1. 幼少期と教育
1.1. 出生と少年期
小池禮三は1915年12月12日、静岡県沼津市に生まれた。少年期から水泳に才能を示し、地元の沼津商業高等学校時代には早くもその頭角を現した。
1.2. 学歴
沼津商業高等学校を卒業後、小池は慶應義塾大学法学部政治学科に進学し、学業と競技生活を両立させた。
2. 選手としての経歴

2.1. 初期の実績と国内記録
小池禮三は国内の平泳ぎ競技で数々のタイトルを獲得し、生涯で8度の日本選手権優勝を記録した。1932年ロサンゼルスオリンピックと1936年ベルリンオリンピックの間に、非公式ながら100m平泳ぎで世界記録を樹立した。また、慶應義塾大学在学中には、200m平泳ぎで世界最高記録を樹立するなど、国内外でその実力を示した。
2.2. オリンピック出場とメダル獲得
小池禮三は200m平泳ぎを専門とし、2度のオリンピックに出場した。
- 1932年ロサンゼルスオリンピック**
この大会では、小池禮三は本命視されていたが、体調を崩していたこともあり、鶴田義行に次ぐ銀メダルを獲得した。
- 1936年ベルリンオリンピック**
200m平泳ぎで、葉室鐵夫とエルヴィン・ジータス(ドイツ)に次いで銅メダルを獲得した。

3. 兵役
第二次世界大戦中、小池禮三は日本軍に出征し、主計少尉としてガダルカナル島に展開した。厳しい戦場を経験し、無事に帰還した。
4. 戦後の活動
4.1. 水泳コーチ・指導者としての活動
第二次世界大戦後、小池禮三は競技選手としての活動を終え、日本の水泳界の再建と発展に尽力した。彼は競泳日本代表チームのコーチを務め、その後は監督に就任。1956年のメルボルンオリンピックでは水泳日本代表の監督を務めた。また、日本水泳連盟では選手強化本部長などの指導的役割を歴任し、戦後の日本水泳界を牽引した。小池は、古橋広之進や橋爪四郎といった日本を代表する選手たちの指導にあたり、その才能を開花させる上で重要な役割を果たした。晩年には日本水泳連盟の顧問も務めた。
4.2. 放送業界でのキャリア
小池禮三は水泳界での活動に加え、1955年(昭和30年)に朝日放送に入社し、ビジネスの世界でもキャリアを築いた。同社では営業部長、運動部長、ラジオ局長などを歴任し、水泳以外の分野でもその能力を発揮した。
5. 受賞と栄誉
5.1. 国際的な評価と栄誉
小池禮三は、その功績が国際的に高く評価され、いくつかの権威ある賞を受賞している。
- オリンピックオーダー銀章**:1990年(平成2年)にIOCより授与された。
- 国際水泳殿堂入り**:1996年、国際水泳界への多大な貢献が認められ、国際水泳殿堂入りを果たした。
5.2. 国内での受勲
- 勲三等瑞宝章**:1987年(昭和62年)に日本政府より授与された。
- 従五位**:1998年の死去後、その功績が認められ追叙された。
6. 私生活と晩年
6.1. 岩崎恭子との交流
小池禮三は後進の育成にも熱心であり、特に1992年(平成4年)のバルセロナオリンピックでは、同郷の後輩で同じ平泳ぎ選手であった岩崎恭子をたびたび激励した。岩崎が金メダルを獲得した際には、「自分の孫が優勝したみたいな感じで、とても嬉しい」と語り、心からその喜びを分かち合った。
7. 死去
7.1. 死没年月日と死因
小池禮三は1998年8月3日、肺の小細胞癌により82歳で逝去した。その死後、長年の功績が称えられ、従五位に叙された。
8. 遺産と影響
8.1. 日本水泳界への貢献
小池禮三は、選手としてオリンピックメダルを獲得しただけでなく、戦後の混乱期における日本水泳界の復興と発展に多大な貢献をした。コーチや監督、そして連盟の要職を歴任することで、多くの優秀な選手を育成し、日本が国際舞台で再び存在感を示す基盤を築いた。彼のリーダーシップと情熱は、今日の日本水泳界の隆盛に不可欠な遺産として深く刻まれている。
9. 関連項目
- 国際水泳殿堂