1. 来歴
柳父章の生涯は、学問への深い探求と、自身の健康問題との闘いによって形作られた。
1.1. 出生、家族、幼少期
柳父章は1928年6月12日に東京で生まれた。本名は章新(ゆきよし)。彼の父は農商務省の官吏であった。
1.2. 健康問題と学業転向
旧制浦和高等学校に進学したが、20歳の時に肺結核を患い、サナトリウムで8年間の長期療養を余儀なくされた。この闘病期間を経て、彼は学業を中断し、その後東京大学に入学した。当初は理系の分野を志していたが、この経験を機に文系へと転向し、教養学部国際関係論を卒業した。
1.3. 東京大学時代
東京大学在学中、柳父章は精力的に活動した。同期には後に著名なフランス文学者となる蓮實重彦がいた。彼は在学中に「東京大学新聞」に「黒船ショック以後」や「武内宿祢」などの論考を発表し、五月祭賞を受賞した。これらの初期の著作は、作家の堀田善衛らから高く評価された。
2. 職歴
大学卒業後、柳父章は評論家としての道を歩み始め、後に大学教授として学術界でのキャリアを確立した。
2.1. 評論家としての初期活動
大学卒業後、柳父章は評論家となることを志し、私塾の講師などを務めながら執筆活動を展開した。この時期に、彼の後の主要な研究テーマにつながる思想の基礎が培われた。
2.2. 桃山学院大学教授
1987年、大学時代のフランス語の師であった平井啓之からの誘いを受け、桃山学院大学の教授に就任した。彼は桃山学院大学で研究活動を続け、1999年に定年退職した。
3. 研究と著作
柳父章の学術的業績は、翻訳語研究と比較文化論の二つの柱を中心に展開され、数多くの重要な著作と論文を発表した。
3.1. 翻訳語研究と日本文化分析
彼の研究の中心は、明治期以降に西洋文化を受容する過程で日本が新たに作り出した「翻訳語」にあった。柳父章は、これらの翻訳語が日本語、日本文化、学問、そして思想の基本的な性格をどのように形成したかを深く問い、その成果は文明批評として注目された。彼は、翻訳語が単なる外国語の置き換えではなく、日本の思考様式や社会構造に深く影響を与えたと論じた。
3.2. 翻訳と文化理論
柳父章は、翻訳の本質、翻訳文化、そして言語と文化の関係について独自の理論を展開した。特に、翻訳において元の言葉の意味よりも翻訳後の文字や形式が重視される現象を「カセット効果」と命名し、この概念を通じて翻訳が文化に与える影響を分析した。
3.3. 主要著作
柳父章は多くの著書を出版しており、その一部は以下の通りである。
- 『翻訳語の論理 - 言語にみる日本文化の構造』(法政大学出版局、1972年)
- 『文体の論理 - 小林秀雄の思考の構造』(法政大学出版局、1976年)
- 『翻訳とはなにか - 日本語と翻訳文化』(法政大学出版局、1976年)
- 『翻訳の思想 - 自然とnature』(平凡社、1977年)
- 『翻訳文化を考える』(法政大学出版局、1978年)
- 『比較日本語論』(日本翻訳家養成センター、1979年)
- 『「日本語」をどう書くか』(PHP研究所、1981年)
- 『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年) - この著作は韓国語とドイツ語にも翻訳された。
- 『翻訳学問批判 - 日本語の構造、翻訳の責任』(日本翻訳家養成センター、1983年)
- 『現代日本語の発見』(てらこや出版、1983年)
- 『ゴッドと上帝 - 歴史の中の翻訳者』(筑摩書房、1986年) - 『ゴッドは神か上帝か』(岩波現代文庫、2001年)として再刊。
- 『翻訳の思想 - 自然とnature』(ちくま学芸文庫、1995年)
- 『一語の辞典 - 文化』(三省堂、1995年)
- 『翻訳語を読む』(光芒社、1998年)
- 『一語の辞典 - 愛』(三省堂、2001年)
- 『「秘」の思想 - 日本文化のオモテとウラ』(法政大学出版局、2002年)
- 『近代日本語の思想 - 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
- 『未知との出会い 翻訳文化論再説』(法政大学出版局、2013年)
共編著:
- 『日本の翻訳論 アンソロジーと解題』(水野的、長沼美香子共編、法政大学出版局、2010年)
3.4. 学術論文
柳父章は、学術誌にも多数の論文を発表している。主な論文は以下の通りである。
- 「日本語と翻訳」(『文字』京都精華大学文字文明研究所、2004年1月、第2号、197-224頁)
- 「兆民はなぜ『民約訳解』を漢文で訳したか (特集 翻訳--翻訳とは何を翻訳するのか) -- (翻訳のパースペクティブ)」(『国文学 解釈と教材の研究』学灯社、2004年9月、第49巻第10号、21-28頁)
- 「初めにことばがあった (特集 翻訳を越えて)」(『國文學 : 解釈と教材の研究』學燈社、2008年5月、第53巻第7号、6-11頁)
- 「日本の翻訳とTranslation Studies」(『日本比較文学会東京支部研究報告』日本比較文学会東京支部、2011年9月、第8号、26-30頁)
- 「言葉の限界 (特集 日本語という幻想)」(『大航海』新書館、2003年、第46号、144-150頁)
4. 受賞と評価
柳父章は、その学術的業績が高く評価され、主要な賞を受賞している。
彼は第14回(1987年)山崎賞を受賞した。この賞は、主に明治期に日本が西洋文化を受容する過程で新たに作られた翻訳語に注目し、翻訳語を使用する日本語と日本文化・学問・思想の基本性格を文明批評として問い直した、その注目すべき業績が評価されたものである。
5. 死去
柳父章は2018年1月2日に脳内出血のため死去した。89歳であった。
6. 影響と評価
柳父章の研究は、翻訳学や日本文化研究に大きな影響を与えた。彼の翻訳語に関する深い洞察は、日本の近代化における言語の役割を理解する上で不可欠な視点を提供した。特に、『翻訳語成立事情』は、その重要な内容から韓国語やドイツ語に翻訳されるなど、国際的にもその価値が認められている。彼の文明批評としての視点は、学界内外で高く評価されている。
7. 外部リンク
- [https://web.archive.org/web/20080204153125/http://www3.ocn.ne.jp/~manuke/index.htm 柳父章 個人ホームページ]
- [https://web.archive.org/web/20090212201959/http://www.japanlink.co.jp/ol/yanabu.html Modernization of Japanese Language by Akira Yanabu]