1. 生い立ち
広岡浅子は山城国京都(現・京都府京都市)の油小路通出水にある小石川三井家の第6代当主、三井高益の四女として1849年(嘉永2年)に生まれた。幼名は照(てる)。彼女は2歳の頃にはすでに将来の結婚相手が決まっていた。幼い頃から、裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古といった当時の女性に求められる習い事よりも、四書五経の素読などの学問に強い関心を示した。しかし、当時の商家では「女に教育は不要」という慣習が根強く、家族から読書を禁じられることもあった。
9歳の時に父・高益が没し、35歳になった義兄の三井高喜が家長となった。結婚後も、浅子は夫が番頭(手代)に業務を任せ、自身は経営に深く関与しない商家の古い慣習に疑問と限界を感じた。そのため、独学で簿記や算術などを学び始めた。夫の広岡信五郎は彼女の能力に懐疑的で、彼女の野心にも無関心であったが、浅子は夫の消極的な同意を得て、自ら学問に励んだという。
2. 結婚と家族
浅子は1866年、17歳(数え年)の時に、鴻池善右衛門と並び称される大阪の豪商であった加島屋の第8代当主、広岡久右衛門正饒の次男である広岡信五郎と結婚した。
結婚後、1868年の20歳(数え年)の時に明治維新の動乱を迎え、加島屋は家運が傾く危機に直面した。浅子は家業を救うため、実業界への身を投じることを決意する。彼女は、夭逝した正饒の長男に代わって加島屋の第9代当主となった義弟の広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)と、夫の広岡信五郎と共に、加島屋の立て直しに奔走した。浅子と信五郎の間には、長女の亀子(かめこ)が生まれた。
3. 事業活動
広岡浅子は、明治維新後の混乱期に傾いた家業の加島屋を再建するため、多岐にわたる事業活動を展開した。彼女は石炭事業や金融業といった当時の新興分野に果敢に進出し、その手腕から「一代の女傑」と称される女性実業家としての地位を確立した。
3.1. 加島屋再建と炭鉱事業
1884年(明治17年)頃から、広岡浅子は吉田千足と共に「広炭商店こうたんしょうてん日本語」を設立し、石炭事業に本格的に参画した。この事業モデルは、帆足義方が所有する筑豊の炭鉱から産出された石炭を国内で販売し、海外へ輸出するというものであった。しかし、石炭輸出にかかるコストの高さが課題となったため、広炭商店は帆足義方の炭鉱自体を傘下に入れ、「東京石炭会社とうきょうせきたんがいしゃ日本語」との合併を経て、石炭の産出から販売までを一貫して行う商社「日本石炭会社にほんせきたんがいしゃ日本語」へと発展させた。
だが、この頃、日本国内はデフレ不況に陥り、石炭の需要が供給を下回って価格が暴落したため、日本石炭会社は窮地に追い込まれた。この厳しい状況の中で、浅子の手元に残されたのは福岡県飯塚市にあった潤野炭鉱(後に官営八幡製鉄所の二瀬炭鉱となる)だけであった。浅子は今度こそ事業を成功させるため、自ら単身で潤野炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に抱えながら坑夫たちと生活を共にしたと伝えられている。男でさえためらうような冒険的な事業に果敢に挑んだため、浅子はしばしば狂人扱いされたという。
こうした広岡浅子の伝説的な活躍にもかかわらず、潤野炭鉱は1899年(明治32年)に官営八幡製鉄所に燃料を供給するため、国によって買収されることとなった。浅子がこの売却でどれほどの利益を得たかは明らかではないが、この時期にはすでに次の事業に目を向けていたとされる。
3.2. 金融業への進出
石炭事業に続いて、広岡浅子は金融業へと事業を拡大した。1888年(明治21年)には加島銀行を設立し、近代的な銀行経営に乗り出した。さらに1902年(明治35年)には大同生命の創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として大阪の有力な財閥へと成長を遂げた。
3.3. 明治時代の女性実業家として
広岡浅子のこれらの多岐にわたる活躍により、彼女は鈴木よねや峰島喜代子(尾張屋銀行、峰島合資会社の経営者)らと並び、明治時代を代表する女性実業家としてその名を馳せた。1912年(大正元年)10月22日の東京朝日新聞に掲載された「女子の発展」という記事には、「東に尾張屋銀行の峰島喜代子あり、西に広岡浅子、鈴木米子の事業界に雄飛して、男子の実業家と雁行し、若くは之を凌駕せるあり」と記され、浅子が男性実業家と肩を並べ、あるいはそれを凌駕する存在として認識されていたことがうかがえる。彼女は、失われた家業の財産を再建する手腕から「女銀行家」「不屈の広岡夫人」とも称された。
4. 女性教育と社会貢献
広岡浅子は、事業活動で培った経験と財力を基に、女性の社会的地位向上と教育機会の拡充に尽力した。特に日本女子大学校の設立に主導的な役割を果たしたほか、キリスト教信仰に基づく社会活動や女性運動にも積極的に参加し、多方面から社会貢献を行った。
4.1. 日本女子大学校設立への貢献
1896年(明治29年)、浅子は土倉庄三郎の紹介を通じて、女子高等教育機関の設立に協力者を探していた梅花女学校の校長、成瀬仁蔵の訪問を受けた。浅子自身、幼い頃に読書を禁じられた経験から、「女子にも男子と同じ教育を受けさせるべき」と考えていたが、彼女が求めていたのは単なる女学校の設立ではなく、自身の思想と合致する女子教育論と具体的な設立計画であった。初対面では互いの性格からすぐに打ち解けることはできなかったが、成瀬が浅子に手渡した著書『女子教育』を読んだ浅子は深く共感した。この本はまさに浅子が求めていた女子教育のビジョンと合致していたのである。
この出会いを機に、浅子は金銭的な寄付に留まらず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な支援者となった。彼女は自身の広岡家や実家の三井家一門にも働きかけ、最終的に三井家から目白台の土地の寄付を引き出すことに成功し、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・日本女子大学)設立へと導いた。浅子は日本女子大学校の発起人の一人であり、創立当初の評議員を務めた。また、夫の広岡信五郎も女子大学校の創立委員の一人であった。浅子は、学生に対して「理論的すぎる」と叱責し、より実践的な教育を追求するよう促したと伝えられている。
4.2. その他の社会活動
1904年(明治37年)、夫の広岡信五郎が死去したのを機に、浅子は事業を娘婿の広岡恵三(後の大同生命第2代社長)に譲った。これ以降、彼女は女子教育や婦人事業への貢献を自身の使命とし、社会貢献活動と自身の学問に専念した。長井長義らに学ぶ傍ら、愛国婦人会大阪支部の授産事業の中心人物としても活動した。
浅子は婦人運動や廃娼運動にも積極的に参加し、当時相次いで創刊されていた女性雑誌に多数の論説を寄稿した。彼女は日本YWCA中央委員を務め、大阪YWCAの創立準備委員長も務めるなど、指導的な役割を担った。また、1912年には川合道子やEmma Kaufmanエマ・カウフマン英語らと共にYWCAの夏季会議を主導した。
日本女子大学設立後も、浅子の女子教育に対する情熱は衰えることはなかった。1914年(大正3年)から彼女が亡くなる前年の1918年までの毎夏、避暑地として別荘を建設した静岡県御殿場市二の岡で、若い女性たちを集めた合宿勉強会を主宰した。この勉強会には、後の著名な女性活動家である若き日の市川房枝や翻訳家として知られる村岡花子らが参加していた。この頃、浅子は東京の芝材木町(現在の六本木ヒルズやハリウッドビューティプラザのあたり)に、親戚の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で4階建ての家を建てている。
5. 信仰と思想
広岡浅子の晩年の活動は、キリスト教信仰に深く根ざしていた。彼女は自らの信仰を社会貢献活動や著作活動を通じて実践し、独自の人生観と道徳観を人々に伝えた。
5.1. キリスト教への改宗と活動
1909年(明治42年)1月、浅子は大学病院で胸部の悪性腫瘍手術を受け、無事回復した。同年年末に大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合い、同席していた成瀬仁蔵から宗教哲学を勧められたことをきっかけに、1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗し、キリスト教徒となった。
浅子は、宮川経輝の著書『心霊の覚醒』の出版に関与するとともに、自身の宗教的信条を記した『一週一信』を出版し、日本のキリスト教化に尽力した。彼女は、当時の日本の女性が持つとされた「猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴」といった特質は「第二の天性」であり、西洋の女性たちが宗教を通じて「霊的修養」を積んでいることに注目すべきだと説いた。彼女は教会が主催する様々なイベントで講演を行い、また富士山近くにあった自身の別荘をキリスト教の牧師たちのための静養所として提供していた。
5.2. 著作と人生観
広岡浅子の主要な著作は『一週一信』である。この本は1918年(大正7年)に婦人週報社から出版されたもので、彼女が週刊新聞『基督教世界』に「九転十起生きゅうてんじっきせい日本語」のペンネームで寄稿した論説に、彼女の70歳までの自伝を加えて書籍化された。
ペンネームである「九転十起生」は、「九たび転んでも十たび起き上がる」という意味を持ち、浅子の不屈の精神と、いかなる困難にも屈しない強い意志を象徴している。この著作を通じて、彼女は自身の深い宗教的信念と、人生における試練を乗り越えるための哲学を表現した。また、事業家として培った経験と、キリスト教信仰から得た道徳観が融合した彼女独自の人生観が示されており、当時の女性たちに精神的な自立と社会への積極的な関わりを促すメッセージを発信した。
6. 私生活
広岡浅子は多忙な事業活動や社会貢献の傍ら、個人的な趣味も持ち合わせていた。特に囲碁はその代表的なものであり、晩年まで深く親しんだ。
6.1. 囲碁
浅子は熱心な囲碁愛好家であり、自らもアマチュアとして上級者の腕前を持っていた。また、彼女は囲碁棋士の石井千治を後援するなど、囲碁界にも貢献した。
7. 死去
広岡浅子は1919年(大正8年)1月14日、東京の麻布材木町(現・六本木6丁目)にあった別邸にて死去した。享年71(満69歳没)。死因は腎臓炎とされているが、この時期は世界的にインフルエンザの世界的流行の最中であった。
彼女は「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と語り、正式な遺言書を残さなかったと言われる。生前から浅子は「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」という考えを持っており、各地に積極的に別邸や別荘を建築していた。浅子の葬儀は東京と大阪で2度執り行われた。彼女の功績を称えるため、日本女子大学校では同年6月28日に全校を挙げて追悼会が開催された。
8. 評価と遺産
広岡浅子の生涯と業績は、同時代から現代に至るまで高く評価されており、日本の実業界における女性の地位向上、女性教育の発展に多大な影響を与えた。彼女の物語は、多くの人々に影響を与え続ける文化的遺産となっている。
8.1. 同時代・後世からの評価
広岡浅子の追悼式では、日本女子大学校の創立委員長も務めた大隈重信が弔辞を述べ、彼女の功績を高く評価した。大隈は次のように語っている。「浅子夫人は常に『たとえ女子であっても努力さえすれば男子に劣らぬ仕事ができるものである、また力があるものである。そして人間は、その境遇を切り開いて自分の思う理想に達することのできるものである』という固い信仰を持っておられました。(中略)このように浅子夫人は、男子も及ばぬような偉大な力をもって全ての事にあたられましたので、ある一部分の人からは多少誤解も受けましたが、しかし浅子夫人の活動は実に目覚ましいもので、ただにその広岡家のためのみならず、社会的の活動は本当の手本としなければなりません。」
同時代において、浅子は「女銀行家」「不屈の広岡夫人」と称されるなど、そのビジネス手腕と社会活動は高く評価された。後世の歴史家や研究者も、彼女が明治期の日本において、女性が事業を主導し、教育や社会変革に貢献した稀有な存在であったことを認め、その不屈の精神と先見性を高く評価している。
8.2. 文化的な影響
広岡浅子の生涯は、多くの人々に影響を与え、様々な文化的作品の題材となってきた。
- 小説:**
- 古川智映子の『小説 土佐堀川 女性実業家・広岡浅子の生涯』(1988年、潮出版社、2015年新装改訂版)は、後に連続テレビ小説『あさが来た』の原作となった。
- 村岡恵理の『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(2008年、マガジンハウス)や、玉岡かおるの『負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々』(2011年、新潮社)も、彼女の生涯や関わりを扱っている。
- テレビドラマ:**
- 2015年度後期にNHK大阪放送局が制作・放送した連続テレビ小説第93作『あさが来た』は、広岡浅子をモデルとした「白岡あさ」が主人公であり、女優の波瑠が演じた。このドラマは広く人気を集め、浅子の存在を多くの人々に知らしめた。
- 舞台:**
- 古川智映子原作の舞台『土佐堀川 近代ニッポン-女性を花咲かせた女 広岡浅子の生涯』は、2017年から各地で上演され、広岡浅子役を高畑淳子が演じた。
- 1990年2月には東京宝塚劇場で舞台『土佐堀川』が上演され、八千草薫が広岡浅子役を、伊東四朗が夫の信五郎役を演じた。
- その他:**
- 『先駆者たちの肖像』(1994年、ドメス出版)にもその生涯が描かれている。
- 大阪日日新聞の「なにわ人物伝」では「女傑・広岡浅子」として紹介された。
- 大同生命は、2015年10月から「広岡浅子"きっかけ"篇」、同年12月からは「広岡浅子"あきらめない"篇」と題したアニメーションCMを放送し、彼女の企業家精神を伝えている。
8.3. 後世への影響
広岡浅子の生涯を通じた女性教育への情熱と、困難に立ち向かう事業家精神は、後世の日本の女性たちに大きな影響を与えた。彼女が主導した日本女子大学校の設立は、女性が高等教育を受け、社会で活躍するための道を切り開いた画期的な出来事であり、その後の日本の女子教育の発展に不可欠な基盤を築いた。
また、彼女の「九転十起生」という言葉に象徴される不屈の精神は、多くの人々にとって困難を乗り越えるための教訓となり、特に女性が新たな分野に進出し、社会において自立した役割を果たす上での大きな励みとなった。浅子の実践的な教育観やキリスト教信仰に基づく社会貢献の姿勢も、今日の社会活動や教育理念に影響を与え続けている。
9. 関係人物・団体
広岡浅子の活動に深く関わった主要な人物や団体を以下に示す。
9.1. 家族
- 三井高益(三井高益みつい たかます日本語):浅子の実父。小石川三井家第6代当主。
- 三井高喜(三井高喜みつい たかよし日本語):浅子の義兄。小石川三井家第7代当主。浅子の幼少期に家長となり、浅子を義妹として入籍した。
- 春(春はる日本語):浅子の異母姉。浅子より2歳年長で、両替商の天王寺屋五兵衛に嫁いだ。
- 三井高景(三井高景みつい たかかげ日本語):浅子の義甥(高喜の長男)。小石川三井家第8代当主。浅子が関わった日本女子大学校設立を支援した。
- 広岡信五郎(広岡信五郎ひろおか しんごろう日本語):浅子の夫。加島屋第8代広岡久右衛門正饒の次男。尼崎紡績(後のユニチカ)初代社長を務め、福王流の謡曲を趣味とした。
- 広岡亀子(広岡亀子ひろおか かめこ日本語):浅子の長女。唯一の実子である。
- 広岡恵三(広岡恵三ひろおか けいぞう日本語):浅子の女婿。子爵一柳末徳の次男。東京帝大卒業後、三井銀行を経て加島屋経営に参画し、加島銀行頭取、大同生命第2代社長を務めた。彼の妹である一柳満喜子も若い頃広岡家で暮らしたことがある。
- 広岡久右衛門正秋(広岡久右衛門正秋ひろおか きゅうえもん まさあき日本語):浅子の義弟(信五郎の弟)。加島屋第9代当主であり、加島銀行初代頭取、大同生命初代社長を歴任した。
- 貴登(貴登きと日本語)、寿天子(寿天子すてこ日本語):広岡信五郎と浅子夫妻の養女として、それぞれ三井北家(惣領家)の三井高棟、義甥の三井高景の妻となった。
9.2. 協力者・支援者
- 成瀬仁蔵(成瀬仁蔵なるせ じんぞう日本語):日本女子大学校設立における主要な協力者。梅花女学校校長を務め、『女子教育』の著者として浅子の女子教育への情熱を方向付けた。
- 大隈重信(大隈重信おおくま しげのぶ日本語):日本女子大学校の創立委員長を務め、浅子の追悼式で弔辞を述べた。
- 土倉庄三郎(土倉庄三郎どくら しょうざぶろう日本語):成瀬仁蔵を浅子に紹介し、女子大学設立に尽力した。
- 井上秀(井上秀いのうえ ひで日本語):日本女子大学校初の女性校長(第4代)。浅子の娘・亀子の学友であった縁で広岡家に出入りし、浅子に米国留学を勧められた。
- 宮川経輝(宮川経輝みやがわ つねてる日本語):浅子に洗礼を授け、キリスト教への改宗を導いた牧師。
- 中川小十郎(中川小十郎なかがわ こじゅうろう日本語):立命館大学の創立者。文部省退官後、浅子の意を受けた成瀬の斡旋で加島屋に入社し、加島銀行や大同生命の創業に尽力した。また、京都帝国大学書記官、日本女子大学の創立事務幹事長も務めた。
- 奥村五百子(奥村五百子おくむら いおこ日本語):愛国婦人会の創設者。浅子と「無二の親友」と称されるほど親交が深く、彼女の講演が唐津女学校(現・佐賀県立唐津西高等学校)設立に繋がったとされる。
- 本間俊平(本間俊平ほんま しゅんぺい日本語):浅子からの50.00 万 JPYの寄付が、現在の成城学園の基礎を築くもととなった。
- 石井千治(石井千治いしい せんじ日本語):広岡浅子が後援した囲碁棋士。
9.3. その他
- 市川房枝(市川房枝いちかわ ふさえ日本語)、村岡花子(村岡花子むらおか はなこ日本語):浅子主宰の夏期勉強会に参加した著名な女性たち。
- 平塚らいてう(平塚らいてうひらつか らいてう日本語):日本女子大学の学生時代、浅子から実践的な教育を促されたことで知られる。
- 川合道子(川合道子かわい みちこ日本語):1912年のYWCA夏季会議で浅子と共にリーダーを務めた。
- 鈴木よね(鈴木よねすずき よね日本語)、峰島喜代子(峰島喜代子みねしま きよこ日本語):浅子と同時代に活躍し、日本の実業界で名を馳せた女性実業家。