1. 生涯と背景
張燮林の初期の人生と卓球との出会いは、彼の選手としてのキャリアを形作る上で重要な背景となった。
1.1. 上海時代と幼少期
張燮林は1940年に上海市で生まれた。彼の生家は江蘇省鎮江市に起源を持つ。少年時代にペンホルダーの表ソフトを使い、速攻型として卓球を始めた。しかし、ある時卓球場でカットマンのフォームの美しさに心を打たれ、ペンホルダーのままカット主戦型に転向することを決意した。1958年には上海汽輪機廠(発電所設備を製造する大企業)の技術学校に入学し、同年には上海代表アマチュアチームの一員として全中国卓球選手権大会に出場した。
この頃、選手として頭角を現していた張燮林ではあったが、彼の家族は卓球に打ち込むことに反対していた。連日試合のために技術学校から長距離移動を強いられ、交通費がかさんでいたこと、また、卓球選手にならずに上海汽輪機廠でキャリアを積めば安定した生活が保証されていたことなどがその理由であった。
1.2. 卓球への道
1959年に開催された第1回全中国運動会への出場が決まり、その後正式に上海チーム入りを打診されたのをきっかけに、張燮林は上海汽輪機廠を去ることを決意した。これ以後、張燮林は卓球選手の道を本格的に歩むことになった。
2. 選手としてのキャリア
張燮林の選手としてのキャリアは、その革新的なプレースタイルと数々の国際大会での輝かしい成績によって特徴づけられる。
2.1. 卓球との出会いとプレースタイルの確立
張燮林は、本人の回想によれば1959年か1960年頃から粒高ラバーを使用するようになった。これは紅双喜の工場から貰い受けてきた廃棄予定の不良品ラバーで、もともとは裏ソフトラバーのトップシートとして作られたものだったという。これを裏返してラケットに貼ってみたところ、たまたま使いやすいものがあったため、そのまま使い続けることになった。ただし、張燮林が使用していたものは現在の粒高ラバーよりは粒が低く、表ラバーより少し粒が高い程度のものだった。彼はこの独特なペンホルダーカット技術と、安定したカットと予測不能なスピンを駆使し、最も初期に成功した粒高ラバーの選手の一人となった。
2.2. 主要大会での活躍とメダル獲得
1960年頃には上海チームのエースとなっていた張燮林は、1961年の世界卓球選手権北京大会で中国代表に選ばれ、男子シングルスで日本の星野展弥、三木圭一らを破り3位に入賞した。
1963年の世界卓球選手権プラハ大会では、男子シングルスで再び3位に入賞。王志良と組んだ男子ダブルスでは優勝を果たし、これは中国人選手として初の男子ダブルス世界チャンピオンとなった。また、この年から男子団体のメンバーに選ばれた張燮林は、ドライブ主体の日本選手に対し、粒高ラバーの特性を活かして無類の強さを発揮し、中国の男子団体優勝に大きく貢献した。当時まだ粒高ラバーの存在は中国以外では知られておらず、日本選手は粒高特有の変化に対応できずに敗れていった。
1965年の世界卓球選手権リュブリャナ大会では、王志良と組んだ男子ダブルスで2位、林慧卿と組んだ混合ダブルスでも2位に輝いた。男子シングルスでは準々決勝で西ドイツのエーベルハルト・シェーラーと対戦し、第1ゲームから促進ルールにもつれ込む大激闘の末敗れたが、この試合は荻村伊智朗に「近来まれな大勝負」と評された。男子団体では前回に続いて決勝で日本を破り優勝するが、この決勝戦では徹底した張燮林対策を練って試合に臨んだ高橋浩に敗れている。高橋浩は日本人選手で張燮林に勝利した唯一の選手となった。

2.3. 文化大革命の影響と国際大会復帰
1965年の世界選手権の後、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、中国代表チームは1967年と1969年の世界卓球選手権に欠場した。これにより、張燮林の選手としての国際舞台での活躍は一時的に中断を余儀なくされた。
ようやく国際大会に復帰した1971年の世界卓球選手権名古屋大会には、林慧卿と組んだ混合ダブルスでのみ出場し、見事優勝を果たした。
2.4. 現役引退
1973年の世界卓球選手権サラエヴォ大会では無冠に終わり、この年をもって張燮林は現役を引退した。
3. 指導者としてのキャリア
選手引退後、張燮林は指導者として卓球界に貢献し、特に中国女子卓球チームを率いて前例のない成功を収めた。
3.1. 中国女子卓球チームの指導
1972年以降、張燮林は中国代表女子チームのコーチとなり、後に監督に就任した。彼の指導の下、中国女子チームは1975年から1991年にかけて、世界卓球選手権女子団体戦で前人未到の8連覇を達成した。1995年の天津大会を最後に監督を退くまでの間に、彼は中国女子チームを世界選手権で合計10度の団体優勝に導き、中国卓球の女子部門における圧倒的な支配力を確立した。
3.2. その他の役職
張燮林は、コーチや監督としての役割に加えて、行政家としても卓球界に貢献した。彼は中国卓球協会副会長や国家体育総局卓球・バドミントン管理センター副主任などの要職を歴任し、中国卓球界の運営と発展に尽力した。
4. プレースタイル
張燮林のプレースタイルは、その独特な技術と戦術的特徴によって、同時代の選手たちに大きな影響を与えた。彼は右利きのペンホルダーのカット主戦型であった。チームメイトの王志良がヨーロッパスタイルのシェークハンドのカットマンだったのに対し、張燮林は姜永寧らの流れをくむペンホルダーのカットマンであった。彼が卓球を始めた当時、上海にはまだシェークハンドのカットマンはいなかったという。
荻村伊智朗は張燮林のプレースタイルを次のように評している。「張の戦術的特徴は、広いカット守備を基調にし、適当だと判断したときにはいつでも攻撃できるフォアハンドとバックハンドの強打を持ち、これにカットの変化モーションやナックル性のショートを加えて、相手のペースを乱す複雑な構成のオールラウンドプレーである。」

荻村がこのように記した1967年当時、日本では張燮林が粒高ラバーを使用していることは知られておらず、また、粒高ラバーの特性も知られていなかった。この当時、ヨーロッパのカットマンは一枚ラバーを使用することが多く、日本選手はこれに対して裏ソフトラバーによる強烈なループドライブでカットを浮かせてから強打を叩き込む戦術を確立していた。
一方、粒高ラバーを使用する張燮林は、このループドライブに対して非常に切れたカットで低く返球することができた。また、相手から打球点が見えない床上すれすれでカットするなどの攪乱戦術も相まって、張燮林のカットは日本選手から「魔球」と恐れられた。彼は、粒高ラバーを駆使した変化に富んだカットと、そこから攻撃へと転換する能力で、卓球の戦術に新たな次元をもたらした。
5. 受賞歴と評価
張燮林は、その輝かしい業績に対して数々の栄誉を受けている。2001年には国際卓球連盟(ITTF)によって世界卓球殿堂入りを果たし、その偉大な功績が国際的に認められた。さらに2008年には国際卓球連盟功労賞(ITTF Merit Award)を受賞している。
また、2008年の北京オリンピック開会式では、オリンピック旗を掲揚するという国家的な栄誉を担った。これは、彼の卓球界への長年の貢献と、中国におけるスポーツの象徴としての地位を明確に示すものであった。彼の最高世界ランキングは3位であった。
6. 遺産と影響力
張燮林の卓球界への影響は、選手としての革新性と指導者としての卓越した手腕の両面において、計り知れない。彼の粒高ラバーを駆使した独特のプレースタイルは、それまでの卓球の常識を覆し、戦術の幅を大きく広げた。この革新は、後代の選手たちが多様な用具や技術を探求するきっかけとなり、卓球の進化に寄与した。
指導者としては、中国女子卓球チームを世界選手権8連覇という前人未到の偉業に導き、中国が世界の卓球界で圧倒的な地位を確立する上で中心的な役割を果たした。彼の指導哲学と戦略は、多くの中国人選手を世界トップレベルへと押し上げ、中国卓球の黄金時代を築き上げた。
張燮林は、単なる偉大な選手やコーチに留まらず、卓球というスポーツの戦術的・技術的発展に永続的な影響を与えた人物として、その遺産は今もなお卓球界に深く刻まれている。
7. 関連項目
- 卓球選手一覧
- 世界卓球選手権メダリスト一覧