1. 生涯
河上肇は、その生涯を通じて学問と社会活動の間を揺れ動き、日本の近代史における重要な思想家の一人として位置づけられている。
1.1. 生い立ち
河上肇は1879年(明治12年)10月20日、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に、旧岩国藩の武士の家系に生まれた。祖母に溺愛されて育ち、わがままな性格だったという。
山口尋常中学校を卒業後、1898年に山口高等学校法科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学した。この時、故郷では見ることのできなかった東京での貧富の差に大きな衝撃を受けた。その後、キリスト教者である内村鑑三に大きな影響を受け、また1901年11月20日には、東京本郷の中央会堂で、木下尚江や田中正造らが主催した足尾銅山鉱毒事件に関する演説会に感銘を受け、その場で自身の外套、羽織、襟巻きを寄付した。この行為は『東京毎日新聞』に「特志な大学生」として報じられた。
1902年(明治35年)に東京帝国大学を卒業。卒業後は国家学会雑誌に投稿するようになり、経済学を通じて人々の幸福に貢献することを志すようになる。1903年(明治36年)には東京帝国大学農科大学実科の講師に就任し、その後は専修学校、台湾協会専門学校、学習院などの講師を兼任しながら、『読売新聞』に経済記事を執筆した。1905年(明治38年)12月5日に教職を辞し、同年12月8日には無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」での生活に入ったが、1906年2月には脱退し、『読売新聞社』に入社した。
1.2. 京都帝国大学教授時代
1908年(明治41年)、田島錦治の要請により京都帝国大学の講師となり、以後研究生活を送る。1912年には、それまでの自身の研究を総括した論文集『経済学研究』を執筆した。1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけての2年間、ヨーロッパに留学し、1914年には法学博士の学位を授与された。帰国後、教授に就任する。
1.3. マルクス主義への傾倒と『貧乏物語』
1916年(大正5年)9月11日から12月26日まで『東京朝日新聞』に『貧乏物語』を連載し、翌1917年3月に出版した。大正デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだこの書はベストセラーとなった。
『貧乏物語』の中で河上は、ワーキングプアが生まれるのは富裕層が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないからであると批判し、社会全体が贅沢を止め、質素倹約をすれば貧困の問題は解消されると論じた。この主張は、福田徳三や社会主義者の堺利彦から「現実的ではない」と痛烈に批判された。
1919年1月20日には個人雑誌『社会問題研究』を創刊し、1930年10月まで発行を続けた。1920年(大正9年)9月には京都帝国大学経済学部長に就任。その後、マルクス経済学に深く傾倒し、研究を進めた。1921年(大正10年)、河上が執筆した論文「断片」が原因で雑誌『改造 (雑誌)』が発売禁止となり、この論文は後に虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたとされる。
1924年には、労農派の櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判したが、河上はこの批判が的を射ていることを認め、マルクス主義の真髄を極めようと発奮した。『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。『社会問題研究』には1927年2月号から1928年12月まで「唯物史観に関する自己清算」を発表した。
1.4. 社会・政治活動
1928年(昭和3年)4月18日、河上は京都帝国大学を辞職した(依願免官)。辞職を迫られた理由は、「マルクス主義講座」の広告用冊子に不穏当な短文を記したこと、香川県で行った選挙演説に不穏当な箇所があったこと、そして社会科学研究会員の中から治安を紊乱する者が出たことであった。経済学部の学生たちは大学当局への反対集会を開催し、約400人が参加したが、文部省が全国の大学に対し、左傾教授処分の方針を示していたこともあり、状況を変えることはできなかった。皮肉なことに、同日付で河上の特別昇給が決定されており、四級俸から二級俸(700 JPYの増俸)の辞令も発令されていた。
その後は、大山郁夫のもとで労働農民党の結成に参加した。1930年(昭和5年)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党の路線を誤りであると批判し、大山と決別した。同年、雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。
昭和恐慌の際には、河上はデフレーションを放置しても問題ではなく、デフレを脱却しても資本主義経済の限界は解消されないと主張した。
1.5. 日本共産党への関与と逮捕
京都大学を退官して、『資本論』の翻訳に没頭していた河上肇は、昭和初期から地下の日本共産党への資金援助を開始した。当初は組織の末端の活動家に対する寄付に留まっていたが、1931年(昭和6年)夏頃、日本大学の民法学者である杉ノ原舜一を介して党中央と連絡がつき、党中央に直接資金を入れるようになった。当初は月々100 JPY単位(現在の約20万円に相当)だったが、やがて1000 JPY単位の臨時の寄付を度々求められるようになった。
そして1932年(昭和7年)9月9日、河上自身が日本共産党に入党した。この際、彼は党に1.50 万 JPYを提供した。同年同月、彼は潜伏を開始し、地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「しんぶん赤旗」の編集を助け、政治パンフレットの作成と執筆にあたることだった。この間にした仕事で最も知られているのは、コミンテルンが発表した32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」をいち早く入手して翻訳し、それを党名の本田弘藤名義で同年7月10日発行の「赤旗」特別号に発表したことである。

その後、潜伏活動に入ったが、1933年(昭和8年)1月12日、中野区の画家の家に潜伏していたところを警視庁特高課の一隊が踏み込み、検挙された。同年1月26日、治安維持法違反で起訴された。同年7月6日、市ヶ谷刑務所の未決囚独房から引退声明「獄中独語」を各紙に発表し、いっさいの実際運動との絶縁を表明した。
1.6. 投獄と転向
1933年(昭和8年)8月1日、新生共産党事件と呼ばれる政府による第4次検挙により、東京商科大学教授の大塚金之助、元九州帝国大学教授の風早八十二らとともに検挙された。彼は治安維持法違反で懲役5年の判決を受け、豊多摩刑務所に収監された(後に市ヶ谷刑務所に移送)。これにより、正四位を失位し、勲三等及び大礼記念章(大正)を褫奪された。
収監中に、河上は自らの共産党活動に対する敗北声明と「転向」を発し、社会に大きな衝撃を与えた。また、獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は、出獄後にさらにまとめられた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。
1.7. 出獄後の活動
1937年(昭和12年)6月15日未明に出獄した。服役期間は恩赦により1年3ヶ月減刑され、3年9ヶ月を数えた。出所当日、自宅にて新聞記者の写真撮影に応じたが何も語らず、「出獄を機会に、マルクス学者としての私の生涯を閉じる」とする家族に筆記させた手記を発表した。
その後は自叙伝などの執筆に専念した。1941年には東京都杉並区天沼から京都市内に転居した。日本の降伏後、第二次世界大戦終戦後、活動への復帰を予定していたが、1946年に老衰と栄養失調に肺炎を併発し、京都市左京区の自宅で死去した。
2. 思想と著作
河上肇の思想は、貧困問題への深い関心から出発し、資本主義批判、そしてマルクス主義経済学の独自解釈へと発展していった。
2.1. 経済理論
河上肇は、初期の著作『貧乏物語』において、貧困を社会全体の問題として捉え、富裕層の奢侈が貧困を生み出すという独自の視点を示した。彼は、社会全体が質素倹約を実践することで貧困問題は解消されると主張したが、この見解は福田徳三や堺利彦といった同時代の論者から「現実的ではない」と批判された。
この批判を受け、河上はマルクス主義経済学に深く傾倒し、資本主義の構造的矛盾こそが貧困の根本原因であると認識するに至った。彼は、カール・マルクスの『資本論』を独自に解釈し、日本の社会状況に適用することで、資本主義批判と社会正義、経済的平等に関する自身の見解を深めていった。また、彼はエドウィン・ロバート・アンダーソン・セリグマンの『歴史の経済的解釈』を翻訳し、弁証法的唯物論を日本に初めて紹介した。彼の著作は、日本の理論経済学の発展に決定的な役割を果たした。
2.2. 主要著作
河上肇は多岐にわたる著作を残しており、その多くが日本の社会思想や経済学に大きな影響を与えた。
- 『貧乏物語』(1917年):貧困問題に対する彼の初期の思想を代表する作品。富裕層の奢侈を批判し、質素倹約を訴えた。
- 『社会問題研究』(1919年創刊):彼が創刊した個人雑誌で、学生や労働者に向けてマルクス主義経済学を普及させる役割を果たした。
- 『経済学大綱』(1928年):マルクス主義経済学の体系的な解説書として、当時の日本の理論経済学の発展に貢献した。
- 『資本論入門』(1929年):マルクス経済学の基礎を一般読者にも分かりやすく解説した入門書として広く読まれた。
- 『第二貧乏物語』(1930年):『貧乏物語』の続編として、マルクス主義の視点から貧困問題をさらに深く掘り下げた。
- 『自叙伝』(1947年刊行):彼の死後に刊行された自叙伝で、その波乱に満ちた生涯と思想的変遷を詳細に綴っている。名文として高く評価され、ベストセラーとなった。
- 『経済学上之根本観念』(1905年)
- 『日本尊農論』(1905年)
- 『社会主義評論』(1906年)
- 『人生の帰趣』(1906年)
- 『日本農政学』(1906年)
- 『無我愛の真理』(1906年)
- 『経済学原論』(1907年)
- 『人類原始ノ生活』(1909年)
- 『時勢之変』(1911年)
- 『金ト信用ト物価 輓近物価騰貴之一研究』(1913年)
- 『経済原論』(1913年)
- 『祖国を顧みて』(1915年)
- 『社会問題管見』(1918年)
- 『近世経済思想史論』(1920年)
- 『社会組織と社会革命に関する若干の考察』(1922年)
- 『唯物史観研究』(1923年)
- 『資本主義経済学の史的発展』(1923年)
- 『マルクス資本論略解』(1925年)
- 『階級闘争の必然性と其の必然的転化』(1926年)
- 『唯物史観の解説』(1926年)
- 『人口問題批判』(1927年)
- 『マルクス主義経済学』(1928年)
- 『マルクス主義経済学の基礎理論』(1929年)
- 『小児病を克服せよ』(1929年)
- 『マルクス主義のために』(1929年)
- 『資本主義的搾取のカラクリ』(1930年)
- 『大衆に訴ふ:労農党の立場から』(1930年)
- 『思ひ出 断片の部・抄出』(1946年)
- 『河上先生からの手紙』(1946年)
- 『雑草集 詩集』(1946年)
- 『資本主義的搾取とは何か』(1946年)
- 『旅人 河上肇詩集』(1946年)
- 『ふるさと』(1946年)
- 『階級闘争の必然性及びその必然的転化』(1947年)
- 『河上肇より櫛田民蔵への手紙』(1947年)
- 『獄中贅語』(1947年)
- 『古机』(1947年)
- 『陸放翁鑑賞』(1949年)
- 『西洋と日本 他』(1951年)
- 『遠くでかすかに鐘が鳴る』(1957年)
- 『晩年の生活記録』(1958年)
- 『経済学史講義』(1973年)
- 『河上肇獄中往復書簡集』(1986年-1987年)
- 『河上肇評論集』(1987年)
- 『河上肇の遺墨』(2007年)
河上肇の著作集としては以下のものが刊行されている。
- 『河上肇著作集』(全12巻)筑摩書房 1964年-1965年
- 1巻『社会主義評論ほか』
- 2巻『貧乏物語,第二貧乏物語』
- 3巻『経済学大綱』
- 4巻『資本論入門』
- 5巻『資本論入門』
- 6巻『自叙伝』
- 7巻『自叙伝』
- 8巻『人生の帰趣ほか』
- 9巻『祖国を顧みてほか』
- 10巻『評論集ほか』
- 11巻『詩歌集ほか』
- 『河上肇詩集』筑摩叢書 1966年
- 『河上肇全集』(全28巻)岩波書店 1982年-1984年
- 『続・河上肇全集』(全7巻)岩波書店 1985年
また、彼は多くの翻訳も手掛けている。
- 『人生の意義』トルストイ著、1906年
- 『ワグナー氏経済学原論』ワグナー著、1906年
- 『価値論』Nicolaas Piersonニコラス・ピールソン英語著、河田嗣郎共訳、1911年
- 『物財の価値』Frank Fetterフランク・フェター英語著、1911年
- 『資本及利子歩合』フィッシャー著、1912年
- 『如何に生活すべき乎』フィシヤー、Eugene Lyman Fiskイゥジーン・エル・フィスク英語共編、1917年
- 『賃労働と資本/労賃、価格及び利潤』カアル・マルクス著、1923年
- 『レーニンの弁証法』Abram Deborinアブラム・デボーリン英語著、1926年
- 『賃労働と資本』マルクス著、1927年
- 『労賃・価格及び利潤』マルクス著、1927年
- 『労農ロシアの社会主義的建設 社会主義への道』ブハーリン著、大橋積共訳、1927年
- 『資本論 第1巻』(第1-5分冊)マルクス著、宮川実共訳、1928年-1929年
- 『弁証法的唯物論について』(事項別レーニン選集 第1分冊)、1929年
- 『ドイッチェ・イデオロギー』マルクス、エンゲルス著、共訳、1930年
- 『政治経済学批判』マルクス著、宮川実共訳、1931年
3. 私生活
河上肇の家族構成は以下の通りである。
- 父:河上忠 - 山口県の士族。
- 母:タヅ - 山口県士族・河上又三郎の二女で、河上謹一の妹。肇を妊娠中の結婚9ヶ月で離縁している。
- 異母弟:河上暢輔 - 忠の後妻の子。後妻も産後3ヶ月で離縁している。
- 弟:河上左京 - 画家。『貧乏物語』刊行の際には、河上左京による装幀が使われた。
- 妻:ヒデ(秀、1885年-1966年) - 大塚慊三郎の娘で、大塚武松の妹、大塚有章の姉。男爵・井上光の孫にあたる。1902年に結婚し、一男二女を儲けた(長男は大学在学時に死去)。ヒデは『留守日記』という著書も残しており、彼女については草川八重子による小説『奔馬 河上肇の妻』も存在する。
- 長女:シズ - 京都帝国大学教授の羽村二喜男の妻となった。
- 二女:ヨシ(河上芳子) - 地下活動家。母方の叔父であり、日本共産党員として数々の事件を起こした大塚有章のハウスキーパー (日本共産党)を務めた。
- 相婿:末川博 - 妻ヒデの妹の夫。
大塚有章によると、河上は「真正直で融通がきかず、偏狭と見えるまで精神を一点に集中し得る特性」を持っていたという。
4. 評価と影響
河上肇の生涯と業績は、日本の学術界、社会運動、そして文学に多大な影響を与え、その評価は多角的に行われている。
4.1. 学術的・社会的貢献
河上肇は、日本のマルクス主義経済学の先駆者として高く評価されている。彼の著作、特に『経済学大綱』や『資本論入門』は、マルクス経済学の理論を日本に普及させ、多くの学生や知識人に影響を与えた。京都帝国大学教授として、彼は学生たちにマルクス主義を教え、その後の日本の社会科学研究に大きな足跡を残した。
また、文筆家としても優れた才能を持ち、『貧乏物語』や『自叙伝』といった作品は、その名文によって広く読まれ、社会問題への関心を喚起した。彼の貧困問題への取り組みは、当時の社会に大きな影響を与え、大正デモクラシー期の社会運動における彼の役割は重要である。
4.2. 批判と論争
河上肇の思想は、その変遷の過程で様々な批判や論争に晒された。初期の『貧乏物語』で提唱した「富裕層の奢侈停止による貧困解消論」は、福田徳三や堺利彦といった社会主義者から「現実的ではない」と厳しく批判された。これは、彼の思想がまだ資本主義の構造的矛盾を深く捉えきれていなかった段階での限界を示すものとされた。
また、彼が日本共産党に入党し、地下活動を行ったことは、当時の政府による弾圧の対象となり、大学教授の職を追われる原因となった。さらに、投獄中に発表した「転向」声明は、共産主義運動内部からも、また社会全体からも大きな衝撃と批判を呼んだ。この「転向」は、彼の思想的敗北と捉えられることもあったが、一方で獄中での苦悩と内省の結果として理解される側面も持つ。
4.3. 遺産と影響
河上肇の思想と著作は、日本の経済学界、社会思想、そして文学に長期的な影響を与え続けている。彼のマルクス主義経済学の導入と普及は、戦後の日本の社会科学研究の基礎を築いた。また、貧困問題への彼の強い関心と、それを社会に訴えかける文筆活動は、社会運動やジャーナリズムにも影響を与えた。
特に『自叙伝』は、その文学的価値と、一人の知識人が時代と格闘した記録として、没後も広く読まれ、多くの人々に感銘を与えている。彼の生涯は、日本の近代における知識人の苦悩と挑戦の象徴として、現在も語り継がれている。
5. 死没

河上肇は1946年(昭和21年)1月30日、老衰と栄養失調に肺炎を併発し、京都市左京区の自宅で死去した。享年66歳。彼の死後、1947年に『自叙伝』が刊行され、広く読まれた。戒名は天心院精進日肇居士。