1. 生涯と教育
渡邉衡三は大阪府出身で、東京大学工学部機械工学科で船舶機械工学を学んだ後、自動車工学を研究テーマとした修士課程を修了した。幼少期から車に対する強い関心を持ち、特にモータースポーツを愛好していた。1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリを観戦し、そこでプリンスの車両が他社に大敗する様子を目の当たりにした経験は、彼にとって印象深いものであった。日産自動車に入社する直前の1967年3月には、ヨーロッパへ渡り、F1レースを観戦するなど、その情熱は尽きることがなかった。当初はブラバムのようなF1レーシングカーの製造会社への就職を夢見ており、日本国内ではR380などのレーシングカーを積極的に開発していたプリンス自動車工業、特にその日産との合併後のプリンス事業部への入社を強く希望していた。
2. 日産でのキャリア
渡邉衡三の日産自動車における専門キャリアは多岐にわたり、初期のレーシングカーのサスペンション設計から、生産車の安全対策、シャシー設計、さらには車両コンセプトの策定や実験車両の評価、そして象徴的なスカイラインシリーズの開発責任者、最終的にはNISMOの経営に携わるまで、彼の功績は日本の自動車産業に大きな足跡を残した。
2.1. 日産への入社と初期の業務
渡邉は、プリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併された翌年の1967年4月に日産に入社し、希望通り、旧プリンス自動車の本拠地であった東京・荻窪のプリンス事業部に配属された。この荻窪の主要施設は、かつて中島飛行機の東京工場だった建物を利用していた。彼は第一車両設計部第二車両設計課に配属され、この部署には日産・スカイラインの開発者として知られる桜井眞一郎と、その下でシャシー関係を取りまとめていた伊藤修令という、後に8代目スカイライン(R32型)の開発責任者となる人物が在籍していた。渡邉が「レース車の設計をやりたい」と桜井に申し出た際、「まず生産車を勉強してからでなければ、レース車など造れるわけがない」と諭されたが、伊藤の指導の下、徐々にC10型スカイラインGT-Rのレーシングカー用サスペンションの一部設計を任されるようになった。さらに、R381やR382といったR38シリーズのレーシングカーのサスペンション設計にも関与する機会を得た。
2.2. 安全対策部門への異動
1969年末から1970年初頭にかけて、自動車業界で排ガス規制や衝突安全性への関心が高まり、日産もR38シリーズのレース活動を中止する決定を下した。この変化に対応するため、渡邉は1970年春に荻窪から横浜・鶴見のESV(Experimental Safety Vehicle実験安全車英語)部門に異動となった。ここで彼は約3年間、主に衝突安全性に関する研究に従事し、自動車開発における安全技術の重要性を深く学んだ。
2.3. 荻窪への復帰とシャシー設計
1973年、渡邉は再び荻窪に戻り、伊藤が課長を務める第三シャシー設計部の第三シャシー設計課に配属された。この時期は、多くの技術者が排ガス規制対応プロジェクトに引き抜かれており、渡邉と伊藤を含めわずか2、3名で業務を切り盛りしていた。彼らは、4代目スカイライン(ケンメリ)のマイナーチェンジ版の足回りやパワーステアリングの設計を担当したほか、パルサー(チェリーの後継車)やニッサン・プリンス・ホーマーなどの旧プリンス系車両のシャシー設計にも横並びで携わった。なお、当時の純粋な日産車は、横浜の日産鶴見デザインセンターで設計されていた。この荻窪時代に、渡邉が特に印象深い経験として挙げているのは、御料車であるニッサン・プリンス・ロイヤル(S390P-1)の部品交換と修理を担当したことである。修理後、同車を宮内庁に納めた際に、菊の御紋が印刷された恩賜の煙草を下賜され、感無量だったと語っている。彼はこの部署に1975年まで在籍した。
2.4. 戦略策定と車両実験
1985年、渡邉は日産本社の戦略部門に配属され、将来開発する各車両の基本的なコンセプトや販売戦略の策定に関わった。この業務では、それぞれの車の特性やイメージを定義する「シナリオ」を作成し、また、どの車両を輸出し、どの車両を国内販売に注力するかといった方針決定にも携わった。この期間中には、6代目スカイライン(ニューマン・スカイライン)や7代目スカイライン(7thスカイライン)、ブルーバードやサニーのFF化などの開発方針にも関与した。
同年には、車両実験部にも異動し、N13型パルサーとその派生車種であるエクサ、ラングレー、リベルタビラなどの実験を行った。
1987年からは、栃木の日産栃木工場にて、伊藤が開発責任者を務める8代目スカイライン(R32型)の実験主担に任命された。彼はレパードや輸出仕様のインフィニティ・Mも含め、R32型スカイラインの実験を細心の注意を払って粘り強く行い、膨大なデータを収集して伊藤に提供した。特に、R32型に搭載されたATTESA E-TSの基礎研究では、先行する7代目スカイラインや日産・ローレルを四駆に改造して繰り返し実験を行い、予想を上回る完成度を達成した。その成果は、R32型以降のスカイラインの市販四駆車に惜しみなく盛り込まれた。また、テストチームと共にR32型をドイツのニュルブルクリンクに持ち込み、徹底的なテストを実施したことは、R32型スカイラインの完成を象徴する出来事となり、そのデビューへの道を開いた。
1990年からは、日産の実験主管に任命され、日産の乗用車のマイナーチェンジ時における実験責任者を務めた。この時期には、北米における品質向上活動や、社内における走行距離の長いテストカーとしての初代インフィニティ・Q45のフリートテストなどを実施した。
2.5. R33型スカイラインの開発責任者
1992年1月、渡邉は商品開発本部主管として、既に開発が開始されていた9代目スカイライン(R33型)の開発責任者に任命された。日産本社の方針として、R33型は先代のR32型よりも広範囲で長くなることで、乗員の快適性を向上させる必要があった。これによりR33型はR32型よりも重くなることが予想されたが、渡邉は「R33型GT-RはR32型GT-Rよりも速くなければならない」と公言し、高速化と性能向上を目指した。特にサスペンション設計には細心の注意を払い熟成させた。BCNR33型GT-Rがニュルブルクリンクでテストされた際、最終的にラップタイムは7分59秒を記録し、これはBNR32型GT-Rの記録を21秒も短縮する大成功であった。この快挙は、当時のR33型GT-RのテレビCMのキャッチコピー「マイナス21秒ロマン」として広く知られることとなった。
2.6. R34型スカイラインの開発責任者
渡邉は引き続き、次世代(10代目)のR34型スカイラインの開発責任者を務めた。R34型の開発において、長年の懸案であった前後重量配分やパッケージングの改善のため、当初は重いRBエンジンを廃止し、より軽量なV6エンジン(V35型スカイラインのパッケージング)の採用も検討された。しかし、レイアウト変更に伴う莫大な開発費用、ATTESA E-TSとV型エンジンの組み合わせが当時シーマ用のVH41DEしか存在しなかったことによる開発期間の延長懸念、さらにいわき工場のVQエンジン製造ラインが当時月産2万機でフル稼働しており、スカイライン1車種のためだけに第二ラインを新設するほどの設備投資は賄いきれないという財政的な制約が明らかになった。これらの理由から、渡邉は引き続き直列6気筒のRBエンジンを徹底的に熟成させ、継続使用することを決定した。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、日本ではGTカーやスポーツカーの人気が低迷していた時代にあって、渡邉と彼のチームはR34型を「究極のスカイライン」として完成させた。このR34型の中でも、BNR34型GT-Rは、現在まで「スカイラインGT-R」の系譜を継ぐ最後のモデルとなった(その後、GT-Rはスカイラインのラインナップから独立した)。
2.7. NISMOでのリーダーシップ
R34型スカイラインを世に送り出した後、渡邉は1999年にNISMOへ異動し、常務取締役に就任した。彼はこの役職で、日産のモータースポーツプロジェクト全般を統括した。NISMO本社でZ-tune R34型スカイラインが顧客に販売される際には、自ら新しいオーナーを祝福するために立ち会うなど、熱心な姿勢を見せた。彼は2006年にNISMOを退任し、引退した。ちなみに、渡邉が日産入社以降、2代目スカイラインS50系の末期を除き、開発に直接関与しなかったスカイラインは、5代目スカイライン(スカイライン・ジャパン)のみである。
3. 引退後の活動
NISMO引退後、渡邉衡三は長野県岡谷にあるプリンス&スカイラインミュウジアムの顧問を務めている。彼は、スカイライン関連のイベントやトークショーに頻繁に登場し、伊藤修令と共に自動車ファンと交流するなど、引退後も精力的に活動を続けている。
4. 人物・親族
渡邉衡三の妻は、岡谷鋼機元社長である岡谷正男の次女である。現在の岡谷鋼機社長を務める岡谷篤一は、渡邉の妻の兄、すなわち義兄にあたる。また、渡邉の義母(岡谷正男の妻)は、実業家である松本健次郎の孫娘である。さらに、渡邉の義叔母(岡谷正男の妹)は、物理学者の嵯峨根遼吉に嫁いでいる。
5. 功績と影響
渡邉衡三は、日産自動車の車両開発、特にその象徴的なスカイラインシリーズに対して極めて重要な貢献を果たした。彼のキャリアは、レーシングカーのサスペンション設計から始まり、衝突安全性の研究、そして量産車のシャシー設計に至るまで、自動車工学の多岐にわたる分野に及んでいる。
彼は、R33型スカイラインの開発責任者として、車両の大型化による重量増という課題に直面しながらも、「R33型GT-RはR32型GT-Rよりも速くなければならない」という強い信念を掲げ、ニュルブルクリンクでのラップタイムを21秒も短縮するという驚異的な成果を上げた。この「マイナス21秒ロマン」は、彼の技術者としての卓越した能力と、性能への飽くなき追求を示すものとして、日本の自動車史に深く刻まれている。
また、R34型スカイラインの開発では、V型エンジンへの転換の検討があったにもかかわらず、コストや開発期間、そして直列6気筒RBエンジンの持つ可能性を最大限に引き出すという判断を下し、R34型を「究極のスカイライン」として完成させた。この決定は、日産がスカイラインの伝統と技術的独自性を維持しつつ、時代に合わせた進化を遂げる上で極めて重要な意味を持った。BNR34型GT-Rが「スカイラインGT-R」の最後のモデルとして有終の美を飾ったのも、彼の熱意と技術力の結晶と言える。
彼の功績は、単に特定の車両の開発に留まらず、日産の車両コンセプト策定や実験車両の評価といった広範な分野に及び、その後の日産車の品質向上にも大きく貢献した。NISMOでのリーダーシップも、日産のモータースポーツ活動の継続と発展に不可欠な役割を果たした。渡邉衡三は、日本の自動車産業において、技術と情熱をもって革新を推進し、特にスカイラインという伝説的なブランドの発展に決定的な影響を与えた、偉大なエンジニアとしてその名を刻んでいる。
6. 関連項目
- 日産自動車
- NISMO
- 日産・スカイライン
- 日産・スカイラインGT-R
- 桜井眞一郎
- 伊藤修令