられましたが、そこには「源秀忠」という朱印が押されているだけで、「日本国王」という称号は書かれていませんでした。これより先に宗氏を介して朝鮮に伝えられた徳川家康の国書には、「日本国王」の印とともに「源家康」という署名がなされており、これは過去の室町幕府の足利将軍の先例に倣ったものでした。しかし、これは対馬宗氏が、過去に足利将軍が対朝鮮外交で使用した印章と朝鮮国王の国書に押された印章を偽造して作成したものであったと解釈されています。
これらの朝鮮側回答兼刷還使と日本側との間で、慶長14年(1609年)に己酉約条 (기유약조己酉約条韓国語)(慶長条約)が結ばれ、両国の国交は正式に正常化されました。しかし、1617年と1624年の朝鮮側回答兼刷還使派遣のきっかけとなった書契もまた、対馬宗氏によって偽造されたものでした。これには対馬府中藩の家臣であった柳川調信 (야나가와 시게노부柳川調信韓国語)の子である柳川智永 (야나가와 도시나가柳川智永韓国語)とその家臣、そして朝鮮側使節の一部が関与していたことが知られています。1636年に至って両国間の国書偽造が発覚し、国書偽造の責任者とされた柳川智永 (야나가와 도시나가柳川智永韓国語)の子柳川調興 (야나가와 시게오키柳川調興韓国語)は津軽地域へ流罪となり、関与した家臣は処刑され、柳川家の菩提寺も閉鎖され、柳川調信 (야나가와 시게노부柳川調信韓国語)・柳川智永 (야나가와 도시나가柳川智永韓国語)親子の墓所も失われるという柳川一件が発生しました。
4. 江戸時代の対馬藩主と外交
宗義智の治世から始まる江戸時代における対馬藩主としての宗氏の役割、幕府との関係、そして朝鮮との継続的な外交および貿易関係について記述します。
4.1. 幕府との関係と領土保全
徳川家康から朝鮮との関係修復を命じられた義智は、慶長14年(1609年)に朝鮮との和平条約である己酉約条 (기유약조己酉約条韓国語)を成立させ、国交を回復しました。この功績は徳川家康から高く評価され、宗氏は幕府から独立した機関として朝鮮との独占的な貿易権を認められました。これにより、宗氏は政治的にも経済的にも大きな利益を得ることになります。
また、宗義智は徳川家康によって、他の大名が年に一度と定められていた参勤交代を3年に一度行うことを許されました。ただし、この特例は義智以降の対馬府中藩主には適用されませんでした。宗氏の当主は、廃藩置県に至るまでこの領地を保持し続け、江戸時代(1603年~1868年)を通じて幕府の朝鮮政府との仲介役を務めました。
宗氏は徳川幕府の代表者および代弁者として、朝鮮通信使が江戸へ派遣される一連の重要な使節団の継続を確実にするのに貢献しました。これらの使節団は、幕府の正当性を高めるためのプロパガンダとして日本にとって有益であり、江戸を中心とする国際秩序の理想的な構造の出現における重要な要素となりました。
4.2. 朝鮮との条約締結と外交問題
慶長14年(1609年)に朝鮮との間で締結された己酉約条 (기유약조己酉約条韓国語)は、文禄・慶長の役によって断絶した両国間の国交を再開させる画期的な条約でした。この条約により、朝鮮との貿易が再開され、宗氏の対馬藩は日朝貿易の独占的な窓口として繁栄しました。
しかし、この国交回復の過程では、宗義智が朝鮮との交渉を性急に進めすぎたために、後世に大きな問題を残すことになります。特に、朝鮮との間で交わされる国書の内容を、両国の都合に合わせて改竄するという欺瞞行為が常態化しました。この問題は、義智の死後、長男である宗義成の時代に柳川一件として発覚し、宗家は断絶の危機に瀕しました。この事件は、対馬宗氏が日朝関係において果たした重要な役割の一方で、その外交が抱えていた複雑で欺瞞的な側面を浮き彫りにしました。
5. 晩年と死
宗義智は慶長20年1月3日(1615年1月31日)に死去しました。享年48歳でした。彼の死後、家督は長男の宗義成が継ぎました。
6. 思想と信仰
宗義智は、義父である小西行長の影響を受けてキリシタンとなり、洗礼名「Darioダリオラテン語」を持っていました。朝鮮出兵当時、日本軍を慰問するために朝鮮を訪れたグレゴリオ・デ・セスペデス神父は、義智を「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評しています。しかし、関ヶ原の戦いで小西行長が処刑された後、義智はカトリック信仰を捨て、義行の娘であった正室Mariaマリアラテン語(多恵)とも離縁しました。
7. 個人史と家族関係
宗義智は宗将盛の四男(異説として五男)として生まれました。母は立石高弘の娘である竜安院です。彼は宗義調の養子となりました。
彼の正室は小西行長の娘である妙(洗礼名Mariaマリアラテン語、生年不詳 - 1605年)でしたが、関ヶ原の戦いの後に離縁しました。その後、河村氏または阿比留氏の娘である威徳院を継室としました。
子供には、継室との間に生まれた長男の宗義成(1604年 - 1657年)がいます。また、側室の養福院(立石盛治の娘)との間には、杉村智次室、柳川調興 (야나가와 시게오키柳川調興韓国語)正室、宗成親室、古川成倫室、内野助成室となった複数の女子がいました。
8. 評価と論争
宗義智の生涯と活動は、その歴史的・社会的な評価において、肯定的な側面と批判的な側面の両方を含んでいます。特に、朝鮮出兵への関与と外交上の欺瞞行為は、主要な論争点となっています。
8.1. 肯定的評価
宗義智は、文禄・慶長の役後の断絶した日朝関係を修復するために多大な努力を払いました。彼の尽力により、慶長14年(1609年)に己酉約条 (기유약조己酉約条韓国語)が締結され、両国間の国交が再開されたことは、対馬藩の安定的な運営と、その後の江戸時代における日朝間の平和的関係の基盤を築く上で重要な貢献とされています。また、彼はグレゴリオ・デ・セスペデス神父から「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と高く評価されていました。
8.2. 批判と論争
宗義智に対する批判は、主に朝鮮出兵における彼の役割と、朝鮮外交における欺瞞行為に集中しています。彼は秀吉の朝鮮侵攻計画を回避しようと努力したものの、最終的には日本軍の先鋒として朝鮮に侵攻し、多くの戦闘に参加しました。
最も大きな論争点は、日朝間の講和交渉や国交再開の過程で、彼が国書の内容を改竄するなどの欺瞞行為を行ったことです。これは、秀吉の過度な要求と朝鮮側の拒絶という板挟みの中で、戦争を回避し、あるいは戦後の関係を修復しようとする彼の苦肉の策であったと解釈されることもありますが、結果として朝鮮側に大きな不信感を与え、後世に柳川一件のような外交問題を引き起こす原因となりました。朝鮮側の記録、例えば《宣祖実録》では、関ヶ原の戦い後の宗義智と家臣柳川調信 (야나가와 시게노부柳川調信韓国語)について、「なぜ賊の中でも最も狡猾な者である宗義智と柳川調信 (야나가와 시게노부柳川調信韓国語)が、朝鮮の地と密接な関係にある対馬に住みながら、巧みに嘘を重ね、時には脅迫し、時には密かに船を出して人々を略奪し、あるいは島民に降伏を装わせて飢えを訴えさせるなど、その変化が捉えどころなく、ますます測り知れない」と酷評されており、彼の外交手腕が朝鮮側から極めて批判的に見られていたことが示されています。
宗氏が江戸時代に朝鮮との条約を締結して藩の地位を安泰させたものの、朝鮮との交渉を性急に進めすぎたため、次代の宗義成時代に国書偽造が発覚し、宗家が滅亡の危機に立たされた柳川一件は、義智の外交的決定がもたらした負の結果として批判的に評価されています。
9. 影響
宗義智の活動は、対馬地域、日本の対外政策、そして日朝関係に長期的な影響を与えました。彼が朝鮮との国交を回復し、己酉約条 (기유약조己酉約条韓国語)を締結したことは、対馬藩が江戸時代を通じて日本と朝鮮の間の唯一の公式な窓口となる基盤を築きました。これにより、対馬宗氏は日朝貿易の独占権を得て経済的に繁栄し、幕府の外交政策において重要な地位を占めることになりました。
しかし、彼の外交における国書偽造などの欺瞞行為は、後の柳川一件という深刻な外交問題を引き起こし、日朝関係に不信感の影を落としました。それでもなお、宗氏による仲介は、朝鮮通信使の定期的な派遣を可能にし、江戸幕府の権威を内外に示す役割を果たしました。義智の時代に確立された対馬宗氏を介した日朝関係は、その後200年以上にわたり維持され、日本の鎖国体制下における重要な外交ルートとして機能し続けました。彼の行動は、対馬という特殊な地理的・政治的環境の中で、日本と朝鮮の間の複雑な国際関係を形成する上で不可欠な要素であったと言えます。
10. 関連項目
- 日朝関係史
- 朝鮮通信使
- マンショ小西
- 対馬小路