1. 概要
後一条天皇(後一条天皇ごいちじょうてんのう日本語、1008年 - 1036年)は、日本の第68代天皇である。諱は敦成(敦成親王あつひら日本語)。父は第66代一条天皇、母は藤原道長の娘である中宮彰子。同母弟に後の後朱雀天皇がいる。
後一条天皇の治世は平安時代中期の摂関政治の最盛期にあたり、特に外祖父である藤原道長が摂政として絶大な権勢を振るった。8歳で即位した幼帝であり、道長の意向により、9歳年上の叔母にあたる藤原威子を中宮とし、他の妃を持たなかった。このため皇子女は二人の内親王のみで、皇子には恵まれなかった。29歳で崩御した際には、糖尿病に似た症状があったと伝えられている。突然の崩御であったため譲位の儀式が間に合わず、喪を秘して弟の敦良親王(後の後朱雀天皇)への譲位の儀が行われた。これは、在位中に天皇が崩御した場合に喪を秘して譲位の儀を行い、その後に太上天皇としての葬儀が行われるようになった先駆とされる。
なお、「後一条」という追号は、父である一条天皇の「後」を冠したもので、「後の一条天皇」を意味する。そのため、「後一条天皇」は「二代目の一条天皇」あるいは「一条天皇二世」と表記されることもある。
2. 生涯と背景
後一条天皇の生涯は、彼が生まれた平安時代の社会政治的環境、特に藤原氏による摂関政治の絶頂期と密接に結びついている。
2.1. 出生と幼少期
後一条天皇は、1008年10月12日(寛弘5年9月11日)に一条天皇の第二皇子として誕生した。幼名は敦成親王(敦成親王あつひら日本語)で、敦成親王とも表記される。母は藤原道長の娘である中宮彰子(988年 - 1074年)である。彰子の出産については、『紫式部日記』に詳しく記されており、道長にとって待望の皇子出生は、その後の藤原氏御堂流の栄華の始まりとなった。彰子は晩年、上東門院(じょうとうもんいん)と称された。
2.2. 教育
皇族として、当時の宮廷文化に基づいた教育を受けた。幼少期から将来の天皇としての教養を身につけるための教育が施されたと考えられるが、摂関政治の最中にあったため、その教育内容は外祖父である藤原道長の意向に強く影響されたと推測される。
3. 即位と治世
後一条天皇の治世は、摂関政治の最盛期に位置し、藤原道長、そしてその子藤原頼通が実権を握る中で進められた。
3.1. 即位
1016年3月10日(長和5年1月29日)、先帝である三条天皇の譲位により、敦成親王は数え8歳(満7歳)で践祚した。同年3月18日(長和5年2月7日)に即位の儀式が行われた。幼帝であったため、外祖父である藤原道長が摂政として政務を執り、道長の権勢は絶頂期を迎えた。
3.2. 摂関政治と宮廷
後一条天皇の治世は、藤原道長が摂政として、そして後にその子藤原頼通が摂政・関白として宮廷の政治を支配した時期である。道長は、娘である藤原彰子を一条天皇の中宮とし、その間に生まれた後一条天皇を即位させることで、外戚としての地位を確立した。
道長は、後一条天皇の即位後も摂政として実権を握り続けた。1017年(寛仁元年)には、先代の三条天皇の第一皇子である敦明親王が皇太子に立てられていたが、道長からの強い圧力と敦明親王が皮膚病を患ったことを理由に、皇太子の地位を辞退させられた。代わりに、後一条天皇の同母弟である敦良親王(後の後朱雀天皇)が皇太子に立てられた。この出来事は、道長が皇位継承においても絶大な影響力を持っていたことを示している。
1017年12月24日(寛仁元年12月4日)には、道長は太政大臣に昇進した。さらに、1018年(寛仁3年)には、道長の三女で後一条天皇の叔母にあたる藤原威子(当時19歳)が、9歳年下である後一条天皇の中宮となった。これは、藤原氏御堂流以外の家系に外戚の地位を渡さないという道長および母彰子の強い意向によるものであり、この時代には珍しく、後一条天皇は他の妃を持たなかった。
道長は1019年(寛仁3年)に摂政を辞し、子の藤原頼通が関白に就任したが、道長自身は「准摂政」として実質的な権力を保持し続けた。道長が1027年(万寿4年)に死去した後も、頼通が摂関として政治を主導し、藤原氏の権力は揺るがなかった。
3.3. 在位中の主要な出来事
後一条天皇の在位中には、以下のような重要な出来事があった。
- 1016年3月10日**(長和5年1月29日):三条天皇が譲位し、敦成親王が践祚。
- 1016年3月18日**(長和5年2月7日):後一条天皇が即位。
- 1017年4月3日**(長和6年3月4日):藤原頼通が内大臣に就任。
- 1017年4月15日**(長和6年3月16日):藤原頼通が摂政に就任。
- 1017年6月5日**(寛仁1年5月9日):上皇となった三条天皇が41歳で崩御。
- 1017年9月22日**(寛仁1年8月30日):皇太子であった敦明親王が病気と藤原道長の圧力により皇太子を辞退。代わりに同母弟の敦良親王(後の後朱雀天皇)が皇太子に立てられた。
- 1017年9月**(寛仁1年9月):石清水八幡宮への行幸の際、淀川で船が転覆し、30人以上が溺死する事故が発生した。
- 1017年12月24日**(寛仁1年12月4日):藤原道長が太政大臣に昇進。
- 1019年1月30日**(寛仁3年12月22日):藤原頼通が関白に就任。
- 1036年5月15日**(長元9年4月17日):後一条天皇が29歳で崩御。
3.4. 元号
後一条天皇の在位中に使用された元号は以下の通りである。
- 長和(1012年 - 1017年) - 即位は長和5年(1016年)。
- 寛仁(1017年 - 1021年)
- 治安(1021年 - 1024年)
- 万寿(1024年 - 1028年)
- 長元(1028年 - 1037年) - 崩御は長元9年(1036年)。
4. 皇后・皇子女
後一条天皇には、中宮藤原威子との間に二人の内親王がいた。
- 中宮**:藤原威子(藤原威子ふじわらのいし日本語、999年 - 1036年) - 摂政藤原道長の三女。
- 第一皇女**:章子内親王(章子内親王しょうしないしんのう日本語、1027年 - 1105年) - 後に二条院。後冷泉天皇の中宮となった。
- 第二皇女**:馨子内親王(馨子内親王けいしないしんのう日本語、1029年 - 1093年) - 後に西院皇后。賀茂斎院を経て、後三条天皇の中宮となった。
後一条天皇は、中宮威子以外の妃を持たず、皇子に恵まれなかったため、皇位は同母弟の敦良親王(後の後朱雀天皇)が継承することになった。
5. 在位中の重臣(公卿)
後一条天皇の治世中、宮廷の要職である公卿には、摂関家の人物や、その影響下にある貴族が名を連ねた。特に藤原道長と藤原頼通が権力を掌握し、主要な役職を占めていた。
在位中の主要な公卿は以下の通り。
役職 | 氏名 | 在任期間(後一条天皇治世中) |
---|---|---|
摂政 | 藤原道長 | 1016年 - 1017年 |
摂政・関白 | 藤原頼通 | 1017年 - 1036年 |
太政大臣 | 藤原道長 | 1017年 - 1027年 |
太政大臣 | 藤原公季 | 1021年 - 1029年 |
左大臣 | 藤原道長 | 1016年 - 1017年 |
左大臣 | 藤原顕光 | 1017年 - 1021年 |
左大臣 | 藤原頼通 | 1021年 - 1036年 |
右大臣 | 藤原顕光 | 1016年 - 1017年 |
右大臣 | 藤原公季 | 1017年 - 1021年 |
右大臣 | 藤原実資 | 1021年 - 1036年 |
内大臣 | 藤原公季 | 1016年 - 1017年 |
内大臣 | 藤原頼通 | 1017年 - 1021年 |
内大臣 | 藤原教通 | 1021年 - 1036年 |
大納言 | 藤原道綱 | 1016年 - 1020年 |
大納言 | 藤原実資 | 1016年 - 1021年 |
大納言 | 藤原斉信 | 1016年 - 1026年 |
大納言 | 藤原頼宗 | 1021年 - 1036年 |
大納言 | 藤原能信 | 1021年 - 1036年 |
大納言 | 藤原長家 | 1023年 - 1036年 |
大納言 | 源師房 | 1026年 - 1036年 |
6. 崩御と陵墓
後一条天皇は、1036年5月15日(長元9年4月17日)に、数え29歳(満27歳)で崩御した。
『栄花物語』によると、崩御の際には飲水と痩身の症状が見られたとされており、現代の医学的見地からは糖尿病によるものと考えられている。突然の崩御であったため、皇位譲位の儀式が間に合わなかったとされる。しかし、『日本紀略』や『今鏡』には、天皇の遺詔により、喪を秘して弟の敦良親王(後の後朱雀天皇)への譲位の儀が行われたと記されている。これは、在位中に天皇が崩御した場合に、喪を秘して譲位の儀を行い、その後で太上天皇としての葬儀を行うという慣例の先駆けとなった。
後一条天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁によって京都府京都市左京区吉田神楽岡町にある菩提樹院陵(菩提樹院陵ぼだいじゅいんのみささぎ日本語)に治定されている。陵の形式は円丘である。
また、皇居にある皇霊殿(宮中三殿の一つ)には、他の歴代天皇や皇族とともに、後一条天皇の霊が祀られている。

7. 評価と遺産
後一条天皇の治世は、摂関政治の最盛期と重なり、その評価は摂関家の動向と深く結びついている。
7.1. 功績と肯定的な側面
後一条天皇自身の直接的な政治的功績は、幼少期から青年期にかけて摂関家が実権を握っていたため、表立って語られることは少ない。しかし、彼の治世は、平安時代中期の文化が成熟し、貴族社会が安定した時期と重なる。藤原道長による強固な政治基盤のもと、宮廷文化はさらに発展し、文学や芸術が栄えた。例えば、『紫式部日記』に記された彼の誕生の様子は、当時の宮廷の華やかさと藤原氏の繁栄を象徴する出来事として後世に伝えられている。
また、彼の死後、喪を秘して譲位の儀を行うという先例が確立されたことは、皇室の儀礼において重要な転換点となり、その後の天皇の崩御時の対応に大きな影響を与えた。
7.2. 批判と論争
後一条天皇の治世は、摂関政治の絶頂期であり、天皇の権威が摂関家の権力によって大きく制約されていた時代である。天皇自身が幼少であったため、政治の実権は外祖父藤原道長、そして叔父藤原頼通に完全に掌握されていた。
特に、皇位継承における摂関家の介入は、批判の対象となる。先代三条天皇の皇子である敦明親王が皇太子を辞退させられ、後一条天皇の同母弟である敦良親王が皇太子に立てられたことは、摂関家が自らの血縁を皇室に深く結びつけ、権力を維持しようとした明確な事例である。また、後一条天皇が藤原威子以外の妃を持たず、結果として皇子に恵まれなかったことは、藤原氏御堂流以外の外戚の出現を阻むための摂関家の意図が働いた結果と見なされることもある。これにより、皇室の血統の多様性が失われ、後の皇位継承問題にも影響を与えた可能性が指摘される。
彼の治世は政治的には安定していたものの、それは摂関家の権力集中によるものであり、天皇の親政が実現されることはなかった。この時代の特徴は、天皇が儀礼的な存在となり、実権が摂関家に委ねられるという、摂関政治の負の側面を浮き彫りにしている。
8. 系譜
後一条天皇の系譜は以下の通りである。
世代 | 続柄 | 氏名 |
---|---|---|
1 | 本人 | 後一条天皇 |
2 | 父 | 一条天皇 |
2 | 母 | 藤原彰子 |
3 | 祖父 | 円融天皇 |
3 | 祖母 | 藤原詮子 |
3 | 祖父 | 藤原道長 |
3 | 祖母 | 源倫子 |
4 | 曾祖父 | 村上天皇 |
4 | 曾祖母 | 藤原安子 |
4 | 曾祖父 | 藤原兼家 |
4 | 曾祖母 | 藤原時姫 |
4 | 曾祖父 | 藤原兼家 |
4 | 曾祖母 | 藤原時姫 |
4 | 曾祖父 | 源雅信 |
4 | 曾祖母 | 藤原穆子 |
9. 関連事項
- 天皇
- 日本の天皇の一覧
- 皇室
- 摂関政治
- 光る君へ(2024年のNHK大河ドラマ。後一条天皇役は石塚錬、橋本偉成、高野陽向が演じた。)