1. 概要
英智は、1976年に岐阜県羽島市で生まれた日本の元プロ野球選手であり、現在は野球解説者として活動している。中日ドラゴンズでは1999年から2012年まで現役選手としてプレーし、主に俊足強肩の外野手として活躍した。特に守備と走塁のスペシャリストとして知られ、2004年にはゴールデングラブ賞を受賞するなど、そのいぶし銀の働きでチームに貢献した。引退後は中日ドラゴンズのコーチを2013年から2022年まで務め、一軍と二軍で外野守備・走塁コーチ、育成野手コーチを歴任した。コーチ業の傍ら、自身のファッションブランド「eichi」を立ち上げるなど、多岐にわたる活動を行っている。2023年からは野球解説者として、またゲストコメンテーターとしてテレビやラジオに出演している。
2. 幼少期およびアマチュア時代
英智は幼少期から野球に触れ、学生時代を通じてその才能を育んだ。
2.1. 幼少期と教育
1976年5月9日、岐阜県羽島市に生まれる。父親の影響で野球を始めたが、スパルタ式の指導が嫌で、高校時代には野球を辞めたいと常に考えていたという。地元の強豪校である岐阜県立岐阜商業高等学校に進学。英智は「蔵本三兄弟の三男」として知られ、兄2人も同校で野球をしていた。特に長兄の蔵本雅由は後に名城大学を経て社会人野球の一光で長年エースとして活躍している。次兄の蔵本敬充も法政大学野球部で野球を続け、後にモデルに転身した。高校時代、甲子園に出場したら野球を辞めるつもりだったが、チームは県予選3回戦で敗退し、辞めるきっかけを失ったため野球を続けることになった。
高校では控え投手から中堅手のレギュラーに転向。高校卒業後、名城大学商学部経済学科に進学し、硬式野球部で3番・中堅手として活躍する傍ら、投手も兼任した。大学在学中、県立岐阜商業高等学校硬式野球部のOB会名簿には「説田 英智」として記載されていた時期もある。
2.2. アマチュア野球経歴
名城大学では、1998年の愛知大学野球リーグにおいて、春季と秋季の両方でベストナイン(外野手)に選出された。愛知大学リーグでの通算成績は93試合出場、310打数88安打、打率.284、2本塁打、36打点であった。大学卒業後はトヨタ自動車への入社が内定していたが、1998年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受け、プロ入りを決断した。
3. プロ選手時代
英智は1999年から2012年まで中日ドラゴンズに在籍し、そのキャリアを通じて守備と走塁でチームを支えた。
3.1. デビューと初期の活動
プロ入り後の1999年と2000年は一軍出場機会がなく、二軍で研鑽を積んだ。しかし、入団当初からその俊足と強肩は高く評価されており、山田久志監督が指揮を執っていた2002年から2003年途中には、投手と外野手の兼任案が浮上したこともあった。2001年に自身初となる一軍出場を果たし、プロとしてのキャリアを本格的にスタートさせた。2002年からは一軍での出場機会を増やし、チーム内での存在感を確立していった。
3.2. 全盛期とゴールデングラブ賞受賞
2004年シーズンからは、自身の名を冠した「英智」へと登録名を変更した。この年、監督に就任した落合博満が掲げた「一芸に秀でた選手が必要」という「オレ流野球」の象徴的存在として、開幕から一軍で代走や守備固めとして活躍した。特に同年6月27日の阪神タイガース戦では、葛城育郎の犠飛と思われた打球に対して、見事な好返球で三塁走者の桧山進次郎を刺し、チームの勝利に貢献した。このプレーは、守備での活躍でお立ち台に立つという珍しい経験となり、英智の野球選手としての名を広く知らしめるきっかけとなった。本人は当時、体調が万全でなく肩に不安があったため、慎重に投げた結果、良い球を投げることができたと語っている。
シーズン中、井上一樹との併用の中で徐々に出場機会が増え、さらに主力の福留孝介が8月にアテネオリンピック出場のためにチームを離れ、9月には死球による骨折で戦列を離れると、右翼手としてレギュラーに定着した。この活躍が評価され、同年のゴールデングラブ賞を獲得した。英智はこの賞を「水戸黄門の印籠のような、自分にとっての宝物」と語っている。また、左翼手の英智、中堅手のアレックス、右翼手の福留という堅守の布陣は一躍有名となり、英智は「福留、アレックスと3人一緒に守備位置についていて、誇らしい気持ちだった。メジャーリーガーで強肩のアレックスの一級品のボールを隣で見ているだけで、見とれてしまうほど楽しかった」と当時を振り返っている。
2005年は走塁中に肩を強打して負傷した影響もあり、打率が1割にも満たない打撃不振に陥った。また、代走専門選手だった澤井道久がシーズン後半に登録を抹消されたため、英智がやむを得ず代走で起用され、守備位置の都合で途中交代させられるなど、起用法が一定しなかった。しかし、同年8月5日の横浜ベイスターズ戦では、1点を追う最終回一死満塁の場面で三塁走者だった英智が、立浪和義の浅い右飛で迷うことなく本塁へ突入。捕手の相川亮二のタッチをかいくぐるヘッドスライディングで同点のホームインをもたらし、その後の福留の逆転満塁本塁打へと繋げた。英智はこの走塁について、「右飛だったので捕手の死角をついて少しラインの内側を走ることによって恐怖心を与え、捕手のブロックの角度が三塁方向に向くのを狙ってフェイントし、少し大回りに回ってかわしながらヘッドスライディングした。セーフの確率が上がるように考えている」と詳細に説明している。試合後、落合監督は英智のプレーを「プロだ」と称賛した。
2006年5月10日の北海道日本ハムファイターズ戦では、延長11回表に岡島秀樹の暴投で二塁から悠々ホームインする鮮やかな走塁を見せた。この年は124試合に出場した。
3.3. 晩年と引退
2007年は李炳圭の加入によりシーズン序盤は代打・代走・守備固めでの起用が主であったが、李の打撃不振や福留の戦線離脱、そして自身の打撃好調もあり、シーズン中盤以降はスタメンでの起用が増加した。しかし、同年9月26日の読売ジャイアンツ戦で肉離れを起こし、残りのシーズンを棒に振ってしまった。落合監督は英智の離脱がチームにとって「一番痛かった」と語っている。シーズンオフには、落合監督の「背番号57ではケガが多いから」という意向により、背番号が57から24へ変更された。これは、5と7のつく2005年と2007年に彼が負傷していたことに基づき、心機一転を図ってほしいという願いが込められたものであった。
2008年も主に代走・守備固めとしての起用が多かったが、交流戦に入ってレギュラーの森野将彦や李炳圭が怪我で離脱した際にはスタメン出場する機会もあった。しかし、両者が復帰すると二軍落ちも経験し、出場は77試合に留まった。2009年は、藤井淳志や新人の野本圭といった若手外野手の台頭もあり、開幕を二軍で迎えたが、4月21日に一軍登録され、同日の阪神タイガース戦では6番・右翼手でシーズン初出場を果たした。
2010年11月29日の契約更改では、その年の打撃成績が打率.220と振るわなかったにもかかわらず、走塁や守備といった数字に現れない部分を球団に評価され、300万円増の契約を提示された。しかし、喜ぶはずの本人が「上がる理由はなんですか?」と球団に聞き返すというエピソードを残し、その際に「来シーズンはお立ち台に立ちたい」と決意を述べた。
2011年は若手外野手のさらなる台頭により出場機会が減少。守備固めや代走での出場が主となり、打席に立つ機会も少なく、打率も.100と振るわなかった。しかし、同年8月6日の横浜ベイスターズ戦(ナゴヤドーム)で勝ち越しのスクイズを成功させ、前年オフに述べた「お立ち台に立つ」という決意を達成した。
2012年も出場機会に恵まれず、このシーズン限りでの現役引退を発表した。同年10月5日のナゴヤドームでのシーズン最終戦となった広島東洋カープ戦に途中出場し、3打席は凡退に終わったものの、試合後の引退セレモニーでは本塁から外野めがけての遠投を披露。球は約110メートル先の右翼ポールに直撃し、スタンドからのアンコールに応えて二投目ではライトスタンドへ投げ入れた。現役最後の出場は、同年クライマックス・セのファイナルステージ第6戦で、9回表に代走として出場し、チームにとって2012年最後の得点を記録した。
4. 引退後の活動
プロ野球選手としての引退後、英智はコーチ、ファッションデザイナー、野球解説者など、多岐にわたる分野でその才能を発揮している。
4.1. コーチ経歴
2013年からは中日ドラゴンズ二軍の外野守備・走塁コーチに就任した。登録名は現役時代と同じ「英智」のままであった。2016年には一軍外野守備走塁コーチに転じ、攻撃時には三塁ベースコーチも担当した。同年11月25日から台湾で開催された2016アジアウインターベースボールリーグでは、NPBウエスタン選抜の外野守備走塁コーチを務めている。
2017年からは再び二軍外野守備走塁コーチに戻り、前年に続き同年11月25日から台湾で開催された2017アジアウインターベースボールリーグにおいても、NPBウエスタン選抜の外野守備走塁コーチを務めた。
2020年からは再び一軍外野守備走塁コーチに就任したが、2021年の秋季キャンプからは育成野手コーチに配置転換された。そして、2022年10月13日、このシーズン限りでの中日ドラゴンズ退団が発表された。
4.2. その他の活動
コーチとしての活動と並行して、英智は新たな挑戦も行った。2013年12月21日には自身のファッションブランド「eichi」を設立し、オフシーズン限定でファッションデザイナーとしても活動を開始した。
中日ドラゴンズ退団後の2023年からは、野球解説者としての活動を開始。J SPORTS(CBCテレビ制作分)の野球中継で初出演を果たした。また、CBCテレビやCBCラジオでも野球解説者(ゲスト扱い)として出演することがある。
2024年7月25日には、中日OB戦「DRAGONS CLASSIC LEGEND GAME 2024」に出場し、初代MVPを獲得するなど、引退後も野球界との関わりを続けている。
5. 選手としての特徴
英智は、その俊足と強肩を武器に、いぶし銀の働きを見せる守備・走塁のスペシャリストとして知られていた。圧倒的な強肩を誇り、幾度となく走者を刺して他球団から恐れられた。2002年12月に収録された「プロ野球オールスタースーパーバトル」の遠投日本一決定戦では、遠投123メートルを記録して優勝している。
一方で、1年間フルシーズンを戦い抜く体力が保たないことを課題としており、これがレギュラーに完全に定着できない要因の一つともなっていた。しかし、その守備と走塁の技術は球界でもトップクラスと評され、重要な場面での守備固めや代走として、チームに不可欠な存在であった。
6. 人物・エピソード
英智の家族は野球に深く関わっており、2人の兄も英智と同じく岐阜県立岐阜商業高校で野球をしていたため、高校時代は「蔵本三兄弟の三男」としてプロのスカウトの間でも知られていた。
英智は幼い頃、父親の影響で野球を始めたものの、父親のスパルタ指導が嫌で、常に野球を辞めたいと考えていたという。高校時代、もし甲子園に出場できたらそれを機に野球を辞めるつもりだったが、チームは県予選で早期敗退したため、辞めるきっかけを失い野球を続けることになったと語っている。
中日ドラゴンズのマスコットであるドアラとは非常に仲が良く、中日ドラゴンズの公式ブログではしばしば彼とドアラが会話している場面の写真が掲載されていた。選手では、同級生の小田幸平、また同期入団の小笠原孝と特に親交が深かった。英智本人曰く「球場で小田の顔を見るときが一番ほっとする」とのこと。小田は英智の引退試合(小笠原も同年引退し、同じセレモニーが行われた)で、守備に入る前のキャッチボールの相手を泣きながら引き受け、また最初の遠投で右翼ポールに直撃してグラウンドに跳ね返ってきた球を自ら回収に走るなど、友情の深さを見せた。
子供の頃から落合博満のファンであり、落合が中日の監督に就任した際、英智が一番喜んだというエピソードもある。また、長嶋茂雄がテレビで英智の名前を「藤本」と読み間違えたことから、一時期Wikipediaに「藤本英智」と誤って記載されていたことがある。
打席に立つ際の登場曲は、通常時がTHE HIGH-LOWSの『日曜日よりの使者』、チャンス時がRCサクセションの『雨あがりの夜空に』であった。これ以前はLINDBERGの『BELIEVE IN LOVE』を使用しており、走者のいない打席では井上陽水の『Make-up Shadow』も使用していた。
7. 詳細情報
7.1. 表彰
- ゴールデングラブ賞:1回(2004年)
- JA全農Go・Go賞 好捕賞:4回(2004年、2005年、2006年、2008年)
7.2. プロ経歴記録
年度 | 球団 | 試 | 打 | 打 | 得 | 安 | 二 | 三 | 本 | 塁< | 打 | 盗 | 盗 | 犠 | 犠 | 四 | 死 | 三 | 併 | 打 | 出 | 長 | OPS | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001 | 中日 | 15 | 48 | 45 | 7 | 14 | 1 | 0 | 1 | 18 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 2 | .311 | .354 | .400 | .754 |
2002 | 72 | 123 | 115 | 17 | 31 | 5 | 1 | 2 | 44 | 13 | 2 | 2 | 3 | 1 | 4 | 0 | 0 | 28 | 1 | .270 | .292 | .383 | .674 | ||
2003 | 61 | 36 | 33 | 11 | 9 | 1 | 0 | 0 | 10 | 2 | 3 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 10 | 1 | .273 | .333 | .303 | .636 | ||
2004 | 107 | 221 | 201 | 33 | 54 | 10 | 2 | 0 | 68 | 19 | 11 | 3 | 4 | 0 | 14 | 0 | 2 | 46 | 5 | .269 | .323 | .338 | .661 | ||
2005 | 81 | 61 | 52 | 14 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 3 | 1 | 3 | 1 | 4 | 0 | 1 | 12 | 1 | .077 | .155 | .077 | .232 | ||
2006 | 124 | 288 | 256 | 30 | 55 | 8 | 1 | 1 | 68 | 27 | 4 | 3 | 22 | 2 | 5 | 0 | 3 | 49 | 1 | .215 | .237 | .266 | .502 | ||
2007 | 99 | 219 | 198 | 27 | 55 | 8 | 1 | 4 | 77 | 19 | 8 | 2 | 7 | 1 | 6 | 0 | 7 | 33 | 4 | .278 | .321 | .389 | .710 | ||
2008 | 77 | 77 | 70 | 10 | 15 | 2 | 1 | 1 | 22 | 7 | 4 | 0 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 23 | 3 | .214 | .236 | .314 | .550 | ||
2009 | 71 | 128 | 121 | 15 | 26 | 2 | 0 | 1 | 31 | 10 | 4 | 1 | 4 | 1 | 2 | 0 | 0 | 20 | 4 | .215 | .226 | .256 | .482 | ||
2010 | 68 | 147 | 127 | 15 | 28 | 3 | 1 | 1 | 36 | 9 | 8 | 0 | 10 | 1 | 6 | 0 | 3 | 20 | 3 | .220 | .270 | .283 | .553 | ||
2011 | 56 | 24 | 20 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .100 | .182 | .100 | .282 | ||
2012 | 53 | 24 | 19 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | .211 | .286 | .211 | .496 | ||
通算:12年 | 884 | 1396 | 1257 | 193 | 297 | 40 | 7 | 11 | 384 | 115 | 50 | 17 | 63 | 7 | 52 | 0 | 17 | 255 | 25 | .236 | .275 | .305 | .580 |
年 度 | 球 団 | 外野 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
2001 | 中日 | 15 | 24 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
2002 | 64 | 63 | 3 | 1 | 1 | .985 | |
2003 | 23 | 16 | 0 | 1 | 0 | .941 | |
2004 | 102 | 124 | 6 | 0 | 2 | 1.000 | |
2005 | 72 | 50 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2006 | 120 | 154 | 3 | 1 | 1 | .994 | |
2007 | 86 | 102 | 6 | 1 | 1 | .991 | |
2008 | 69 | 39 | 1 | 1 | 1 | .976 | |
2009 | 71 | 82 | 0 | 1 | 0 | .988 | |
2010 | 64 | 75 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2011 | 50 | 20 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2012 | 46 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
通算 | 782 | 765 | 20 | 6 | 6 | .992 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞
; 初記録
- 初出場:2001年9月13日、対広島東洋カープ23回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に井上一樹の代走で出場
- 初先発出場:2001年9月20日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、7番・中堅手で先発出場
- 初安打:2001年9月24日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、2回表にグレッグ・ハンセルから中前安打
- 初打点:2001年9月29日、対阪神タイガース27回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に伊達昌司から右翼線適時二塁打
- 初本塁打:2001年10月5日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、9回表に黒田博樹から左中間へ2ラン
- 初盗塁:2002年6月27日、対広島東洋カープ13回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に二盗(投手:玉木重雄、捕手:西山秀二)
7.3. 背番号・登録名
- 57(1999年 - 2007年)
- 24(2008年 - 2012年)
- 97(2013年)
- 89(2014年 - 2022年)
- 蔵本 英智(くらもと ひでのり、1999年 - 2003年)
- 英智 (ひでのり、2004年 - )
7.4. 代表歴
- 2016アジアウインターベースボールリーグ:NPBウエスタン選抜 外野守備走塁コーチ
- 2017アジアウインターベースボールリーグ:NPBウエスタン選抜 外野守備走塁コーチ
8. 著書
- 『英智スタイル48』(2013年7月1日発売、ベースボール・マガジン社発行)ISBN 978-4583105758