1. 生涯
平田東助の生涯は、激動の明治・大正時代において、学問と官僚としての職務、そして政界での活躍を通じて日本の近代化に深く関わった軌跡である。

1.1. 幼少期と教育
平田東助は嘉永2年3月3日(1849年3月26日)、出羽国米沢藩の藩医であった伊東昇廸(祐直)の次男として生まれた。伊東家は代々医師の家系であった。兄の伊東祐順が伊東家を継いだため、東助は安政3年(1856年)に同じく藩の医師であった平田亮伯の養子となった。
幼少期は米沢藩の藩校である興譲館(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)で学び、その後江戸へ上り、古賀謹堂の門下で学問を修めた。戊辰戦争では、米沢藩が奥羽越列藩同盟に加わり、政府軍と敵対して敗北を喫した。戦争終結後、藩命により東京へ移り、明治2年(1869年)5月には慶應義塾に入学し、吉田賢輔の下で英学を学んだ。その後、大学南校(現在の東京大学の前身)に進んだ。明治3年(1870年)には小倉処平と共に貢進生制度の導入を建議した。また、明治4年(1871年)には、故郷の旧藩校・興譲館に「洋学舎」を設立するため尽力し、慶應義塾出身の村道之助、宮内赫助、滝川喜六の3名を教師として招き、洋学教育の普及に貢献した。
1.2. ヨーロッパ留学
明治4年(1871年)、平田は岩倉使節団の一員としてヨーロッパを訪問した。当初はロシアへの留学を予定していたが、ベルリンで青木周蔵や品川弥二郎らの知遇を得て説得され、統一されたばかりのドイツへの留学に切り替えた。
ドイツでは、ベルリン大学で政治学を、ハイデルベルク大学で国際法を、ライプツィヒ大学で商法を学んだ。特にハイデルベルク大学では、日本人として初めて博士号(ドクトル・フィロソフィ)を取得したことで知られる。この経験は、後の彼の法制度整備や行政官僚としてのキャリアに大きな影響を与えた。
2. 行政官僚としての経歴
平田東助はドイツ留学から帰国後、明治政府の要職を歴任し、日本の近代行政と法制度の基盤構築に尽力した。
2.1. 初期官職
明治9年(1876年)1月に帰国した平田は、内務省御用掛を皮切りに、その後大蔵省へと転じた。長州藩出身の品川弥二郎や青木周蔵の仲介もあり、かつて政府に敵対した米沢藩の出身でありながら、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文といった長州閥の要人から信頼を得るようになった。
彼はドイツ法学の専門家として、大蔵省翻訳課長、少書記官、太政官の記録局長(Documentation Bureau Director)、法制局専務などの職を歴任し、ドイツの法制度を日本に導入する上で重要な役割を果たした。明治15年(1882年)には、憲法調査のため伊藤博文の憲法調査団に随伴して再度ヨーロッパを訪問したが、病のため途中で帰国せざるを得なかった。帰国後も、内閣制度導入に伴う法制度整備に大きく貢献した。
2.2. 枢密院書記官長
明治23年(1890年)の帝国議会発足時、平田は同年9月29日に貴族院勅選議員に勅任された。これと同時に枢密院書記官長も兼務した。枢密院書記官長としては、枢密院の運営を円滑に進める上で重要な役割を担った。また、平田は貴族院において勅選議員を中心に構成される院内会派「茶話会」の結成に尽力し、山縣有朋直系の貴族院官僚派の牙城を築き上げた。
3. 政界での活躍と要職
平田東助は、貴族院議員としてだけではなく、複数の内閣で要職を歴任し、日本の政治に大きな影響を与えた。
3.1. 貴族院議員
明治23年(1890年)に貴族院勅選議員に任命されて以降、平田は貴族院の重鎮として活動した。特に彼が結成を主導した茶話会は、山縣有朋の意向を貴族院に反映させる上で重要な勢力となった。貴族院官僚派のリーダーとして、議会運営においてその影響力を発揮した。
3.2. 農商務大臣
第1次桂内閣において、平田は桂太郎の要請を受けて農商務大臣に就任した(1901年6月2日 - 1903年7月17日)。この任期中、彼は日本の産業振興に力を入れ、1901年には後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地での商業会議所設立を推進した。この制度は、後継の商工会議所法が制定される1927年まで存続し、日本の商工業発展に寄与した。
3.3. 内務大臣
第2次桂内閣では、内務大臣を務めた(1908年7月14日 - 1911年8月30日)。この時期、日露戦争後の自由主義や社会主義思想の勃興、そして社会全体の弛緩した風潮を危惧し、思想統制政策の一環として戊申詔書の公布を推進した。
また、地方政策においては、地方改良運動を強力に推進した。この運動は、地方の社会基盤の改善と住民生活の向上を目指すものであったが、その一方で、後述する神社合祀政策もこの時期に彼の主導で強力に推進された。明治43年(1910年)に発生した大逆事件では、内務大臣として犯人検挙の指揮を執った。翌年、幸徳秋水らの処刑後、事件発生の責任を取る形で桂首相らと共に辞表を提出したが、明治天皇の慰留を受けて職に留まった。同年、子爵となり華族に列せられた。
3.4. 内大臣
大正11年(1922年)、平田は内大臣に就任し、同時に伯爵へと陞爵した。内大臣は天皇を直接輔弼する宮中の最高位の職であり、彼は宮中における山縣閥の重鎮として、その政治的影響力を確立した。彼は清浦内閣の成立にも尽力するなど、宮中と政界の双方において重要な役割を果たした。しかし、病気のため1925年3月30日に内大臣を辞任した。
4. 山縣閥との関係
平田東助は、山縣有朋の最も信頼厚い側近の一人として知られ、山縣閥の中核をなす官僚系の重鎮であった。彼は第2次山縣内閣で法制局長官を務め、産業組合法をはじめとする数々の重要法案の策定に携わった。この内閣では、星亨率いる憲政党との妥協を通じて議会運営の円滑化を図り、地租増徴案を成立させた。しかし、その後一転して文官任用令を改正し、政党勢力の猟官を阻害する政策を推進した。この改正には法制局長官であった平田が積極的に関与していたため、憲政党から激しい非難を浴びることとなった。
山縣が陸軍および内務系官僚に築いた広範な「山縣閥」の中で、陸軍系の側近が桂太郎や児玉源太郎、寺内正毅らであったのに対し、平田は清浦奎吾、田健治郎、大浦兼武らと並ぶ官僚系の山縣側近として強固な人脈を形成した。彼の政治的活動は常に山縣の意向を反映し、山縣閥の政策遂行に不可欠な存在であった。
5. 主要政策と社会活動
平田東助は、その政治家人生を通じて、日本の社会と経済に深く関わる複数の重要な政策や社会活動を推進した。
5.1. 産業組合と農業改革
平田は、日露戦争後から第一次世界大戦にかけてのインフレ経済下で地方の農民を保護するため、地方農業改革、産業組合の推進、そして貧困救済事業に積極的に取り組んだ。彼は大日本産業組合中央会の会頭を1905年から1910年まで務め、その後産業組合中央会会頭を1910年から1922年まで務めるなど、この分野で主導的な役割を果たした。
5.2. 神社合祀政策
内務大臣在任中、平田東助が最も強力に推進した政策の一つが神社合祀政策である。この政策は、もともと明治39年(1906年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬が「一村一社」を標準とする訓令を発したことに始まる。この訓令の目的は、祭神や由来が不明な淫祀や財政基盤の弱い小規模な神社を整理し、由緒ある神社を保護することにあったとされている。
しかし、平田は第2次桂内閣の内務大臣として、この訓令をさらに強硬に推し進めるよう厳命し、保護すべき神社の判断を府県知事に一任した。この結果、特に三重県など一部の地域では、県下全神社の9割が廃止されるという極端な事態を招いた。この急激な合祀政策に対しては、南方熊楠や柳田國男などの知識人が、地方の文化、習俗、祭礼に対する甚大な影響を危惧し、強く異を唱えた。明治43年(1910年)を境に急激な合祀は終息したものの、この政策は日本の地方文化や伝統に深い爪痕を残した。
5.3. 地方改良運動
平田は、第2次桂内閣の内務大臣として地方改良運動を推進した。これは日露戦争後に興隆した自由主義や社会主義思想、あるいは社会の弛緩した風潮に対抗するため、地方の社会基盤施設を改善し、住民の生活向上を図ることを目的とした社会運動である。この運動は、地方自治の確立と社会秩序の維持を目指し、当時の政府の統制的な思想と密接に結びついていた。
6. 晩年と影響力
閣僚としての表舞台を退いた後も、平田東助は日本の政界に大きな影響力を持ち続けた。大正元年(1912年)12月、第2次西園寺内閣の総辞職後、元老会議で後継首相として推薦されたが、これを辞退した。
その後は、貴族院および宮中における山縣閥の重鎮として、元老に次ぐ影響力を保持した。立憲政友会を与党とする第1次山本内閣がシーメンス事件のスキャンダルに見舞われた際には、平田の率いる茶話会は清浦奎吾の研究会と連携し、海軍予算の削減案を成立させた。これにより衆議院との対立が生じ、両院協議会でも決着せず予算が不成立となり、山本内閣を総辞職に追い込んだ。この件は研究会側から平田に対する嫉妬や茶話会の策動が疑われる不和の原因となったが、平田にとっては全く身に覚えのないことであったという。
寺内内閣においても内務大臣就任を要請されたが、固辞した。しかし、同内閣下では臨時外交調査会委員や臨時教育会議総裁を務めるなど、引き続き要職を担った。大正11年(1922年)には内大臣に就任し、同時に伯爵に陞爵した。彼は清浦内閣の成立に尽力するなど、その晩年まで日本の政治、特に宮中において重要な存在であった。
7. 死去
平田東助は大正14年(1925年)3月に病気を理由に内大臣を辞任し、同年4月14日に神奈川県逗子市の別荘において薨去した。享年77歳であった。彼の墓所は東京都文京区音羽の護国寺にある。また、品川弥二郎から経営を引き継いだ傘松農場があった栃木県大田原市蛭田には、遺髪と爪が納められた。
8. 評価と遺産
平田東助は、明治から大正にかけての激動期において、官僚、政治家として日本の近代化に多大な貢献をした。ドイツ留学で得た法学の知識を背景に、大蔵省や法制局で近代的な法制度の整備に尽力し、日本の行政基盤の確立に貢献した。特に、産業組合の推進や地方改良運動を通じて、地方の経済発展と社会秩序の安定に努め、農村部の生活向上を目指した点は評価されるべきである。
一方で、内務大臣として強力に推進した神社合祀政策は、地方の固有の文化や習俗を破壊し、祭礼に甚大な影響を与えたとして、南方熊楠や柳田國男といった当時の知識人から強い批判を受けた。また、戊申詔書の公布や大逆事件における犯人検挙の指揮など、思想統制的な政策に関与した側面も、現代においては批判的に検証されるべき点である。
彼は山縣有朋の側近として山縣閥の形成と維持に重要な役割を果たし、宮中と政界の双方で大きな影響力を持ち続けた。その生涯は、近代日本の国家形成における功績と、その過程で生じた負の側面の両方を映し出すものとして、歴史的評価がなされている。
9. 家族・親族
平田東助の本邸は東京府東京市神田区駿河台袋町12番地にあった。彼の家族および親族は以下の通りである。
- 実父:伊東昇廸(祐直) - 米沢藩藩医
- 養父:平田亮伯 - 米沢藩藩医
- 実兄:伊東祐順
- 長男:平田栄二(松堂) - 伯爵位を継承した。日本画家であり、東京美術学校教授を務めた。
- 次男:平田昇 - 海軍軍人。最終階級は海軍中将。
- 孫:松下正治 - 実業家。松下幸之助の娘婿となり、松下電器産業の第2代社長を務めた。
- 曾孫:松下正幸 - 実業家。パナソニック特別顧問、PHP研究所代表取締役会長、公益財団法人松下幸之助記念財団理事長、関西経済連合会副会長、元関西経済同友会代表幹事を歴任した。
- 曾孫:ヒロ松下(本名:松下弘幸) - 元レーシングドライバーで実業家。スウィフト・エンジニアリングおよびスウィフト・エックスアイの代表取締役会長兼CEOを務める。
- 玄孫:関根大介 - 実業家。オープンドアの創業者。
- 甥:伊東忠太 - 建築家。
10. 栄典
平田東助が生涯にわたり授与された位階、勲章、爵位は以下の通りである。
; 位階
- 1879年(明治12年)12月18日 - 正七位
- 1880年(明治13年)5月25日 - 従六位
- 1882年(明治15年)5月1日 - 正六位
- 1884年(明治17年)10月20日 - 従五位
- 1890年(明治23年)7月11日 - 従四位
- 1896年(明治29年)8月10日 - 正四位
- 1900年(明治33年)11月10日 - 従三位
- 1909年(明治42年)6月11日 - 正三位
- 1919年(大正8年)6月20日 - 従二位
- 1925年(大正14年)4月14日 - 正二位
; 勲章等
- 1882年(明治15年)3月11日 - 勲五等双光旭日章
- 1887年(明治20年)5月27日 - 勲四等旭日小綬章
- 1890年(明治23年)12月26日 - 勲三等瑞宝章
- 1894年(明治27年)3月9日 - 大婚二十五年祝典之章
- 1898年(明治31年)6月28日 - 勲二等瑞宝章
- 1899年(明治32年)12月27日 - 旭日重光章・金杯一組
- 1902年(明治35年)2月27日 - 男爵に叙せられる。
- 1903年(明治36年)12月14日 - 勲一等瑞宝章
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章
- 1911年(明治44年)8月24日 - 子爵に陞爵する。
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章
- 1919年(大正8年)5月24日 - 旭日桐花大綬章
- 1922年(大正11年)9月25日 - 伯爵に陞爵する。
11. 銅像
平田東助の功績を記念し、生前の大正10年(1921年)には東京の九段坂牛ヶ淵に彼の銅像が建てられた。この銅像は彫刻家新海竹太郎によって制作され、台座の設計は平田の甥(兄・祐順の子)で建築家の伊東忠太が手掛けた。
平成8年(1996年)には昭和館建設のため、この銅像は東京都町田市相原町にある中央協同組合学園内に移設された。その後、令和元年(2019年)に故郷である米沢市に移設され、「里帰り」を果たした。