1. 生い立ちと背景
杉野昭夫は1944年9月19日、北海道に生まれた。小学3年生の頃には、手塚治虫の漫画に熱中するようになる。高校2年生の頃には、貸本漫画誌『街』や『影』に「杉野アキオ」の名で投稿を開始し、劇画家を目指した。月に約20ページの作品を2作投稿するペースで、2回の入選経験を持つ。
2. 経歴
杉野昭夫のキャリアは、日本のテレビアニメの草創期から始まり、数々の著名な作品に貢献してきた。
2.1. アニメ業界への参入
1964年、杉野は当時虫プロダクションに所属していた真崎守から、アニメーターとして同社に入社するよう手紙で誘いを受けた。真崎は、貸本劇画誌の投稿欄に掲載された杉野の描いたカットを見て、当時の流行であった「サンパク眼にゲジゲジ眉」とは異なる「やわらかい描線で描かれたキャラクター」に感銘を受けたという。同年、杉野は虫プロダクションに入社し、『鉄腕アトム』第84話で動画としてデビューした。
その後、『ジャングル大帝(第1作)』で動画や原画を担当し、1966年の『ジャングル大帝 進めレオ!』第10話で実質的な作画監督としてデビューを飾った。杉野より8か月後輩にあたる金山明博は、杉野が入社した1965年の時点で、すでに先輩アニメーターたちの注目を集める存在であったと証言している。杉野自身は、この時期の仕事の師として平田敏夫と村野守美の名を挙げ、平田からは「どんなにコケても怒ったりしなかった」、村野からは「モノを創るのはこうするのだと、男らしくキッチリ言ってもらえ」たと感謝の意を述べている。
2.2. 出﨑統との協業
杉野は虫プロダクションに入社する以前から出﨑統の漫画を読んでおり、彼に憧れを抱いていた。二人の仕事上の最初の接点は、1968年の『わんぱく探偵団』で、出﨑が各話演出、杉野が作画を担当した回が数回あったことである。しかし、互いを直接的に意識したのは、1969年の日米合作アニメ『フロスティ・ザ・スノーマン~温かい雪だるま』の制作時に、机を並べて原画を描いた時であった。杉野は長髪の頭を机に突っ伏して絵を描く出﨑を見て「寝ているのか」と思った一方、出﨑は杉野の作画を「やたらうまい」と感心したという。
1970年の『あしたのジョー』で、監督が出﨑、作画監督が杉野(金山明博、荒木伸吾と共同)という体制が本格的に確立された。当時虫プロダクションの新人だった安彦良和は、『ジョー』制作班について「虫プロの質のいい連中が集まっていた」と語っている。1972年には、『ジョー』制作班の丸山正雄、出﨑、川尻善昭らと共にマッドハウスの設立に参加した。マッドハウス時代には、東京ムービーや東京ムービー新社の作品を中心に、出﨑とのコンビで数多くの作品を手がけた。また、ズイヨー映像、日本アニメーション、タツノコプロ、東映アニメーションなどの作品にも作画監督や原画として多数参加している。大橋学は、杉野が描いた『科学忍者隊ガッチャマン』の原画を見た際、「杉野さんが描く『ガッチャマン』がキャラクター表(設定書)よりいい。凄いとは思っていたけど、直に見るともっと凄い」と述べている。
2.3. スタジオあんなぷる設立と初監督作品
1980年、『あしたのジョー2』の制作に際し、杉野は出﨑統と共にマッドハウスを退社し、スタジオあんなぷるを設立した。杉野自身が明かしたところによると、当時マッドハウスでは複数の作品を並行して制作していたが、『ジョー2』のみに集中したいと主張した出﨑と杉野に対し、経営上の理由から会社側がそれを認めず、両者が決裂したためであった。
スタジオあんなぷるでは、森本晃司、福島敦子、大塚伸治といった若手アニメーターを育成した。1980年代後半から1991年までは、海外との合作作品にも多数参加した。1993年以降は、主に手塚プロダクション制作の作品を中心に活動を展開している。2000年代には、キャラクターデザインや作画監督だけでなく、1970年代以来となる「原画」の役職もいくつかの作品で担当するようになった。そして2003年には、劇場用映画『ぼくの孫悟空』で、自身初となる監督を務めた。
3. 作風と貢献
杉野昭夫の作風は、その独特の線描と多様なキャラクター表現力に特徴がある。彼の描く線は、ある者には硬質と評され、またある者には柔らかいと評される、見る者に深い印象を与えるタッチを持つ。
手塚眞は、杉野が手塚治虫原作のキャラクターデザインにおいて、作品の雰囲気やキャラクターの性格に合わせて絵柄を自在に変える技術を持っていることを指摘している。例えば、『ブラック・ジャック』では原作とは異なる劇画調の絵柄を採用する一方で、『ユニコ』や『ジャングル大帝 劇場版』では原作のイメージを尊重した曲線的な絵柄を用いるなど、その表現の幅広さを示している。
作画監督としての杉野の仕事ぶりは、その緻密さと責任感で知られている。『あしたのジョー』制作時、丸山正雄によれば、杉野は原画修正作業を行う際に絵コンテを完璧に記憶し、原画家の誤りを正確に修正していたエピソードを明かしており、そのプロフェッショナリズムと記憶力の高さを示している。さらに、杉野自身が『宝島』の最終回でジムとシルバーが再会するシーンの作画修正を涙ながらに行ったという話や、森本晃司がその感情移入の深さを指摘していることは、彼がいかに作品に情熱を注ぎ、キャラクターの内面までをも表現しようと努めていたかを物語っている。
4. 主な作品
杉野昭夫がキャラクターデザイン、作画監督、原画などで参加した代表的なアニメーション作品を以下に紹介する。
4.1. テレビアニメ
- 1963年 - 『鉄腕アトム(第1作)』( - 1966年、動画)
- 1965年 - 『ジャングル大帝(第1作)』( - 1966年、動画)
- 1966年 - 『ジャングル大帝 進めレオ!』( - 1967年、動画・原画・作画監督)
- 1968年 - 『わんぱく探偵団』(作画監督)、『佐武と市捕物控』( - 1969年、作画監督)
- 1970年 - 『あしたのジョー』( - 1971年、作画監督)、『家なき子』(キャラクターデザイン)
- 1971年 - 『国松さまのお通りだい』( - 1972年、絵コンテ・作画監督)
- 1972年 - 『科学忍者隊ガッチャマン』( - 1974年、原画)
- 1973年 - 『ジャングル黒べえ』(作画監督)、『エースをねらえ!』( - 1974年、作画監督)
- 1974年 - 『アルプスの少女ハイジ』(原画)、『柔道讃歌』(作画監督)、『小さなバイキングビッケ』( - 1975年、原画)、『ウリクペン救助隊』( - 1975年、キャラクターデザイン)、『てんとう虫の歌』( - 1976年、作画監督)
- 1975年 - 『ラ・セーヌの星』(キャラクターデザイン)、『草原の少女ローラ』( - 1976年、原画)
- 1976年 - 『大空魔竜ガイキング』( - 1977年、原作・作画監督)、『まんが世界昔ばなし』( - 1979年、作画監督)
- 1977年 - 『ジェッターマルス』(キャラクター設計・監修、作画監督)、『アローエンブレム グランプリの鷹』( - 1978年、オリジナルデザイン)、『家なき子』( - 1978年、作画監督)
- 1978年 - 『宝島』( - 1979年、作画監督)
- 1979年 - 『アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険』(キャラクター設定)、『ベルサイユのばら』(デザイン)
- 1980年 - 『トム・ソーヤーの冒険』(作画監督)、『坊っちゃん』(作画監督)、『あしたのジョー2』( - 1981年、作画監督)
- 1982年 - 『スペースコブラ』( - 1983年、作画監督)
- 1983年 - 『キャッツ・アイ』( - 1984年、キャラクターデザイン)
- 1984年 - 『魔法少女レインボーブライト』( - 1986年、作画監督)、『マイティ・オーボッツ』(キャラクターデザイン・作画監督)、『おしん』(デザイン)
- 1986年 - 『ギャラクシー・ハイスクール』(作画監督。日本では1990年8月より放送。)
- 1989年 - 『レポーター・ブルース』(キャラクターデザイン。日本では1991年10月から11月まで放送。)
- 1991年 - 『おにいさまへ...』( - 1992年、作画監督)
- 1993年 - 『ヒロシマに一番電車が走った ~300通の被爆体験手記から~』(キャラクターデザイン)
- 1997年 - 『手塚治虫の旧約聖書物語』(作画監督)、『白鯨伝説』( - 1999年、原作・作画監督)
- 2003年 - 『アストロボーイ・鉄腕アトム』( - 2004年、原画)
- 2004年 - 『火の鳥』(キャラクターデザイン・作画監督)、『ブラック・ジャック』( - 2006年、キャラクターデザイン・絵コンテ・作画監督)
- 2005年 - 『雪の女王 The Snow Queen』( - 2006年、キャラクターデザイン)、『銀魂』( - 2010年、作画監督・原画)
- 2006年 - 『ブラック・ジャック21』(キャラクターデザイン・作画監督)、『NANA』( - 2007年、原画)
- 2007年 - 『もっけ』( - 2008年、作画監督)
- 2008年 - 『ウルトラヴァイオレット:コード044』(キャラクターデザイン・総作画監督・作画監督)
- 2009年 - 『源氏物語千年紀 Genji』(キャラクターデザイン・総作画監督・作画監督)
- 2015年 - 『長門有希ちゃんの消失』(原画)、『ヤング ブラック・ジャック』(原画・後提供イラスト)
- 2018年 - 『ふるさとめぐり 日本の昔ばなし』(キャラクターデザイン・絵コンテ・演出・作画。2018年1月21日放送分Aパート「やまんば堂」のみ担当。)
- 2019年 - 『どろろ』(原画)
- 2024年 - 『ザ・ファブル』(総作画監督・原画)、『僕の妻は感情がない』(原画)
4.2. 劇場アニメ
- 1969年 - 『千夜一夜物語』(動画)
- 1979年 - 『エースをねらえ!』(作画監督)
- 1980年 - 『あしたのジョー』(作画監督)、『家なき子』(作画監督)
- 1981年 - 『ユニコ』(作画監督)、『あしたのジョー2』(作画監督)
- 1982年 - 『SPACE ADVENTURE コブラ』(作画監督)
- 1983年 - 『ゴルゴ13』(作画監督)
- 1984年 - 『おしん』(キャラクターデザイン)
- 1986年 - 『11人いる!』(キャラクターデザイン)
- 1987年 - 『宝島』(作画監督)
- 1996年 - 『ブラック・ジャック』(キャラクターデザイン・作画監督)
- 1997年 - 『ジャングル大帝』(キャラクターデザイン・作画監督)
- 2003年 - 『ぼくの孫悟空』(監督・キャラクターデザイン・作画監督)
- 2005年 - 『劇場版AIR』(原画)、『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』(キャラクターデザイン・作画監督)、『Dr.ピノコの森の冒険』(キャラクター監修)
4.3. OVA・その他
- 制作年不明 - 『ケンとすてきな仲間』(パイロットフィルム、作画)
- 1969年 - 『あしたのジョー』(パイロットフィルム3種、作画)、『Frosty The Snowman』(原画)
- 1970年 - 『The Mad, Mad, Mad Comedians』(原画)、『Tomfoolery』(絵コンテ清書)、『Mr. Toad』(原画)
- 1974年 - 『純愛山河 愛と誠』( - 1975年、OP作画)
- 1975年 - 『ザ・ファイヤー・Gメン』(防災アニメ、原画)
- 1976年 - 『幸せは安全と共に』(PR映画、原画)
- 1981年 - 『電話の天使、電話の悪魔 電話のマナーは思いやり』(RR映画)、『SPACE ADVENTURE COBRA』(英語版パイロットフィルム、作画)
- 1985年 - 『Sweet Sea』(キャラクターデザイン・作画監督)
- 1986年 - 『那由他』(キャラクターデザイン・作画監督)
- 1987年 - 『スペース・ファンタジア 2001夜物語』(キャラクターデザイン・作画監督)、『リトル・ニモ』(パイロットフィルム、キャラクターデザイン・作画監督)
- 1988年 - 『エースをねらえ!2』(キャラクターデザイン・作画監督)、『現世守護神ぴーひょろ一家』(キャラクターデザイン・作画監修)、『銀河英雄伝説』( - 1989年、ゲストキャラクター原案)、『Clan of Pihyoro』(デザイン・アニメーション)
- 1989年 - 『華星夜曲』(キャラクターデザイン・作画監督)、『海の闇、月の影』(作画監督)、『エースをねらえ!ファイナルステージ』( - 1990年、キャラクターデザイン)、『Disney's Gummi Bears』(作画監督)、『Starlight Nocturne』(デザイン・アニメーション)、『The Story of Riki』(デザイン)
- 1990年 - 『力王 RIKI-OH VIOLENCE 2 滅びの子』(キャラクターデザイン)、『B・B』( - 1991年、キャラクターデザイン・作画監督)、『修羅之介斬魔劍・死鎌紋の男』(キャラクターデザイン・作画監督)、『Sword for Truth』(デザイン・アニメーション)
- 1991年 - 『Brother Dearest』(デザイン・アニメーション)
- 1992年 - 『宝島メモリアル 夕凪と呼ばれた男』(作画監督)、『In the Beginning: The Bible Stories』(アニメーション)
- 1993年 - 『ブラック・ジャック』( - 2011年、キャラクターデザイン・作画監督)、『First Tram in Hiroshima』(デザイン・アニメーション)
- 1994年 - 『オサムとムサシ』(キャラクターデザイン・作画監督)、『Hakugei Densetsu Artbook』(原作)
- 1995年 - 『都会のブッチー』(作画監督)、『昆蟲つれづれ草』(作画監督)
- 1996年 - 『オツベルと象』(ハイビジョンテスト映像、キャラクターデザイン・作画監督)
- 1998年 - 『ゴルゴ13~QUEEN BEE~』(キャラクターデザイン・作画監督)
- 2004年 - 『Phoenix』(アニメーション監督)
- 2007年 - 『Mokke』(アニメーション)
- 2008年 - 『Ultraviolet: Code 044』(キャラクターデザイン)
- 2010年 - 『Cobra The Animation』(デザイン)
5. 評価と影響
杉野昭夫は、日本のテレビアニメ黎明期から現在に至るまで、その卓越した技術と深い芸術性によってアニメーション表現に多大な影響を与えてきた。彼の作品は、同時代のクリエイターや後進からも高く評価されている。
特に、長年にわたり協業した出﨑統監督は、杉野の描くキャラクターが「全部生きている」「真実味がある」と絶賛し、杉野の作画が自身の演出の可能性を広げたと語っている。これは、杉野が単なる技術者にとどまらず、キャラクターに魂を吹き込むことができる稀有な才能を持っていたことを示している。
また、杉野の作画監督としての緻密な仕事ぶりは、多くの証言によって裏付けられている。丸山正雄は、『あしたのジョー』制作時に杉野が絵コンテを完璧に記憶し、原画家の誤りを正確に修正していたエピソードを明かしており、そのプロフェッショナリズムと記憶力の高さを示している。さらに、杉野が『宝島』の感動的なシーンの作画修正を涙ながらに行ったという話や、森本晃司がその感情移入の深さを指摘していることは、彼がいかに作品に情熱を注ぎ、キャラクターの内面までをも表現しようと努めていたかを物語っている。
手塚眞が指摘するように、杉野が手塚治虫原作のキャラクターにおいて、原作のイメージを尊重しつつも、作品のジャンルやトーンに合わせて絵柄を自在に変化させる能力は、彼が持つ表現の多様性と適応力の証である。これは、アニメーションが多様な表現を追求する上で、いかに重要な資質であるかを示している。
杉野昭夫は、その独自の作風、キャラクターへの深い洞察、そして揺るぎないプロ意識を通じて、日本のテレビアニメの発展に不可欠な貢献を果たし、後世のアニメーターやクリエイターに多大な影響を与え続けている。彼の作品は、アニメーションが単なる絵の連続ではなく、感情や物語を深く伝える芸術形式であることを証明している。