1. ユース時代と教育
1.1. 生い立ちと家族背景
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羽仁もと子は1873年9月8日、青森県八戸市に旧武士の家系である松岡家の松岡もと子として誕生しました。日本に近代的な公教育制度が確立された直後の時代であり、明治政府は国の近代化を推進するため、教育を最優先課題としていました。彼女は裕福な家庭に育ち、特に祖父の松岡忠愛と父親から大きな影響を受けました。祖父は元武士であり、もと子は彼と非常に親密な関係を築いていました。しかし、彼女は祖母や母親といった家庭内の他の女性たちを、読み書きができないために世情に疎いと感じていました。弁護士であった父親とは親密でしたが、両親の離婚後、父親との関係が疎遠になったことは、彼女にとって深い心の傷となりました。
1.2. 教育とキリスト教洗礼
もと子は青森県八戸市の小学校で学びました。彼女は、従来の教育を超えて高等教育を受けることを許された新世代の少女の一人でした。当時の明治政府は男性中心社会の儒教的理想を掲げ、「良妻賢母」を女性の理想像とし、女性教育は「女らしさ」や結婚の準備に重点が置かれていました。もと子は、幼少期から学業において秀でており、1884年には文部省から学業優秀賞を授与されています。
もと子は学友たちとの人間関係に苦労し、道徳的信念に基づいて適切に行動することができませんでした。幼少期には自分を男子の中に位置づけていました。1889年に上京し、東京府立第一高等女学校に2年生として編入しました。当時、日本の大学は女性の入学を認めていませんでした。
やがてキリスト教系の学校が女性に門戸を開き始め、もと子は明治女学校高等科に入学することができました。キリスト教系の学校は、当時の日本の学校とは異なり、女性の社会的地位の向上と近代化を推進し、社会における指導的な役割を担う準備を促しました。明治女学校在学中、学校長であり女性誌『女学雑誌』の編集長でもあった巌本善治は彼女の最初の指導者となります。もと子は巌本に直談判して『女学雑誌』の校正の仕事を得て、雑誌制作の基礎を学び、ジャーナリズムの道への扉を開きました。この期間中、1890年にキリスト教の洗礼を受け、生涯にわたって信仰を貫きましたが、特定の教会に属さない無教会主義の立場をとりました。1892年に明治女学校を退学しました。
1.3. 初期教職
ジャーナリストとなる以前、羽仁もと子は教師として働きました。1892年に帰郷し、尋常小学校や盛岡女学校で教員を務めました。当時の日本で賃金労働に従事する女性のほとんどは、紡績工場の作業員か家事使用人として雇用されており、教師の女性の割合はわずか5.9%でした。女性にとって教師の職は、利用可能なキャリアの中で最も権威があり、高収入を得られるものでした。
2. ジャーナリストとしての活動
2.1. 報知新聞入社と先駆的なジャーナリズム
1897年、羽仁もと子は再び上京し、報知社(現在の報知新聞社)に入社しました。当初は校正係として働き、自主的に執筆した原稿でその実力を認められ、1899年4月には取材記者に登用されました。これにより、24歳で日本初の女性記者となりました。
彼女の記者としての最初の大きな仕事は、入社直後に担当した新聞コラム「婦人の素顔」でした。これは、日本の著名な既婚女性たちの横顔を紹介するものでした。もと子はこの仕事が割り当てられていなかったにもかかわらず、自ら谷干城子爵夫人、谷夫人に取材し、その記事はすぐに成功を収めました。読者から肯定的な反響を得たことで、報知新聞社長の三木善八は彼女を記者に昇格させました。彼女は、育児や孤児院といった当時軽視されがちだった社会問題を取材することで、記者としての評価を急速に高めていきました。
2.2. 女性の役割強調と社会運動
1920年代のジャーナリストとして、羽仁もと子は女性の役割に関して二つの対立する考え方(女性はあらゆる面で男性と平等であるという考えと、女性は男性に劣るという考え)の間で調停者の役割を果たしました。彼女は、女性は家庭の領域において男性と平等であると主張しました。
もと子は西洋式の「主婦」の美徳を普及させました。彼女は官僚たちと協力して、生活改善展覧会を主催したり、講演を行ったりしました。彼女の活動は、キリスト教の理想、自立、自尊心、個人の自由を強調するものでした。
羽仁もと子は、市川房枝、吉岡彌生、竹内茂代といった著名な女性指導者たちの一人であり、彼らは明治政府と協力して国内の女性の生活を向上させるために活動しました。多くの活動家と同様に、もと子も1937年の日中戦争を、国家内における日本人女性の地位を高める機会として捉えました。彼女は西洋を一つの参照枠として用い、娘の羽仁説子に率いられた『婦人之友』の読者たちは、戦時下の政府を積極的に支援し、女性たちに日々の生活を節約し「合理化」するよう促しました。これは後に批判の的となる活動でした。
3. 出版・教育活動
3.1. 『婦人之友』創刊と家計簿の普及
1901年に職場で知り合った羽仁吉一と再婚した羽仁もと子は、その後間もなく報知新聞を退職しました。吉一が高田新聞社に勤めるのに伴い、夫妻は新潟へ移住しました。
1903年、羽仁夫妻は女性向け雑誌『家庭之友』を創刊しました。翌1904年には、もと子が考案した日本初の家計簿を刊行し、その普及に大きく貢献しました。家計簿は、家庭経済の透明化と計画的な支出を促し、多くの家庭に受け入れられました。1908年には『家庭之友』を『婦人之友』へと改題し、婦人之友社を設立しました。

『婦人之友』の姉妹誌として、1914年には子ども向けの雑誌『子供之友』も出版されました。しかし、国家総動員法のもとで日本出版会による統制により、『婦人之友』を残して『子供之友』は廃刊の憂き目に遭います。戦後に福音館書店から刊行される『こどものとも』は、この『子供之友』の誌名を譲渡されたものです。
3.2. 自由学園の設立
1921年、羽仁夫妻は『婦人之友』の読者の子どもたちへの家庭的な教育を理念として、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立しました。その名称は新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書 8:32)」に由来しています。
創立当時、日本に来日していた著名な建築家フランク・ロイド・ライトは、ファミリースクールという理念に共感し、積極的に校舎の設計を引き受けました。ライトが設計した校舎は、後に自由学園明日館として国の重要文化財に指定され、一般に公開されています。
1925年には、学校規模の拡大に伴い、現在の東京都東久留米市に購入した学校建設予定地周辺の土地を関係者などに分譲し、その資金で新しい学校施設を建設して移転しました。
3.3. 全国友の会の設立
1930年、全国の『婦人之友』愛読者による自発的な組織として「全国友の会」が設立されました。この会は1999年時点でも活動を続けており、羽仁もと子の提唱した生活改善や社会貢献の理念が広範に浸透していることを示しています。
4. 思想と哲学
4.1. キリスト教信仰と無教会主義
羽仁もと子は1890年に洗礼を受け、生涯にわたってキリスト教を深く信仰しました。しかし、彼女は特定の教会に属さない無教会主義の立場をとり、自らの信仰と実践を追求しました。この信仰は、彼女の人生観、社会活動、そして教育哲学の根幹をなすものでした。個人の自由と精神の独立を重んじる無教会主義の思想は、彼女の教育理念にも色濃く反映されています。
4.2. 女性観と教育哲学
羽仁もと子は、女性が家庭内において男性と平等な役割を果たすことを強調しました。彼女は、当時の「良妻賢母」という概念を単なる順従ではなく、女性が知識と能力を持って家庭を運営し、社会に貢献する主体的な存在となることと捉えました。
彼女の教育哲学は、自由学園の設立理念に深く反映されています。この哲学は、生徒たちが自立心を持ち、自らの判断で行動し、個人の自由を尊重することを重んじました。教育を通じて、自尊心と独立心を育み、社会のリーダーシップを担える女性の育成を目指しました。
5. 私生活
5.1. 結婚と家庭生活
羽仁もと子の最初の結婚は1892年に行われましたが、この結婚は短期間で終わりました。彼女の自伝によると、愛する男性を「下品な生活」から救うために結婚したものの、彼を変えることはできませんでした。この離婚は家族に秘密にされ、両親の結婚の破綻に次ぐ、人生で二番目に辛い感情的危機であったと記しています。離婚後、彼女は上京し、女性医師の家で家事使用人として働きながら生計を立てました。彼女は「今日まで恥じ入る私の人生のこの辛いエピソードが、私の公共奉仕の効果を危うくするのではないかと常に恐れてきた。しかし、感情に束縛される状態から自分を解放する決断を後悔することは一瞬たりともない。なぜなら、私の人生は他人の利己的で不敬な愛によって無意味なものとなっていたからだ」と述べています。
1901年、彼女は職場で知り合った同僚の羽仁吉一と再婚しました。彼らは協力して1908年に新しい雑誌『婦人之友』を創刊し、1921年には女子のための私立学校である自由学園を設立するなど、公私にわたるパートナーシップを築きました。
6. 著書
刊行年 | 書籍名 | 出版社 |
---|---|---|
1903年 | 『家庭小話』 | 内外出版協会 |
1905年 | 『育児之栞』 | 内外出版協会 |
1906年 | 『如何に家計を整理すべき乎』 | 鹿鳴社 |
1907年 | 『ネルの勇気』(少女文庫) | 愛友社ほか |
1907年 | 『家庭問題 名流座談』 | 愛友社 |
1908年 | 『家庭教育の実験』 | 家庭之友社ほか |
1912年 | 『女中訓』 | 婦人之友社 |
1912年 | 『赤坊を泣かせずに育てる秘訣』 | 婦人之友社 |
1928年 | 『半生を語る』(自伝) | 婦人之友社 |
1927年より婦人之友社から羽仁もと子著作集の刊行が始まり、戦後に新訂版が出版されました。全20巻で完結しましたが、後に1巻が加えられて21巻となりました。
7. 死去
羽仁もと子は1957年4月7日、脳血栓の後、心臓衰弱のため死去しました。彼女の墓は雑司ヶ谷霊園にあります。
8. 遺産と評価
8.1. 貢献と影響
羽仁もと子は、日本のジャーナリズム界における先駆者であり、特に女性の社会進出と教育分野において多大な貢献をしました。彼女が考案した家計簿の普及は、多くの家庭で計画的な生活と経済の合理化を促し、女性の生活改善運動の礎を築きました。また、自由学園の設立を通じて、既成概念にとらわれない、生徒の自立と個性を尊重する教育を実践し、今日の教育理念にも影響を与えています。彼女の活動は、キリスト教の理想に基づいた自立、自尊心、個人の自由を重んじるものであり、日本の女性の社会的地位向上に大きく寄与しました。
8.2. 批判と論争
一方で、羽仁もと子の活動には批判的な見解や議論の的となる点も存在します。特に、1937年の日中戦争以降の戦時体制下において、彼女が率いる『婦人之友』の読者組織「全国友の会」が、政府による国民生活の節約や合理化運動に積極的に協力した点が挙げられます。これは、一部の研究者から、当時の国家主義的な政策を支持し、女性を戦争協力体制に組み込む役割を果たしたという批判を受けることがあります。この協力は、羽仁もと子が女性の地位向上を目指す中で、国家と社会の状況にどのように対応したかという複雑な問題を示しています。
9. 親族
- 夫:羽仁吉一 - 報知新聞編集長、その後高田新聞社編集長などを経て婦人之友社を設立。自由学園では学園主を務めました。
- 妹:千葉くら - 青森八戸の千葉学園創立者。
- 弟:松岡正男 - 京城日報社社長、毎日申報社社長、時事新報社社長。その娘に評論家の松岡洋子がいます。
- 長女:羽仁説子 - 婿は歴史学者であり参議院議員として国立国会図書館の設置に携わった羽仁五郎(旧姓森)です。
- 次女:羽仁涼子 - 幼くして病死しました。
- 三女:羽仁惠子 - 生涯独身でした。羽仁夫妻の死後は自由学園にて2代目学園長を務めました。
- 孫:羽仁立子(幼少期に病死)、続いて生まれた羽仁進、羽仁協子、羽仁結子の3人が孫として成長しました。
- ジャーナリストの羽仁未央、環境活動家の羽仁カンタは曾孫にあたります。