1. 経歴
荒巻淳の野球人生は、アマチュア時代からプロ野球の第一線での活躍、そして引退後の指導者・解説者としての活動に至るまで、常に日本の野球界と共にありました。
1.1. プロ入り前
荒巻淳は1926年11月16日に大分県大分市堀川の鮮魚店の息子として生まれました。幼少期から野球に親しみ、大分商業学校(現在の大分県立大分商業高等学校)に進学。1942年夏には文部省主催の全国中等学校野球大会に出場しましたが、1回戦で仙台一中に2対3で惜敗しました。
卒業後は大分経済専門学校(現在の大分大学)に進み、1946年の全国専門学校野球大会に出場。この大会で荒巻は目覚ましい活躍を見せ、横浜経済専門学校戦では17奪三振を記録し、さらに決勝戦では自身と並ぶ快速球で知られた山根俊英を擁する鳥取農林専門学校を相手に23個の三振を奪って優勝を果たしました。この活躍により、彼は一躍全国的な注目を集めることとなります。
専門学校卒業後、荒巻は社会人野球の強豪であった星野組に入部しました。1949年の都市対抗野球では、エースとしてチームを優勝に導き、大会最優秀選手に贈られる橋戸賞を受賞しました。この頃からその球の速さは群を抜いており、当時メジャーリーグ随一の快速球投手であったボブ・フェラーになぞらえ、「和製火の玉投手」と呼ばれるようになりました。
1948年頃からは複数のプロ野球チームによる荒巻の争奪戦が激化しました。巨人、大阪タイガース、阪急ブレーブス、大映スターズなどが、様々な手段で星野組に勧誘を試みました。巨人は別府市での練習時に星野組社長の岡本忠夫が経営する日名子旅館を宿舎に利用し、阪急は浜崎真二監督自らが別府に赴き、大映は北九州地区の映画館収益の分配を約束するなど、各球団が獲得に奔走しました。
大井廣介の著書『タイガース史』や松木謙治郎の著書には、荒巻が一度阪神と契約を結んだという記述があり、当時阪神に在籍していた若林忠志の次男も若林からの伝聞として阪神が荒巻と契約していたと証言しています。若林の次男や松木は、若林が荒巻を勧誘したと述べています。
1949年夏以降、プロ野球参入を目指していた毎日新聞社が星野組の選手たちに勧誘を開始しました。西本幸雄選手兼任監督が交渉役を務めましたが、荒巻に関しては星野組社長の岡本が後見人となり、契約も岡本が直接行いました。岡本は次女を荒巻と結婚させており、荒巻は最終的に毎日オリオンズに入団することになりました。松木謙治郎は、プロ野球再編問題で荒巻が私淑していた若林が阪神から毎日に移籍したことと、星野組の選手が主体となって毎日が結成されたことが、荒巻の毎日入りに繋がったと指摘しています。
q=大分市|position=right
1.2. プロ入り後
荒巻淳のプロ野球選手としてのキャリアは、ルーキーイヤーから鮮烈な輝きを放ち、日本のプロ野球史に名を刻みました。
1.2.1. 創設期毎日オリオンズでの活躍 (1950年 - 1952年)
1950年、プロ野球が両リーグに分立した年に、荒巻は西本幸雄らと共に毎日オリオンズに入団しました。新人ながら26勝8敗、防御率2.06という驚異的な成績を挙げ、最多勝利、最優秀防御率、新人王、ベストナインのタイトルを獲得しました。この活躍は、毎日オリオンズのパシフィック・リーグ初代優勝と第1回日本シリーズ制覇に大きく貢献しました。しかし、この1年目での酷使がその後のキャリアに影を落とし、2年目以降は速球の威力に陰りが見え始めることになります。
1951年には10勝を挙げたものの、1952年には7勝と成績が落ち込みました。しかし、この時期に速球に頼り切る投球スタイルから脱却し、カーブの威力に磨きをかけることで投球の幅を広げていきました。
1.2.2. 全盛期と主要な活躍 (1953年 - 1959年)
1953年には17勝を挙げ、リーグ4位の防御率2.14を記録するなど見事に復活を果たしました。同年行われた日米野球では、日本のプロ野球選手として初めてメジャーリーグの選抜チーム相手に完投勝利を収めるという快挙を達成し、その実力を国内外に示しました。
その後も荒巻は安定した活躍を続け、1959年まで7年連続で15勝以上を記録するエースとして君臨しました。特に1954年には22勝、1956年には24勝をマークするなど、2度にわたる20勝シーズンを達成し、この時期の日本プロ野球界を代表する投手に成長しました。1959年からは主将も務め、主に救援登板で17勝を挙げるなど、チームの柱として貢献しました。
1.2.3. 晩年と引退 (1960年 - 1962年)
1959年までは安定した成績を残していた荒巻でしたが、1960年には毎日オリオンズが10年ぶりにリーグ優勝を果たす一方で、荒巻自身はプロ入り後初めて未勝利に終わりました。
1961年のオフシーズン、かつて星野組でチームメイトであり、前大毎監督であった西本幸雄が阪急ブレーブスのコーチに就任すると、荒巻も同じく星野組のチームメイトであった西鉄ライオンズの関口清治と共に阪急へ移籍しました。1962年には選手兼任コーチとして阪急に在籍しましたが、登板はわずか2試合に終わり、同年限りで13年間の現役生活に幕を閉じました。
荒巻のプロキャリア508登板のうち339登板がリリーフとしての出場であり、救援勝利数は98勝を記録しました。これは金田正一(132勝)、稲尾和久(108勝)に次ぐNPB歴代3位の記録であり、彼のキャリアにおけるリリーフとしての貢献の大きさを物語っています。
2. 選手としての特徴
荒巻淳は、その全身がバネのようで、小躍りするような独特の投球フォームから、テンポの良い快速球を投げ込む投手として知られていました。彼の速球は、当時メジャーリーグの速球投手で「火の玉投手」と呼ばれたボブ・フェラーになぞらえ、「和製火の玉投手」という愛称で親しまれました。
その快速球は小気味よいほど低めに決まることが多かった一方で、時には打者が地面ぎりぎりだと思って見逃した球が、ホップして高めのストライクになるという伝説も残っています。荒巻は制球力にも優れ、快速球だけでなく、落差の大きいカーブをコーナーいっぱいに投げ込むことができました。さらに、彼は日本で最初にチェンジアップを本格的に駆使した国際派の投手としても評価されています。
個人的な習慣としては、常に爪切りを持ち歩き、指先の手入れを1時間かけて入念に行っていたといわれています。華奢な体つきであり、「こんな細い体でよく13年も投手が務まったものだ」というのが荒巻の口癖だったと伝えられています。また、足が速かったため、試合中に代走として起用されたこともありました。
3. 引退後の活動
選手引退後も、荒巻淳は野球界の発展に尽力し、指導者や解説者として多岐にわたる役割を果たしました。
3.1. 指導者・解説者として
荒巻は、1962年の現役引退と同時に阪急ブレーブスの投手コーチに就任し、1963年から1965年まで務めました。しかし、1965年には胸部疾患により退団を余儀なくされました。
阪急退団後は、日本テレビの野球解説者として「○曜ナイター」に出演し、1966年から1967年まで活動しました。その後、1970年からはヤクルトアトムズの一軍投手コーチに就任し、再び現場で若手選手の育成に当たりました。
4. 死去
ヤクルトアトムズのコーチとして活動中の1971年、荒巻淳はオープン戦の転戦中に病に倒れました。同年5月12日、肝硬変のため京都府立医科大学附属病院で逝去しました。享年44歳でした。
q=京都府立医科大学附属病院|position=right
5. 評価と栄誉
荒巻淳は、その類稀な才能と情熱をもって日本のプロ野球史に大きな足跡を残し、その功績は没後も高く評価されています。
5.1. タイトルと表彰
荒巻淳がプロ野球選手時代に獲得した主要な個人タイトルと表彰は以下の通りです。
- 最多勝利:1回 (1950年)
- 最優秀防御率:1回 (1950年)
- 新人王 (1950年)
- ベストナイン:1回 (投手部門:1950年)
5.2. 主な記録
荒巻淳の選手キャリアにおいて特筆すべき主要な記録は以下の通りです。
- 初登板・初勝利:1950年3月15日、対南海ホークス1回戦(大須球場)
- 初先発登板・初先発勝利・初完投:1950年3月20日、対西鉄クリッパーズ2回戦(後楽園球場)
- 初完封:1950年4月14日、対西鉄クリッパーズ3回戦(後楽園球場)
- 100勝達成:1955年10月8日、対トンボユニオンズ20回戦(川崎球場)
- 150勝達成:1958年8月10日、対南海ホークス21回戦(後楽園球場)
- リーグ最多無四球試合無しで通算25無四球試合 ※歴代最多
- オールスターゲーム出場:5回 (1953年 - 1957年)
5.3. 野球殿堂入り
荒巻淳は、その野球界への多大な貢献が認められ、没後1985年に日本の野球殿堂に献額されました。これは、彼がプロ野球の発展に果たした役割と、その優れた業績が後世に伝えられるべきものとして高く評価された証です。
6. 詳細情報
6.1. 出身校・所属チーム
- 大分県立大分商業学校(現在の大分県立大分商業高等学校)
- 大分経済専門学校(現在の大分大学)
- 社会人野球:星野組
- プロ野球:
- 毎日オリオンズ・毎日大映オリオンズ(1950年 - 1961年)
- 阪急ブレーブス(1962年)
- 指導者:
- 阪急ブレーブス 投手コーチ(1962年 - 1965年)
- ヤクルトアトムズ 投手コーチ(1970年 - 1971年)
6.2. 背番号
- 11 (1950年 - 1961年)
- 31 (1962年)
- 30 (1963年 - 1965年)
- 50 (1970年)
- 61 (1971年)
6.3. 年度別投手成績
年 度 | 所 属 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ | ブ | ホ | ル ド | 勝 率 | 打 者 | イ ニ ン グ | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 四 球 | 故 意 四 球 | 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ | ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 毎日 大毎 | 48 | 19 | 16 | 3 | 4 | 26 | 8 | - | - | .765 | 1098 | 274.2 | 240 | 11 | 55 | - | 1 | 150 | 1 | 0 | 86 | 63 | 2.06 | 1.07 |
1951 | 31 | 11 | 7 | 1 | 3 | 10 | 8 | - | - | .556 | 586 | 144.1 | 139 | 6 | 29 | - | 0 | 55 | 1 | 0 | 55 | 39 | 2.42 | 1.16 | |
1952 | 26 | 11 | 4 | 1 | 1 | 7 | 6 | - | - | .538 | 439 | 110.1 | 94 | 7 | 22 | - | 0 | 55 | 2 | 0 | 35 | 23 | 1.86 | 1.05 | |
1953 | 50 | 16 | 8 | 1 | 3 | 17 | 14 | - | - | .548 | 962 | 248.0 | 198 | 8 | 49 | - | 1 | 122 | 5 | 0 | 75 | 59 | 2.14 | 1.00 | |
1954 | 49 | 24 | 15 | 5 | 3 | 22 | 12 | - | - | .647 | 1068 | 271.0 | 234 | 13 | 43 | - | 3 | 130 | 0 | 0 | 78 | 70 | 2.32 | 1.02 | |
1955 | 49 | 19 | 11 | 1 | 2 | 18 | 12 | - | - | .600 | 972 | 245.0 | 203 | 13 | 59 | 6 | 0 | 130 | 3 | 0 | 70 | 64 | 2.35 | 1.07 | |
1956 | 56 | 20 | 11 | 2 | 5 | 24 | 16 | - | - | .600 | 1028 | 263.0 | 202 | 7 | 46 | 5 | 3 | 123 | 2 | 0 | 72 | 62 | 2.12 | 0.94 | |
1957 | 46 | 21 | 6 | 2 | 3 | 15 | 11 | - | - | .577 | 707 | 175.2 | 142 | 8 | 41 | 0 | 1 | 87 | 1 | 0 | 64 | 42 | 2.15 | 1.04 | |
1958 | 52 | 24 | 6 | 0 | 1 | 17 | 10 | - | - | .630 | 960 | 244.2 | 183 | 11 | 58 | 3 | 3 | 109 | 2 | 0 | 74 | 58 | 2.13 | 0.99 | |
1959 | 55 | 4 | 1 | 0 | 0 | 17 | 8 | - | - | .680 | 632 | 159.1 | 136 | 12 | 36 | 1 | 0 | 72 | 1 | 0 | 55 | 40 | 2.25 | 1.08 | |
1960 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | - | - | .000 | 165 | 38.2 | 38 | 3 | 10 | 1 | 0 | 24 | 0 | 0 | 23 | 18 | 4.15 | 1.24 | |
1961 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | ---- | 107 | 26.0 | 24 | 1 | 8 | 0 | 1 | 10 | 1 | 0 | 7 | 7 | 2.42 | 1.23 | |
1962 | 阪急 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | ---- | 9 | 2.0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 1.50 |
通算:13年 | 508 | 169 | 85 | 16 | 25 | 173 | 107 | - | - | .618 | 8733 | 2202.2 | 1834 | 100 | 458 | 16 | 13 | 1069 | 19 | 0 | 695 | 546 | 2.23 | 1.04 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更