1. 概要
この項目では、北朝鮮の政治家・裁判官であった方学世の生涯と活動を包括的に解説する。彼はソ連での教育を経て北朝鮮建国初期の内務・司法分野で重要な役割を担い、朝鮮労働党中央委員や中央裁判所所長を務めた。特に、朝鮮戦争中の韓国要人拉致における総責任者としての役割や、政治的粛清・司法統制への関与は、北朝鮮の人権状況と民主主義の発展に深刻な負の影響を与えた。本稿では、彼の経歴を客観的に記述しつつ、その行動が社会に及ぼした影響について批判的な視点から分析する。
2. 生涯
方学世の生涯は、ソ連での教育から北朝鮮での公職に至るまで、激動の時代における高麗人としての経験と、北朝鮮建国初期の権力構造形成に深く関わった軌跡を示している。
2.1. 出生と幼少期
方学世は1914年に沿海州のПосиетポシエートロシア語近傍の貧しい農家に生まれた。彼の出生年については資料によって異なり、1912年や1913年とするものも存在する。彼は朝鮮系ソビエト連邦人である高麗人としての出自を持ち、ロシア名はニコライ・イグナーチエヴィチ・パンであった。
2.2. 教育とソ連での活動
1931年、方学世はノヴォキエフスク(現在のКраскиноクラスキノロシア語)の9年制学校を卒業し、同年秋にスヴェルドロフスク国立大学予科へ入学した。翌年には同大学の法学部へ進み、1937年に最優等成績で卒業した。
卒業後、高麗人の追放政策によりカザフ・ソビエト社会主義共和国のクズロルダへ移住。そこで2年間、市検察所の予審員を務めた。その後、1940年まで地区検察所予審員、1940年から1942年まで地区副検事を歴任した。1942年10月にはТалды-Курганская областьタルディコルガン州ロシア語責任検事に就任したが、この州が実際に設置されたのは1944年である。1944年10月にはクズロルダ州責任検事となった。彼はソ連の人民内務人民委員部や情報機関でも活動した経歴を持つ。
q=Posyet, Primorsky Krai; Kyzylorda, Kazakhstan; Taldykorgan, Kazakhstan; Yekaterinburg, Russia|position=right
3. 北朝鮮での活動
第二次世界大戦後、方学世はソ連軍将校として北朝鮮に派遣され、その建国初期から主要な政治的・公的な役割を担い、治安機関や司法制度の確立に深く関与した。
3.1. 北朝鮮への派遣と初期の役割
第二次世界大戦終結後の1945年10月、方学世はソ連軍の将校(大尉)として朝鮮半島へ派遣された。彼はソ連軍第25軍行政司令部で活動を開始し、1947年5月からは北朝鮮人民委員会内務局情報処長を務めた。
3.2. 内務省・社会安全省でのキャリア
1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国の建国とともに、方学世は最高人民会議代議員に選出され、金日成を首班とする内閣の内務省副相兼政治保衛局長に任命された。
朝鮮戦争中の1951年3月には、内務省内の政治保衛局などの部門が分離独立し、社会安全省が創設された。方学世は社会安全相に就任し、戦時下における反体制勢力への対応など、増大する治安業務に対応するため、公安専任組織の創設を強く主張したとされる。しかし、社会安全省はわずか1年7か月後の1952年10月9日には再び内務省へ統合され、社会安全局となった。これは社会安全省と内務省の並立による治安業務の混乱が理由とされたが、内務相就任が内定していた方学世が社会安全省も自己の影響下に留めようとしたためとも言われている。彼は同月から内務相を務めた。
八月宗派事件後も金日成を支持し続け、多くのソ連系幹部がソ連へ帰国する中で、彼は数少ないながらもその地位を維持した人物の一人であった。
3.3. 党・国家機関での活動
方学世は朝鮮労働党の主要機関において重要な地位を占めた。1948年3月には北朝鮮労働党中央委員会委員に選出され、その後も1956年4月、1970年11月、1980年10月に朝鮮労働党中央委員会委員に選出された。
また、彼は最高人民会議の代議員としても長きにわたり活動し、1948年8月の第1期代議員をはじめ、1957年8月の第2期、1967年11月の第4期、1972年12月の第5期、1982年2月の第7期、1986年11月の第8期代議員を務めた。
3.4. 中央裁判所所長
方学世はその後、法曹界へ転身し、1960年11月には中央裁判所副所長に任命された。また、1966年11月からは労働党連絡局情報部長も兼任した。
1972年12月に中央裁判所所長に任じられ、1982年4月と1986年12月に再任された。彼は中央裁判所所長に在任のまま、1992年7月18日に死去した。
4. 主要な役割と責任
方学世のキャリアの中で特に注目すべきは、朝鮮戦争中の韓国要人拉致における彼の責任、そして北朝鮮における政治的粛清と司法統制への関与である。これらの活動は、北朝鮮の人権状況と民主主義の発展に極めて深刻な影響を与えた。
4.1. 朝鮮戦争中の韓国要人拉致
方学世は朝鮮戦争中、韓国の政治家や著名人を北朝鮮へ拉致する作戦の総責任者であった。彼はこの作戦の計画と実行において中心的な役割を担い、多くの韓国人が強制的に北朝鮮に連行されるという悲劇に直接的に関与した。この行為は、個人の自由と人権を著しく侵害するものであり、国際社会から厳しく非難されるべきものである。
4.2. 粛清と司法統制への関与
方学世は、金日成の信奉者として数々の政治的粛清を実行した人物として知られている。彼は司法制度を国家統制の道具として利用し、反体制派と見なされた人々に対する弾圧において重要な役割を果たした。彼の関与により、北朝鮮社会では法が個人の権利を保障するのではなく、政権維持のための手段として悪用され、人権が著しく侵害される状況が常態化した。
李相朝は、金日成に送った手紙の中で、方学世を直ちに逮捕し、裁判にかけ処断すべきだと強く主張したと伝えられている。これは、彼の行動が当時の体制内からも批判の対象となっていたことを示唆している。方学世のこうした活動は、北朝鮮における民主主義の発展を阻害し、恐怖政治の確立に貢献したと言える。
5. 受賞歴
方学世は、その長年の功績に対して北朝鮮政権から複数の栄誉を授与された。
1982年4月に中央裁判所所長に再任された際には、金日成勲章を授与された。また、1984年3月には労力英雄の称号も受けている。
6. 死去
方学世は1992年7月18日に死去した。享年78歳。彼は死去時、中央裁判所所長の職に在任中であった。彼の葬儀では、朴成哲が葬儀委員長を務めた。
7. 評価と影響
方学世の生涯と業績は、北朝鮮の初期の権力構造と司法制度の形成に大きな影響を与えた一方で、その行動は人権侵害と政治的弾圧の歴史と密接に結びついている。
7.1. 歴史的評価
歴史家アンドレイ・ランコフは、方学世を朝鮮の「ベリヤ」と評し、「ソ連派全体のなかで疑わしくもっとも悪名高い」人物であったと述べている。この評価は、彼が北朝鮮の秘密警察や治安機関の形成において果たした、冷酷かつ強力な役割を強調している。
しかし、ランコフは同時に、方学世がソ連のエジョフやベリヤといった同類の人物とは異なり、最後まで金日成の信頼を失わなかった点も指摘している。これは、彼が金日成体制下で独自の地位を確立し、その権力基盤を強固にする上で不可欠な存在であったことを示唆する。
張学鳳は、方学世が金日成の信奉者として数々の粛清を実行したことから、全世界に分布している北朝鮮系の人々は誰しも彼を無道な虐殺者と認めていると述べている。
7.2. 批判と論争
方学世の行動は、そのキャリアを通じて多くの批判と論争の対象となってきた。特に、朝鮮戦争中の韓国要人拉致における彼の総責任者としての役割や、北朝鮮における政治的粛清の実行への関与は、深刻な人権侵害として非難されている。彼は司法制度を政権の統制手段として利用し、個人の自由と権利を抑圧する体制を築き上げた。
李相朝が金日成に宛てた書簡で、方学世の即時逮捕と処断を求めた事実は、彼の行動が当時の北朝鮮内部からも強い反発を受けていたことを示している。これらの批判は、方学世が北朝鮮の暗黒時代において、いかに中心的な役割を果たしたかを浮き彫りにしている。
7.3. 影響
方学世は、北朝鮮の治安・司法システム、および政治体制の形成と維持に決定的な影響を与えた。彼は、初期の治安機関である内務省や社会安全省の再編と運営に深く関与し、これらの機関が政権の統制を強化するための強力な手段となるよう貢献した。特に、政治保衛局の創設と運営における彼の役割は、後の北朝鮮における秘密警察機構の基礎を築いたと言える。
彼の指揮下で行われた政治的粛清や司法の道具化は、北朝鮮社会における恐怖政治の定着を促し、国民の自由と権利が恒常的に抑圧される体制を確立した。方学世の遺産は、北朝鮮が現在に至るまで抱える人権問題や、一党独裁体制の強固な維持に深く関わっている。彼は、北朝鮮の「秘密警察の建国の父」とも称されるほど、その後の体制に多大な影響を残した。