1. 生い立ちとアマチュア時代
権藤博の個人的な背景と、プロ入り前のアマチュア野球での経歴について詳述する。
権藤博は佐賀県鳥栖市に生まれ育った。幼少期に父親を早くに亡くし、母親の手一つで育てられた。この経験から、プロ入り後は給料の半分を故郷の母親の元へ送っていた。彼の次女である権藤嘉江子は、後に「株式会社SONOKO」の社長を務めている。
鳥栖高校では当初内野手としてプレーしていたが、チームに投手が不在だったため、投手に転向した。高校3年次の1956年には、夏の甲子園佐賀大会準決勝まで進出するも、佐賀商に惜敗し、甲子園出場は叶わなかった。しかし、その活躍がプロ野球界のスカウトの目に留まり、西鉄ライオンズからスカウトされた。
西鉄の入団テストを受けた後、権藤はブリヂストンタイヤのテストも受け合格する。西鉄のテストで三原脩監督や川崎徳次の前で投げたことが自信となり、ブリヂストンのテストでは誰もバットにかすらせることができなかったという。先にブリヂストンから合格通知が届いたこと、また当時の体重がまだ62 kgと体が細かったことから西鉄からの誘いは断り、高校卒業後の1957年にブリヂストンタイヤに入社した。
ブリヂストンの久留米工場用度課に配属された権藤は、午前8時10分始業で16時10分終業という勤務体制の中、野球部員は14時には仕事を終えて練習に参加できた。当時の福岡県は社会人野球が盛んで、近くには日鉄二瀬や東洋高圧大牟田、北九州地区には八幡製鐵、門司鉄道局といった全国に名を馳せる名門チームがひしめいていた。しかし、ブリヂストンは同好会のようなチームで、練習は個々の自主性に委ねられていた。
華奢な体つきだった権藤は、体力作りに勤しんだ。腹筋、背筋の強化に加え、ランニングを日課とし、球場近くの筑後川の川べりを毎日走った。徐々に体が強くなり、球速も増していった。権藤の身体能力は野球界に留まらず、他分野からも高く評価されていた。織田幹雄は「何とかコイツを東京オリンピックに出せないものか。出れば金メダルは確実」とまで漏らしたとされ、東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向してほしいという要請があったという逸話も残っている。
入社3年目の1959年には、ブリヂストンの球場に日本石油や日本通運、立教大などが来て試合をしたが、権藤はほとんど打たれなかった。対戦した投手には1957年の第3回世界野球大会で日本の優勝に貢献した堀本律雄もいたが、堀本が投げるブルペンの後ろで見ていた同期入社でバッテリーを組む堤田忠夫は「ゴン(権藤)のほうがすごい球だよ」と評した。
1960年の都市対抗北九州南部予選初戦では、強豪日鉄二瀬を相手に延長10回まで無失点の快投を見せた。11回に1点を失い力尽きたものの、その後、北九州代表となった日鉄二瀬の補強選手として都市対抗に出場。2試合に登板し、同じ鳥栖高校の一年先輩である井上守(のち阪急)をリリーフして好投した。計7イニングを無失点に抑える活躍を見せた。この活躍が、日鉄二瀬の監督を退任し中日二軍監督となっていた濃人渉の目に留まり、中日が獲得に動いた。他にも複数の球団からスカウトされたが、最終的に「契約金はどの球団よりも高くする」と言われた巨人の誘いを断り、1961年に中日ドラゴンズへ入団した。
2. プロ野球選手時代
プロ野球選手としての中日ドラゴンズでの活動を中心に、彼の業績、酷使による肩の負傷など、選手時代に経験した困難を詳細に扱う。
中日ドラゴンズに入団した権藤は、チームのエースである杉下茂の引退によって空いた背番号20を受け継いだ。ルーキーイヤーの1961年のオープン戦で28.1回を投げて自責点1(防御率0.31)の好成績を残すと、一軍監督となっていた濃人渉から「今年はおまえを軸にしていく」と言い渡された。
1年目から伸びのある直球と大きく縦に落ちるカーブを武器にエースとして活躍し、救援もこなした。この年、チームの試合数130の半分以上にあたる69試合に登板し、うち先発は44試合に及んだ。成績は35勝19敗、投球回数429.1回、奪三振310、防御率1.70を記録。沢村賞と新人王を受賞した。投球回数429.1回は、1950年の2リーグ制施行以降の日本プロ野球シーズン歴代最高記録であり、2020年シーズン終了時点でも破られていない(1リーグ制時代を含めると歴代13位)。一方で長嶋茂雄には相性が悪く、奪三振なし、打率.448と打ち込まれた。
連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれた。この言葉が生まれたきっかけは、当時巨人の投手であった堀本律雄が「中日の投手は権藤しかおらんのか、つぶれてしまうぞ。権藤、雨、旅行(移動日)、権藤、雨、権藤や」と記者に語ったことからだという。1961年7月4日からは「雨・完封・雨・移動日・完投・雨・移動日・先発(5回を投げる)・雨・雨・移動日・先発(5回を投げる)」という、このフレーズに近い過酷な12日間を過ごしたこともあった。
2年目の1962年はスライダーを習得し、先発39試合を含む61試合に登板、30勝17敗、投球回数362.1回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し、2年連続の最多勝に輝いた。
しかし、過酷な登板に加え、当時の誤ったトレーニング・リハビリテーション方法(投球直後に肩を温めていた)により肩を痛めたうえに肘も故障した。その影響で3年目の1963年からは球威が落ちて10勝しか挙げられず、1964年は6勝と調子を落とした。
1965年の開幕を控えた頃、当時の監督である西沢道夫から野手転向の話を受けた。当時の権藤は1年目の成功体験に縛られ、周囲のアドバイスを素直に受け入れられない状態だったという。西沢は権藤の強いリストを生かした打撃の可能性を評価し、野手転向を勧めた。これに従い、内野手に転向。同年は伊藤竜彦らと三塁手のレギュラーを争い81試合に出場した。1966年には開幕から2番・遊撃手として起用されたが、打撃の低迷が続いた。1967年には主に三塁手として80試合に先発出場し、セ・リーグ最多犠打を記録した。ようやく打撃の何たるかを掴みかけたと感じたが、この3年間で西沢の期待に応えるほどの結果は残せなかった。
1968年キャンプイン直前に西沢が辞任し、一方で徳武定之の移籍入団も決定した。新監督に杉下茂が就任し、杉下は権藤の内野手としてのスローイングを見て、投手陣が弱体化していたこともあり「やっぱりお前はピッチャーだろう。もう一回やってみないか」と声をかけ、ブルペンで投手練習を再開した。しかし、投手として投げ始めた途端に大人しかった右肩が痛み始め、4月27日の広島戦(松山)での勝利が最後の白星となった。
同年キャンプ終盤、プロ入り9年目で初めて2軍メンバーとともに名古屋へ帰るよう通達され、この時点で引退を決意した。権藤の投手時代の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、のちの日本プロ野球に大きな影響を与えた。権藤自身は後に連投に次ぐ連投だった新人時代を振り返り「あのころ、もう一人の僕がいたような気がして、自分でもすごいと思った」と語っている。現役時代にバッテリーを組んだ木俣達彦は著書の中で「しなやかで弾力的な足腰を使ったフォームで、おそらく150 km/hを超える直球を投げていた」と記している。その浮き上がるような速球は、かつて沢村栄治と対戦した松木謙治郎から「一番沢村に近い」と評された。
3. 現役引退後の活動
現役引退後の野球解説者としての活動や、様々なプロ野球チームでのコーチとしての幅広い経歴を時系列に沿って概説し、彼の主要な貢献と指導者としての役割を強調する。
現役引退後、球団からは一軍マネージャーを打診されたが、権藤は固辞した。自分の性格からチームに帯同すれば選手にコーチしてしまい、本職のコーチに対する越権行為になると判断したためである。退団後は東海ラジオ野球解説者(1969年 - 1972年)を務めたが、当時の報酬は1試合ごとの歩合制であったため、蓄えがなかったわけではないものの経済的に最も苦しい時期であった。解説の仕事は月に2、3度で時間があったため、知人とゴルフに出かけ、月の半分はコースに出るようになった。「権藤はプロゴルファーになるのか」と言われたこともあったが、本人にはそんな気持ちはなかったという。
そんな状況を見かねたダンロップスポーツ中部の経営者であった相羽義朗に「フラフラと遊んでばかりいたらいかん」と説教され、「野球解説の仕事しながらでいい。私の会社で働きなさい」と救いの手を差し伸べられ、ブリヂストン以来2度目のサラリーマン生活が始まった。権藤はこのことについて「名古屋市内にある会社で伝票を書き、デパートなどでは棚卸し作業を行い、野球解説の日は午後から球場に出向いた。知らぬ間に道を踏み外そうとしていた私を軌道修正してくれた相羽社長は野球をまっとうさせてくれた大恩人だ」と述べている。
その後は与那嶺要監督に招かれ、中日に復帰し、二軍投手コーチ(1973年 - 1980年)→一軍投手コーチ(1981年 - 1983年)を務め、1974年と1982年のリーグ優勝に貢献した。この時期、郭源治、都裕次郎らを育成したほか、1982年には牛島和彦を監督の近藤貞雄とともに「先発をすると甘い球がある。でも勝負どころでは素晴らしい球を投げる。抑えの適性がある」と判断し、抑えに転向させ、牛島は抑えに定着して7勝4敗17セーブと好成績を残した。
中日退団後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者、中日スポーツ野球評論家(1984年 - 1987年)を経て、1988年からは仰木彬監督の誘いで近鉄バファローズ一軍投手コーチに就任した。仰木とは現役時代から親交があり、仰木と権藤をコーチ時代に指導した坪内道則が仰木に相談された際、権藤を推薦したという。近鉄時代には、くすぶっていた山崎慎太郎を先発ローテーションに入れ、加藤哲郎を再生し、吉井理人をストッパーに抜擢するなど、多くの投手を育てた。
また、1988年6月には、リチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕されるという事件が起き、権藤は本職ではなかったものの、旧知の中日関係者にラルフ・ブライアントについて確認したところ、外国人枠の関係で当面は一軍での出場チャンスはないという情報を得た。早速、仰木監督に伝え、中西太ヘッドコーチと西宮球場でのウエスタンの中日戦を視察した。ブライアントのスイングは粗いがとてつもなく速いという印象を持ち、球団に金銭トレードを申し入れ、獲得が決まった。
近鉄コーチ1年目、チーム防御率(4.22)は前年リーグ最下位であったが、リーグ2位の3.23にまで改善された。1989年もチーム防御率2位を記録しリーグ優勝に貢献したが、仰木監督と投手起用などを巡って意見が折り合わず、違約金1300.00 万 JPYを支払って同年限りで辞任した。
辞任後の1990年は東海テレビ野球解説者・日刊スポーツ野球評論家を務めたが、同年オフにダイエーと古巣・中日から投手コーチの打診が来た。同年夏にダイエーから要請があったことと、フロント入りしていた杉浦忠には南海監督時代にコーチとして誘われながら先約の近鉄を優先したため、生活の拠点を置く名古屋のチームよりも先に声をかけたダイエーを選択した。1991年から1993年までダイエー一軍投手コーチを務め、チーム防御率を5.56から4.22にまで改善させたものの、それでもチーム防御率がリーグ最下位から抜け出すことはできなかった。村田勝喜、本原正治を指導し、池田親興を抑えで起用した。ダイエーコーチ3年目、根本陸夫が監督になり、さっそく下柳剛の起用を進言し、息の長い下柳の基礎を作った。
ダイエー退任後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者・中日スポーツ野球評論家(1994年 - 1996年)を経て、1997年には横浜ベイスターズ一軍バッテリーチーフコーチに就任した。チーム防御率は前年最下位の4.67から3.70に改善するなど投手陣を整備し、チームの2位躍進に貢献した。この時期、福盛和男を見出した。
1998年には監督に昇格した。就任当時59歳で、監督初就任時の年齢としては当時の史上最年長記録であった。これは2017年に中日監督へ就任した森繁和が62歳で記録を更新するまで続いた。就任1年目にチームを38年ぶりのリーグ優勝・日本一に導き、その後も2000年まで監督を務め、いずれの年もチームをAクラス入りを果たした。
横浜監督退任後は東海ラジオ(2001年 - 2011年)、東海テレビ(2009年 - 2011年)野球解説者、スポーツ報知(2001年 - 2008年)野球評論家として活動していた。この間の2002年には巨人から一軍投手コーチとして入閣の予定があったが、親交のある長嶋茂雄監督の退任に伴い、立ち消えになった。この他にも、複数の球団からコーチの誘いが公式、非公式含めてあったという。
現役時代の同僚でもある高木守道が中日の監督に復帰した2012年には、中日の一軍投手コーチに再び就任した。日本プロ野球球団の現役監督・コーチでは最高齢となる73歳での12年ぶりの現場復帰であり、投手コーチという肩書ではあったが、ヘッドコーチ格として髙木監督を支えた。復帰後は、新人・若手投手の積極的な起用や、それまで先発要員だった山井大介の救援(セットアッパー→クローザー)転向などを通じて、チームのセントラル・リーグ2位と6年連続クライマックス・セ進出に貢献した。しかしシーズン終盤にエースの吉見一起が故障で今季絶望となり、中田賢一、エンジェルベルト・ソトも登板不可能となるなど、投手陣は満身創痍の状態だった。残る先発投手はシーズン10勝の山内壮馬を除けば4勝の大野雄大、3勝の川上憲伸、山本昌、1勝の伊藤準規という状況であったが、クライマックスシリーズファイナルステージでは巨人に対し第1戦から第3戦まで3連勝を記録した。しかしその後は3連敗で敗退。その直後となる10月24日に、退団が発表された。
2013年からは、東海テレビ・東海ラジオ野球解説者へ復帰するとともに、日刊スポーツ野球評論家としても活動している。
2016年1月28日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs 台湾」の日本代表投手コーチを務めることが発表され、2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシックでも日本代表の投手コーチを務めた。
2019年には野球殿堂エキスパート部門で殿堂入りを果たした。
2024年10月26日には、日本シリーズ第一戦(DeNA対ソフトバンク、横浜スタジアム)の始球式に登板し、後輩たちを激励した。
3.1. コーチ時代
中日、近鉄、ダイエーなどでの投手コーチとしての活動に焦点を当て、彼が育成した特定の選手や、その指導方法について説明する。
権藤はアメリカ・フロリダ教育リーグでのコーチ修業時代の経験から、選手を大人扱いする「Don't over teach教え過ぎない・口を出し過ぎない英語」という主義をコーチ・監督業を通して貫いている。権藤自身はこの指導スタイルを「奔放主義」と名付けている。選手の感性と自主性を尊重しながらチームを勝利に導く手腕は当時の各メディアでも話題となり、球界内でも評価が高い。
「今の野球は抑えで8割が決まる」「抑え投手は打者の4番に該当する。先発3本柱より格上」などといった持論をもっている。
現場復活への道を開いてくれた相羽社長と与那嶺監督の2人を恩人として挙げている。
権藤の持論は「投球フォームはその投手の主張」であり、投手のフォームにはほとんど口を出さなかった。コーチとしてフォーム矯正を施したのは都裕次郎だけだという。
近鉄コーチ時代に指導を受けた加藤哲郎は「当時、投手陣はみんな権藤さんのことは慕っていました。僕の野球人生の中で恩師と呼べる人がいたら、それは唯一、権藤さんですね。現役時代、登板過多で肩を壊した経験があるので、ピッチャーの立場になって考えてくれる人でした」と述べている。
同じく近鉄コーチ時代に指導を受けた吉井理人は、最も影響を受けた尊敬するコーチとして権藤の名を挙げ、「それまではベンチの首脳陣の目を気にしながら投げていたんですが、(権藤さんから)「打たれたときは俺のせいやから」と日々言われていました。マウンドに勇気を持って投げられたのはこのときからです」と述べている。
中日の投手だった平沼定晴は「プロに入って最初に出会った権藤博さんのインパクトは凄かったですね。投手コーチなのに監督みたい。しばらく最初は、顔を合わせるだけで体調が悪くなっちゃう。でも、育つためのやりやすさを作ってくださった」と述べている。
カウント2ストライク0ボールから明らかなボール球で外すことについて「投手が有利なのに何故わざわざ外すのか」と、3球勝負をしないバッテリーが多いことに苦言を呈している。
2020年代になるとすっかり球界に定着した先発投手の中6日ローテーションについては、2022年の動画で「とんでもない」「40幾つになっても投げる人のために(ある)」と否定しており「大体ピッチャーの肩は中2日で治り、中3日置けば十分行ける。気持ちを高ぶらせるためにもう1日置いて、中4日で十分」と主張している。その代わり、1シーズンや将来のことを考えて1登板原則100球、最大120球に球数を抑えるべきだと付け加えている。
3.1.1. 監督との確執
選手管理や戦略的決定に関する彼の強い信念を反映し、上位の監督たちと経験した意見の相違や対立の事例を詳細に扱う。
コーチとしては直言居士で、たとえ上司(監督)であっても間違いだと思う言動には徹底して異論を唱えるタイプであった。後年「監督なんかに負けられるか、と思って仕事していた。監督にナメられてるようなコーチじゃ仕方がない。だから目一杯、自分を出す」と語っている。近鉄コーチ時代には仰木彬と、ダイエーコーチ時代には田淵幸一と、中日コーチ時代には高木守道との間で対立が噂され、特に高木監督との対立はメディアでたびたび取り上げられた。
近鉄コーチ時代、権藤は投手の育成・心理体調の面から、戦略として頻繁に中継ぎなどをした仰木の投手起用に異議を訴えていた。一方の仰木は自著において「コーチは監督ではなく投手の利益代表でもない」ということから権藤の姿勢を「コーチという職分、位置をわきまえていなかった」と批判している。
中日コーチ時代(2012年)には高木守道監督(当時)と投手起用などで持論をぶつけ合った。当時の高木は報道陣の前やチーム内部で自軍の選手を名指しで批判・叱咤することが多かったため、権藤は「マスコミの前で選手の悪口を言わないでほしい。選手は一番こたえるものです」「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負けたは監督の責任」と諭したこともあった。自身の著書の中でも「プロ野球界に長く携わってきた私はコーチ時代に最悪の怒り方が分かった。人前で怒るのは最悪の怒り方。人前で怒られて嬉しい人はいないだろう。本人にとっては人前で怒られるのは恥以外の何事でもないからそのことによってプライドは大きく傷つく」と記している。その一方で、退任の際に「高木監督に対するわだかまりはない」と発言している。
江夏豊は権藤を「名監督は数多くいても、名コーチは少ない。そのなかで打つほうの名コーチは中西太さん、投げるほうの名コーチは権藤さん」と高く評価した。また、江夏は2012年のクライマックスシリーズにおける権藤の中日の継投策を絶賛し、退団を惜しんでいる。豊田泰光も権藤と高木の対立を「お互いの職務を全うしようとしたが故のバトルだった。こういうエネルギーのはらむチームを相手にするのはかえって嫌なもの」と評価しており、権藤の退団を惜しんだ。この中日退団に際して、1989年の近鉄退団のときと重ね合わせる見方、なかでも、2012年のクライマックスシリーズと1989年の日本シリーズのいずれも投手起用をめぐる監督との対立が退団への方向を決定的なものとしたという見方が存在する。
4. 監督時代
横浜ベイスターズ監督としての在任期間に焦点を当て、日本シリーズ優勝に導いたプロセスと、監督としての全体的なアプローチを概説する。
権藤博は大洋、横浜、DeNAの歴代監督のなかで唯一監督就任中に全てAクラスでシーズンを終えた監督である。
4.1. 監督としての哲学
「教え過ぎない」という独特な指導哲学を説明し、選手の自律性を尊重し、健全なチーム環境を醸成する彼のアプローチが、従来の権威主義的なスタイルとどのように対比されたかを扱う。
横浜監督時代は「オレのことを『監督』と呼ぶな!」というユニークな方針を打ち出し、自らを「権藤さん」と呼ぶように指示していた。これは監督を退いた後を見据えていたのと、肩書きを捨てることで選手との垣根をなくすことが目的だった。このルールは自チームの選手やスタッフだけでなく取材陣も対象とされ、違反した者には罰金1000 JPYを支払わせるという名目になっていた。実際に、当時の所属選手の中でもベテランであった谷繁元信は、このルールを知らないまま権藤に「監督!」と呼び掛けたものの、権藤が聞こえていないフリをし、それに気付かぬまま再び「監督!」と呼んだところで、権藤に「ハイお前、罰金2000 JPYな!」と言われて狼狽したと語っている。
また夜間練習の強制もせず、各選手の自主性や危機感に任せた。選手全員を集めるミーティングも基本的に行わず、実施しても「皆さんはプロですからプロらしくやってください」など簡単な一言で済ませ、すぐ退出することが多かった。その代わり、グラウンド等で選手1人1人に対して個別にコミュニケーションを取ったという。
監督に就任してまもない時期、コーチ陣に「選手に練習をしやすい環境を整えてしっかりと練習を観察してほしい。ただし、選手がアドバイスを求めてくるまで技術的な指導はしなくていい」と述べており、これに対し山下大輔は「プロになる選手は当然ながらそれなりの素質を備えています。まして1軍の選手ともなれば、技術だけではなく野球になる考えもしっかり持っています。もちろん、プロになってまもなかったり不調で悩んだりしている選手からアドバイスを求められたら、適切に指導する必要があります。でも、そうではない選手にコーチが『ああでもない、こうでもない』と声をかけると、かえって混乱を招きかねません。権藤さんが徹底した『何もしない』という考えは、選手一人一人を最大限を認め尊重することだったと思います。つまり、何もしないことによって選手の自主性を引き出したのです。当時のベイスターズには個性的な野手や投手が多く、選手同士で刺激しあい切磋琢磨していました。決して仲がよいわけではないけれどチームが同じ方向を向いて一つにまとまっていたんです。リーグ優勝・日本シリーズ制覇を果たすことができたのも、言葉ではなく態度で個々の選手を尊重し自主性を促した権藤さんの考えによるところが大きかったと思います」と述べている。
権藤の監督時代に大活躍を見せたロバート・ローズからは「最高のボス」と慕われている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得しようとしたり、年俸を渋ったりするフロントにわだかまりを持ち、引退も考えていた。その心情を察した権藤は、1999年の夏頃、球団の雇った通訳ではなく英語に堪能な自身の娘のみを同伴させて、1対1でローズと腹を割った話をした。結果、ローズは「権藤が監督でいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置き、大活躍の下地を作った。
座右の銘は「Kill or be Killed(殺るか、殺られるか)」。横浜監督時代、開幕ベンチ入り投手全員にこの一文を入れたサインボールを渡したという。
ダッグアウトで采配をとるとき、ベンチに座らず立ったまま、顎もしくは頬に掌を当てながら試合を見守る姿が、しばしば中継カメラに映された。この佇まいは権藤のトレードマークとなり、当時のスポーツ新聞や週刊誌の風刺野球漫画ではよくネタにされていた。ちなみに、コーチ時代も同じポーズを取ることが多かったといわれている。
1998年日本シリーズでは、対戦相手である西武の監督が以前から親交のある東尾修だったため、シリーズ直前にマスコミ公開での食事会を行っている。そこで非公式とはいえ、予告先発を約束した。グラウンド外での舌戦や腹の探り合い、駆け引きなどを排除し、選手たちの力と技の勝負を堪能してもらいたいという意味合いで行われた会食であった。また、シリーズ終了後には『Sports Graphic Number』においても東尾と対談を行っている。シリーズ終了後から数週間後に、直近まで競い合っていた敵チームの監督同士が対談するのは非常に稀である。
4.2. 采配の特徴
投手の肩は消耗品であるという持論に基づく投手健康重視、ブルペンローテーション、犠牲バントの最小化など、監督としての具体的な戦略と、打者への介入を最小限に抑えた方針について説明する。
権藤は「(自分は)8割はピッチングコーチ」と公言し、試合でもベンチから配球のサインを出したり、自らマウンドへ出向き投手への指示や投手交代を行っていた。権藤の下で2000年に一軍投手コーチを務めた遠藤一彦は「私はピッチングコーチ補佐(的な立場)だと認識していた」と述懐している。一方、野手に対してはヘッドコーチの山下大輔や打撃コーチの高木由一に一任し、打者・走者へのサインも最小限にし、選手の判断に任せていた。一例としては、1・2番を任せられることが多かった石井琢朗・波留敏夫には送りバント・ヒットエンドランなどの指示を出さず、ノーサインでコンビプレーを任せていたことなどが挙げられる。山下は権藤に「攻撃では迷ったら、下手に動かず何もしないことですよ」とアドバイスし、「その言葉をうのみしたわけではないしょうが、何もしないことを徹底してサインはほぼ出さなかった」「(1998年は)一度もバントのサインを出していない。あの年はエンドランのサインも一度も出していない」と語っている。しかしあまりにもサインが出ないため、最下位に沈んでいた2000年の前半には選手が主導して開かれたミーティングで、もう少し攻撃面の戦術も考えてサインを出すよう求められたという。
自身の現役時代の体験から「投手の肩は消耗品」が持論である。横浜の監督となった1998年には抑え投手の佐々木主浩を不動の中心とし、リリーフ投手にも「中継ぎローテーション」を確立し、連投による酷使を極力避けさせた。谷繁は「基本的に3連投はさせていないと思います。2日投げたら、翌日は絶対に休み。チームを"ブラック企業"にさせなかったんです。しかも、勝ちゲームで使える中継ぎを二手に分けていた。右なら五十嵐英樹、島田直也がいて、左は阿波野秀幸さん、森中聖雄など。そこでローテーションを組みながら、同じ日に五十嵐と島田を行かせないようにしていました。そうして万全の備えをしたうえで、先発が7回まで行ってくれれば楽なゲーム展開になります。極端にいえば、8回に3人でも突っ込めるわけですから。権藤さんは監督時代に「俺はピッチングコーチだ」と言っていましたし、投手陣のやりくりはさすがというしかありません」と述懐している。ただしダイエーコーチ時代の下柳剛に関してだけは例外扱いし、制球力をつけさせるため毎日のように練習や試合で登板させた。これは当時監督だった根本陸夫が下柳自身の体の強さや社会人時代から行っていた練習の質・量を把握しており、根本から「アイツは壊れん」と諭されたことによるものである。
「送りバントというのは、わざわざ敵にアウトを献上するという世にも馬鹿馬鹿しい作戦だ」「監督としては一貫して犠打の必要性を否定してきた」などと述べており、実際にも限られた場面でしか送りバントを用いなかった。このため横浜監督在任時のチーム犠打数は3年間ともリーグ最少である。いわゆるマネー・ボール理論で語られるものと類似しており「投手の肩は消耗品」「中継ぎローテーション」という持論などからもメジャーリーグでみられる思想と通じるものがある。ただし終盤1点を争うような展開での送りバントまでは否定しておらず、チームが優勝争いの輪に加わっているシーズン終盤からは監督は勝利のためなら何をやってもいいという考えも持っていた。
「審判は絶対」「抗議しても覆らない」という持論を遵守し、判定にほとんど異議を唱えることはなかった。岡田功によると、ある日の試合で、ストライク・ボールの判定でもめて選手に押されて抗議には向かったが、審判の前に立つなり「選手の手前、黙ってるわけにはいかんから、世間話していいかな? ちょっと時間くれな」というなり世間話をはじめ「ありがとう」といってベンチに戻っていったという。しかし、1998年8月7日の広島戦では、鈴木尚典が打ったホームラン性の当たりを二塁打と判定され、権藤はベンチから出るも審判に一言確認しただけでベンチに下がっていった。これには選手たちから「いつも戦えと言ってるのに自分は戦わないのか?」と不信感を持たれ、権藤は翌日に「みんなに戦えと言ってきた。そう言っていながら俺は昨夜審判と戦っていなかった。すまん、今後気をつける」と謝罪した。その言葉通り、翌日の試合で波留敏夫が守備妨害をとられた際、ベンチを飛び出し声を荒げながら5分間にわたって猛抗議をした。
ただし、これらの権藤の方針は就任2年目以降チーム内で軋轢を生みはじめ、特に野手陣はほぼ全てコーチ任せにしていたこともあってか上手く意思疎通ができていなかったとされる。その象徴的な出来事として、就任3年目の2000年6月18日の対広島12回戦で、相手の右投手ネイサン・ミンチーに対し、左打者の駒田徳広に代えて右打者の中根仁を代打に送ったことで、プライドを傷つけられた駒田が激怒し試合中にもかかわらず帰宅するという事件が起きた。これはマスコミにより駒田の「無断帰宅」として報道された。実は、この造反の原因は代打を送られたことだけではなく、以前から駒田は権藤の指揮官としての指針に不満を蓄積していたという。なお駒田はこのシーズン終了後に現役を引退した。一方の権藤も、当時球団社長の大堀隆とは兄弟のように蜜月だったが、他のフロント陣や石井琢朗ら一部主力選手との対立も相まって同年限りで契約満了による退任を余儀なくされた。これについて駒田は「権藤さんは一部の可愛がっている選手とばかりつるんでおり、これに危機感を抱いた選手会長の石井琢朗らに促されたのもあって自分がチームの現状や権藤さんの方針に苦言を呈したところ、その後は口もきいてもらえなくなった」といった旨を語っている。また「無断帰宅」というのも誤りで、「山下大輔ヘッドコーチが心配して『2000本という目標があるじゃないか。きょうは帰っていいから(次戦の)神宮には必ず来いよ』と言ってくれました。新聞には『無断帰宅』と書かれましたが、山下さんの言葉がありますから、無断じゃないですよ」と語っている。権藤は「引退してから駒田は分かってくれたんです。権藤さんが監督でなかったら2000安打は達成できなかったって。あのときは二軍に落とすしかなかったんですよ。上においても暴れるから。その代わり、10日間、二軍で何やってもいい。試合に出てもいいし、休んでもいい。その代わり、10日後、一軍に戻ってきたら5番を打たせる。」と言ってそのとおりにしたと述べている。現在では駒田と会うと、笑って話をする仲だという。
4.3. 野村克也との対立
野球戦略とチーム管理に関する野村克也との注目すべき公的な、そして哲学的な意見対立について説明する。
監督としての権藤は「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」という哲学を貫いた。リーグ優勝を果たして胴上げ直後の勝利監督インタビューも一言二言だけで終わらせ、その後の個別インタビューも「主役は選手だから」と出演を断るなど、ファンや取材陣の前で選手より目立つような言動を控えていた。これに対し、同時期にヤクルト・阪神の監督であり「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」「監督というのは、広報も兼ねている」という持論を展開する野村克也は、権藤の采配スタイルやマシンガン打線を「勝って無礼(勝手無礼)な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開した。権藤自身も「グラウンド上で博打将棋など見たくもない」と、ID野球を主唱する野村を暗に批判した。
1998年、優勝マジック3の横浜は10月3日から10月6日と地元・横浜スタジアムでヤクルトとの4連戦を迎えた。この連戦以前の横浜は上記の因縁から権藤が「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけていたこともあり、ヤクルト戦では特に闘志をむき出しにして戦い、大きく勝ち越していた。地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁らをぶつけて3連勝し、自身の目の前での胴上げだけは阻止した。
野村は自著で、権藤を「典型的な投手タイプの性格」「監督になってからも豪快な野球を好み」「酒豪だった」ことなどから「私とはすべてに対照的な野球人である」と評している。
一方で、野村が楽天監督に就任した際、『週刊ポスト』の『危険球座談会』で、江本孟紀と東尾修が野村の監督就任に否定的な意見を述べたのに対し、権藤は「楽天の選手は野球を知らなすぎる。この際に野村さんからきちんと野球を教わったほうがよい」と述べ、2020年に野村が逝去した際には「野村さんのすごさは人材を見極める眼力。人のやらないことをやるアイデアマン、すごい野球人」などと語り、野村の監督的手腕については高く評価している。
5. 記録・表彰
選手および指導者としてのキャリアで獲得した主要なタイトル、賞、そして重要な個人記録を整理する。
5.1. 選手時代の記録・表彰
権藤博は選手時代に以下のタイトルと表彰を受けている。
- 最多勝利:2回 (1961年、1962年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、村山実、平松政次、江川卓、遠藤一彦、斎藤雅樹、山本昌、セス・グライシンガー、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋)
- 最優秀防御率:1回 (1961年)
- 最多奪三振:1回 (1961年)※当時連盟表彰なし
- 沢村栄治賞:1回 (1961年)※新人による受賞は3年連続。シーズン69登板は受賞者最多タイ
- 新人王(1961年)
- ベストナイン:1回 (1961年)
- 野球殿堂エキスパート部門(2019年)
記録として、初登板・初勝利は1961年4月9日の対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)である。
その他の記録は以下の通り。
- 投手三冠王:1回 (1961年)※史上10人目、22歳シーズンでの達成は前田健太と並ぶセ・リーグ最年少タイ
- 投手三冠+最多完封:史上7人目、新人史上唯一
- シーズン429.1投球回(1961年) ※セ・リーグ記録
- 新人記録(1961年)
- 勝利数:35
- 完封勝利数:12 ※林安夫と並ぶタイ記録
- 無四球完投試合数:8
- 奪三振数:310
- 32完投も新人セ・リーグ記録
- シーズン30勝以上:2年連続2度(1961年、1962年) ※2年連続はセ・リーグ記録。2度は杉下茂、金田正一と並ぶセ・リーグタイ記録。パ・リーグ、1リーグ時代を含めるとヴィクトル・スタルヒン、別所毅彦、杉浦忠と並ぶ歴代3位タイ記録。
- オールスターゲーム出場:3回 (1961年 - 1963年)
5.2. 監督時代の成績
監督としての年ごとの成績、リーグ順位、日本シリーズ優勝を含む主要な業績を簡潔にまとめる。
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | 横浜 | 1位 | 136 | 79 | 56 | 1 | .585 | - | 100 | .277 | 3.49 | 60歳 |
1999年 | 3位 | 135 | 71 | 64 | 0 | .526 | 10.0 | 140 | .294 | 4.44 | 61歳 | |
2000年 | 3位 | 136 | 69 | 66 | 1 | .511 | 9.0 | 103 | .277 | 3.92 | 62歳 | |
通算:3年 | 407 | 219 | 186 | 2 | .541 | Aクラス3回 |
権藤監督の在任中、1998年の順位の太字は日本一を意味する。1998年から2000年までは135試合制であった。
5.3. その他の業績
コーチとしてのチーム防御率の改善や選手育成における貢献など、特筆すべきその他の業績を説明する。
権藤はコーチとして、所属した多くのチームでチーム防御率の改善に貢献した。中日時代(1973年 - 1983年)には、1974年と1982年のリーグ優勝に貢献し、郭源治や都裕次郎といった投手を育成した。また、牛島和彦を抑えに転向させ、成功に導いている。
近鉄時代(1988年 - 1989年)には、チーム防御率を前年リーグ最下位の4.22からリーグ2位の3.23まで改善させ、1989年のリーグ優勝に貢献した。この時期、山崎慎太郎を先発ローテーションに定着させ、加藤哲郎を再生し、吉井理人をストッパーに抜擢するなど、多くの投手の能力を引き出した。
ダイエー時代(1991年 - 1993年)にも、チーム防御率を5.56から4.22にまで改善させたが、チームの低迷によりリーグ最下位から抜け出すことはできなかった。しかし、村田勝喜、本原正治らを指導し、池田親興を抑えで起用するなど、個々の投手の成長を促した。特に根本陸夫監督の下で下柳剛の起用を進言し、その後の活躍の基礎を築いている。
横浜時代(1997年)には、一軍バッテリーチーフコーチとしてチーム防御率を前年最下位の4.67から3.70に改善させ、チームの2位躍進に貢献した。この時期に福盛和男を見出した。
2012年に中日の一軍投手コーチとして復帰した際には、73歳という最高齢ながらも、新人・若手投手の積極的な起用や山井大介の救援転向などを通じて、チームのリーグ2位と6年連続クライマックスシリーズ進出に貢献した。
また、2016年と2017年には、侍ジャパンの投手コーチを務めるなど、日本野球界全体への貢献も果たしている。
6. 人物・エピソード
彼の公開された私生活、影響を受けた人物、趣味、そして独特な性格的特徴や興味深いエピソードを扱う。
権藤は同じ九州出身の大投手・稲尾和久を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりであった。社会人野球(ブリヂストンタイヤ)時代には、練習といえばひたすら稲尾の投球フォームをまねることに時間を費やした。大きく振りかぶって、軸足の右足が爪先立ちになるくらい伸び上がって投げるフォームは稲尾とそっくりで、権藤は軸足のかかとの上げ方のためだけに別で1時間かけて練習していた。また、ちょっと首を傾けてややうつむき加減で走るところもよくまねたという。
一方で金田正一のNPB400勝の価値については、優勝を争うような場面で投げていない(400勝の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げている)ということから否定的な見解を示している。
後進世代では菅野智之、大谷翔平、藤浪晋太郎の才能を「別格」と評している。特に藤浪については「小さくまとまるべきではない」という趣旨で評価し、荒れ球も容認する考えを示した。同時に阪神時代の藤浪の起用法など二転三転した扱いについて阪神を批判しており、「トレード出した方が良いんじゃないですか?」「あそこ(阪神)じゃ無理でしょ」と、阪神というチームが藤浪を育成する器ではないと酷評した(2022年シーズン中時点)。
ラグビーに造詣が深く、親交のある森重隆とテレビで対談したときには該博な知識を見せた。
ゴルフが趣味である。現役引退後に一時期ゴルフ関係の仕事に就いたことがある。プロゴルファーへの誘いもあったが断った。飛ばし屋としても知られ、72歳にしてヘッドスピード48 m/sを記録したという。
江本孟紀と下柳剛によると、大のビール党であるという。
7. 評価と影響
日本野球界における彼の歴史的重要性、選手育成やチーム管理における革新的な考え方と肯定的な影響力、そして行動、決定、哲学に対する批判的な視点や関連する論争(特にチーム内部の対立など)を客観的に論じ、包括的な評価を提示する。
7.1. 肯定的な評価
権藤博は、日本野球界において、選手育成やチーム管理で示されたその革新的な考え方と肯定的な影響力により、高く評価されている。彼の「Don't over teach教え過ぎない英語」という哲学は、従来のトップダウンで権威主義的な指導が主流であった野球界に、選手の自律性と主体性を重んじる新しい風を吹き込んだ。
選手に対して「監督」ではなく「権藤さん」と呼ばせる方針や、夜間練習の強制を行わない「三無主義」は、選手との心理的な垣根を取り払い、個々の選手が自身の能力を最大限に発揮できる環境を創出した。これは、選手が指示待ちになるのではなく、自ら考え、行動するプロ意識を育むことに繋がった。
特に投手コーチとしては、「投手の肩は消耗品」という持論に基づき、抑え投手の佐々木主浩を不動の軸としつつ、中継ぎ投手にも「中継ぎローテーション」を確立するなど、選手の健康と長期的なキャリアを重視した管理を行った。これは、自身の現役時代の酷使による故障経験から生まれたものであり、多くの投手が短命に終わる中で、権藤の姿勢は選手の生命線を守る画期的なアプローチとして評価されている。谷繁元信は、権藤の采配によってチームが「ブラック企業」化しなかったと評している。
また、犠牲バントを極力使わない攻撃野球は、当時の日本野球においては異質でありながら、マシンガン打線と呼ばれる打線の爆発力を最大限に引き出し、1998年の横浜ベイスターズのリーグ優勝と日本一に繋がった。この采配は、後のマネー・ボール理論にも通じる先進的な視点として、現代においても再評価されている。
権藤は、郭源治、都裕次郎、牛島和彦、山崎慎太郎、加藤哲郎、吉井理人、下柳剛など、数多くの投手を育成し、その才能を開花させた。彼の指導を受けた多くの選手が、権藤を「恩師」と呼び、その人間的魅力と指導手腕を高く評価している。
7.2. 批判と論争
権藤博の行動、決定、哲学に対する批判的な視点と関連する論争、特にチーム内部の対立などを客観的に論じる。
権藤の指導者としての哲学は、革新的である一方で、時にチーム内部で軋轢を生むこともあった。特に「教え過ぎない」方針は、監督自身が8割ピッチングコーチと自称するほど投手陣への介入が深かった一方で、野手陣に対してはヘッドコーチや打撃コーチに一任する傾向が強かったため、野手陣とのコミュニケーション不足や意思疎通の難しさを招いたとされる。
その象徴的な事例として、2000年に横浜ベイスターズの監督を務めていた際の駒田徳広との対立が挙げられる。代打起用を巡る駒田の「無断帰宅」騒動は、権藤の采配に対する選手側の不満が表面化した出来事であった。駒田自身も、権藤が一部の選手を可愛がり、他の選手との間に距離があったこと、自身の進言が聞き入れられず、口もきいてもらえなくなったことなどを語っており、監督と選手間の信頼関係構築における課題が浮き彫りになった。この対立は、権藤が同年限りで契約満了による退任を余儀なくされる一因ともなった。
また、コーチ時代には、仰木彬監督(近鉄)や高木守道監督(中日)といった上司との間で、投手起用などを巡る意見の対立を経験している。権藤は自らの信念を曲げない「直言居士」であったため、監督側からは「コーチという職分、位置をわきまえていなかった」と批判されることもあった。特に高木監督との対立はメディアでも大きく報じられ、2012年の中日コーチ退任は、1989年の近鉄退団と重ね合わせる形で、投手起用を巡る指揮官との衝突が決定打となったと見なされることが多い。
さらに、野村克也監督とは、野球観やチーム運営哲学において公然たる対立があった。野村は権藤の采配を「勝って無礼な行儀の悪い野球」と酷評し、権藤も野村のID野球を「クソくらえ」「博打将棋」と批判した。これらの対立は、異なる野球哲学を持つ指導者間の衝突として、当時の野球界を賑わせた。
これらの批判や論争は、権藤の強い個性と確固たる信念が、時に周囲との摩擦を生んだ結果であると解釈できる。しかし、彼の行動の根底には、選手への深い愛情や、自身の経験に基づく合理的な野球観があったこともまた事実である。
8. 著書・メディア出演
権藤博が執筆または共著した書籍、および解説者や評論家としての重要なメディア出演活動のリストを提示する。
8.1. 著書
- 『教えない教え』(2010年11月17日、集英社)
- 『もっと投げたくはないか 権藤博からのメッセージ』(2014年10月7日、日刊スポーツ出版社)
- 『継投論 投手交代の極意』(2017年12月1日、廣済堂出版) - 二宮清純と共著
- 『打者が嫌がる投球論 投手が嫌がる打撃論』(2019年11月30日、廣済堂出版) - 二宮清純と共著
8.2. 関連書籍
- 『権藤語録 プロ野球 横浜優勝への軌跡』(Group21編、1998年10月、ケイエスエス)
- 『勝つ管理 私の流儀 横浜ベイスターズ38年ぶりの日本一!』(永谷脩著、小学館、1999年1月)
- 『決断 権藤博と東尾修の1年』(永谷脩著、文藝春秋、1999年1月)
8.3. メディア出演
- 『東海ラジオ ガッツナイター』
- 『BASEBALL SPECIAL~野球道~』(フジテレビ系列のプロ野球中継。東海テレビローカルでは「プロ野球中継」のタイトル)
- 『プロ野球ニュース』(フジテレビ系地上波時代に出演)
- 『ヒロミツのスーパードラゴンズ』(東海テレビ)
- 『プロ野球列伝~不滅のヒーローたち~』(テレビ愛知)
- 『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』(TOKYO FM)