1. 生い立ちと初期キャリア
木村沙織は、幼少期にバレーボールと出会い、その才能を育んでいった。
1.1. 幼少期とバレーボールとの出会い
木村沙織は埼玉県八潮市で生まれ、その後、父親の仕事の都合で大阪、東京と転居を繰り返した。最終的に東京都あきる野市の多西小学校に通うことになった。バレーボール経験のある両親、特に母親の影響を受け、小学校2年生の時に秋川JVCに入団し、本格的にバレーボールを始めた。秋川JVCは守備練習を中心とするチームであり、この時期に数多くのレシーブ練習をこなしたことが、後の彼女の優れたレシーブ力に繋がったと本人は語っている。チームでは主にレフトのポジションを務め、小学校6年生の時には東京新聞杯で優勝を経験した。小学校4年生の頃に「週末に思う存分友達と遊びたい」という理由で2週間ほどチームを辞めたことがあるが、バレーボールから離れたのはこの期間のみである。
1.2. 中学・高校時代
中学校はバレーボールの名門である成徳学園中学校に進学。ここで後にチームメイトとなる大山加奈、荒木絵里香、大山未希らと出会った。中学校入学時には163 cmと、さほど高くなかった身長は、中学3年間で約15 cmも伸びた。この時期から主にセンターとライトのポジションを務めることが多くなり、主力選手として全日本中学校バレーボール選手権大会での優勝や、全国都道府県対抗中学バレーボール大会(アクエリアスカップ)でのJOC杯受賞を達成した。特にBクイックは得意技と言えるほどに上達し、プレースタイルに幅が出た。中学校2年生の頃には、バレー人生で初の骨折(左手中指の付け根)を経験したが、全治2週間と軽度であったため大事には至らなかった。
2002年、バレーボールの名門として知られる成徳学園高校(現・下北沢成徳高等学校)に進学した。高校2年生になるとライトとして主力選手となり、2003年春高バレーで優勝を収め、成徳の2連覇に貢献。同年8月に開催されたインターハイでは3位に終わり連覇を逃したが、インターハイ閉幕と同時に全日本代表から強化合宿に招集された。同年9月のバレーボールアジア選手権に出場し、当初はセッター登録であった。そして11月開催のワールドカップには、故障の鈴木洋美の代役として出場を果たした。
2004年春高バレーでは大会3連覇を目指し決勝に進出したが、第1セットでスパイクを決めた直後に味方選手である横山友美佳と接触し転倒、右足首を捻挫。応急処置を施したのちに足を引きずりながらプレーを続行したが、結局九州文化学園に1-3で敗戦し準優勝となった。同年、アテネオリンピック最終予選で再度全日本代表に招集され、初戦のイタリア戦で代表初スタメン出場を果たし、14得点をマーク。持ち前の明るい性格とあどけない笑顔で「スーパー女子高生」の呼び名でブレイクし、全日本女子チームの2大会ぶりとなるオリンピック出場に大きく貢献した。6月にインターハイ関東予選に出場したが予選敗退。その後、全日本ヨーロッパ合宿に招集されイタリア4ヶ国対抗戦などに出場した。7月からは1ヶ月にわたるワールドグランプリに出場するも、日本は予選落ちとなり、目立った活躍はできなかった。
アテネオリンピックは8月14日からの開幕であったが、腰の状態は最悪で立つこともままならない状態であった(アテネで他競技のトレーナーから椎間板ヘルニアと診断された)。そのため出場機会がほとんど無いまま、初めてのオリンピックを終えた。しかし、決勝戦の中国対ロシア戦を会場で観戦し、最高峰のプレーを目の当たりにしたことで、初めてメダルへの執着心が生まれた。オリンピック終了後、スリランカで開催されたアジアジュニア選手権に出場。2004年12月、高校最後の大会となる全国私学大会の頃には腰痛がさらに悪化していた。決勝戦の第2セット終盤に出場するも、得点を決めることなく自身の高校バレー生活に幕を閉じた。
2. プロキャリア
木村沙織は、国内の東レアローズと海外のクラブチームで、輝かしいプロキャリアを築いた。
2.1. 東レアローズ時代(2005年 - 2012年)
高校卒業後、東レアローズに入団した。2005年7月開催の女子ジュニア世界選手権U-20では、全試合にレギュラー出場し得点王に輝き、見事に復活を遂げた。同年9月1日からのアジア選手権では、当時イタリアリーグへ派遣移籍していたNECレッドロケッツ・高橋みゆきの代役を担いエースとして活躍した。
自身初のリーグとなった第12回Vリーグでは、開幕戦にライトでスタメン出場。この試合でのアタック決定率はチームトップの52.0%、サービスエースも2本を決め、初白星に貢献した。その後もレフト・ライトでスタメン出場を続け、リーグ前半のチーム快進撃の原動力となった。リーグ後半に入ると、アタック決定率は比較的安定していたものの、サーブを集中して狙われ、攻撃パターンを封じられる場面も見られた。また、腰痛の影響からかサーブレシーブの不安定さもみられたが、最終的にアタック決定率リーグ6位、サーブ効果率リーグ9位という成績で新人賞を受賞した。
2006年世界選手権に出場し、2007年アジア選手権では日本の優勝に大きく貢献し、ベストサーバー賞を獲得した。同年ワールドカップに出場した。2007年には天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会で優勝し、初代チャンピオンとなった。
2008年、2007-08プレミアリーグにおいて東レのリーグ初優勝に貢献し、ベスト6賞を獲得した。同年8月、北京オリンピックに出場した。
2009年、2008-09プレミアリーグにおいて女子史上初の2連覇に貢献し、前年に引き続きベスト6賞を獲得した(日本人最多得点)。同年5月、第58回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会で優勝し、自身初となる黒鷲賞(最高殊勲選手)とベスト6賞を獲得した。2010年には実妹の木村美里も東レに入団し、姉妹で同じチームに所属することになった。
2010年、2009-10プレミアリーグにおいて女子史上初の3連覇に貢献し、自身初のMVPに輝くとともに、3年連続ベスト6賞を獲得した。また、熊前知加子の持つ最多得点部門の記録を塗り替え、レギュラーラウンドで合計566点(アタック496点、ブロック43点、サーブ27点)を記録し、Vリーグ日本記録賞(最多得点部門)を受賞した。同年5月、第59回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会で優勝し、2年連続となる黒鷲賞とベスト6賞を獲得。決勝のJT戦では、3セット目に一人で14点を稼ぐ活躍を見せた。
ワールドグランプリ2010では、故障明けの栗原恵が不参加だったため、臨時で副キャプテンを務めた。攻守の中心となりチームを牽引し、予選ラウンドでは165得点、決勝ラウンドでは105得点を挙げ、予選・決勝ともにベストスコアラーに輝いた。チームはイタリアに2度勝利したり、9年ぶりにブラジルに勝利するなど健闘したが、最終順位は5位に終わった。同年11月開催の世界選手権では、32年ぶりの銅メダル獲得に大きく貢献。エースとしてほぼフル出場し、ベストスコアラーランキングではネスリハン(Neslihan Demirトルコ語)に次ぐ第2位となり、アタック本数、サーブ受数、サーブ本数においては全選手の中で一番の数字を記録した。
2011年11月2日、日本文化出版から自身初となるフォト&エッセイ「Saori」が発売された。ワールドカップ2011では、早いトスに挑戦した影響や、直前の中心メンバーの離脱などもあり、チームも彼女自身も序盤は調子が上がらなかった。しかし、若手の台頭などにより徐々にチームが固まっていき、最終的には当時世界ランキング1位のブラジルや2位のアメリカをストレートで破るなど怒涛の巻き返しを見せ、5連勝で大会を締めくくった。最終順位は4位となり、上位3チームに与えられるロンドン五輪出場権獲得にはあと一歩届かなかった。木村自身も序盤こそ苦しんだものの、その後は安定した活躍を見せ、最終的にはベストスコアラー第4位、ベストアタッカー第5位、ベストブロッカー第13位、ベストサーバー第11位、ベストレシーバー第3位、ベストディガー第10位という攻守にバランスの取れた個人成績を残した。特にベストレシーバーとベストディガー部門においては、守備専門選手であるリベロを除くと共に最上位であり、彼女の守備能力の高さが際立つ結果となった。
2012年、2011-12プレミアリーグにおいて、東レアローズ4度目の優勝に貢献した。決勝戦では両チーム最多の20得点をあげ、5年連続のベスト6賞を受賞した。シーズン途中の2レグ終盤、チームでの練習中に足首を捻挫し、全治3週間と診断された。同年2月11日、12日に行われた岐阜大会ではチームに帯同せず、翌週の山形大会からベンチに復帰したが、試合には出場しなかった。実質的な復帰戦であった2月25日の岡山シーガルズ戦では絶不調でアタックで2得点しかあげることができず、2セット目の途中で交代を余儀なくされた。チームメイトのセッター中道瞳によると、翌日の朝練習で木村は非常にピリピリとした雰囲気で一言も口を利かなかったという。これは初めてのことで、中道はその日の試合(2月26日久光製薬戦)でできるだけ彼女にトスを上げることを心がけたという。故障明けにもかかわらず、彼女は試合にフルセットフル出場し、チーム最多の24得点をあげ、チームは勝利を収めた。
2.2. 海外リーグでの挑戦(2012年 - 2014年)
2012年6月、ロンドンオリンピックの代表メンバーに選出された。準々決勝の中国戦では江畑幸子と共にチーム最多の33得点を叩き出す活躍で、これまでの五輪で1セットも取ることができなかった相手にフルセットの激戦の末に勝利を収めた。3位決定戦で韓国をストレートで破り、日本女子バレーボール代表28年ぶりの銅メダル獲得の立役者となった。中心選手として全試合にフル出場し、北京オリンピックに引き続き日本人ベストスコアラーとなった。全体でもベストスコアラー部門3位にランクインし、ベストスパイカー12位、ベストレシーバー12位、ベストディガー部門で8位であった。

2012年7月10日、ロンドンオリンピック終了後の2012-13シーズンよりTürkiyeトルコトルコ語リーグのワクフバンク・テュルクテレコムへ移籍することが発表された。年俸は推定1.00 億 JPYと報じられた。同年8月16日、スポーツビズとマネジメント契約を締結。9月7日に成田空港からトルコへ向け出発し、記者会見で「いろんな面で成長できるように頑張りたい」と抱負を述べた。同日、トルコ滞在中のみ更新される「木村沙織オフィシャルブログ『木村沙織のトルコ奮闘記』」をアメーバブログにて開始。10日にはイスタンブールでの入団会見に出席し、新チームでの抱負を述べた。本人の希望で決まったという背番号「18」(ロンドン五輪、全日本入りした時の背番号)のユニフォーム姿も初披露した。9月末をもって東レ株式会社を退社(東レアローズを退団)した。
2013年1月31日、寝具メーカーである東京西川とスポンサー契約を締結したことが発表された。3月12日にはトルコ航空とオフィシャル・エアライン・パートナー契約を締結したことが発表された。
同年3月、欧州チャンピオンズリーグにおいて優勝を果たした。予選ラウンドではスタメンで起用されることが多かったが、主にスパイク面で苦労し、PLAYOFF12以降はリリーフサーバーからの守備固めで起用されることが多くなった。決勝のラビタ・バクー戦では3セット全てで途中出場し、サーブや後衛でのサーブレシーブで貢献した。決勝戦後には「絶対勝ちたいと思って臨んだので、優勝して本当によかった。すごくラッキーだなと思います。サーブで攻めて流れをいい方に変えるなど、(チームの)いいリズムをキープするのが一番の役割だと思っていた。」と語った。指揮官であるジョバンニ・グイデッティ監督からは「ほぼ完璧」と賞賛された。準決勝では佐野優子が所属するGalatasaray Daikinガラタサライ・ダイキントルコ語と対戦し、史上初となるFINAL4での日本人対決が実現した。その準決勝と決勝戦の模様はBSフジにて生中継された。ワクフバンクはトルコカップ、トルコリーグも制覇し、公式戦無傷の47連勝で3冠を達成し、最高の形でこのシーズンを終えた。
同年5月13日、眞鍋政義全日本女子監督に指名され、2013年度の全日本キャプテンに就任した(バレー人生初のキャプテン)。2012-13シーズン限りで現役引退を決めていたが、眞鍋監督から熱心に勧誘され翻意したことを公表した。そして、「元キャプテン竹下佳江のキャプテンシーを受け継ぎたい」という気持ちから、竹下が付けていた背番号「3」を希望したという。同年6月3日、ダイキン工業(ガラタサライのスポンサー親会社)は、ワクフバンクからガラタサライへの移籍に合意したことを発表した。この移籍契約金は3400.00 万 THBに達し、当時の日本人バレーボール選手としては史上最高額とされている。
2.3. 日本球界復帰と引退(2014年 - 2017年)
2014年6月5日、東レアローズへの復帰が決定した。東レでは初のプロ契約で、契約期間は2年間であった。

2015年8月のワールドカップ直前、ロンドン五輪後から伸ばして試合では三つ編みで一つに束ねていた髪を、30cm切って大会に臨んだ。
2016年5月のリオデジャネイロ五輪世界最終予選。前日の第1セットで右手小指を負傷した中、第2セットから出場した4日目のタイ戦(逆転勝利)では、劣勢の最終セットでコート内で仲間を集め、6人が手を繋ぎ輪になった。木村はその後も出場を続け、6日目に日本は五輪切符を獲得。自身も出場内定し、女子インドアバレー史上日本初の、五輪4大会連続出場となった。
2016年12月31日に元インドアバレー・ビーチバレー選手の日高裕次郎と結婚したことを発表した。
2017年3月22日、記者会見を開き正式に現役引退を表明した。一番印象に残った試合は、ロンドンオリンピック準々決勝の中国戦と語った。
3. 日本代表キャリア
木村沙織は、2003年から2016年までの長きにわたり日本女子バレーボール国家代表チームの一員として活躍し、数々の国際大会で実績を残した。
3.1. 代表選出と初期の活躍
木村沙織は高校2年生だった2003年に、当時の柳本晶一監督が率いる日本女子代表チームに初めて選出された。同年開催されたワールドカップで成人国際大会デビューを果たした。
3.2. 主要国際大会での実績
木村沙織は、オリンピックに4回、世界選手権に3回、ワールドカップに4回出場するなど、主要な国際大会で数々の実績を収めた。
大会 | 開催年 | 順位 / メダル |
---|---|---|
オリンピック | 2004年アテネ | 5位 |
2008年北京 | 5位 | |
2012年ロンドン | 銅メダル | |
2016年リオデジャネイロ | 5位 | |
世界選手権 | 2006年日本 | 6位 |
2010年日本 | 銅メダル | |
2014年イタリア | 7位 | |
ワールドカップ | 2003年日本 | 5位 |
2007年日本 | 7位 | |
2011年日本 | 4位 | |
2015年日本 | 5位 | |
ワールドグランドチャンピオンズカップ | 2005年日本 | 5位 |
2009年日本 | 4位 | |
2013年日本 | 銅メダル | |
アジア選手権 | 2003年ベトナム | 銀メダル |
2005年中国 | 銅メダル | |
2007年タイ | 金メダル | |
2009年ベトナム | 銅メダル | |
2011年台湾 | 銀メダル | |
2013年タイ | 銀メダル | |
アジア競技大会 | 2006年ドーハ | 銀メダル |
モントルーバレーマスターズ | 2011年スイス | 金メダル |
2015年スイス | 銀メダル | |
ワールドグランプリ | 2008年日本 | 6位 (決勝ラウンド) |
2009年日本 | 6位 (決勝ラウンド) | |
2010年中国 | 5位 (決勝ラウンド) | |
2011年マカオ | 5位 (決勝ラウンド) | |
2013年日本 | 4位 (決勝ラウンド) | |
2014年日本 | 銀メダル |
3.3. 代表チーム主将としての役割
2013年5月、眞鍋政義全日本女子監督に指名され、2013年度の全日本キャプテンに就任した。これは彼女にとってバレーボール人生で初のキャプテン就任であった。眞鍋監督から熱心に勧誘され、一度は引退を決意していたものの、翻意してキャプテンとしてチームを率いることになった。彼女は、元キャプテンの竹下佳江のキャプテンシーを受け継ぎたいという気持ちから、竹下が付けていた背番号「3」を希望した。主将としてチームをまとめ上げ、2013年ワールドグランドチャンピオンズカップでは銅メダル獲得に貢献した。
4. プレースタイルと特徴
木村沙織は、その多才なプレースタイルと卓越した身体能力で知られる。身長は185 cm、体重は68 kg、最高到達点304 cm、ブロック到達点293 cm。
キャリア初期は長身セッターとしての期待もされ、河西昌枝からの指導も受けていたが、後にアウトサイドヒッター(ウィングスパイカー)として不動の地位を確立した。その最大の持ち味は「万能性(Versatility)」であり、どのポジションでも高いレベルでプレーできる能力を持っていた。この多才さから「万能(無限)のサオリン」とも称された。
攻守両面における貢献度が高く、特に守備面ではリベロを除いた選手の中でベストレシーバー部門3位、ベストディガー部門10位という成績を残すなど、その守備能力の高さは特筆すべきものだった。サービスエースやブロックでの得点に加え、ここぞという場面でのスパイク決定力も高く、チームの重要な得点源であった。
愛称は「サオリン」で、「スーパー女子高生」としてメディアに登場して以来、その明るい人柄とあどけない笑顔は多くのファンを魅了し、「ミラクルのサオリン」として国民的な人気を博した。
5. 受賞歴
木村沙織は、選手キャリアを通じて数多くの個人賞を受賞し、所属クラブでも輝かしい成績を収めた。
5.1. 個人賞
- 2005年 - 第13回世界ジュニア女子(U-20)選手権大会 ベストスコアラー賞
- 2006年 - 第12回Vリーグ 新人賞
- 2007年 - アジア選手権 ベストサーバー賞
- 2008年 - 2007/08Vプレミアリーグ ベスト6
- 2009年 - 2008/09Vプレミアリーグ ベスト6
- 2009年 - 日韓Vリーグトップマッチ MIP
- 2009年 - 第58回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会 黒鷲賞(最高殊勲選手)、ベスト6
- 2009年 - アジア選手権 ベストサーバー賞
- 2010年 - 2009/10Vプレミアリーグ MVP(最高殊勲選手)、ベスト6、Vリーグ日本記録賞(最多得点部門)
- 2010年 - 日韓Vリーグトップマッチ MVP
- 2010年 - 第59回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会 黒鷲賞(最高殊勲選手)、ベスト6
- 2010年 - トリノ国際大会 MVP、ベストサーバー賞
- 2010年 - ワールドグランプリ2010 ベストスコアラー
- 2011年 - 2010/11 Vプレミアリーグ 敢闘賞、ベスト6
- 2011年 - 第60回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6
- 2012年 - 2011/12 プレミアリーグ ベスト6
- 2016年 - 第66回日本スポーツ賞 競技団体別最優秀賞
- 2017年 - Vリーグ栄誉賞及び功労賞
5.2. 所属クラブでの受賞
木村沙織が所属したクラブチームで獲得した主なタイトルは以下の通りである。
- 東レアローズ
- 国民体育大会:優勝 (2007年)、準優勝 (2008年)
- 天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会:優勝 (2007-08、2011-12)、準優勝 (2010-11)
- V.プレミアリーグ:優勝 (2007-08、2008-09、2009-10、2011-12)、準優勝 (2010-11)
- 黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会:優勝 (2009年、2010年)
- ワクフバンク・テュルクテレコム
- トルコカップ:優勝 (2012-13)
- CEV女子チャンピオンズリーグ:優勝 (2012-13)
- トルコ女子バレーボールリーグ:優勝 (2012-13)
6. 個人生活
木村沙織は、公私ともに注目を集める存在であった。
2016年12月31日に元インドアバレー・ビーチバレー選手の日高裕次郎と結婚したことを発表した。結婚後の本名は日高沙織となる。2023年には長男の幸太郎が誕生した。実妹の木村美里も元バレーボール選手である。
7. 引退後の活動
選手引退後も、木村沙織は様々な分野で活動を展開している。
7.1. メディア出演と広告活動
引退後も、その知名度と人気を活かし、情報・スポーツ番組、バラエティ番組、さらにはアニメ出演や広告活動など、幅広いメディアで活躍している。
- 情報・スポーツテレビ番組:バース・デイ(2011年、2012年)、情熱大陸(2011年、2012年)、アスリートのチカラ~one secret piece~(2012年)、アスリートの魂(2012年)、裸のアスリート~ROAD TO LONDON~(2012年)、はなまるマーケット(2012年)、アスリートの輝石(2012年)、BS民放5局共同特別番組『STEP FORWARD ~前進、その先へ~』(2012年、2013年)、グラジオラスの轍(2013年)、スポーツドキュメント 英雄たちの決断(2013年)、「SPORTS X」~古田敦也が迫る!アスリートの原点~(2013年)、裸のアスリートII(2013年)、おしえて木村沙織選手(2013年)、突然ですが占ってもいいですか?(2021年)など。
- ラジオ番組:関根勤のスポパラ(2012年)
- バラエティ番組:ヒルナンデス!(2019年12月 - 2020年1月、水曜日シーズンレギュラー)
- テレビアニメ:サザエさん(2015年8月23日、本人役)
- 広告活動:京阪電鉄 京阪マナーポスター「ファインプレー宣言」(2007年)、ゼビオ 女子部活動応援サポーター(2013年)など。
7.2. 著書
- 『Saori-木村沙織フォト&エッセイ』(日本文化出版、2011年、ISBN 978-4890841950)
- 『232days in Turkey -木村沙織フォトブック』(日本文化出版、2013年、ISBN 978-4890842155)
7.3. 事業・その他の活動
2018年8月には「Marunouchi Sport Fes 2018」において、期間限定で木村プロデュースのカフェ「kimura saori"Chocotto"cafe Gallery」をオープン。「カフェを持ちたい、子供の頃からの夢だった」と語った。2019年10月には夫と共に大阪市西区にカフェ「32(サニー)」を営業開始したが、2023年末に「sunny_thirty_two_club」の閉店をインスタグラムで報告した。
現在、日本バレーボール協会アスリート委員会委員も務めている。また、ミズノとはアドバイザリースタッフ契約を結んでいる。
8. 功績と影響
木村沙織は、その多才なプレースタイルと国民的な人気、そして数々の実績によって、日本バレーボール界に多大な功績を残し、社会全般にも大きな影響を与えた選手である。
彼女は、高校生の頃に「スーパー女子高生」として一躍脚光を浴びて以来、常に日本の女子バレーボールの顔として活躍してきた。2009-10シーズンのVプレミアリーグでは、外国人選手がチームにフィットしない中、攻守両面にわたり自身にかかる負担が増え、プレッシャーから寝つきが悪くなったり食事が喉を通らないこともあり、体重が前年から5kg減った時期もあったが、それでもなおチームを牽引し、日本人選手としてはVリーグ史上最多となるシーズン総得点566点を記録するなど、その重圧を乗り越えて素晴らしいパフォーマンスを発揮した。
日本代表のエース、そして主将として、2010年世界選手権での32年ぶりとなる銅メダル、2012年ロンドンオリンピックでの28年ぶりとなる銅メダル獲得に大きく貢献。特にロンドンオリンピックでは、全試合フル出場し、チームの勝利に不可欠な存在であった。4大会連続でのオリンピック出場は、日本の女子インドアバレーボール選手として初の快挙であり、その長く安定したキャリアは特筆すべきものである。
また、2012年から2年間、トルコのプロリーグに挑戦し、ワクフバンクSKでは欧州チャンピオンズリーグ優勝を含む3冠達成に貢献した。これは、日本人選手が海外のトップリーグで活躍し、タイトルを獲得する道を切り拓いたという意味で、後進の選手たちに大きな刺激を与えた。
バレーボール専門誌「月刊バレーボール」の表紙を14ヶ月連続で飾るなど、その人気はバレーボールファンを超えて広がり、多くの人々にとってバレーボールへの関心を高めるきっかけとなった。その人間性やリーダーシップは、コート内外で若い世代の選手たちの模範となり、日本バレーボールの発展に寄与した。
引退後も、カフェ経営やメディア出演、著書出版など多岐にわたる活動を通じて、スポーツ界の枠を超えた社会的な影響力を持ち続けている。彼女のキャリアと人柄は、まさに「ミラクルのサオリン」として、多くの人々の記憶に刻まれている。
9. 個人成績
VリーグおよびVプレミアリーグレギュラーラウンドにおける個人成績は下記の通りである。
シーズン | 所属 | 出場 | アタック | ブロック | サーブ | レセプション | 総得点 | 備考 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | セット | 打数 | 得点 | 決定率 | 効果率 | 決定 | /セット | 打数 | エース | 得点率 | 効果率 | 受数 | 成功率 | ||||
2005/06 | 東レ | 27 | 99 | 635 | 281 | 44.3% | % | 19 | 0.19 | 401 | 26 | 6.48% | 12.6% | 564 | 63.1% | 326 | |
2006/07 | 27 | 111 | 1086 | 411 | 37.8% | % | 25 | 0.23 | 446 | 21 | 4.71% | 11.1% | 784 | 75.0% | 457 | ||
2007/08 | 27 | 84 | 779 | 285 | 36.6% | % | 31 | 0.37 | 279 | 16 | 6.43% | 12.7% | 560 | 72.1% | 332 | ||
2008/09 | 27 | 106 | 1243 | 413 | 33.2% | % | 40 | 0.38 | 380 | 22 | 5.79% | 12.8% | 795 | 70.7% | 475 | ||
2009/10 | 28 | 108 | 1306 | 496 | 38.0% | % | 43 | 0.40 | 390 | 27 | 6.92% | 16.1% | 1088 | 61.5% | 566 | 日本人選手の最高記録 | |
2010/11 | 26 | 100 | 1329 | 488 | 36.7% | % | 29 | 0.29 | 408 | 26 | 6.37% | 13.6% | 912 | 69.7% | 543 | ||
2011/12 | 19 | 64 | 673 | 256 | 38.0% | % | 16 | 0.25 | 223 | 13 | 5.83% | 13.8% | 469 | 61.6% | 285 | ||
2014/15 | 21 | 82 | 879 | 295 | 33.6% | % | 31 | 0.38 | 331 | 10 | 3.02% | 11.2% | 582 | 70.3% | 336 | ||
2015/16 | 21 | 80 | 786 | 269 | 34.2% | % | 25 | 0.31 | 391 | 27 | 6.91% | 15.4% | 359 | 68.0% | 321 | ||
2016/17 | 21 | 77 | 739 | 226 | 30.6% | % | 27 | 0.35 | 253 | 4 | % | 8.2% | 552 | 72.8% | 257 | ||
通算 | 244 | 911 | 9455 | 3420 | 36.2% | % | 286 | 0.31 | 3502 | 192 | % | 12.9% | 6665 | 68.4% | 3898 |