1. 概要
水本裕貴(水本 裕貴みずもと ひろき日本語、1985年9月12日生まれ)は、三重県度会郡御薗村(現:伊勢市)出身の元プロサッカー選手であり、現在はサッカー指導者として活動しています。現役時代は主にディフェンダーのセンターバックとしてプレーし、右利きでした。身長は183 cm、体重は72 kgでした。彼の愛称は「ミズ」や「モンちゃん」として知られています。
水本裕貴は、ジェフユナイテッド市原・千葉、ガンバ大阪、京都サンガF.C.、サンフレッチェ広島、松本山雅FC、FC町田ゼルビア、SC相模原といった多くのクラブでプレーし、そのキャリアを通じて一貫してチームの守備の要として貢献しました。特にサンフレッチェ広島時代には、J1リーグで3度の優勝を経験し、チームの黄金期を支える重要な選手でした。また、2008年北京オリンピックではU-23日本代表のキャプテンを務めるなど、リーダーシップも発揮しました。
キャリアの途中で頭蓋骨骨折という重傷を負いながらも、類まれな回復力と精神力で復帰し、その後も長きにわたりトップレベルでのプレーを続けたことは、多くの人々に感動と勇気を与えました。晩年には再び大きな怪我に見舞われ、引退を決意しましたが、現在は指導者としてサッカー界に貢献しています。本記事では、水本裕貴の幼少期からプロキャリア、代表での活躍、記録、そして引退後の活動までを詳細に記述し、彼の誠実で献身的なプレースタイルと、困難を乗り越えてキャリアを築き上げた軌跡に焦点を当てます。
2. 幼少期とユース時代
水本裕貴は、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる前に、地元でサッカーと出会い、その才能を育みました。
2.1. 幼少期と教育
水本裕貴は、三重県伊勢市に位置する御薗小学校の少年団である御薗SSSでサッカーを始めました。小学校6年生の時には、伊勢市の選抜チームに選ばれ、後のチームメイトとなる森下俊もこの選抜チームに参加していました。小学校卒業後、御薗中学校に進学しましたが、当時、同校にはサッカー部がなかったため、彼はサッカー部がない中学校に通う選手たちのためのクラブチームである伊勢SCジュニアに入団しました。ここで練習試合を通じて経験を積みましたが、この時点では全国的には無名な存在でした。
彼の才能が注目され始めたのは、三重高等学校に進学し、林一章ら指導者のもとで指導を受けるようになってからです。高校では、1年先輩に野崎陽介がいました。彼は県予選を突破してインターハイに出場し、さらに県選抜メンバーとして高知国体にも出場するなど、頭角を現しました。2003年にはU-18日本代表にも選出され、将来を嘱望される選手となりました。高校卒業時には、名古屋グランパスエイトやジェフユナイテッド市原(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)を含む5つのクラブからプロ契約のオファーを受けました。
3. クラブキャリア
水本裕貴は、プロとしてのキャリアを通じて複数のクラブに所属し、それぞれのチームで守備の要として活躍しました。
3.1. ジェフユナイテッド千葉
2004年、水本裕貴はJ1リーグのジェフユナイテッド市原(後にジェフユナイテッド市原・千葉に改称)とプロ契約を結びました。同期入団には水野晃樹や市原充喜がいます。加入1年目から、当時監督を務めていたイビチャ・オシムの指導を受け、「オシムチルドレン」の一人として期待されました。
彼のJ1リーグ初出場は、2004年5月20日の大分トリニータ戦でした。同年7月29日には、プレシーズンマッチでレアル・マドリードと対戦し、世界的なスター選手であるルイス・フィーゴを相手に激しい対応を見せたことで、その名が広く知られるようになりました。2006年シーズンからは千葉の主力選手として定着し、同年7月22日にはサンフレッチェ広島戦でプロ初ゴールを記録しました。また、2006年には日本代表監督に就任したオシムによってA代表メンバーに初選出され、同年10月4日のガーナ戦でA代表デビューを果たしました。
2007年末には、名古屋グランパスエイト、京都サンガF.C.、FC東京、ガンバ大阪の4チームからオファーが届き、千葉からも残留を要請されましたが、新たな挑戦を求めて移籍を決意しました。
3.2. ガンバ大阪
2008年、水本裕貴はガンバ大阪へ移籍しました。推定移籍金は3.00 億 JPYと報じられ、チームの補強の目玉として大きな注目を集めました。しかし、ジェフ千葉時代のようなパフォーマンスを発揮できず、定位置を中澤聡太に奪われるなど、出場機会を減らしていきました。
同年6月19日、2008年北京オリンピック出場に向けて出場機会を確保するため、彼自身の申し出により、わずか6ヶ月でのガンバ大阪退団が決定しました。
3.3. 京都サンガF.C.
2008年6月22日、水本裕貴は京都サンガF.C.へ完全移籍しました。推定移籍金は4.00 億 JPYとされています。京都では、加藤久、秋田豊、森岡隆三といった元日本代表のディフェンダー陣から指導を受け、すぐに不動のレギュラーに定着しました。彼は守備の中心として活躍し、李正秀らとともに強固な最終ラインを構築しました。
同年には、北京オリンピックのサッカー日本代表(U-23)メンバーに選出され、キャプテンとしてグループリーグの全3試合にフル出場しました。京都サンガF.C.では、2010年には公式戦全試合に出場するなど、チームの守備の要として欠かせない存在となりました。
3.4. サンフレッチェ広島
2011年、水本裕貴は、前年に京都サンガF.C.がJ2リーグに降格したことに伴い、サンフレッチェ広島へ完全移籍しました。広島ではすぐに主力選手としてチームの好調を支え、守備の中核を担いました。しかし、2011年5月7日のヴァンフォーレ甲府戦において、相手ディフェンダーのダニエルとのセットプレーでの競り合い中に接触し、頭蓋骨骨折および急性硬膜外血腫という重傷を負い、緊急手術を受けました。
5月20日には退院し、7月12日からはヘッドギアを着用して軽度な練習に復帰しました。そして、8月7日には実戦復帰を果たし、その強靭な精神力と回復力を見せつけました。翌2012年からは医師の了解のもとヘッドギアを外してプレーを続けました。
2012年には、アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本A代表に選出され、4年ぶりに代表復帰を果たしました。同年、クラブではサンフレッチェ広島のリーグ初優勝に大きく貢献し、自身初のJリーグベストイレブンに選出されました。2013年にはリーグ2連覇を達成しました。
2015年5月16日のJ1ファーストステージ第12節鹿島戦では、フィールドプレーヤーとしてはJ1新記録となる127試合連続フルタイム出場という偉業を達成しました。この年、彼は3度目のJ1リーグ優勝も果たし、チームの成功に大きく貢献しました。
2017年5月20日には、J1第12節のヴァンフォーレ甲府戦で、史上47人目となるJ1通算350試合出場を達成しました。さらに2018年10月6日、J1第29節の柏レイソル戦では、史上22人目となるJ1通算400試合出場という金字塔を打ち立てました。
3.5. 松本山雅FC
2019年8月4日、水本裕貴は松本山雅FCへ期限付き移籍で加入することが発表されました。
3.6. FC町田ゼルビア
2020年シーズンはFC町田ゼルビアに期限付き移籍で加入しました。その後、2021年からは町田へ完全移籍し、引き続きチームの一員としてプレーしました。シーズン終了後、彼はチームを退団することが発表されました。
3.7. SC相模原
2022年1月8日、水本裕貴はSC相模原への加入が発表されました。同年4月17日の試合で負傷し、右下顎骨骨折と診断され、手術から6~8週間の安静が必要となりました。この負傷は非常に重く、医師からは即座の現役引退を促されるほどでした。
同年11月7日、SC相模原は水本との契約期間満了と、契約を更新しないことを発表しました。そして、2023年1月15日、彼はプロサッカー選手としての現役引退を正式に発表しました。
4. プレースタイル
水本裕貴は、センターバックとして、1対1の局面での激しさと強さを誇る選手でした。相手選手とのマンマークに長け、その粘り強い守備は多くの攻撃陣を苦しめました。また、時には左右のサイドバックもこなすなど、戦術的な柔軟性を持ち合わせており、監督の戦術に応じて様々なポジションでチームに貢献することができました。その堅実な守備と献身的なプレーは、彼が所属したすべてのチームで高く評価されました。
5. 代表キャリア
水本裕貴は、様々な年代の日本代表チームに選出され、国際舞台でも日本を代表して活躍しました。
5.1. ユース代表チーム
2003年、水本裕貴はU-18日本代表に選出され、国際大会での経験を積み始めました。2005年6月には、2005 FIFAワールドユース選手権に出場するU-20日本代表に選ばれ、この大会では全4試合にフル出場し、チームのラウンド16進出に貢献しました。
2006年にはカタール・アジア大会に出場するU-21日本代表に選ばれ、3試合に出場しました。また、2008年北京オリンピックのサッカーアジア予選ではU-22日本代表として2次・最終予選の合計10試合に出場しました。そして2008年8月には、北京オリンピックに出場するU-23日本代表に選出され、同大会ではキャプテンを務め、グループリーグの全試合にフル出場するなど、チームの精神的支柱として大きな役割を果たしました。
5.2. A代表
水本裕貴は、2006年10月4日に行われたキリンチャレンジカップのガーナ戦で日本A代表デビューを果たしました。これは、当時の代表監督であったイビチャ・オシムによって初選出されたものでした。
その後、2012年にはアルベルト・ザッケローニ監督のもとで再びA代表に招集され、4年ぶりに代表復帰を果たしました。2014年にはハビエル・アギーレ監督、2015年にはヴァイッド・ハリルホジッチ監督のもとでも選出され、東アジアカップ2015にも出場しました。国際Aマッチには通算7試合に出場し、無得点でした。
彼の国際Aマッチの出場記録は以下の通りです。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦国 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2006年10月4日 | 横浜 | 横浜国際総合競技場 | ガーナ | ●0-1 | オシム | キリンチャレンジカップ2006 |
2. | 2006年10月11日 | ベンガルール | シュリー・カンティーラヴァ・スタジアム | インド | ○3-0 | AFCアジアカップ2007 予選大会 | |
3. | 2008年2月17日 | 重慶 | 重慶市奥林匹克体育中心 | 朝鮮民主主義人民共和国 | △1-1 | 岡田武史 | 東アジアサッカー選手権2008 |
4. | 2012年8月15日 | 札幌 | 札幌ドーム | ベネズエラ | △1-1 | ザッケローニ | キリンチャレンジカップ2012 |
5. | 2012年9月6日 | 新潟 | 東北電力ビッグスワンスタジアム | アラブ首長国連邦 | ○1-0 | ||
6. | 2014年9月9日 | 横浜 | 横浜国際総合競技場 | ベネズエラ | ○3-0 | アギーレ | キリンチャレンジカップ2014 |
7. | 2015年3月31日 | 東京 | 東京スタジアム | ウズベキスタン | ○5-1 | ハリルホジッチ | JALチャレンジカップ2015 |
6. 記録
水本裕貴のクラブおよび代表チームでの詳細な数値データは以下の通りです。
6.1. クラブ記録
水本裕貴のクラブキャリアにおける出場試合数、得点など主要な統計データは以下の通りです。
クラブ | シーズン | リーグ戦 | 天皇杯 | Jリーグカップ | ACL | その他 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
市原/千葉 | 2004 | 5 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | - | 7 | 0 | ||
2005 | 15 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | - | - | 20 | 0 | |||
2006 | 25 | 1 | 1 | 0 | 11 | 0 | 3 | 0 | 40 | 1 | |||
2007 | 31 | 1 | 1 | 0 | 5 | 0 | - | - | 37 | 1 | |||
ガンバ大阪 | 2008 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | - | 11 | 0 | |
京都 | 2008 | 18 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | - | 19 | 1 | ||
2009 | 33 | 2 | 2 | 0 | 5 | 0 | - | - | 40 | 2 | |||
2010 | 34 | 0 | 2 | 1 | 6 | 1 | - | - | 42 | 2 | |||
サンフレッチェ広島 | 2011 | 18 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | - | - | 20 | 2 | ||
2012 | 34 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | - | - | 40 | 2 | |||
2013 | 34 | 3 | 5 | 0 | 2 | 0 | 6 | 0 | 4 | 0 | 51 | 3 | |
2014 | 34 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 45 | 1 | |
2015 | 33 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | 1 | 0 | 36 | 1 | ||
2016 | 17 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 26 | 0 | |
2017 | 34 | 3 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | - | 37 | 3 | |||
2018 | 31 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | - | - | 34 | 0 | |||
2019 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | - | 1 | 0 | |||
松本山雅FC | 13 | 1 | - | - | - | - | 13 | 1 | |||||
FC町田ゼルビア | 2020 | 41 | 1 | - | - | - | - | 41 | 1 | ||||
2021 | 24 | 0 | - | 0 | 0 | - | - | 24 | 0 | ||||
SC相模原 | 2022 | 22 | 0 | - | - | - | - | 22 | 0 | ||||
キャリア通算 | 416 | 17 | 23 | 2 | 49 | 1 | 22 | 0 | 9 | 0 | 519 | 20 |
「その他」の公式戦には、A3チャンピオンズカップ、XEROX SUPER CUP、FIFAクラブワールドカップ、Jリーグチャンピオンシップが含まれます。
6.2. 代表記録
水本裕貴の日本代表チームでの出場試合数、得点など主要な統計データは以下の通りです。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2006 | 2 | 0 |
2007 | 0 | 0 |
2008 | 1 | 0 |
2009 | 0 | 0 |
2010 | 0 | 0 |
2011 | 0 | 0 |
2012 | 2 | 0 |
2013 | 0 | 0 |
2014 | 1 | 0 |
2015 | 1 | 0 |
合計 | 7 | 0 |
また、主要な国際大会での出場記録は以下の通りです。
年 | 大会 | カテゴリ | 出場 | 得点 | チーム成績 | |
---|---|---|---|---|---|---|
先発 | 途中出場 | |||||
2005 | 2005 FIFAワールドユース選手権 | U-20 | 4 | 0 | 0 | ラウンド16 |
2006 | AFCアジアカップ2007 (予選) | A代表 | 1 | 0 | 0 | 予選突破 |
2008 | 2008年北京オリンピック | U-23 | 3 | 0 | 0 | グループリーグ敗退 |
7. 栄誉
水本裕貴が選手キャリアで獲得した主要なタイトル、賞、および表彰は以下の通りです。
7.1. クラブ栄誉
- ジェフユナイテッド市原・千葉
- ナビスコカップ:2回(2005年、2006年)
- サンフレッチェ広島
- Jリーグ ディビジョン1:3回(2012年、2013年、2015年)
- J1・2ndステージ:1回(2015年)
- ゼロックススーパーカップ:3回(2013年、2014年、2016年)
7.2. 個人栄誉
- Jリーグベストイレブン:1回(2012年)
- Jリーグフェアプレー個人賞:2回(2014年、2017年)
- Jリーグ・優秀選手賞:1回(2015年)
8. 指導者キャリア
プロサッカー選手引退後、水本裕貴はサッカー指導者としての道を歩んでいます。
- 2023年:横浜FCスクールコーチ
- 2023年:ONODERA FCコーチ
- 2024年 - :SC相模原コーチ
9. 引退
水本裕貴は、2022年シーズンを最後にプロサッカー選手としてのキャリアを終えることとなりました。SC相模原に所属していた2022年4月17日の試合で、彼は右下顎骨骨折という大怪我を負い、医師からは即座の現役引退を促されるほどの重傷でした。この負傷は、彼のキャリアに大きな影響を与えました。
同年11月7日には、SC相模原との契約満了が発表され、契約更新は行われませんでした。そして、2023年1月15日、水本裕貴は自身のプロサッカー選手としての現役引退を正式に発表しました。引退会見では、長年のプロ生活への感謝と、今後のサッカー界への貢献意欲を表明しました。引退後は、横浜FCやONODERA FCのスクールコーチを務め、2024年からはSC相模原のコーチとして、若手選手の育成とチームの強化に尽力するなど、指導者としての新たな道を歩み始めています。