1. 概要
小鶴誠は、1922年12月17日に福岡県飯塚市で生まれ、2003年6月2日に逝去した日本のプロ野球選手(外野手、内野手)であり、プロ野球コーチを務めた。その美しい打撃フォームと風貌から、アメリカの伝説的選手ジョー・ディマジオになぞらえ「和製ディマジオ」と称された。
現役時代の1950年には、日本プロ野球史上初となるシーズン50本塁打を達成し、同時に161打点、143得点、376塁打という、現在も破られていない日本プロ野球記録を樹立した。この記録的な活躍により、同年セ・リーグの最優秀選手に選出された。また、1949年には首位打者を獲得するなど、輝かしい成績を残し、1980年には野球殿堂入りを果たした。小鶴誠は、その革新的な打撃スタイルと記録的な活躍で日本野球史に深く名を刻んだ重要な選手である。
2. 生い立ちとプロ入り前
小鶴誠は、飯塚商業専修学校(現在の飯塚商業高等学校)を卒業後、社会人野球の強豪八幡製鐵でプレーした。
1942年、名古屋軍に入団する際、彼は本名の「小鶴誠」ではなく、出身地にちなんだ「飯塚誠」という偽名を登録名として使用した。これにはいくつかの説がある。一つは、八幡製鐵が軍需工場であったため、転職が認められておらず、大学進学を名目として退職したためというもの。もう一つは、名古屋軍の理事であった赤嶺昌志が小鶴を強引に引き抜いた際、八幡製鐵のチームメンバーやファンから激しい反発を受けたため、赤嶺が恭順の意を示すために仮名を使用させたという説である。小鶴自身も、場内アナウンスで「飯塚」とコールされても、自分のことではないかのような不思議な感覚だったと語っている。しかし、同年9月1日には本名の「小鶴誠」に戻している。
その後、小鶴は日本大学経済学部の夜間部に通い、大学を修了した。本人は「大学で勉強するつもりよりは野球をするため」に通ったと語っている。
3. 現役時代
小鶴誠のプロ野球選手としてのキャリアは、戦中から戦後の復興期にかけての激動の時代を駆け抜け、数々の記録を打ち立てた。名古屋軍でのデビューから始まり、急映・大映での打撃開花、松竹ロビンスでの伝説的なシーズン、そして広島カープでの晩年と、その所属チームの変遷とともにその野球人生を詳細に追う。
3.1. プロ入りから応召・復帰まで (1942-1947)
1942年、19歳で名古屋軍(後の中日ドラゴンズ)に入団した小鶴は、その1年目からレギュラーとして活躍した。しかし、翌1943年オフに応召のため名古屋軍を退団し、1944年から1945年の間は日本海軍で軍務に就いた。
戦後、1946年に中部日本軍(名古屋軍から改称)に復帰。野球を続けるため、日本大学夜間部に通い、経済学部を修了したと後に語っている。
3.2. 急映・大映時代と打撃開花 (1948-1949)
1948年、球団代表であった赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、小鶴はその後を追って退団し、急映フライヤーズ(現在の日本ハムファイターズの前身の一つ)に移籍した。この間、後に松竹ロビンスの監督も務めることになる新田恭一の指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つ「ゴルフスイング打法」を習得した。肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者たちの中で、小柄で腕力に頼らない小鶴の腰の回転を利用した円滑なスイングは、非常に新鮮であった。新田自身が元ゴルファーだったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の流行語となった。しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解を招くこともあった。この年、彼は打率.305を記録し、首位打者の青田昇にわずか1厘差で打撃成績2位に入った。
1949年には再び赤嶺に従い、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に移籍した。この頃、バットを力まずに振る感覚を身につけたことに加え、打撃を奨励するために「ラビットボール」と呼ばれる反発力の強い公認球が採用されたこともあり、打撃成績が飛躍的に向上した。同年は打率.361を記録し、首位打者を獲得。さらにベストナインにも選出された。
3.3. 松竹ロビンスでの記録的シーズン (1950-1952)
1950年、セ・パ両リーグ分立に伴い、セ・リーグ総務に転じた赤嶺の斡旋で松竹ロビンスへ移籍した。ここでは岩本義行、大岡虎雄、金山次郎らとともに、「水爆打線」と呼ばれた強力な打線を形成した。
この年、小鶴は前年に藤村富美男が樹立した日本記録の46本塁打を更新。さらに11月2日の対大洋ホエールズ戦(日本生命球場)では、大洋の今西錬太郎からレフトへ日本プロ野球史上初のシーズン50本目の本塁打を放った。シーズンを通して130試合に出場し、打率.355、51本塁打、161打点という圧倒的な成績を残し、松竹のリーグ優勝に大きく貢献した。打率こそ.362を記録した藤村富美男に及ばず三冠王は逃したが、本塁打王と打点王の二冠を獲得し、さらにシーズンMVPにも輝いた。
彼の記録は日本プロ野球史に長く刻まれることとなる。51本塁打は1963年に野村克也(52本)に破られるまで、また1964年に王貞治(55本)に破られるまではセ・リーグ記録であった。特に、161打点、143得点、376塁打は現在でも日本プロ野球記録として残っている。加えて、この年には28盗塁を記録し、日本球界で唯一の「50本塁打20盗塁」を達成した(51本塁打28盗塁という記録は、当時MLBでも達成者がおらず、2024年にロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平が上回るまで世界唯一の記録であった)。同年、長打率.7287は王貞治に抜かれるまで23年間、85長打は松井稼頭央に抜かれるまで52年間日本記録だった(長打数は現在もセ・リーグ記録)。
しかし、シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、日本シリーズでは活躍できなかった。松竹ロビンスは毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に4勝2敗で敗れ、小鶴自身もシリーズでは23打数4安打、本塁打なしに終わった。後に川上哲治の有名な「ボールが止まって見えた」という言葉は、実際には小鶴が50本塁打を達成した際の発言で、「知名度のない小鶴では記事にならないから」という理由で報知新聞の記者が川上の発言に変えたとする説がある。
1951年からは、「飛ぶボール」の廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、小鶴の成績は徐々に落ちていった。当時の医療技術では適切な治療法がなく、痛みのあまり腰の感覚がなくなるほどだったという。
3.4. 広島カープへの移籍と引退 (1953-1958)

1952年シーズン終了後、松竹が大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)と合併した際、小鶴は金山次郎、三村勲ら赤嶺一派のメンバーとともに広島カープ(現在の広島東洋カープ)へ移籍した。この移籍は、石本秀一監督と、樽募金で資金を集めた広島市民の熱意によって実現したもので、球界の大スター入団に広島の町は熱狂した。
広島では往年の力は完全に発揮できなかったものの、1953年には自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、ファンもその意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。打撃力の乏しい広島では不動の四番打者に座り、1954年(打率.297でリーグ9位)、1955年(打率.285でリーグ6位)と2年連続で打撃ベストテンに顔を出した。合計6年間にわたり、当時の勝率が低かったチームを支え続けた。
1958年、35歳で現役引退を表明した。しかし、同年シーズンオフに球団から「チーム若返り策」の名目で戦力外を告げられた際には、球団代表の河口豪に対して強い不満をぶつけている。小鶴は、「(自分より)実力の劣る選手がいるのに何故自分なのか。まだまだ現役でやれる自信がある」「この球団は広島閥が強すぎる」「引退を勧めるならば、コーチ就任の話ぐらいあってもいいのではないか」と訴えた。これに対し河口は、「君は性格的にコーチは向いていないだろう。それに現役時代より給料は格段に落ちる。ならば勇退とした方がすっきりとするのではないか」と説得し、小鶴もこれを受け入れた。後に河口は、球団幹部であった松田恒次から「小鶴に引退してもらったのは白石勝巳監督をやりやすくするためだ」と聞かされたという。
小鶴の退団後、白石監督率いるカープは1960年に球団史上初の勝率5割を達成したが、白石から門前真佐人が監督を引き継いだ1961年から1962年にはチーム成績が低迷し、観客動員数も落ち込んでしまった。危機感を抱いた球団社長の伊藤信之は小鶴を監督として招聘しようとしたが、球団役員の意志統一が図れず、伊藤は辞任してしまう。代わって球団社長に就任した松田恒次は白石を監督として再招聘したため、小鶴がカープに復帰する機会は永遠に失われてしまった。
現役を通して、小鶴は通算240盗塁を記録した速い足と、強肩を活かした守備においても高く評価された。
4. 引退後の活動
現役引退後も、小鶴誠はプロ野球界に貢献し、また実業家としてもその情熱を燃やし続けた。このセクションでは、彼が果たした様々な役割と晩年の生活について記述する。
4.1. コーチ・スカウトとしての活動
小鶴誠は、引退後も野球界との繋がりを保ち、指導者として若手選手の育成に貢献した。ラジオ関東の解説者(1959年 - 1963年)を経て、国鉄スワローズ・サンケイスワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)で1軍打撃コーチ(1964年 - 1965年)を務め、高山忠克や福富邦夫といった選手を育てた。
1968年には阪神タイガースの1軍打撃コーチに就任し、投手として入団した桑野議を打者に転向させた。翌1969年からは阪神タイガースの東京駐在スカウトを務め、掛布雅之の入団テストを担当するなど、その後の球界を担う選手の獲得に尽力し、1976年に退団した。
4.2. 引退後の生活と晩年
野球界を離れた後は、東京都練馬区でビル管理会社を経営し、実業家として活動した。しかし、野球への情熱が尽きることはなく、還暦を迎えるまでバッティングセンターに通い続け、毎日200球ほど打ち込んでいたという。その姿勢から「打撃の職人」と称された。
1980年には、その功績が認められ日本野球殿堂入りを果たした。
5. 選手としての特徴と人物像
小鶴誠は、単なる強打者としてだけでなく、その研究熱心な姿勢と卓越した技術、そして親しみやすい人柄で知られる。このセクションでは、彼のプレースタイルと人間性について深掘りする。
5.1. プレースタイルと技術
小鶴誠は「野球の虫」と言われたほど研究熱心な選手であった。特に苦手なカーブを徹底的な練習で克服するなど、弱点克服に努めた。戦後に本塁打ブームが訪れると、飛距離を伸ばす「ゴルフスイング打法」にのめり込み、それを自分のものにすることで、空前の本塁打記録を打ち立てた。これは彼の努力が実を結んだ結果である。また、通算240盗塁を記録したその卓越した走塁能力と、強肩を活かした守備も高く評価された。
5.2. 人物像
プライベートにおいては、物静かで温厚な性格であり、冗談を好む紳士であったと伝えられている。
6. 功績と評価
小鶴誠の野球界における功績は多岐にわたり、彼の残した記録は日本プロ野球史に深く刻まれている。また、その印象的なニックネームは彼の存在を後世に伝えている。
6.1. 野球殿堂入り
小鶴誠は、1980年に日本野球殿堂の競技者表彰で殿堂入りを果たした。これは彼の選手としての偉大な功績が認められた結果である。
6.2. ニックネームと後世への影響
小鶴誠は、その美しい打撃フォームとジョー・ディマジオに似た風貌から「和製ディマジオ」(Japanese DiMaggio英語)という愛称で親しまれた。このニックネームは彼の打者としての優雅さと強力さを象徴している。
彼の1950年の記録的なシーズン、特に史上初の50本塁打達成や、未だ破られていない多くのシーズン記録は、日本プロ野球における打撃の可能性を大きく広げ、後世の選手たちに多大な影響を与えた。また、「ゴルフスイング打法」のような新しい打撃技術への探求心は、その後の野球界の技術革新にも一石を投じたと言える。
7. 死去
小鶴誠は、2003年6月2日に心室細動のため、豊島区内の病院で死去した。享年80歳。
8. 詳細情報
小鶴誠の輝かしいキャリアは、数々のタイトル、表彰、そして日本プロ野球史に残る記録によって裏付けられている。このセクションでは、彼の残した詳細なデータを提供する。
8.1. タイトル・表彰
- 首位打者:1回 (1949年)
- 本塁打王:1回 (1950年)
- 打点王:1回 (1950年)
- 最多出塁数:1回 (1949年)
- 最高殊勲選手(MVP):1回 (1950年)
- ベストナイン:2回 (外野手部門:1949年、1950年)
- 野球殿堂競技者表彰(1980年)
8.2. 記録・節目の記録
- 節目の記録
- 100本塁打:1950年9月10日、対広島カープ13回戦(広島総合球場)、中山正嘉から本塁打 ※史上3人目
- 1000安打:1952年7月27日、対読売ジャイアンツ14回戦(大阪球場)、西田亨から安打 ※史上11人目
- 1000試合出場:1953年4月28日 ※史上17人目
- その他の記録
- シーズン最多得点:143 (1950年)。前年の別当薫の日本記録を更新。
- シーズン最多打点:161 (1950年)。
- シーズン最多塁打:376 (1950年)。
- シーズン50本塁打以上:1回(1950年)。史上初。
- シーズン40本塁打以上:1回(1950年)。史上2人目。
- 10試合連続打点 (1950年5月17日 - 5月31日)。
- オールスターゲーム出場:3回 (1951年、1953年、1956年)。
- 48球場での本塁打。
- 日本球界唯一の50本塁打20盗塁(1950年51本塁打28盗塁)。MLBでも2024年に大谷翔平が達成するまで世界唯一の記録だった。
- 長打率.7287 (1950年)。王貞治に抜かれるまで23年間日本記録。
- 85長打 (1950年)。松井稼頭央に抜かれるまで52年間日本記録。現在もセ・リーグ記録。
8.3. 背番号・登録名
- 背番号
- 32 (1942年 - 1943年、1946年 - 1947年)
- 24 (1948年)
- 3 (1949年 - 1952年)
- 15 (1953年 - 1958年)
- 61 (1964年 - 1965年)
- 57 (1968年)
- 登録名
- 飯塚 誠 (いいづか まこと日本語、1942年 - 1942年8月31日)
- 小鶴 誠 (こづる まこと日本語、1942年9月1日 - 1958年、1964年 - 1965年、1968年)
8.4. 年度別打撃成績
年 | 所属 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1942 | 名古屋 中部日本 | 102 | 417 | 370 | 35 | 80 | 9 | 9 | 2 | 113 | 29 | 8 | 7 | 1 | -- | 45 | -- | 1 | 49 | -- | .216 | .303 | .305 | .608 |
1943 | 80 | 349 | 314 | 31 | 65 | 10 | 4 | 3 | 92 | 21 | 4 | 4 | 3 | -- | 32 | -- | 0 | 20 | -- | .207 | .280 | .293 | .573 | |
1946 | 96 | 427 | 374 | 54 | 102 | 21 | 7 | 10 | 167 | 63 | 6 | 7 | 1 | -- | 50 | -- | 2 | 40 | -- | .273 | .362 | .447 | .808 | |
1947 | 114 | 432 | 375 | 43 | 79 | 17 | 5 | 9 | 133 | 38 | 9 | 2 | 0 | -- | 57 | -- | 0 | 49 | -- | .211 | .315 | .355 | .669 | |
1948 | 急映 | 113 | 483 | 429 | 57 | 131 | 14 | 7 | 16 | 207 | 65 | 27 | 9 | 1 | -- | 52 | -- | 1 | 66 | -- | .305 | .382 | .483 | .864 |
1949 | 大映 | 129 | 577 | 501 | 112 | 181 | 26 | 8 | 24 | 295 | 92 | 15 | 6 | 0 | -- | 75 | -- | 1 | 45 | -- | .361 | .445 | .589 | 1.034 |
1950 | 松竹 | 130 | 606 | 516 | 143 | 183 | 28 | 6 | 51 | 376 | 161 | 28 | 8 | 0 | -- | 89 | -- | 1 | 53 | 16 | .355 | .450 | 0.729 | 1.179 |
1951 | 97 | 441 | 387 | 68 | 101 | 16 | 4 | 24 | 197 | 85 | 20 | 3 | 0 | -- | 54 | -- | 0 | 43 | 11 | .261 | .351 | .509 | .861 | |
1952 | 119 | 504 | 450 | 57 | 128 | 24 | 0 | 17 | 203 | 49 | 19 | 7 | 0 | -- | 51 | -- | 1 | 44 | 14 | .284 | .359 | .451 | .810 | |
1953 | 広島 | 130 | 557 | 488 | 80 | 138 | 32 | 2 | 14 | 216 | 74 | 33 | 5 | 0 | -- | 68 | -- | 1 | 57 | 14 | .283 | .372 | .443 | .814 |
1954 | 121 | 503 | 454 | 67 | 135 | 25 | 3 | 15 | 211 | 72 | 21 | 7 | 0 | 2 | 47 | -- | 0 | 48 | 16 | .297 | .362 | .465 | .827 | |
1955 | 130 | 549 | 494 | 62 | 141 | 17 | 7 | 18 | 226 | 67 | 26 | 7 | 5 | 4 | 46 | 11 | 0 | 68 | 15 | .285 | .344 | .457 | .801 | |
1956 | 122 | 482 | 428 | 48 | 111 | 12 | 0 | 11 | 156 | 43 | 16 | 4 | 3 | 2 | 48 | 5 | 1 | 60 | 4 | .259 | .334 | .364 | .699 | |
1957 | 107 | 422 | 387 | 31 | 99 | 12 | 0 | 8 | 135 | 38 | 7 | 4 | 1 | 5 | 28 | 5 | 1 | 70 | 10 | .256 | .304 | .349 | .653 | |
1958 | 65 | 200 | 174 | 21 | 43 | 4 | 0 | 8 | 71 | 26 | 2 | 2 | 2 | 5 | 19 | 1 | 0 | 29 | 8 | .247 | .313 | .408 | .721 | |
通算:15年 | 1655 | 6949 | 6141 | 909 | 1717 | 267 | 62 | 230 | 2798 | 923 | 241 | 82 | 17 | 18 | 761 | 22 | 10 | 741 | 108 | .280 | .359 | .456 | .815 |
- 各年度の太字はリーグ最高記録を示す。1950年の打点、得点、塁打はNPB歴代最高記録。
- 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業(産業軍)に、1946年に中部日本(中部日本軍)に球団名を変更している。