1. 生涯
西邑昌一は、選手および指導者として日本サッカー界に多大な影響を与えた人物である。彼の生涯は、激動の時代におけるサッカーの普及と強化への献身に満ちていた。
1.1. 生誕と幼少期
西邑昌一は1912年4月18日、兵庫県に生まれた。幼少期の具体的な情報は少ないが、この時期にサッカーと出会い、その後の人生をサッカーに捧げることになる。
1.2. 学歴と初期選手時代
西邑は旧制甲陽中学を卒業後、関西学院大学に進学。さらに早稲田大学でも学んだ。学生時代から優れたフォワードとして頭角を現し、関西学院大学体育会サッカー部や関学クラブで活躍した。
1.3. 身体的特徴
西邑昌一は、身長163 cm、体重57.8 kgという体躯で、当時のサッカー選手としては小柄ながらも、その技術と俊敏性で知られた。
2. 選手経歴
西邑昌一は、黎明期の日本サッカーにおいて、その卓越した技術と得点能力で多くの試合で輝きを放った。
2.1. クラブ経歴
西邑は主に関学クラブでプレイした。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では、チームの後藤靱雄や堺井秀雄らと共に優勝に貢献し、クラブの黄金時代を築いた。
2.2. 日本代表経歴
西邑昌一は、学生であった1934年に日本代表に選出され、マニラで開催された第10回極東選手権競技大会に出場した。同年5月13日のオランダ領東インド戦で国際Aマッチデビューを果たし、5月15日のフィリピン戦では同点ゴールを挙げる活躍を見せた。
さらに、1936年にはベルリンオリンピックの日本代表にも選出されたが、本大会での出場機会はなかった。しかし、この大会で日本代表は強豪スウェーデンを相手に歴史的な逆転勝利を収め、後に「ベルリンの奇跡」として語り継がれる快挙を成し遂げた。この偉業を達成したチームは、2016年に日本サッカー殿堂に選出され、西邑もその一員として日本サッカー史に名を刻んだ。
2.3. 日本代表出場統計
西邑昌一の日本代表における出場統計は以下の通りである。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1934 | 2 | 1 |
合計 | 2 | 1 |
また、具体的な出場試合と得点数は以下の通りである。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1934年5月13日 | マニラ | オランダ領東インド | ●1-7 | 竹腰重丸 | 極東選手権 | |
2. | 1934年5月15日 | マニラ | フィリピン | ○4-3 | 極東選手権 |
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1934年5月15日 | フィリピン、マニラ | フィリピン | 4-3 | 第10回極東選手権 |
3. 指導者経歴
選手引退後、西邑昌一は指導者として日本サッカーの発展に尽力し、特に若手育成とプロクラブの強化に貢献した。
3.1. 大学・クラブチーム監督
西邑は1956年から、母校である関西学院大学体育会サッカー部の監督を務め、同大学を関西学生リーグや東西王座決定戦の優勝に導いた。また、関学クラブの監督としても手腕を発揮し、1958年と1959年には天皇杯を連覇する快挙を達成した。彼は国際大会に臨む代表チームの指導にもあたり、日本サッカー全体の強化に尽力した。
3.2. プロチーム監督
1976年から1980年にかけては、JSL2部の読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)の監督を務めた。1977年シーズンにはチームをリーグ優勝に導き、JSL1部への昇格を果たすなど、プロクラブの基盤作りに貢献した。指導者引退後もサッカー界との交流は続き、1982年2月にはベルリンオリンピック代表チームで共に戦った金容植が監督を務めるハレルヤFCの来日レセプションに出席している。
4. 死去
西邑昌一は1998年3月22日、兵庫県明石市にて肺炎により死去した。享年86歳であった。
5. 評価と遺産
西邑昌一は、日本のサッカー界において選手としても指導者としても輝かしい功績を残した。彼の功績は、日本サッカーの歴史において高く評価されている。
5.1. 功績と貢献
西邑は、選手として日本代表の黎明期を支え、特に「ベルリンの奇跡」を成し遂げた1936年ベルリンオリンピック代表チームの一員として、日本サッカー史における重要な位置を占めている。このチームが2016年に日本サッカー殿堂入りを果たしたことは、彼の貢献が後世にまで認められた証である。
指導者としても、大学やクラブチームで多くのタイトルを獲得し、読売サッカークラブをJSL1部昇格に導くなど、日本のサッカーのレベル向上とプロ化への移行期に重要な役割を果たした。彼の尽力は、日本サッカーが国際的な舞台で活躍する基盤を築く上で不可欠なものであった。
6. 関連項目
- ベルリンの奇跡
- 川本泰三
- 高橋英辰
- 岩谷俊夫
- 長沼健
- 鴇田正憲
- 賀川太郎
- ラモス瑠偉
- 金容植
7. 外部リンク
- [http://www.jfootball-db.com/en/players/nishimura_shoichi.html Japan National Football Team Database]
- [http://www.jfa.jp/eng/about_jfa/hall_of_fame/member/team01.html Japan Football Hall of Fame] (1936年ベルリンオリンピック日本代表チーム)
- [http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2577 西邑昌一(上) 戦前の小兵の名手 関学と早大の名インサイド] - 賀川サッカーライブラリー
- [http://www.national-football-teams.com/player/50089/Shoichi_Nishimura.html National Football Teams]