1. 概要
明武谷 清(みょうぶだに きよし日本語、1937年4月29日 - 2024年3月10日)は、北海道釧路市(旧阿寒町)出身の元大相撲力士である。本名は明歩谷 清。最高位は東関脇。現役時代は宮城野部屋に所属し、その長身と独特の相撲スタイルで知られ、「人間起重機」の異名を持った。
明武谷は、幕内最高優勝を一度も果たすことなく、複数回にわたる優勝決定巴戦に出場した稀有な記録を持つ力士である。特に柏戸剛や大鵬幸喜といった大横綱との対戦で健闘し、3個の金星と8回の三賞を獲得するなど、上位力士を苦しめた。1969年に現役を引退し、年寄中村を襲名して後進の指導に当たったが、エホバの証人への改宗という個人的な信仰的信念に基づき、1977年に相撲界を離れるという大きな決断を下した。引退後はビル清掃業に従事しながら宣教活動を行った。その生涯は、相撲における実績だけでなく、信仰に対する深いコミットメントによって形作られた特異なものであった。
2. 生涯
明武谷 清の生涯は、北海道の開拓農家に生まれ、相撲界で輝かしいキャリアを築き、最終的には宗教的信念のためにその道を離れるという、類まれなものであった。
2.1. 幼少期と相撲界入り
明武谷 清の幼少期は、北海道の自然の中で育まれ、その体格と家族の背景が彼の人生に大きな影響を与えた。
2.1.1. 出生と家族背景
明武谷 清は1937年4月29日、北海道阿寒郡阿寒町(現在の釧路市)で、開拓農家を営む家庭の三男として生まれた。その彫りの深い顔立ちと、生まれつきの毛深い筋骨隆々とした体躯から、当時北海道各地に多く残っていたアイヌ民族の血を引いているのではないかと推測されることがある。また、彼の若き日の面影は、東京都台東区にある浅草寺の吽形像のモデルになったとも言われており、今日でもその像に明武谷の面影を見ることができるとされている。
2.1.2. 角界への動機と入門
幼少期の明武谷は、小学6年生の時点で既に176 cmに達する長身であり、力が強かったため両親から家業である農作業の手伝いを命じられていた。しかし、本人は農作業を大嫌いとしており、その代わりに力士を志すようになった。1953年のある日、当時の横綱である羽黒山政司と吉葉山潤之輔の一行が地元へ巡業で訪れた際に、吉葉山と親交のあった郷里の元三段目力士と共に宿舎を訪問し、ちゃんこを御馳走になった。この体験が、彼が本格的に相撲界への入門を決意する大きなきっかけとなった。
実家に戻り、両親に力士になることを打ち明けたが、両親からは猛烈な反対を受けた。この時、彼が通っていた雄別中学校の校長が間に入り、「清は絶対に大物になるから、3年以内に関取に昇進できなかったら身の振り方を善処する」と両親を説得。その結果、明武谷は両親の承諾を得て、高島部屋へ入門することができた。彼自身も、長身であることから農作業には不向きであると考えていたという。
1954年3月場所で初土俵を踏んだ後、高島部屋に入門してしばらく経ったある日、師匠の吉葉山が現役中に設立した「吉葉山道場」(後の宮城野部屋)へ移籍した。中学の校長が両親に約束した「初土俵から3年」という期限が迫る1957年3月場所後、両親が吉葉山道場を訪れて明武谷に帰郷を命じた。しかし、師匠の吉葉山は「横綱になった私も関取昇進を決めるまで4年かかりましたから」と両親を説得し、さらに1年の猶予を求めた。これにより、明武谷は角界での続投を許されることになった。
2.2. 現役時代
明武谷 清のプロ相撲キャリアは、その独特の体格と相撲スタイル、そして度重なる上位力士との激闘によって彩られた。
2.2.1. 出世と主な業績
吉葉山からの猶予を得た明武谷は、1957年11月場所で新十両に昇進し、1959年7月場所で新入幕を果たした。この初入幕場所は7勝8敗と負け越して1場所で十両に陥落したものの、3度目の入幕以降は幕内に定着することができた。入門当初は気の弱さから取組や稽古への積極性に欠けていたが、周囲からの忠告を受け、また部屋の主力としての責任を感じるようになってからは、自分自身にも若い力士たちにも厳しく接するようになった。この意識の変化が、彼の相撲人生における転機となる。
長身を生かした左四つからの吊り出しや上手投げで人気を博し、腰が高い特徴があったため立ち合いは遅れがちであったが、師匠の吉葉山からは早く立つことよりも「右上手を取ることだけを研究しろ」と指導された。彼は上位力士に強く、特に1961年9月場所では、場所後に横綱に昇進する大鵬幸喜と柏戸剛の両大関(当時)との優勝決定巴戦に出場し、幕内最高優勝こそ逃したものの、敢闘賞を受賞するという活躍を見せた。この場所後、彼は小結に昇進し、初めての三役の座を得たが、その地位を維持することはできなかった。
1964年5月場所では前頭の地位で初の金星を獲得し、同年11月場所には関脇に昇進した。1964年7月場所から1965年1月場所にかけて4場所連続で三賞を受賞するなど、三役・三賞の常連として大関昇進への期待が高まった。しかし、当時の系統別総当たり制において、宮城野部屋は立浪一門に属しながらも異なる系統に位置していたため、三役以上の力士が自身以外にいなかったことが不利に働き、結局、大関昇進は叶わなかった。
2.2.2. 相撲スタイル
明武谷は、相撲力士としては比較的軽量ながらも、長身かつ筋肉質な体格を持つ非常に力強い力士であった。彼の最も得意とした技は「吊り出し」であり、どの決まり手よりもこの技を多用した。次いで「寄り切り」や「うっちゃり」も得意とした。この吊り出しの技術は、彼の長身と卓越した筋力によって支えられていた。
彼の引き締まった筋肉質の体格と彫りの深い顔立ちは、女性ファンからの人気を博し、その特徴的な相撲は多くの観客を魅了した。
2.2.3. 大関昇進への挑戦と限界
明武谷の大関昇進は、三役・三賞の常連となるなど、その可能性が何度も囁かれたにもかかわらず、最終的には実現しなかった。これは、いくつかの要因が重なった結果である。
まず、彼は当時の系統別総当たり制の犠牲者の一人であった。宮城野部屋は立浪一門に属してはいたものの、系統が異なるため、立浪部屋の力士とも対戦する必要があった。しかし、同時期に同じ系統で三役以上に番付を得る力士が彼以外にいなかったため、他の力士と比べて上位陣との対戦が偏りがちになり、昇進に必要な安定した成績を維持することが困難であった。
また、特定の上位力士との相性の悪さも影響した。特に柏戸剛に対しては、優勝決定戦を含め19戦全敗と全く歯が立たなかった。さらに、大関昇進を目前に控えた1965年3月場所では、初日と2日目を連続して勇み足という不注意な形で落とすなど、失速する場面も見られた。
それでも、1965年5月場所で幕内最高優勝に次ぐ成績を収め、同年9月場所には柏戸との優勝決定戦に出場するなど、優勝争いに絡む活躍を続けた。1967年7月場所が最後の三役の出場となり、1968年9月場所が自身4度目で最後の優勝次点となった。大鵬幸喜に対しては、1964年から1967年にかけて通算5勝20敗と大きく負け越しているものの、関脇以下の最高位で大鵬から5勝を挙げた力士は、明武谷と房錦勝比古の2人だけであるという特筆すべき記録を残している。
1967年頃までは右上手を取ればその長身と怪力で十分に力を発揮できたが、それ以降はがっぷり四つになっても強みが薄れ、外掛けを食らって敗れることが増えた。
3. 引退とその後
明武谷 清の相撲人生は、健康上の理由と信仰的信念という二つの大きな転機によって、新たな局面を迎えた。
3.1. 現役引退と年寄時代
1969年11月場所を最後に、腰痛や多発性関節痛といった健康上の理由から現役を引退した。引退後、彼は日本相撲協会の年寄となり、中村を襲名した。年寄としては宮城野部屋の部屋付き親方として、後進の指導に当たるとともに、勝負審判も務めた。現役時代にトレーニングで利用していた「クラーク・ハッチ・フィットネスセンター」の関係者を宮城野部屋の稽古に参加させるなど、指導者としても新しい試みを行っていた。1968年1月場所には、初土俵から1000回連続出場の記録を達成し、協会から特別表彰を受けている。
3.2. 宗教への改宗と角界からの離脱
1977年1月場所を最後に、明武谷は相撲協会を廃業するという大きな決断を下した。この背景には、彼がキリスト教系の新宗教であるエホバの証人に改宗したことがあった。妻の影響で入信した明武谷は、エホバの証人の教えが、相撲に深く根付く神道(エホバの証人が「偽りの宗教」と見なす宗教)との関連を禁じていると解釈した。信仰上の理由から、信者として親方業を継続することはできないと考えるようになり、相撲界からの離脱を決意したのである。
角界を去った後、彼は千葉県船橋市に移り住み、ビル清掃業で生計を立てながら、熱心に宣教活動を行った。彼の改宗と、それに伴う相撲界からの引退の経緯は、エホバの証人が発行する雑誌『目ざめよ!』の1983年9月8日号で詳細に紹介された。
4. 評価と影響
明武谷 清の相撲キャリアは、その特異な記録と大衆文化における認識によって、相撲史に独自の足跡を残した。
4.1. 歴史的意義
明武谷は、幕内最高優勝を一度も果たすことなく、複数回の優勝決定戦に出場した稀有な記録を持つ力士である。彼と同じく、優勝決定戦に複数回出場しながら一度も幕内最高優勝を果たせなかった力士は、明武谷と双羽黒(後の北尾光司)の2人のみである。この事実は、彼の相撲が常に優勝争いのトップレベルに位置しながらも、あと一歩で栄冠を逃し続けたという、彼独特のキャリアを示している。
また、大鵬幸喜に対しては通算5勝20敗と大きく負け越しているものの、最高位が関脇以下で5勝を挙げた力士は、明武谷と房錦勝比古の2人だけである。これは、当時の絶対的な横綱に対して、いかに明武谷が善戦し、金星のチャンスを掴んでいたかを示すものである。
4.2. 大衆文化における認識
明武谷は、その得意技である吊り出しにちなんで「人間起重機」という異名で広く知られ、多くの相撲ファンに記憶された。
また、大鵬幸喜への国民栄誉賞授与が検討されていた2013年2月当時、少年時代に「巨人、大鵬、卵焼き」という流行語が生まれた1960年代を過ごした安倍晋三元首相は、個人的な感情として「卵焼きは好きだったが、巨人も大鵬もアンチだった」と述懐している。その中で安倍は、「"大鵬キラー"と言われた関脇・明武谷は背が高く細くて、私もやせっぽちの子供だったので応援していた」と語り、明武谷が大鵬の対抗馬として国民的関心を集め、特定層からの個人的な応援の対象となっていたことを示している。
5. 死去
明武谷 清は、2024年3月10日、老衰のため86歳で死去した。訃報は家族によって発表され、葬儀は近親者のみの「密葬」として執り行われる意向が示された。
6. 相撲記録と統計
6.1. 主な成績
- 通算成績:624勝580敗6休 勝率.518
- 幕内成績:414勝450敗6休 勝率.479
- 現役在位:88場所
- 幕内在位:58場所
- 三役在位:13場所(関脇5場所、小結8場所)
- 優勝同点:2回(1961年9月場所、1965年9月場所)
- 三賞:8回
- 殊勲賞:4回(1964年7月場所、1964年11月場所、1965年1月場所、1965年11月場所)
- 敢闘賞:4回(1961年9月場所、1964年9月場所、1965年9月場所、1967年1月場所)
- 雷電賞:3回(1961年9月場所、1965年5月場所、1965年9月場所)
- 金星:3個(大鵬2個、佐田の山1個)
- 各段優勝
- 序二段優勝:1回(1955年3月場所)
6.2. 場所別成績
年 | 場所 | 番付 | 勝-敗-休 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1954 | 3月場所 | 前相撲 | 3-0 | |
5月場所 | 西序ノ口52枚目 | 3-5 | ||
9月場所 | 西序ノ口54枚目 | 6-2 | ||
1955 | 1月場所 | 西序二段21枚目 | 3-5 | |
3月場所 | 東序二段25枚目 | 8-0 | 優勝 | |
5月場所 | 西三段目47枚目 | 5-3 | ||
9月場所 | 東三段目25枚目 | 5-3 | ||
1956 | 1月場所 | 西三段目7枚目 | 7-1 | |
3月場所 | 東幕下49枚目 | 5-3 | ||
5月場所 | 東幕下42枚目 | 6-2 | ||
9月場所 | 東幕下32枚目 | 6-2 | ||
1957 | 1月場所 | 東幕下20枚目 | 4-4 | |
3月場所 | 東幕下19枚目 | 5-3 | ||
5月場所 | 東幕下13枚目 | 6-2 | ||
9月場所 | 東幕下3枚目 | 5-3 | ||
11月場所 | 西十両23枚目 | 8-7 | ||
1958 | 1月場所 | 西十両22枚目 | 9-6 | |
3月場所 | 東十両17枚目 | 7-8 | ||
5月場所 | 西十両18枚目 | 11-4 | ||
7月場所 | 東十両8枚目 | 8-7 | ||
9月場所 | 西十両6枚目 | 8-7 | ||
11月場所 | 東十両6枚目 | 6-9 | ||
1959 | 1月場所 | 東十両9枚目 | 9-6 | |
3月場所 | 東十両6枚目 | 11-4 | ||
5月場所 | 東十両3枚目 | 10-5 | ||
7月場所 | 西前頭18枚目 | 7-8 | ||
9月場所 | 西十両2枚目 | 12-3 | ||
11月場所 | 東前頭12枚目 | 6-9 | ||
1960 | 1月場所 | 東前頭15枚目 | 5-10 | |
3月場所 | 東十両2枚目 | 6-9 | ||
5月場所 | 西十両4枚目 | 9-6 | ||
7月場所 | 東十両1枚目 | 9-6 | ||
9月場所 | 西十両1枚目 | 10-5 | ||
11月場所 | 東前頭13枚目 | 8-7 | ||
1961 | 1月場所 | 東前頭10枚目 | 8-7 | |
3月場所 | 東前頭5枚目 | 5-10 | ||
5月場所 | 東前頭9枚目 | 7-8 | ||
7月場所 | 東前頭10枚目 | 9-6 | ||
9月場所 | 西前頭4枚目 | 12-3 | 大鵬、柏戸と優勝決定戦、敢闘賞 | |
11月場所 | 西小結2枚目 | 6-9 | ||
1962 | 1月場所 | 東前頭4枚目 | 6-9 | |
3月場所 | 東前頭8枚目 | 7-8 | ||
5月場所 | 西前頭7枚目 | 9-6 | ||
7月場所 | 東前頭3枚目 | 2-13 | ||
9月場所 | 東前頭9枚目 | 8-7 | ||
11月場所 | 東前頭7枚目 | 11-4 | ||
1963 | 1月場所 | 東前頭1枚目 | 5-10 | |
3月場所 | 東前頭3枚目 | 5-10 | ||
5月場所 | 東前頭6枚目 | 5-10 | ||
7月場所 | 西前頭11枚目 | 9-6 | ||
9月場所 | 東前頭6枚目 | 8-7 | ||
11月場所 | 東前頭3枚目 | 7-8 | ||
1964 | 1月場所 | 東前頭4枚目 | 8-7 | |
3月場所 | 東小結1枚目 | 7-8 | ||
5月場所 | 西前頭1枚目 | 7-8 | 金星 | |
7月場所 | 東前頭1枚目 | 8-7 | 殊勲賞、金星 | |
9月場所 | 東前頭1枚目 | 8-7 | 敢闘賞 | |
11月場所 | 東関脇1枚目 | 8-7 | 殊勲賞 | |
1965 | 1月場所 | 東関脇1枚目 | 9-6 | 殊勲賞 |
3月場所 | 東関脇1枚目 | 4-11 | ||
5月場所 | 東前頭4枚目 | 11-4 | 敢闘賞 | |
7月場所 | 東小結1枚目 | 4-11 | ||
9月場所 | 東前頭5枚目 | 12-3 | 柏戸と優勝決定戦、敢闘賞 | |
11月場所 | 西小結2枚目 | 9-6 | 殊勲賞 | |
1966 | 1月場所 | 西小結1枚目 | 9-6 | |
3月場所 | 東関脇1枚目 | 7-8 | ||
5月場所 | 西小結1枚目 | 6-9 | ||
7月場所 | 東前頭2枚目 | 5-10 | ||
9月場所 | 東前頭5枚目 | 5-10 | ||
11月場所 | 東前頭8枚目 | 8-7 | ||
1967 | 1月場所 | 東前頭4枚目 | 11-4 | 敢闘賞 |
3月場所 | 東小結1枚目 | 9-6 | ||
5月場所 | 東関脇1枚目 | 7-8 | ||
7月場所 | 東小結2枚目 | 7-8 | ||
9月場所 | 西前頭1枚目 | 7-8 | ||
11月場所 | 西前頭1枚目 | 5-10 | 金星 | |
1968 | 1月場所 | 西前頭6枚目 | 7-8 | |
3月場所 | 西前頭7枚目 | 8-7 | ||
5月場所 | 東前頭4枚目 | 9-6 | ||
7月場所 | 西前頭2枚目 | 4-8-3 | 左第10~11肋骨亀裂骨折により12日目から途中休場 | |
9月場所 | 西前頭7枚目 | 11-4 | ||
11月場所 | 東前頭2枚目 | 5-10 | ||
1969 | 1月場所 | 東前頭5枚目 | 6-9 | |
3月場所 | 東前頭7枚目 | 5-10 | ||
5月場所 | 東前頭11枚目 | 9-6 | ||
7月場所 | 東前頭7枚目 | 7-8 | ||
9月場所 | 東前頭8枚目 | 7-8 | ||
11月場所 | 西前頭9枚目 | 0-12-3 | 腰痛・多発性関節痛により12日目から途中休場、引退 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。
三賞:敢闘賞、殊勲賞、技能賞
その他:金星
番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
6.3. 幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青ノ里 | 11 | 10 | 朝嵐 | 1 | 0 | 朝岡 | 1 | 0 | 朝潮(米川) | 0 | 2 |
浅瀬川 | 7 | 5 | 朝ノ海 | 2 | 1 | 朝登 | 0 | 3 | 旭國 | 0 | 3(1) |
愛宕山 | 0 | 1 | 天津風 | 2 | 4 | 荒岐山 | 2 | 1 | 泉洋 | 1 | 1 |
一乃矢 | 1 | 0 | 岩風 | 3 | 5 | 及川 | 1 | 3 | 追風山 | 4 | 0 |
扇山 | 4 | 3 | 大瀬川 | 1(1) | 0 | 大晃 | 3 | 6 | 岡ノ山 | 2(1) | 0 |
小城ノ花 | 11 | 5 | 魁罡 | 1 | 3 | 海山 | 2 | 0 | 海乃山 | 11 | 10(1) |
開隆山 | 13 | 2 | 柏戸 | 1(1) | 18** | 和晃 | 1 | 0 | 金乃花 | 6 | 4 |
北の洋 | 3 | 3 | 北の花 | 0 | 1 | 北の富士 | 14 | 12 | 北葉山 | 10 | 10 |
君錦 | 1 | 2 | 清國 | 10 | 9 | 清勢川 | 3 | 1 | 鬼竜川 | 2 | 1 |
麒麟児 | 4 | 5 | 国登 | 1 | 0 | 栗家山 | 0 | 2 | 黒獅子 | 2 | 0 |
黒姫山 | 1 | 1 | 高鉄山 | 5 | 7 | 琴ヶ濱 | 0 | 2 | 琴櫻 | 5 | 12 |
逆鉾 | 0 | 3 | 佐田の山 | 8 | 23 | 沢光 | 2 | 2 | 潮錦 | 3 | 3 |
信夫山 | 0 | 1 | 大豪 | 7 | 11 | 大鵬 | 5 | 20* | 大文字 | 2 | 2 |
大雄 | 7 | 5 | 大竜川 | 0 | 3 | 高錦 | 1 | 0 | 高見山 | 4 | 5 |
玉嵐 | 2 | 4 | 玉乃海 | 1 | 1 | 玉乃島 | 6 | 12 | 玉響(新川) | 1 | 2 |
常錦 | 7 | 3 | 鶴ヶ嶺 | 4 | 7 | 出羽錦 | 5 | 5 | 時津山 | 2 | 1 |
時錦 | 0 | 1 | 時葉山 | 5 | 2 | 戸田 | 2 | 0 | 栃東 | 4 | 4 |
栃勇 | 0 | 1 | 栃王山 | 5 | 3 | 栃ノ海 | 4 | 15 | 栃光 | 8 | 11 |
栃富士 | 1 | 2 | 豊國 | 9 | 6 | 鳴門海 | 1 | 2 | 成山 | 0 | 1 |
錦洋 | 0 | 2 | 羽黒川 | 5 | 4 | 羽黒山 | 3 | 3 | 長谷川 | 8 | 5 |
花田 | 1 | 0 | 花光 | 5 | 6 | 福田山 | 1 | 2 | 福の花 | 9 | 2 |
房錦 | 3 | 3 | 富士錦 | 13 | 10 | 藤ノ川 | 4 | 2 | 二子岳 | 4 | 2 |
双ツ龍 | 0 | 2 | 星甲 | 0 | 1 | 前田川 | 9 | 3 | 前の山 | 2 | 5 |
松登 | 2 | 4 | 三重ノ海 | 1 | 0 | 禊鳳 | 1 | 4 | 宮ノ花 | 1 | 0 |
豊山 | 9 | 21 | 吉王山 | 0 | 1 | 義ノ花 | 6 | 5 | 龍虎 | 2 | 1 |
若杉山 | 4 | 3 | 若秩父 | 7 | 1 | 若天龍 | 5 | 3 | 若浪 | 10 | 5 |
若鳴門 | 1 | 1 | 若ノ海 | 5 | 3 | 若ノ國 | 3 | 6 | 若乃洲 | 1 | 0 |
若乃花(初代) | 0 | 1 | 若羽黒 | 6 | 1 | 若葉山 | 2 | 0 | 若二瀬 | 1 | 4 |
若前田 | 5 | 2 | 若見山 | 12 | 5 |
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
- 大鵬幸喜には優勝決定戦で1敗がある。
- 柏戸剛には優勝決定戦で2敗がある。
他に優勝決定戦で柏戸に2敗、大鵬に1敗がある。
7. 四股名(しこな)の変遷
明武谷 清は、現役中に11回もの四股名の変更を経験した。これは幕内経験者としては非常に多い改名歴である。彼の使用した四股名とその時期は以下の通りである。
- 明歩谷 清(みょうぶだに きよし日本語):1954年3月場所 - 1959年5月場所、1959年11月場所 - 1961年3月場所、1963年9月場所 - 1963年11月場所
- 明歩谷 清之輔(みょうぶだに せいのすけ日本語):1959年7月場所 - 1959年9月場所
- 明武谷 清(みょうぶだに きよし日本語):1961年5月場所 - 1962年3月場所
- 明武谷 巖(みょうぶだに いわお日本語):1962年5月場所 - 1962年11月場所
- 吉葉洋 一覺(よしばなだ かずひろ日本語):1963年1月場所 - 1963年7月場所
- 明武谷 力伸(みょうぶだに りきのぶ日本語):1964年1月場所 - 1965年1月場所、1965年11月場所 - 1966年9月場所
- 明武谷 憲尚(みょうぶだに のりたか日本語):1965年3月場所 - 1965年9月場所
- 明武谷 皇毅(みょうぶだに おおき日本語):1966年11月場所 - 1968年3月場所
- 明武谷 保彦(みょうぶだに やすひこ日本語):1968年5月場所 - 1969年11月場所(引退)
この11度の改名歴の中で、「吉葉洋」という四股名(1963年1月場所から同年7月場所まで)は、師匠である吉葉山にあやかった特別なものであった。しかし、それ以外の10度の改名では、全て本名と同じ読みの「みょうぶだに」を維持し、「明武谷」または「明歩谷」という漢字の一文字違いに過ぎなかった。
このことから、明武谷の改名歴の大半は、本名に準ずる形での微細な変更に留まっており、四股名を大幅に変える一般的な改名とは趣が異なる。このため、一般的には、明武谷の11度の改名歴は星岩涛祐二(9度)を上回るものの、最多改名記録としては認められておらず、現在でも星岩涛祐二の9度が最多改名記録保持者とされている。