1. 概要
村岡桃佳(村岡桃佳むらおか ももか日本語、1997年3月3日 - )は、埼玉県深谷市出身の日本のパラアルペンスキー選手であり、車いす陸上競技選手でもある。トヨタ自動車に所属し、マネジメント契約先はスポーツビズ。彼女は冬季パラリンピックにおいて、これまでの日本選手が獲得した最多の金メダル数(4個)を誇り、冬季パラリンピックにおける日本勢最多の合計メダル数(9個)を記録している。特に、2018年の平昌パラリンピックでは出場全5種目でメダルを獲得するという偉業を達成し、続く2022年の北京パラリンピックでも3個の金メダルを含む4個のメダルを獲得した。
村岡の競技人生は、幼少期に発症した横断性脊髄炎による両下肢麻痺から始まり、車いす生活という困難を乗り越えて、国内外の舞台で輝かしい成績を収めてきた。彼女の活躍は、単なるスポーツの勝利に留まらず、障害者スポーツの普及と発展、そして社会のバリアフリー化推進に大きく貢献しており、多くの人々に勇気と希望を与え続けている。
2. 生涯
村岡桃佳は、幼少期に病を発症し車いす生活となりながらも、学業とスポーツに励み、パラアルペンスキー選手としての道を切り開いていった。
2.1. 幼少期と疾病の発症
村岡桃佳は1997年3月3日、埼玉県大里郡川本町(現在の深谷市)に生まれた。4歳の時、横断性脊髄炎に感染し、これにより両下肢に麻痺の後遺症が残り、以降は車いすでの生活を余儀なくされた。彼女は元々外で遊ぶことが好きであったが、病気を発症してからは周囲の視線を気にするようになり、外出を恐れて引きこもりがちになったと回想している。しかし、父親と共に様々な車いすを使った障害者スポーツに挑戦する中で、次第に活発さを取り戻していった。
2.2. 学業とパラスポーツとの出会い
村岡は深谷市立川本北小学校、深谷市立川本中学校へと進学した。中学校3年次には本庄市にある早稲田大学本庄高等学院への進学を目指したが、当時の校舎がバリアフリー化されていなかったため、進学を断念せざるを得ず、正智深谷高等学校に入学した。
高校卒業後、彼女はパラアスリートとして初めて早稲田大学の「トップアスリート入試」に合格し、スポーツ科学部に進学した。彼女の入学に合わせて、原則として寮生活を送る早稲田大学スキー部は、寮のバリアフリー化を決定。改修工事費用は総額600.00 万 JPYで、そのうち500.00 万 JPYを大学が負担し、残りの100.00 万 JPYは匿名の寄付によって賄われた。これを機に、早稲田大学はキャンパス全体のバリアフリー化を推進するようになった。スキー部では、ノルディック複合の渡部暁斗・渡部善斗兄弟をはじめ、日本の一線級のスキー選手を育成してきた監督の倉田秀道に師事した。倉田にとって障害者スポーツ選手の指導は初めての経験であり、当初は躊躇もあったが、部員たちが誰も反対しなかったため、指導を引き受けたという。
村岡が競技スキーの世界に深くのめり込むきっかけとなったのは、中学生の時に障害者アルペンスキー選手の森井大輝に憧れたことだった。彼女は2019年3月に大学を卒業し、同年4月には大学院の早稲田大学スポーツ科学研究科に進学し、コーチングの研究を行うことを表明した。
3. アルペンスキーでの主な活躍
村岡桃佳は、数々の国際大会で輝かしい成績を収め、日本のパラアルペンスキー界を牽引する存在として活躍している。
3.1. 初期キャリアと国際大会デビュー
村岡は、2014年のソチパラリンピック出場以前から、国際舞台での経験を積んでいた。
2015年にはカナダ・パノラママウンテンリゾートで開催された世界パラアルペンスキー選手権大会に出場し、女子滑降(座位)で銀メダルを、女子大回転(座位)で銅メダルを獲得した。
2017年にはイタリア・タルヴィージオで開催された同選手権大会で、女子滑降(座位)、女子スーパー大回転(座位)、女子大回転(座位)の3種目で銅メダルを獲得した。
また、IPCアルペンスキーワールドカップにおいても好成績を残しており、2017年の韓国大会では女子スーパー大回転(座位)で2位、日本の白馬村で開催された大会では女子スーパー大回転(座位)で優勝を果たしている。同年には、韓国大会で女子スーパー大回転2位、女子回転2位、女子滑降3位、白馬村大会で女子スーパー大回転1位、女子大回転3位、オーストリア大会で女子大回転2位、2018年のカナダ大会で女子スーパー大回転3位を記録している。
3.2. 2014年ソチパラリンピック
村岡桃佳は17歳で2014年ソチパラリンピックに出場し、自身初のパラリンピックの舞台を踏んだ。この大会では、スーパー大回転で旗門を一つ通過し忘れ失格となったものの、大回転では5位に入賞し、国際舞台での第一歩を記した。この経験が、その後の「メダル」への強い思いに繋がったと彼女は語っている。
3.3. 2018年平昌パラリンピック
2018年3月9日、2018年平昌パラリンピックの開会式で日本選手団の旗手を務めた。翌3月10日のアルペンスキー女子滑降(座位)で銀メダルを獲得し、平昌大会における日本勢初のメダリストとなった。さらに、3月11日のスーパー大回転(座位)では銅メダルを獲得し、大会2個目のメダルを手にした。3月13日のスーパー複合(座位)でも銅メダルを獲得し、これによりアルペンスキー日本勢としては1大会で最多となる3個のメダルを獲得した。
3月14日の大回転(座位)では、1回目でトップに立ち、続く2回目でも好記録を収め、今大会日本勢初となる金メダルを獲得した。この金メダル獲得により、長野パラリンピックの大日方邦子以来となる、1大会で金・銀・銅すべてのメダル獲得を達成した。
大会最終日の3月18日に行われた回転(座位)では、1回目の滑走で2位、2回目の滑走で3位を記録し、合計で2位となり銀メダルを獲得した。これにより、村岡は出場した全5種目(滑降・スーパー大回転・スーパー複合・大回転・回転)で表彰台に立ち、冬季パラリンピックにおける日本選手最多となる1大会5個のメダル獲得という歴史的快挙を成し遂げた。
これらの功績を受け、埼玉県知事は村岡桃佳に彩の国功労賞を授与しようとしたが、自由民主党県議団の反対多数により、県民栄誉賞の授与は否決された。
3.4. 2022年北京パラリンピック
2022年3月5日、2022年北京パラリンピックのアルペンスキー女子滑降(座位)で金メダルを獲得し、2大会連続となる金メダルを手にした。これは、北京パラリンピックにおける日本勢の金メダル第1号であった。翌3月6日の女子スーパー大回転(座位)では、滑走中に片方のコンタクトレンズを落とし視界不良になるというハプニングに見舞われながらも、2日連続となる金メダルを獲得する精神力の強さを見せた。3月7日の女子スーパー複合(座位)では銀メダルを獲得し、3日連続でのメダル獲得となった。
3月11日の大回転(座位)では、2大会連続となる金メダルを獲得。これにより、村岡の冬季パラリンピックにおける通算獲得金メダル数は4個となり、日本勢の最多記録を更新した。大会最終種目となった3月12日の回転(座位)では5位という結果に終わり、2大会連続の出場全種目メダル獲得はならなかった。この大会で、彼女は金メダル3個、銀メダル1個の計4個のメダルを獲得し、改めてその実力を世界に示した。
4. 他競技での活動
村岡桃佳はアルペンスキーだけでなく、陸上競技にも挑戦し、夏のパラリンピックにも出場している。
4.1. 陸上競技への挑戦
村岡はアルペンスキーのオフシーズンを利用し、陸上競技(車いす100mなど)にも挑戦している。2019年6月2日に大阪府で開催された日本パラ陸上競技選手権大会で陸上競技選手として再デビューを果たし、女子100m 車いすT54の決勝で2位に入賞した。
4.2. 2020年東京パラリンピック
2021年9月1日、2020年東京パラリンピックの陸上競技女子100m 車いすT54に出場し、6位に入賞した。T54は、脊髄損傷などにより下肢に麻痺のある選手が出場する車いすレースのクラスである。彼女は冬季と夏季の両方のパラリンピックに出場した数少ない日本選手の一人となった。
5. 対外活動・所属
村岡桃佳は競技活動以外でも、企業や自治体との連携を通じて社会貢献活動を行っている。
5.1. 所属企業と広報活動
村岡桃佳はトヨタ自動車に所属するアスリートであり、「トヨタトップアスリート」の一員として活動している。また、スポーツ選手や文化人のマネジメントを行うスポーツビズとマネジメント契約を結んでおり、競技以外の広報活動も積極的に行っている。
出身地である埼玉県深谷市からは、市の魅力をPRする「深谷市親善大使」に委嘱されており、故郷への貢献にも力を入れている。
6. 受賞・栄典
村岡桃佳は、その輝かしい競技成績と社会貢献が認められ、数々の賞や栄典を受けている。
- 2018年3月 - 深谷市深谷市民栄誉賞(創設第1号)
- 2018年4月 - 所沢市特別顕彰
- 2018年春 - 紫綬褒章
- 2018年7月 - 埼玉県彩の国功労賞
- 2019年3月 - 早稲田大学学術院長特別賞(渡辺一平選手と同時受賞)
- 2022年春 - 紫綬褒章飾版
7. 評価と影響
村岡桃佳の活動は、単にアスリートとしての競技成績に留まらず、社会に多大な影響を与えている。彼女は、障害者スポーツの普及と地位向上に大きく貢献した。特に、彼女の輝かしい活躍は、障害を持つ人々が社会で活躍できる可能性を広げ、多くの人々に夢と希望を与えている。
早稲田大学への進学に際して、寮のバリアフリー化が実現したエピソードは、大学キャンパス全体のバリアフリー推進に繋がる契機となり、社会におけるバリアフリー環境整備の重要性を改めて浮き彫りにした。また、地元埼玉県の県民栄誉賞の授与を巡る議論は、障害を持つ人々の功績に対する社会の認識や、行政における意思決定プロセスの課題を提起する側面も持ち合わせていた。
彼女の競技外での広報活動や親善大使としての役割も、障害者スポーツに対する理解を深め、共生社会の実現に向けた社会意識の変革を促している。村岡桃佳のレガシーは、彼女のメダル数だけでなく、彼女が社会にもたらしたこれらの前向きな変化にこそあると言えるだろう。
