1. 生涯
清水邦夫の生涯は、彼の演劇活動と深く結びつき、特に日本の社会が大きく変動した時期に、若者の声や社会の歪みを代弁する作品を多数発表した。
1.1. 幼少期と教育
清水邦夫は1936年11月17日、日本の新潟県新井市(現在の妙高市)に生まれた。父親は警察官であった。新潟県立高田高等学校を卒業後、東京の早稲田大学第一文学部演劇科に進学。大学在学中から劇作を開始し、1958年に『署名人』、1959年には『明日そこに花を挿そうよ』といった戯曲を発表している。これらの初期作品は、1960年に劇団「青俳」によって上演された。
1.2. 初期キャリアと劇団活動
1960年に早稲田大学を卒業後、清水は岩波映画製作所に入社し、ドキュメンタリーや広報映画のシナリオを執筆した。しかし、1965年には同社を退職し、独立した劇作家としての道を歩み始める。
1968年頃、当時「青俳」の俳優であった蜷川幸雄が、清水に戯曲の執筆を依頼した。清水は『真情あふるる軽薄さ』を執筆したが、蜷川が演出を望んだにもかかわらず、台本が劇団によって却下されるという事態が生じた。この出来事がきっかけとなり、蜷川と彼に賛同する人々は「青俳」を離れ、新しい劇団「現代人劇場」を結成した。
この時期は日本社会全体で大きな社会変動が生じており、「新左翼」と呼ばれる日本の若者たちが政治的な議論集会を活発に行っていた。清水はこうした時代の空気を背景に、政治改革の要求が満たされない人々の視点を表現する戯曲を数多く執筆し、反体制的な若者の苦悩や不満を描いた作品で人気を集めた。現代人劇場での活動の後、1969年には蜷川らと劇結社「櫻社」を結成し、『真情あふるる軽薄さ』の初演が大きな反響を呼んだ。清水と蜷川のコンビは1974年の櫻社解散まで続き、日本の演劇界に一時代を画した。
1.3. 後期活動と大学教授職
櫻社解散後、清水は9年間のブランクを経て1982年に蜷川との共同作業を再開した。代表作の一つである『タンゴ・冬の終わりに』は、ロンドンのウェスト・エンドでイギリス人キャストによって上演され、国際的な評価を得た。
1976年には、女優である妻の松本典子らと共に演劇企画グループ「木冬社」(Winter Tree Company英語)を旗揚げし、自身の作品の演出も数多く手掛けるようになった。彼はまた、俳優座、民藝、文学座などの劇団に戯曲を提供し続ける一方で、映画、テレビドラマ、ラジオドラマの脚本、小説の執筆といった多様なメディアでの活動も行った。
1994年から2007年にかけては、多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科の教授を務め、後進の育成にも尽力した。2001年11月をもって木冬社は結成25年で解散したが、その後も東京・板橋区大山のサイスタジオで小規模なプロデュース公演を継続した。サイスタジオでの公演は2006年3月に終了した。
1.4. 死去
2021年4月15日12時46分、清水邦夫は老衰のため死去した。84歳没。彼の訃報は、日本の演劇界に大きな喪失感をもたらした。
2. 主要作品
清水邦夫は、その劇作家としてのキャリアを通じて、多様なジャンルにわたる数多くの作品を生み出した。
2.1. 戯曲
清水の創作活動の核となるのは、その文学的深さと革新性で知られる戯曲作品である。
2.1.1. 主要戯曲一覧
清水邦夫の主要な戯曲作品を以下に示す。
発表年 | 作品名 | 備考 |
---|---|---|
1958年 | 署名人 | テアトロ演劇賞、早稲田演劇賞受賞 |
1958年 | 朝に死す | |
1959年 | 明日そこに花を挿そうよ | |
1962年 | 逆光線ゲーム | |
1968年 | 真情あふるる軽薄さ | |
1969年 | 狂人なおもて往生をとぐ | |
1972年 | ぼくらが非情の大河をくだる時 | 1974年に岸田國士戯曲賞受賞 |
1973年 | 泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために? | |
1975年 | 幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門 | |
1976年 | 夜よおれを叫びと逆毛で充す青春の夜よ | 1976年に紀伊國屋演劇賞個人賞受賞 |
1977年 | 楽屋 | 累計上演回数が日本一 |
1978年 | 火のようにさみしい姉がいて | |
1979年 | 戯曲冒険小説 | 1980年に芸術選奨新人賞受賞 |
1980年 | わが魂は輝く水なり | 1980年に泉鏡花文学賞受賞 |
1980年 | あの、愛の一群たち | 1980年にテアトロ演劇賞受賞 |
1982年 | 雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた | |
1983年 | エレジー 父の夢は舞う | 1983年に読売文学賞受賞 |
1984年 | タンゴ・冬の終わりに | |
1985年 | 救いの猫ロリータはいま... | |
1986年 | 血の婚礼 | |
1986年 | 夢去りて、オルフェ | |
1990年 | 弟よ | 1990年にテアトロ演劇賞、芸術選奨文部大臣賞受賞 |
1991年 | 哄笑 | |
1992年 | 冬の馬 | |
1995年 | わが夢にみた青春の友 | |
1995年 | 愛の森 | |
1998年 | リターン | |
2000年 | 恋する人々 | |
2001年 | 破れた魂に侵入 |
2.1.2. 戯曲の特性と主題
清水邦夫の戯曲は、現実と幻想の境界線、現在と過去、そして記憶の曖昧さといった主題を繰り返し探求している。彼の作品では、どの登場人物の記憶が正しいのかという問いが常に提示され、過去と現在が織り交ぜられながら物語が展開される。例えば、代表作の一つである『楽屋』では、生者である二人の女優と、すでに亡くなった二人の女優の幽霊が登場し、死後も記憶が残るというテーマが描かれている。物語の筋書きは、登場人物たちの記憶に基づいて展開される。この作品は、舞台の楽屋を舞台とし、アントン・チェーホフの『かもめ』の稽古に励む女優たちの姿を描いているが、事態は一見した通りではないことが次第に明らかになる。
また、彼の多くの戯曲に共通する主題として、「都市」と「田園」の対比がある。清水にとって田園は安全ではない場所として描かれ、人生で人々が逃げ出したいものや対処できないものを象徴するメタファーとなっている。この対比は、チェーホフの作品にも見られるモチーフである。
記憶の持つ力や、過去への郷愁と愛情も清水の作品に頻繁に登場するテーマである。さらに、彼の戯曲では、きょうだいと親の関係性の中に劇的な緊張が集中することが多い。これらの関係性は、登場人物にとって有害なものとなることもある。例えば、『火のようにさみしい姉がいて』では、ある人物が自称「姉」の奇妙な力によって精神的な問題を抱え、きょうだいが子をなしたことを示唆されたことで妻を絞め殺すという展開がある。清水は、家族間の関係性を作品の重要な要素として用い、登場人物の性格が劇中で変化するといった手法も取り入れている。
清水の戯曲には、皮肉や喜劇的な要素が含まれていながらも、しばしば結末には「死」が訪れるという特徴がある。また、彼は『楽屋』で鈴木忠志が確立したコラージュ手法を間接的に用いることで、自らの思考を表現している。ただし、作品全体がコラージュであるわけではない。
『ぼくらが非情の大河をくだる時』(1972年初演)は、拡張されたメタファーを用いた作品であり、登場人物は一人の男性と二人の息子(長男と次男)で、公衆トイレが舞台となっている。この戯曲は政治を扱いつつも、他の様々なテーマにも言及している。
『タンゴ・冬の終わりに』では、初期の作品に用いられたモチーフや手法が再び登場する。この作品では、主人公がパフォーマンスを通じて自由を得ようとするが、最終的には朽ちかけた映画館に閉じ込められてしまう。彼は過去の亡霊をパートナーに選び、タンゴを踊る。この亡霊は他の人々には見えないが、主人公には、幼い頃から追い求めてきた「理想の存在」である孔雀が見えるという設定である。
2.2. 小説
清水邦夫は劇作活動に加え、小説も執筆している。
- 『BARBER・ニューはま』(1987年)
- 「冬の少年」講談社、1990年。(他に「暮市」を収録)
- 『月潟鎌を買いにいく旅』(1988年)
- 『風鳥』(1990年)
- 「風鳥」文藝春秋、1993年。(上記2作と「魚津埋没林」を収録)
- 『華やかな川、囚われの心』(1991年)
- のち講談社、1992年。(他に「力女伝」を収録)
- 『馬の屍体が流れる川』(1994年、単行本未収録)
2.3. 脚本
清水は、映画、テレビドラマ、ラジオドラマなど、様々なメディアで脚本を手がけた。
2.3.1. 映画脚本
- 『充たされた生活』(1962年、松竹)
- 『彼女と彼』(1963年、ATG)
- 『ブワナ・トシの歌』(1965年、東宝)
- 『魚群アフリカを行く』(1966年、東宝)
- 『北穂高絶唱』(1968年、東宝)
- 『祇園祭』(1968年、東宝)
- 『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年、ATG)※田原総一朗と共同で脚本・監督
- 『竜馬暗殺』(1974年、ATG)
- 『幸福号出帆』(1980年、東映セントラルフィルム)
- 『悪霊島』(1981年、角川映画)
2.3.2. テレビドラマ脚本
- 『お気に召すまま』 第3回「天才の秘密」(1962年、NET)
- 『お気に召すまま』 第17回「ヒッチ・ハイク」(1962年、NET)
- 『銀行8時劇場 青い糧』(1963年、NET)
- 『創作劇場 いもがゆ栄華』(1964年、NHK教育)
- 『シオノギテレビ劇場 有馬稲子アワー 通夜の客』(1964年、フジテレビ)
- 『シオノギテレビ劇場 有馬稲子アワー 喪われた街』(1965年、フジテレビ)
- 『シオノギテレビ劇場 あの人は帰ってこなかった 第一部・屋根』(1965年、フジテレビ)
- 『若者たち』(1966年、NHK)
- 『泣いてたまるか 豚とマラソン』(1966年、TBS)
- 『日産スター劇場 誰かがあなたを待っている』(1967年、日本テレビ)
- 『泣いてたまるか 禁じられた遊び』(1968年、TBS)
- 『緊急出社』(1969年、NHK)
- 『銀河ドラマ 孔雀の道』(1970年、NHK)
- 『おんなの劇場 霧氷の影』(1970年、フジテレビ)
- 『Yの悲劇』(1970年、フジテレビ)
- 『冬物語』(1972年 - 1973年、日本テレビ)
- 『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』(1976年、日本テレビ)
- 『秋日記』(1977年、日本テレビ)
- 『くれない心中』(1978年 - 1979年、東海テレビ)
- 『ちょっとマイウェイ』(1979年 - 1980年、日本テレビ)
- 『木曜ゴールデンドラマ 青年 さらば愛しき日々よ!』(1981年、日本テレビ)
- 『火曜サスペンス劇場 さよならも言わずに消えた!』(1981年、日本テレビ)
- 『水の女 その愛はエーゲ海に殺意を招く!』(1990年、テレビ朝日)
- 『欅の家』(1993年、NHK)
- 『ゼロの焦点』(1994年、NHK-BS2)
2.3.3. ラジオドラマ脚本
- 『かけがえのない日々』(1969年、TBSラジオ)
- 『文芸劇場 行きずりの人たちよ』(1974年、NHK-FM)
- 『洞爺丸はなぜ沈んだか』(1981年、TBSラジオ)
- 『FMシアター 海へ...』(1999年、NHK-FM)
3. 著書・作品集・研究
清水邦夫の出版された著作物や、彼の作品世界を探求した学術的な研究書は多数存在する。
3.1. 作品集
- 『花のさかりに... 清水邦夫戯曲集』テアトロ、1986年
- 『清水邦夫全仕事』全4巻、河出書房新社、1992年(1958年~1991年の作品を収録)
- 『清水邦夫全仕事 1992~2000』河出書房新社、2000年
- 『清水邦夫 Ⅰ・Ⅱ』ハヤカワ演劇文庫、2009年
- Ⅰには「署名人」「ぼくらは生れ変わった木の葉のように」「楽屋」を収録
- Ⅱには「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」「エレジー」を収録
3.2. 評論集
- 『清水邦夫演劇的エッセイ』全3巻、レクラム社、1975-1982年
- 『月潟村柳書』白水社、1985年
- 『ステージ・ドアの外はなつかしい迷路』早川書房、1994年
3.3. 関連研究書
- 『清水邦夫の世界』白水社、1982年
- 井上理惠『清水邦夫の華麗なる劇世界』社会評論社、2020年(巻末には清水戯曲の発表年・初演一覧が記載されている)
4. 影響と評価
清水邦夫は、日本の戦後演劇において古典ともいえる作品を生み出し、その独自の世界観と表現は多くの人々に影響を与えた。
4.1. 芸術的影響と思想的背景
清水邦夫は、劇作家の安部公房から大きな影響を受け、彼を自身の模範であると述べている。清水の戯曲には、個人的なアイデンティティへの満たされない探求や狂気といったテーマが繰り返し登場する。また、きょうだいと親の関係性に主要なドラマが集中するという構成も、彼の作品に共通する要素である。
彼は西洋の演劇や詩歌といった他の文学作品も巧みに引用し、それらを自身の場面をより力強くするために用いた。例えば、『火のようにさみしい姉がいて』では、シェイクスピアの『オセロ』の作品が取り入れられている。
ロシアの劇作家アントン・チェーホフも清水の作風に類似点が見られる。チェーホフが軽妙なユーモアと何かを強く求める激しい感情を融合させるように、清水も同様の混合を用いていた。しかし、両者の作品には相違点もある。例えば、チェーホフの登場人物は自らの人生を変えるために必要なエネルギーや感覚を引き出すことができないのに対し、清水の登場人物は多くのエネルギーを表現する。また、チェーホフの作品では通常、主人公が最終的に生存するのに対し、清水の作品では主人公が生存しない結末を迎えることが多い。
清水の作品には、チェーホフの作品にも見られる「都市」と「田園」の対比というモチーフが存在する。清水にとって田園は危険な場所であり、人生で人々が逃げ出したいものや対処できないものを表すメタファーとなっている。
彼が育った地方の環境も、清水の作品に影響を与えている。田園と都市の両方に住んだ経験から、それぞれの生活様式を比較することができ、故郷の記憶が彼の執筆のインスピレーション源となった。
4.2. 日本演劇界への影響
清水邦夫は、1960年代の日本のアングラ演劇運動における中心的な役割を担い、日本の現代演劇の発展に貢献した。
4.2.1. 1960年代の日本演劇スタイルとの関連
清水邦夫が執筆活動を行った1960年代には、寺山修司、唐十郎、安部公房、別役実、太田省吾、斎藤憐といった日本の劇作家が活躍していた。清水と同様に、彼らの多くも戦争の記憶を抱えていた。
1960年代の日本の演劇は、新劇とは異なるスタイルを確立した。新劇が日本の伝統演劇から離れ、ヨーロッパ演劇に影響を受けていたのに対し、1960年代のアングラ(アングラ)と呼ばれる前衛演劇運動は、日本の独自のスタイルを追求した。しかし、日本のスタイルを重視しながらも、この時代の演劇は依然としてヨーロッパ演劇の影響を受けていた。
また、1960年代の日本の演劇は、能や歌舞伎といった日本の伝統芸能からも影響を受けている。この時代の演劇は「身体」を重視し、テキストよりも生身のパフォーマンスに重きを置く傾向があった。
5. 受賞・栄典
清水邦夫が生涯にわたって受けた主要な文学賞、演劇賞、および国家的な栄誉は以下の通りである。
- 1958年:テアトロ演劇賞「署名人」
- 1958年:早稲田演劇賞「署名人」
- 1974年:岸田國士戯曲賞「ぼくらが非情の大河をくだる時」
- 1976年:紀伊國屋演劇賞個人賞「夜よ、おれを叫びと逆毛で充す青春の夜よ」
- 1980年:芸術選奨新人賞(「戯曲冒険小説」)
- 1980年:泉鏡花文学賞(「わが魂は輝く水なり」)
- 1980年:テアトロ演劇賞「あの、愛の一群たち」
- 1983年:読売文学賞『エレジー』
- 1987年:第98回芥川賞候補「BARBER・ニューはま」
- 1988年:第100回芥川賞候補「月潟鎌を買いにいく旅」
- 1990年:第103回芥川賞候補「風鳥」
- 1990年:テアトロ演劇賞「弟よ-姉、乙女から坂本龍馬への伝言」
- 1990年:芸術選奨文部大臣賞「弟よ-姉、乙女から坂本龍馬への伝言」
- 1993年:芸術選奨文部大臣賞「華やかな川、囚われの心」
- 1994年:紀伊國屋演劇賞団体賞(木冬社として受賞)
- 2002年:紫綬褒章
- 2008年:旭日小綬章