1. 概要
福井優也は、岡山県英田郡西粟倉村出身の元プロ野球選手(投手)であり、現在は野球指導者として活動しています。右投右打の福井は、広島東洋カープ、東北楽天ゴールデンイーグルスで活躍した後、独立リーグのベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)福島レッドホープスで選手兼任コーチを務め、2024年に現役を引退しました。本稿では、彼の幼少期からプロキャリア、そして引退後の活動に至るまでの道のりを、彼の選手としての特徴や人柄を示すエピソードを交えて詳細に記述します。特に、彼の決断や社会的な影響、そして彼の野球人生における主要な出来事に焦点を当てて解説します。
2. 幼少期とアマチュア時代
福井優也は、幼少期からプロ野球選手になることを夢見ていました。彼の野球との出会いはソフトボールから始まり、その後、才能を開花させていきました。
2.1. 幼少期と高校野球
福井は西粟倉村立西粟倉小学校3年生の時からソフトボールを始め、この頃からプロ野球選手になることを唯一の目標としていました。夏には野球、冬にはクロスカントリースキーに熱中し、クロスカントリースキーでは全国大会に出場した経験も持っています。西粟倉村立西粟倉中学校に進学後は、兵庫県の硬式野球チーム「佐用スターズ」に入団し、2年生から投手を務めるようになりました。
2003年、愛媛県の済美高校に入学。当時の済美高校硬式野球部は創部2年目でしたが、宇和島東高校を率いて実績を残した上甲正典監督を慕っての入学でした。1年生の秋にはエースの座をつかみ、11月の明治神宮野球大会では東北高校戦で2安打完封勝利(7回コールド)を挙げました。2年生の春には第76回選抜高等学校野球大会に出場し、創部3年目にして初の甲子園大会出場で、1回戦の土浦湖北高校戦、2回戦の東邦高校戦で2試合連続完封勝利を記録するなど活躍し、初出場初優勝に貢献しました。
2年生の夏には、愛媛大会を勝ち上がり、第86回全国高等学校野球選手権大会に出場し、春夏連続で甲子園大会出場となりました。2回戦(初戦)から準決勝までの4試合全てで先発し、完投勝利を挙げ、春夏連続の決勝進出に貢献しました。決勝の駒澤大学附属苫小牧高校戦でも先発しましたが、疲労の影響もあり5回途中で6失点を喫し降板。チームは一時逆転に成功したものの、再び逆転を許し、優勝はなりませんでした。
3年生からは主将を任され、夏には2年連続で愛媛大会を制し、第87回全国高等学校野球選手権大会に出場しました。1回戦の旭川工業高校戦では8回10奪三振無失点の好投を見せましたが、2回戦の清峰高校戦では1回戦で指にできた肉刺の影響で制球が定まらず、2回に四死球を連発して5失点を喫し、そのまま敗退しました。高校在学中の甲子園全国大会では12試合に登板し、通算9勝を挙げました。当時の1学年先輩には、鵜久森淳志や高橋勇丞がいます。
2005年10月3日に行われた高校生ドラフト会議では、読売ジャイアンツから4巡目で指名を受けました。一旦は入団の意思を示したものの、11月5日に入団を辞退する意向を表明しました。NPBのドラフト会議で巨人から指名された後に入団を固辞した選手は、1980年に4位指名を受けた瀬戸山満年以来、25年ぶりの出来事でした。
2.2. 大学時代
大学進学に際し、4年時のドラフト会議でどの球団からも指名されずに硬式野球部のある企業へ就職する事態を想定したうえで、早稲田大学か慶應義塾大学への進学を検討しました。当時、早稲田大学野球部の監督を務めていた應武篤良から「進学先を早稲田だけに絞るのなら入部させる」と言われ、早稲田大学への進学を決めました。しかし実際には、入部に有利な推薦入試の締め切りに間に合わず、一般受験にも合格しなかったため、2006年は浪人生活を送りながら、ワールドウイング(鳥取市内のトレーニング施設)で勉強とトレーニングに励みました。福井は、この浪人生活が「高校で酷使した右肩を休めることができたので、充実した1年だった」と語っています。
2007年、早稲田大学スポーツ科学部トップアスリート選抜入試に合格し、斎藤佑樹、大石達也らと同期で推薦入学し、野球部に入部しました。斎藤とともに2人の甲子園優勝投手は将来のダブルエースとして期待されました。福井は後に「斎藤と大石は目標であり自分を満足させなかったライバル。自分は3番目です」と語っています。
1年春の東京六大学野球開幕2戦目(東京大学戦)に先発登板しましたが3回途中で2失点で降板しました。その後は投球フォームを崩し、さらに夏には右肩痛を発症したため、ベンチ入りメンバーから外されました。この頃はマウンド上での態度が悪く投球に悪影響を与えていましたが、周りからの指摘で改めたことで冷静に投球できるようになったといいます。
2008年5月31日、東京六大学野球春季リーグ早慶戦1回戦に4番手でマウンドに上がり、2回を打者8人1安打無失点に抑えリーグ戦初勝利を挙げました。2009年春からは先発に定着し、土曜日の初戦に斎藤、日曜日の2戦目に福井が投げるというローテーションが組まれました。
4年次の2010年春からは早稲田のエース番号である11を背負いました。9月12日の東京六大学野球秋季リーグ法政大学2回戦では、リーグ戦初の完投を記録し、通算10勝目を挙げました。リーグ通算成績は、35試合の登板で11勝3敗、防御率2.57、144奪三振でした。
2010年10月28日に行われたドラフト会議で、大石を抽選で外した広島東洋カープから1位指名を受け、11月28日に契約金1.00 億 JPY、年俸1500.00 万 JPY(金額は推定)で仮契約を結びました。背番号は11。この年のドラフト会議の1巡目では、大石は(広島を含む)6球団からの重複指名を受け抽選の末埼玉西武ライオンズが、斎藤は4球団から重複指名を受け北海道日本ハムファイターズが入団交渉権を獲得しました。同一所属から3人の投手が1位指名を受けた事例は、NPBのドラフト会議史上初めての出来事であり、3人とも指名後に入団しました。
なお、ドラフト会議の直後に催された明治神宮野球大会では、東海大学との決勝に先発。6回5安打1失点(自責点0)という好投で、チームを優勝に導きました。
3. プロ野球選手時代
福井優也は、大学卒業後、プロ野球選手として複数の球団で活躍しました。そのキャリアは、華々しいデビューから苦悩、そして独立リーグでの再起へと続く波乱に富んだものでした。
3.1. 広島東洋カープ時代
2011年、春季キャンプ中に左太もも裏の張りを訴え別メニュー調整となり、ブルペン入りは2月10日まで遅れました。それでも調整を重ね、開幕先発ローテーション入りを果たし、4月17日の対巨人戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で、先発投手として一軍公式戦にデビューしました。7回6安打2失点と好投し、プロ初勝利を挙げました。巨人戦で初登板初勝利を記録するのは2006年の齊藤悠葵以来、史上15人目でした。この日は、日本ハムに入団した斎藤も、対千葉ロッテマリーンズ戦(札幌ドーム)で初先発初勝利を挙げ、同日に2人の新人が初登板初先発勝利を挙げたのは1981年の杉本正と山内和宏以来、30年ぶりでした。なお、日本ハムの試合が広島の試合より早く終了したため、新人勝利一番乗りは斎藤に譲る形となりました。8月25日の横浜ベイスターズ戦(マツダ)では、9回6安打1失点でプロ初完投勝利を挙げました。球団の新人が完投勝利を挙げるのは、1997年の澤崎俊和と黒田博樹以来でした。最終的にこの年は、一軍公式戦に通算で27試合に先発登板し、8勝10敗を記録。球団の新人としては1997年の澤崎と黒田以来、14年ぶりにリーグの規定投球回に到達しました。一方で、規定投球回到達者ではワーストとなる防御率4.12、セントラル・リーグ最多となる68与四球と11暴投を記録するなど、課題も残しました。オフの12月7日には、1200.00 万 JPY増となる推定年俸2700.00 万 JPYで契約更改しました。

(2012年 沖縄市野球場にて)
2012年、2年連続で開幕先発ローテーション入りを果たしましたが、5試合の登板で1勝2敗、防御率5.40と不振が続き、5月5日にプロ入り後初の二軍降格が決まりました。その後、7月に再び一軍に昇格すると、同13日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、プロ入り後初めて中継ぎとして登板しました。その後、再び先発に転向し、8月4日の阪神タイガース戦(マツダ)で2勝目を挙げました。この年は10試合に先発登板するも、6回を投げ切ったのは2試合のみに終わり、2勝3敗と結果を残せなかった一方で、6試合の中継ぎ登板では防御率2.89と安定した投球を見せました。
2013年、本格的に中継ぎに転向し、勝ちパターンの一角として開幕一軍入りしましたが、開幕から3試合連続で失点し、4月6日に二軍降格となりました。その後は一軍定着はならず、一軍と二軍の往復を繰り返し、最終成績は12試合の登板で0勝2敗、防御率8.69に終わりました。
2014年、春季キャンプの前に、プロ入り後初めて斎藤・大石と自主トレーニングを行いました。この年は再び先発に転向し、5月7日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)でシーズン初先発登板するも、5回6失点で即二軍降格となりました。それでも2度目の先発登板となった7月27日の対阪神戦(マツダ)では、9回1失点の完投で、2年ぶりの勝利を挙げました。その後は先発ローテーション入りし、最終的に11試合の登板で4勝5敗を記録しました。オフには100.00 万 JPY増となる年俸2200.00 万 JPYで契約更改しました。
2015年、エースの前田健太、大瀬良大地、野村祐輔に加え、メジャーリーグから黒田が復帰、クリス・ジョンソンが加入したことで、チームの先発投手陣に厚みが増しました。それでも、黒田から春季キャンプでかけられた言葉により、メンタル面が改善。これまで四球を出すたびに焦りが生じていましたが、気持ちに余裕ができたことで制球力も向上したことで、6番手として3年ぶりに開幕先発ローテーション入りを果たしました。4月は日程の都合上2試合のみの登板でしたが、初登板は6回2失点、2試合目は7回無失点でシーズン初勝利を挙げました。5月に入ると先発ローテーションに再び定着し、自身4連勝も記録しました。8月16日のDeNA戦(マツダ)で自己最多タイとなる8勝目を挙げると、同22日の巨人戦(マツダ)では8回1失点の好投で、自己最多となる9勝目を挙げました。最終的に、この年は一軍公式戦に先発で21試合に登板。通算の投球イニングは131回3分の1で、入団1年目以来となるリーグの規定投球回到達はならなかったものの、9勝6敗、防御率3.56という成績を残しました。オフには2000.00 万 JPY増となる推定年俸4200.00 万 JPYで契約更改しました。
2016年、チームが8年ぶりに復活させた投手キャプテンに就任しました。この年は、前年までエースだった前田がメジャーリーグに移籍し、大瀬良が右肘内側側副じん帯部分損傷で離脱したため、先発ローテーションの柱として期待され、開幕先発ローテーション入りを果たしました。しかし、5月8日までの7試合で1勝2敗、防御率5.38、3試合連続で5失点以上を喫するなど調子が上がらず、5月9日に登録抹消となりました。それでも、後半戦で一軍のローテーションに復帰。8月23日の対巨人戦(東京ドーム)に先発で勝利したことによって、チームに25年ぶりの優勝マジック(20)が点灯しました。1週間後(同月31日)の対DeNA戦(マツダ)にも先発する予定でしたが、試合開始の直前に首の痛みを訴えたため、急遽登板を回避しました(チームは九里亜蓮を先発に立てて延長10回裏にサヨナラ勝利しました)。翌9月1日の検査で「傍脊柱筋筋膜炎」と診断されたため、再び登録を抹消され、そのままシーズンを終えました。一軍公式戦全体では、13試合の登板で5勝4敗、防御率4.34を記録しました。
2017年、一軍公式戦5試合の登板で1勝3敗、防御率7.16に留まりました。シーズン終了後の11月11日に結婚しました。
2018年、一軍公式戦で自己最少の3試合の登板に留まり、0勝3敗と、2013年以来5シーズンぶりに未勝利でシーズンを終えました。
3.2. 東北楽天ゴールデンイーグルス時代
2018年11月29日に、菊池保則との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することが発表されました。背番号は31。当時は斎藤が日本ハム、大石が西武で現役を続けていたことから、福井の楽天移籍によって3人ともパシフィック・リーグの球団に同時に在籍することになりました(大石は翌2019年限りで現役を引退しました)。広島東洋カープの歴代の大卒ドラフト1位投手としては初のトレード移籍選手となりました。
2019年、開幕から一軍先発陣の一角を担うと、4月10日の対西武戦(メットライフドーム)で移籍後初勝利を挙げました。一軍公式戦での勝利は広島時代の2017年4月26日に対巨人戦(マツダ)に先発で記録して以来2シーズン(714日)ぶりでした。その後も、5月までに西武から3勝を挙げるなどチームの開幕ダッシュに貢献しました。5月中旬以降は一軍から遠ざかっていましたが、一軍が千葉ロッテマリーンズとの間でクライマックスシリーズ(CS)への進出権を争っていた9月21日にも、楽天生命パークでの対西武戦に先発。「ショートスターター」として3回無失点の好投でチームの勝利とCS進出に貢献しました。最終的に、レギュラーシーズン全体では一軍公式戦8試合に登板。西武から3勝を挙げたものの、それ以外からは勝ち星を挙げられず、3勝1敗、防御率5.18に留まりました。
2020年、二軍で開幕を迎え、8月2日に一軍初昇格。7試合に先発するも、打線の援護に恵まれない試合もあり、0勝4敗、防御率5.46という成績でシーズンを終えました。
2021年、6月18日に一軍昇格すると、同日のオリックス・バファローズ戦で、中継ぎとしてシーズン初登板し、2回無失点に抑えました。その後も中継ぎとして一軍に帯同し、最終的に19試合に登板。0勝0敗、防御率4.43を記録しました。
2022年、中継ぎとして11試合に登板し、0勝0敗1ホールド、防御率4.09を記録しましたが、10月3日に戦力外通告を受けました。
3.3. 独立リーグ・福島レッドホープス時代
2022年11月8日、楽天生命パークで行われた12球団合同トライアウトに参加。「NPBは無理でも独立リーグで勉強することもある。簡単には終わらせない」と感想を述べました。その後、12月27日に放送された「プロ野球戦力外通告2022」に出演し、独立リーグのベースボール・チャレンジ・リーグに所属する福島レッドホープスへの入団を公表しました。その後、同日中に球団からも入団が発表されました。背番号は11。
2023年8月25日、対新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ戦(しらさわグリーンパーク)で、リーグ史上7人目となるノーヒット・ノーランを達成しました。このシーズンは最終的に17試合に登板(すべて先発)して10勝5敗、防御率2.28の成績で、リーグの地区最優秀防御率のタイトルを獲得しました。シーズン終了後の12月18日、投手兼任コーチに就任することが発表されました。
2024年5月12日、対群馬ダイヤモンドペガサス戦(しらさわグリーンパーク)での登板の際、暴投後にベースカバーも間に合わず失点を許した場面で、走者がまだいるインプレー中にもかかわらずボールをグラウンドに叩きつけました。大きく弾んだボールはボールデッドとなり、残っていた走者に安全進塁権が与えられ、その進塁で逆転を許すという珍しいプレーがありました。
3.4. 現役引退
2024年8月6日、福井は同年限りでの現役引退を発表しました。プロ野球選手としての14年間のキャリアに幕を下ろすことになりました。
4. 選手としての特徴
福井優也は、主に先発投手として活躍し、その投球スタイルと特徴は、速球と多彩な変化球にありました。

平均球速約141 km/h、最速152 km/hのストレートと縦のスライダー、カーブ、フォークが武器でした。一方でプロ1年目の2011年にリーグ最多の与四球・暴投を記録するなど制球力に欠けており、広島時代に投手コーチだった大野豊からは「新しい球を覚えるというより、持ち球の制球力を磨いてほしい」と修正点を挙げられていました。
5. 人物・エピソード
福井優也は、野球に対する真摯な姿勢と、時には人間味あふれる一面を見せることで知られています。彼の家族関係や、キャリアに影響を与えた重要な出来事は、彼の人物像を形作る上で不可欠な要素です。
5.1. 家族構成と影響
福井には2人の兄がいます。長兄の福井和真は元前橋育英高校のアンダースロー投手で、現在は同校のコーチを務めています。次兄の福井龍一も2003年の甲子園に沖縄尚学高校の投手兼外野手として出場しベスト16まで進出しましたが、2011年4月20日に交通事故により死去しました。福井には先発を務めた4月24日のヤクルト戦後に訃報が伝えられました。5月3日の横浜戦で、先発を務め6回3分の2を1失点と好投し勝ち投手になり、お立ち台では「天国のお兄ちゃんに捧げたいです」と涙を見せました。
5.2. 性格と主な出来事
2005年のNPB高校生ドラフト会議で巨人から指名されたにもかかわらず入団を固辞したことをめぐっては、指名順位が4位と低かったことが理由として報じられていましたが、本人はそのことを否定しています。甲子園球場の全国大会と無縁であった北照高校から自身と同じ右投手の加登脇卓真が3位で指名されたことや、徳島商業高校から2003年のNPBドラフト会議4位指名を経て入団した平岡政樹が、2005年高校生ドラフト会議の前後に支配下選手登録の解除(育成選手としての再契約)を通告されたことにショックを受けたことを理由に挙げています。
性格については、早稲田大学の監督だった應武篤良からは、「ふてぶてしく見えるが、実は繊細で(同期の斎藤・大石に比べて)プロに向いている」と評価されていました。広島のスカウトとして福井の入団交渉を担当した苑田聡彦からは、「斎藤や大石に比べて闘争心を強く感じた」との印象を持たれています。一方で、プロ入り後、SNS上で審判員の投球判定に遠回しに不満を漏らすような投稿を行い、ファンから「さすがに女々しい」と非難を受けたこともありました。
5.3. その他の関係と活動
同郷の著名人にはバンクーバーパラリンピック・金メダリストの新田佳浩がおり、福井も新田が出場した長野パラリンピックを現地で観戦した経験があります。また、大学の同級生には九州朝日放送アナウンサーの長岡大雅がおり、現在も親交が深いとのことです。
恩師である應武篤良が死去した際には、「『早稲田大学に来い』と熱心に言ってくれたのが応武監督で、その熱意のおかげで一浪する覚悟ができ、早稲田に入ることを決めました。応武監督の熱意がなければその覚悟もつかなかったですし、プロにも行くこともかなわず、今の自分はなかったと思います」と感謝の言葉を述べています。
2017年11月11日には一般人女性と結婚しています。
彼の登場曲は、Mr.Childrenの『終わりなき旅』を2012年から使用していました。
また、JA共済連広島(2012年4月)や東亜地所(2017年、イメージキャラクターも兼任)のCMに出演した経験もあります。
6. 年度別成績・記録
福井優也のプロ野球および独立リーグでの年度別成績と、キャリアにおける主な記録、背番号をまとめます。
6.1. 日本プロ野球(NPB)での成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 4 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ ー ブ | ホ ー ル ド | 勝 率 | 打 者 数 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 故 意 四 球 | 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ ー ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011 | 広島 | 27 | 27 | 2 | 0 | 0 | 8 | 10 | 0 | 0 | .444 | 640 | 146.1 | 133 | 14 | 68 | 0 | 8 | 120 | 11 | 2 | 76 | 67 | 4.12 | 1.37 |
2012 | 17 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | .400 | 264 | 58.2 | 52 | 6 | 37 | 0 | 1 | 53 | 2 | 1 | 28 | 28 | 4.30 | 1.52 | |
2013 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 98 | 19.2 | 29 | 1 | 11 | 0 | 1 | 14 | 1 | 0 | 23 | 19 | 8.69 | 2.03 | |
2014 | 11 | 11 | 1 | 0 | 0 | 4 | 5 | 0 | 0 | .444 | 268 | 60.0 | 58 | 2 | 29 | 0 | 9 | 36 | 5 | 0 | 30 | 29 | 4.35 | 1.45 | |
2015 | 21 | 21 | 0 | 0 | 0 | 9 | 6 | 0 | 0 | .600 | 541 | 131.1 | 106 | 10 | 53 | 0 | 5 | 99 | 7 | 1 | 53 | 52 | 3.56 | 1.21 | |
2016 | 13 | 13 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | .556 | 345 | 76.2 | 84 | 9 | 30 | 0 | 4 | 63 | 0 | 0 | 38 | 37 | 4.34 | 1.49 | |
2017 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | .250 | 131 | 27.2 | 36 | 1 | 12 | 0 | 2 | 15 | 0 | 0 | 24 | 22 | 7.16 | 1.73 | |
2018 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | .000 | 67 | 15 | 18 | 5 | 5 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 14 | 14 | 8.40 | 1.53 | |
2019 | 楽天 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | .750 | 150 | 33.0 | 31 | 3 | 24 | 0 | 2 | 20 | 1 | 0 | 19 | 19 | 5.18 | 1.67 |
2020 | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | .000 | 128 | 29.2 | 26 | 2 | 14 | 0 | 2 | 18 | 0 | 0 | 18 | 18 | 5.46 | 1.35 | |
2021 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 82 | 20.1 | 17 | 3 | 6 | 0 | 0 | 21 | 1 | 0 | 10 | 10 | 4.43 | 1.13 | |
2022 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | ---- | 49 | 11.0 | 14 | 1 | 4 | 1 | 0 | 7 | 1 | 0 | 5 | 5 | 4.09 | 1.64 | |
通算:12年 | 154 | 106 | 3 | 0 | 0 | 32 | 41 | 0 | 1 | .438 | 2763 | 629.1 | 604 | 57 | 293 | 1 | 34 | 479 | 30 | 4 | 338 | 320 | 4.58 | 1.43 |
- 2022年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
6.2. 年度別守備成績
年 度 | 球 団 | 投手 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2011 | 広島 | 27 | 6 | 21 | 1 | 1 | .964 |
2012 | 17 | 0 | 7 | 1 | 0 | .875 | |
2013 | 12 | 6 | 4 | 0 | 0 | 1.000 | |
2014 | 11 | 6 | 6 | 1 | 1 | .923 | |
2015 | 21 | 12 | 20 | 1 | 0 | .970 | |
2016 | 13 | 5 | 15 | 1 | 0 | .952 | |
2017 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | .778 | |
2018 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
2019 | 楽天 | 8 | 1 | 7 | 0 | 0 | 1.000 |
2020 | 7 | 3 | 4 | 2 | 0 | .778 | |
2021 | 19 | 0 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | |
2022 | 11 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |
通算 | 154 | 44 | 92 | 9 | 4 | .938 |
- 2022年度シーズン終了時
6.3. 独立リーグでの成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 4 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ ー ブ | ホ ー ル ド | 勝 率 | 打 者 数 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 故 意 四 球 | 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ ー ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2023 | 福島 | 17 | 17 | 1 | 1 | 0 | 10 | 5 | 0 | 0 | .667 | 449 | 110.1 | 92 | 6 | 27 | - | 9 | 91 | 5 | 0 | 39 | 28 | 2.28 | 1.08 |
2024 | 23 | 8 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 0 | 0 | .444 | 238 | 51.0 | 65 | 5 | 14 | - | 6 | 44 | 2 | 0 | 40 | 34 | 6.00 | 1.55 | |
通算:2年 | 40 | 25 | 1 | 1 | 0 | 14 | 10 | 0 | 0 | .583 | 687 | 161.1 | 157 | 11 | 41 | - | 15 | 135 | 7 | 0 | 79 | 62 | 3.46 | 1.23 |
- 2024年度シーズン終了時
6.4. 主な記録
- 初登板・初先発・初勝利:2011年4月17日、対読売ジャイアンツ3回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、7回2失点
- 初奪三振:2011年4月17日、対読売ジャイアンツ3回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、1回表にアレックス・ラミレスから空振り三振
- 初完投勝利:2011年8月25日、対横浜ベイスターズ17回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回6安打1失点6奪三振
- 初ホールド:2022年4月10日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 初安打:2011年6月19日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、5回裏にブライアン・ウルフから左前安打
- 初打点:2015年7月2日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、5回表一死一・三塁でアーロン・ポレダから遊ゴロの間に三塁走者が生還
- 1イニング3暴投:2015年6月7日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、4回表に記録 ※史上13人目(日本タイ記録)
- ベースボール・チャレンジ・リーグにおけるノーヒットノーラン達成:2023年8月25日、対新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ戦(しらさわグリーンパーク)
6.5. 背番号
- 11(2011年 - 2018年、2023年 - 2024年)
- 31(2019年 - 2022年)
7. 引退後の活動
現役引退後、福井優也は野球指導者としての新たなキャリアを歩み始めました。
2023年シーズン終了後の12月18日、彼は福島レッドホープスで選手兼任コーチに就任し、若手選手の育成にも携わっていました。2024年に現役を引退した後も、野球界での活動を継続する可能性があります。