1. 生涯
幸田露伴の生涯は、幼少期の病弱な体質から始まり、文学への情熱を抱き、多岐にわたる文芸活動と学術研究に没頭したものであった。
1.1. 出生と幼少期
露伴は1867年8月22日(慶応3年7月23日)、武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現東京都台東区)に、父・幸田利三(成延(しげのぶ))と母・猷(ゆう)の四男として生まれた。幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆を務める幕臣の家系であった。幼名は鉄四郎。
露伴は生まれつき病弱で、生後27日目にして医者の世話になるなど、幼少期には何度も生死の境をさまよった。翌年、上野戦争が勃発したため、一家は浅草諏訪町に移住した。その後、下谷に戻り、神田に落ち着いた。
1.2. 教育と初期の感化
露伴は下谷泉橋通りの関千代(書家・関雪江の姉)の塾で手習いを学び、御徒士町の會田某の塾で素読を学んだ。1875年(明治8年)、千代の勧めで東京師範学校附属小学校(現筑波大附属小)に入学。この頃から草双紙や読本を愛読し、文学への関心を深めていった。
小学校卒業後の1878年(明治11年)、東京府第一中学(現都立日比谷高校)正則科に入学。ここでは尾崎紅葉、上田萬年、狩野亨吉らと同学年であった。しかし、家計の事情により中学を中退し、数え14歳で東京英学校(現青山学院大学)へ進むが、これも途中退学した。その後、東京府図書館に通うようになり、そこで淡島寒月と知り合った。また、兄・成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎羲塾では、遅塚麗水とともに漢学や漢詩を学んだ。
1.3. 初期キャリアと文学活動の開始
数え16歳の時、露伴は給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入学。卒業後は電信技師として北海道余市に赴任した。現地では芸者たちにも人気があったと伝えられている。この頃、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会い、文学の道へ進む情熱を抱くようになった。その情熱から、1887年(明治20年)に職を放棄して帰京した。この北海道から東京までの道程は、後に『突貫紀行』の題材となった。また、道中に得た句「里遠しいざ露と寝ん草枕」から「露伴」の号を得た。
免官の処分を受けた後、父が始めた紙店「愛々堂」に勤める傍ら、井原西鶴を愛読し、『好色五人女』の写本を書き写した。1889年(明治22年)、露伴は処女作『露団々』を起草し、淡島寒月を介して『都の花』に発表した。この作品は山田美妙の激賞を受け、さらに『風流佛』(1889年)、下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1892年)などを次々と発表し、作家としての地位を確立していった。
1894年(明治27年)には腸チフスに罹り生死をさまよったが、翌年に結婚。その後数年の間に『ひげ男』(1896年)、『新羽衣物語』(1897年)、『椀久物語』(1899年~1900年)を発表した。また、当時としては画期的な都市論である『一国の首都』(1899年)や『水の東京』(1901年)も発表し、多岐にわたる才能を示した。
この頃、同世代の尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる文学の黄金時代を迎えた。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され、明治文学の一時代を築き、近代文学の発展を方向づけたとされる。また、尾崎紅葉・坪内逍遥・森鷗外と並んで「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。
2. 文芸活動と作品
幸田露伴の文芸活動は、小説、史伝、随筆、評論、古典研究と多岐にわたり、その作品世界は擬古典主義と理想主義を特徴とする。
2.1. 主要小説・短編
露伴の代表的な小説や短編作品は以下の通りである。
- 『露団々』(1889年)
- 『風流仏』(1889年)
- 『雪紛々』(1889年 - 1890年)
- 『縁外縁』(1890年、後に『対髑髏』と改題)
- 『いさなとり』(1891年 - 1892年)
- 『五重塔』(1892年)
- 『風流微塵蔵』(1893年 - 1895年、未完)
- 『ひげ男』(1896年)
- 『新羽衣物語』(1897年)
- 『天うつ浪』(1903年 - 1905年、未完)
- 『滑稽御手製未来記』(1911年)
- 『幽情記』(1915年 - 1917年の作品をまとめた短編集)
- 『運命』(1919年)
- 『雪たたき』(1939年)
- 『連環記』(1941年)
これらの作品は、主に文語体で書かれ、理想主義的で擬古典主義的な特徴を持つ。『五重塔』は下谷区の谷中天王寺をモデルにした作品として知られる。『運命』は明の建文帝が永楽帝に追われて潜伏生活を送ったという伝説を題材にしたもので、谷崎潤一郎らに絶賛された一方で、高島俊男からは中国の史書の丸写しに過ぎないと批判された。
2.2. 史伝・随筆・評論
1904年(明治37年)に『天うつ浪』の執筆が途絶えて以降、露伴は主に史伝の執筆や古典の評釈に重点を移した。
史伝の作品としては、『二宮尊徳翁』(1891年)、『頼朝』(1908年)、『蒲生氏郷』、『平将門』などがある。
随筆・評論の分野では、当時としては画期的な都市論である『一国の首都』(1899年 - 1901年)や『水の東京』(1901年)を発表した。その他の主要な随筆・評論には、『潮待ち草』(1906年)、『蝸牛庵夜譚』(1907年、唐の伝奇小説『遊仙窟』を収録し、その万葉集への影響を論じた)、『小品十種』(1908年)、『普通文章論』(1908年、文章指南)、『努力論』(1912年)、『変更も保存も』(1921年、国本社)などがある。

2.3. 文学運動と影響
露伴は尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる明治文学の黄金時代を築き、「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称された。また、尾崎紅葉、坪内逍遥、森鷗外と並んで「紅露逍鴎時代」とも呼ばれる。露伴は擬古典主義の代表的作家であり、その文学は近代文学の発展に大きな影響を与えた。
2.4. 古典研究と学術活動
露伴は漢文学、日本古典、諸宗教に深く通じており、幅広い学術活動を行った。
古典研究では、井原西鶴や『南総里見八犬伝』を評釈したほか、沼波瓊音、太田水穂ら芭蕉研究会の6人との共著で『芭蕉俳句研究』を出版した。1920年(大正9年)には『芭蕉七部集』の注釈を始め、17年をかけて晩年の1947年(昭和22年)に『芭蕉七部集評釈』を完成させた。
学術的な探求も深く、1907年(明治40年)には唐の伝奇小説『遊仙窟』が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表した。1908年(明治41年)には、旧友である京都帝國大学文科大学初代学長の狩野亨吉に請われ、国文学講座の講師を務めた。同時期には内藤湖南も東洋史講座の講師として招聘されている。露伴の講義は、日本文脈論(日本文体の発達史)、『曽我物語』と『和讃』についての文学論、近松世話浄瑠璃など多岐にわたり、指導を受けた青木正児によれば、決して上手な話し手ではなかったものの学生の評判は非常に良かったという。しかし、黒板の文字は草書での走り書きで、露伴の体格ががっちりして頭が大きかったため、文字を覆ってしまいノートを取ることが難しかったとも伝えられる。露伴は学者としても十分な素養を持っていたが、何らかの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、わずか1年足らずで大学を辞した。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りができないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学の雰囲気に肌が合わなかったことや、妻の幾美が病気がちであったことも理由として考えられる。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の1911年(明治44年)に、主要業績である『遊仙窟』によって文学博士の学位を授与されている。
また、露伴は道教研究のパイオニアの一人でもあり、世界的に道教がまだほとんど研究されていない時期に、いくつかの先駆的な論文を発表している。これらの研究について、南條竹則は「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、アンリ・マスペロの『道教』と並んで、未だに道教研究の古典として名高い。
3. 個人的関心事と活動
幸田露伴は文芸活動の傍ら、多様な個人的関心事や特異な活動に没頭した。
露伴は囲碁や将棋の愛好家であった。将棋においては、十二世名人小野五平、十三世名人関根金次郎、十四世名人木村義雄に師事し、将棋史の研究にも励んだ。雑誌『太陽』には「将棋雑考」「将棋雑話」といった論文を寄稿している。アマチュア段位として、1916年に小野名人から初段、1917年に井上義雄八段から二段、1922年に関根名人から四段の免状を授かった。また、1957年の露伴の十回忌には、日本将棋連盟から六段が追贈された。
将棋以外にも、釣り、料理、写真など、様々な趣味を持っていた。特に釣りに関しては、あちこちの川への釣行、鉤の形状に関する蘊蓄、餌となるミミズの飼い方などを、日記、随筆、詩歌に詳細に書き残している。
さらに、露伴は未来学者としての一面も持ち合わせていた。1911年に発表された『滑稽御手製未来記』では、無線送電、動く歩道、モノレール、電気自動車といった、当時としては想像もつかないような未来の技術や交通手段が記されており、その先見性が注目される。
4. 受賞と評価
幸田露伴は、その文学的・学術的功績が高く評価され、数々の栄誉に輝いた。
1937年(昭和12年)4月28日には、第1回文化勲章を授与された。受賞時のコメントとして「この数年というものはほとんど筆をとりません」と語った。同年、帝国芸術院会員にも就任した。
露伴は、尾崎紅葉とともに明治文学の「紅露時代」を築いた代表的な作家であり、その擬古典主義的で理想主義的な作風は、近代日本文学の発展に大きな影響を与えた。後世においては、夏目漱石、森鷗外と並ぶ近代日本文学の三巨匠の一人として高く評価されている。また、将棋の分野では、1957年に日本将棋連盟から六段が追贈されるなど、文学以外の分野での功績も認められた。
5. 私生活
幸田露伴の私生活は、家族との深い絆と、幾度かの別れを経験したものであった。
5.1. 結婚と家族
露伴は幸田成延、猷夫妻の四男である。父の成延は奥坊主(江戸城中奥の雑用係)を務めた今西家の出で、表坊主(江戸城表の雑用係)だった幸田利貞の一人娘・猷の入婿となり、維新後成延に改名し、大蔵省の下級属官となったが1885年の官制改革で非職となった。
兄弟には、長兄の成常(1858-1925、実業家、相模紡績社長など)、次兄の成忠(しげただ、海軍軍人、探検家で郡司家へ養子)、弟の歴史家成友(しげとも)、そして東京音楽学校在学中に早世した末弟の修造がいた。妹にはピアニスト・ヴァイオリニストの延(のぶ)と、ヴァイオリニストの幸(こう)がいた。幸の子には作家の高木卓がおり、露伴についての著作のほか、幸田家の遺産相続争いをモデルとした小説『血と血』を上梓している。
幸田家は法華宗を宗旨としていたが、父の成延は罷免された後、学友である岩城寛と植村正久の勧めによりキリスト教へ改宗し、他の家族も入信させた。しかし、余市での赴任から帰京した露伴は植村から改宗を勧められたものの、これを拒絶したため、父母兄弟の中で露伴だけがキリスト教徒ではなかった。
数え年29歳の時、山室幾美(きみ)と結婚した。幾美は露伴のよき理解者であり、二人の間には長女の歌、次女の文、長男の成豊(しげとよ)が生まれた。しかし、幾美は1910年(明治43年)にインフルエンザで亡くなり、その2年後の1912年(大正元年)には長女の歌も若くして亡くなった。
1912年(大正元年)、露伴はキリスト教徒の児玉八代(やよ)と再婚した。娘の文は八代の計らいでミッション系の女子学院へ通った。1926年(大正15年)には、長男の成豊が肺結核で亡くなった(後に幸田文が小説『おとうと』として発表)。八代は1933年(昭和8年)から露伴と別居し、1945年(昭和20年)に亡くなった。
幸田文は、露伴の死の直前に随筆を寄稿し、露伴没後には父に関する随筆で注目を集め、その後小説も書き始め作家となった。文の一人娘である青木玉も随筆家であり、その子である青木奈緒はドイツ文学畑のエッセイストとして活動している。
5.2. 晩年と死
1945年、露伴は文、玉とともに、再婚相手であった八代の別居先であった長野県に疎開した。その後、静岡県伊東に移り、文と玉は一時土橋利彦宅に滞在した後、1945年10月に千葉県市川市菅野に家を借りて移り住んだ。1946年1月28日、露伴も菅野の家に移り住んだ。
市川での晩年、露伴は高齢で白内障を患い、寝たきりの生活を送っていた。そのような状況下で、土橋利彦の口述筆記により、ライフワークであった『芭蕉七部集評釈』を完成させた。
1947年(昭和22年)7月30日、肺炎に狭心症を併発し、戦後移り住んだ千葉県市川市大字菅野(現:菅野四丁目)において、満80歳で逝去した。
娘の文は、露伴の様子を『雑記』として執筆しており、この作品は露伴の80歳記念に発行される予定であったが、露伴の死去により、彼が『雑記』を目にすることはなかった。
葬儀は、三間しかない小さな自宅でささやかに行われたが、当時の首相であった片山哲と安倍能成が出席し、衆議院と参議院からは弔詞が捧げられた。墓所は池上本門寺にある。戒名は露伴居士。
露伴が長く住んでいた墨田区寺島町にあった民家「向島蝸牛庵」は、老朽化が進み取り壊された後、その跡地に公園が建設されることになった。この公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し、5月上旬に開園式が行われ「露伴公園」と名付けられた。この公園は、2020年現在も「墨田区立露伴児童遊園」として現存している。

また、1897年(明治30年)から約10年間住んでいた「向島蝸牛庵」(東京府南葛飾郡寺島村)は、後に博物館明治村に移設保存され、登録有形文化財(建造物)となっている。
6. 遺産と影響力
幸田露伴の文学的・学術的業績は、後世に多大な影響を与え、近代日本文学史において確固たる地位を築いている。
6.1. 文学史上の評価
露伴は、尾崎紅葉とともに「紅露時代」という明治文学の黄金期を築き、近代日本文学の発展を方向づけた重要な作家として評価されている。彼の作品は擬古典主義と理想主義を特徴とし、文語体を駆使した格調高い文章は、多くの読者や後続の作家に影響を与えた。
特に『五重塔』や『運命』といった代表作は、その文学的価値が認められ、現在でも高く評価されている。また、夏目漱石、森鷗外と並び称される存在として、近代日本文学の礎を築いた一人とされている。
文学作品だけでなく、都市論である『一国の首都』や『水の東京』といった先駆的な評論、そして道教研究におけるパイオニアとしての業績も、彼の多才さと学識の深さを示すものとして、その遺産の一部を形成している。
6.2. 後世への影響
露伴の作品や思想は、後代の作家、学問分野、文化全般に具体的な影響を与えた。娘の幸田文は、露伴の死後、父に関する随筆で注目を集め、その後小説家として大成し、露伴の文学的遺伝子を受け継いだ。文の作品には、父露伴との関係や幸田家の日常が描かれることも多く、露伴の人物像を後世に伝える役割も果たした。
学術分野では、彼の『芭蕉七部集評釈』は芭蕉研究の古典として、また道教研究における先駆的な論文は、この分野の基礎を築いたものとして、現在でも専門家から高く評価されている。
また、彼の多岐にわたる趣味や未来学者としての一面も、後世の人々に興味を与え続けている。特に『滑稽御手製未来記』で予見された技術は、現代社会において実現されているものも多く、彼の先見性が再評価されている。
7. ポップカルチャーにおける幸田露伴
幸田露伴は、その生涯や作品、家族関係が、映画、テレビドラマ、演劇、アニメなど様々なメディアで描かれ、ポップカルチャーにおいてもその存在感を示している。
- 映画**
- 『おとうと』(1960年、演:森雅之)
- 『おとうと』(1976年、演:木村功)
- 『帝都物語』(1988年、演:高橋幸治)
- 『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(1993年、演:柴田恭兵)
- テレビドラマ**
- 『おとうと』(1958年、演:加藤嘉)
- 『おとうと』(1981年、演:鈴木瑞穂)
- 『おとうと』(1990年、演:中条静夫)
- 『小石川の家』(1996年、演:森繁久弥)
- 『山田風太郎からくり事件帖』(2001年、演:蓑輪裕太)
- 『幸田家の人びと』(2002年、演:中村梅雀)
- 演劇**
- 『有福詩人』(1964年、演:平幹二朗)
- 『有福詩人』(1989年、演:中野誠也)
- 『オペラ 滝廉太郎』(1998年、演:藤田喜久)
- アニメ**
- 『帝都物語』(1991年、声:屋良有作)
8. 関連項目
- 日本文学
- 日本の小説家一覧
- 尾崎紅葉
- 夏目漱石
- 森鷗外
- 坪内逍遥
- 幸田文
- 高木卓
- 井原西鶴
- 松尾芭蕉
- 道教
- 博物館明治村
- 文化勲章
- 帝国学士院
- 帝国芸術院
9. 外部リンク
- [https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1221000008.html 市川市|幸田 露伴・文]
- [https://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1057.html 市川市|市川市立図書館 ⇒市川ゆかりの著作家 幸田露伴]
- [https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person51.html 幸田 露伴:作家別作品リスト - 青空文庫]
- [https://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/person/kindai/28.html ビールを愛した近代日本の人々・幸田露伴|歴史人物伝|キリン歴史ミュージアム|キリン]
- [https://1000ya.isis.ne.jp/0983.html 幸田露伴『連環記』1991 岩波文庫] 松岡正剛の千夜千冊 第0983夜