1. 生涯
芳の里淳三は、その生涯において相撲力士、プロレスラー、そしてプロモーターとして多岐にわたる活動を展開した。
1.1. 幼少期から学生時代
芳の里淳三こと長谷川淳三は、1928年9月27日に千葉県長生郡一宮町で生まれた。子供の頃からスポーツ万能で、その身体能力は後の相撲やプロレスキャリアの基盤となった。
1.2. 大相撲時代
子供の頃からスポーツ万能であった長谷川淳三は、相撲の道に進むことを決意し、神風正一の助けを得て二所ノ関部屋に入門した。当時の師匠は玉ノ海大五郎であった。
1.2.1. 入門から幕内昇進
長谷川は「長谷川」の四股名で1944年1月場所に初土俵を踏んだ。その後、「神若淳三」あるいは「神若順三」(かみわか じゅんぞう)と改名し、1950年1月場所には新入幕を果たした。身長174 cm、体重84 kgと小柄ながら、下手投げを得意とする技能派力士として頭角を現した。1952年1月場所で「芳ノ里」と再度改名し、若乃花や琴ヶ濱と共に「二所の三羽烏」と呼ばれ、その存在感を強めていった。最高位は前頭12枚目。
1.2.2. 引退の経緯
芳の里は前頭の地位まで上り詰めたものの、自身の番付運の悪さと部屋の内紛に嫌気が差し、相撲界を去る決意をした。幕内では39勝51敗の成績を残したが、1954年9月場所には出場せず、そのまま廃業の道を選んだ。
1.3. 晩年と死没
現役引退後の芳の里は、プロレス界でそのキャリアを築き、晩年まで活動を続けた。
1.3.1. 晩年の活動
芳の里は1996年に、力道山の門下生やOBのための親睦団体である力道山OB会&プロレスの初代会長に就任し、プロレス界におけるその役割を全うした。
1.3.2. 死没
1998年3月11日に脳梗塞で倒れた芳の里は、翌年の1999年1月19日に多臓器不全のため、70歳で逝去した。
2. プロレスラー時代
相撲引退後、芳の里は日本のプロレス黎明期において重要な役割を果たした。
2.1. プロレス転向とデビュー
1954年9月10日、芳の里はかつての二所ノ関部屋の先輩である力道山を大阪府立体育会館に訪ね、日本プロレスへの入門を直訴し、即座に認められた。同日中に渡辺貞三を相手にデビュー戦を行い、これは日本プロレス史上最速のデビューとされている。プロレスラーとしての本格的なトレーニングだけでなく、プロボクサーのトレーニングも受けていたという。
2.2. 日本での主要な活動と功績
芳の里は日本プロレスにおいて数々の功績を残した。1956年10月23日には大阪府立体育館で行われた全日本ウェート別選手権に出場し、決勝で吉原功(後の国際プロレス社長)を破り、初代日本ライトヘビー級王座を獲得した。その後、ジュニアヘビー級に転向したため、このタイトルを返上した。
また、1959年にデビューする大木金太郎を指導するなど、後進の育成にも尽力した。1960年には力道山と共に全日本タッグ王座を獲得し、同年8月には日本ジュニアヘビー級王座も獲得している。
2.3. アメリカ遠征と「デビル・サト」
1961年、芳の里はジャイアント馬場、マンモス鈴木と共にアメリカ遠征に出発した。この遠征では、丈の短いタイツと膝当て、そして下駄を履くという異様な出で立ちでヒールとして活躍した。特にテネシー州のマットでは「Devil Satoデビル・サト英語」のリングネームで悪名を轟かせた。彼は「田吾作スタイル」と呼ばれる反則攻撃を繰り返すことで知られ、このスタイルはアメリカマットにおける日本人ヒールの伝統として後世に受け継がれた。このギミックは後に彼の弟子であるAkihisa Mera明久・メラ英語にも引き継がれた。
2.4. 市川登事件
芳の里のプロレスラー時代には、彼の経歴に大きな影を落とす事件が発生している。1954年12月22日、蔵前国技館で行われた昭和の巌流島決戦として知られる力道山対木村政彦戦の前座試合で、芳の里は全日本プロレス協会所属の市川登選手に対して、突然のセメント(真剣勝負)攻撃を仕掛けた。彼は市川に数十発の張り手を見舞い、昏倒させた。この暴挙により、市川は脳に重い障害を負い、最終的に1967年末に死去するという悲劇的な結末を迎えた。この突然の攻撃は、当時絶対的な存在であった力道山からの「市川を殺せ」という命令によるものだったとされ、芳の里は食事のたびにこの命令を繰り返し聞かされていたという。この事件は、日本のプロレス史における重大な「事件」として記録されている。
3. プロモーター・経営者時代
プロレスラー引退後、芳の里は日本プロレスの経営者としてその辣腕を振るった。
3.1. 日本プロレスの共同経営
1963年の力道山の死後、芳の里は吉村道明、豊登、遠藤幸吉の3人と共に日本プロレスの経営を引き継ぐこととなった。当初は豊登が社長を務め、芳の里は共同経営者の一員として運営を支えた。
3.2. 日本プロレス社長としての活動
1966年1月、芳の里は豊登の後を継いで、日本プロレスの3代目社長に就任した。社長就任後、彼はリング上での現役活動を徐々に減らし、1967年10月には完全に引退した。社長業の傍ら、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)で放送されていた国際プロレスのテレビ中継番組『国際プロレスアワー』の解説者も務め、多忙な日々を送った。
3.3. 日本プロレス崩壊の経緯
1972年、日本プロレスの二大スターであるアントニオ猪木とジャイアント馬場が相次いで離脱し、それぞれ新日本プロレスと全日本プロレスを設立したことは、日本プロレスにとって大きな打撃となった。1973年には日本プロレスと新日本プロレスの合併計画が浮上し、芳の里には会長職が用意されていたという。しかし、大木金太郎の強い勧めもあり、芳の里はこの合併案を拒否したため、実現には至らなかった。
結果として、日本プロレスは1973年4月に崩壊を迎えることになった。この時、芳の里は夫人に対し、「私に教育があれば団体を潰すことはなかった。社長よりも2番目が似合い、上と下の意見を取りまとめることが向いていた」と語ったという。日本プロレスの残務整理が終了した際、彼は事務所に残されていた社員バッジを全て持ち帰り、会社への未練を示したとされる。
3.4. 疑惑のレフェリング
1978年、全日本プロレスで開催された全日本・国際プロレス・韓国軍(大木金太郎派)による三軍対抗戦において、芳の里はジャイアント馬場対ラッシャー木村戦のレフェリーを務めた。この試合で、馬場が木村に足4の字固めを仕掛けた際、木村は上半身をリング外に出してロープブレイクする体勢に入った。しかし、芳の里はなぜかブレイクを認めず、そのままリングアウトカウントを数え始め、木村はリングアウト負けを宣告された。この判定は、日本のプロレス界における「疑惑のレフェリング」の代表例として、その後のプロレス史に悪名高い形で残されることとなった。
4. スタイルと得意技
芳の里は、そのプロレスラーとしてのキャリアにおいて、いくつかの特徴的なスタイルと得意技を持っていた。
4.1. レスリングスタイルと主要技術
芳の里は、アメリカ遠征時に下駄を履いてリングに上がり、試合中にその下駄で相手を殴りつけるという反則攻撃を多用したことから、「下駄社長」の異名で知られるようになった。
また、フォール技ではスモールパッケージホールドを得意としていた。彼は反則攻撃で相手を撹乱させた後に、この技を決め技として多用した。特に、若手時代のジャイアント馬場はこのスモールパッケージホールドによく引っかかっていたというエピソードが残っている。
5. 獲得タイトル
プロレスラーとして、芳の里は以下の主要なタイトルを獲得している。
5.1. 日本プロレス
- 全日本タッグ王座:1回(パートナーは力道山)
- 日本ジュニアヘビー級王座:1回
- 日本ライトヘビー級王座:1回
5.2. NWAミッドアメリカ
- NWA United States Junior Heavyweight Championship (Mid-America version)NWAユナイテッド・ステイツ・ジュニアヘビー級王座 (ミッドアメリカ版)英語:1回
- NWA United States Tag Team Championship (Mid-America version)NWAユナイテッド・ステイツ・タッグ王座 (ミッドアメリカ版)英語:1回(パートナーはTaro Sakuroタロー・サクロ英語)
6. 評価と批判
芳の里淳三の生涯は、相撲、プロレス、そして経営者という多岐にわたる側面を持ち、その評価は功績と批判の両面から語られる。
6.1. 歴史的評価
芳の里は、大相撲時代には「二所の三羽烏」の一員として技能派力士の評価を得た。プロレスラーとしては、力道山の日本プロレスにおける草創期を支え、特に日本最速デビューや初代ライトヘビー級王座獲得など、その黎明期における功績は大きい。また、アメリカ遠征で「デビル・サト」として確立した「田吾作スタイル」は、その後の日本人ヒール像の原型となり、海外での日本人レスラーの活躍に影響を与えた。
経営者としては、力道山亡き後の日本プロレスを支え、その存続に尽力した。国際プロレスアワーの解説者としても活躍し、プロレスというエンターテイメントの普及にも貢献した。彼のキャリア全体は、日本のプロレス史において重要な一部を形成している。
6.2. 批判と論争
芳の里のキャリアには、いくつかの批判的な側面も存在する。最も深刻なのは、1954年の市川登事件である。力道山の命令とはいえ、対戦相手を真剣勝負で昏倒させ、その後の市川の人生に甚大な影響を与えたことは、プロレスにおける倫理を逸脱した行為として厳しく批判されるべき点である。市川が脳障害を負い、若くして亡くなったことへの責任は重い。
また、1978年の全日本プロレスにおけるジャイアント馬場対ラッシャー木村戦での「疑惑のレフェリング」も、彼のプロモーターとしての公平性を疑わせる出来事として記憶されている。
さらに、梶原一騎原作の漫画『プロレススーパースター列伝』(ザ・グレート・カブキ編)では、日本プロレスの資金を使い銀座で毎晩豪遊する芳の里の姿が誇張して描かれた。これにより、彼の世間におけるイメージは大きく低下し、日本プロレス崩壊の一因として彼の放漫な経営姿勢が批判されることにも繋がった。これらの論争は、芳の里が日本のプロレス界において果たした役割の複雑さを浮き彫りにしている。
7. 大相撲の戦績
7.1. 生涯成績
- 通算成績:178勝158敗1分
- 勝率:.530
- 幕内成績:39勝51敗
- 幕内勝率:.433
- 現役在位:30場所
- 幕内在位:6場所
7.2. 場所別成績
| 年 | 場所 | 番付 | 東西 | 勝 | 敗 | 休 | 引分 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1944年 | 1月場所 | 序ノ口 | 3 | 1 | ||||
| 5月場所 | 序二段39 | 西 | 2 | 3 | ||||
| 11月場所 | 序二段44 | 東 | 3 | 2 | ||||
| 1945年 | 6月場所 | 三段目36 | 西 | 3 | 2 | |||
| 11月場所 | 三段目11 | 東 | 4 | 1 | ||||
| 1946年 | 11月場所 | 幕下20 | 西 | 5 | 2 | |||
| 1947年 | 6月場所 | 幕下7 | 東 | 2 | 3 | |||
| 11月場所 | 幕下10 | 東 | 2 | 4 | ||||
| 1948年 | 5月場所 | 幕下14 | 西 | 4 | 2 | |||
| 10月場所 | 幕下7 | 東 | 4 | 1 | 1 | |||
| 1949年 | 1月場所 | 十両11 | 東 | 8 | 5 | |||
| 5月場所 | 十両4 | 西 | 9 | 6 | ||||
| 10月場所 | 十両1 | 西 | 8 | 7 | ||||
| 1950年 | 1月場所 | 幕内20 | 西 | 9 | 6 | 新入幕 | ||
| 5月場所 | 幕内15 | 東 | 8 | 7 | ||||
| 9月場所 | 幕内12 | 東 | 3 | 12 | ||||
| 1951年 | 1月場所 | 幕内21 | 西 | 8 | 7 | |||
| 5月場所 | 幕内20 | 東 | 7 | 8 | ||||
| 9月場所 | 十両1 | 東 | 5 | 10 | ||||
| 1952年 | 1月場所 | 十両6 | 東 | 12 | 3 | |||
| 5月場所 | 十両1 | 西 | 8 | 7 | ||||
| 9月場所 | 幕内20 | 東 | 4 | 11 | ||||
| 1953年 | 1月場所 | 十両6 | 西 | 7 | 8 | |||
| 3月場所 | 十両8 | 西 | 9 | 6 | ||||
| 9月場所 | 十両7 | 東 | 9 | 6 | ||||
| 10月場所 | 十両4 | 東 | 6 | 9 | ||||
| 1954年 | 1月場所 | 十両8 | 西 | 7 | 8 | |||
| 3月場所 | 十両9 | 西 | 8 | 7 | ||||
| 5月場所 | 十両7 | 西 | 11 | 4 | ||||
| 9月場所 | 十両3 | 東 | 15 | 廃業 |
7.3. 幕内対戦成績
幕内対戦成績における「勝数」および「負数」のカッコ内の数字は、不戦勝の数を表す。
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 愛知山 | 1 | 1 | 五ッ洋 | 0 | 1 | 大岩山 | 1 | 1 | 大内山 | 0 | 1 |
| 大起 | 1 | 1 | 大昇 | 1 | 0 | 大晃 | 0 | 2 | 大蛇潟 | 0 | 2 |
| 甲斐ノ山 | 1 | 2 | 神錦 | 2(1) | 0 | 北ノ洋 | 0 | 2 | 清恵波 | 1 | 3 |
| 九州錦 | 0 | 1 | 国登 | 0 | 1 | 小坂川 | 0 | 2 | 櫻國 | 0 | 1 |
| 櫻錦 | 1 | 0 | 嶋錦 | 0 | 1 | 常ノ山 | 1 | 0 | 輝昇 | 1 | 1 |
| 時津山 | 1 | 0 | 那智ノ山 | 0 | 1 | 名寄岩 | 1 | 0 | 鳴門海 | 3 | 1 |
| 白龍山 | 0 | 1 | 羽嶋山 | 0 | 1 | 緋縅 | 1 | 2 | 広瀬川 | 1 | 1 |
| 藤田 | 2 | 0 | 二瀬山 | 1 | 0 | 不動岩 | 0 | 1 | 増巳山 | 4 | 1 |
| 緑國 | 1 | 2 | 宮城海 | 1 | 3 | 八方山 | 0 | 3 | 吉井山 | 2 | 1 |
| 吉田川 | 2 | 1 | 米川 | 0 | 1 | 若葉山 | 1 | 2 |