1. 生涯
誠仁親王の生涯は、幼少期から親王宣下、織田信長との複雑な関係を通じた政治的活動、そして突然の死に至るまで、動乱の時代の中で皇族としての役割を模索し続けた軌跡であった。
1.1. 幼少期と親王宣下
誠仁親王は、天文21年5月16日(1552年旧暦4月23日)に誕生した。幼少期より皇族としての教育を受け、永禄11年12月15日(1568年)に親王宣下および元服を行った。当時の朝廷は深刻な財政難にあり、元服の費用が不足していたため、行事が度々延期されていたが、織田信長が費用を負担したことでようやく実現した。元服に際しては、菊亭晴季が別当に、甘露寺経元、庭田重通、山科言経、中山親綱、烏丸光宣らが家司に任じられた。正親町天皇には誠仁親王以外の男子が成人まで成長しなかったため、正式な立太子礼は行われなかったものの、同時代の史料には「春宮」や「東宮」、「太子」といった言葉で誠仁親王が言及されることもあり、非公式ながらも「皇太子」としての地位が認識されていた。
元服に先立つ永禄10年(1567年)11月には勧修寺晴子を上臈として迎えた。名目上は女房であったが、実質的には妃であり、彼女との間に13人の子を儲けている。
1.2. 政治的活動と織田信長との関係
天正年間に入ると、誠仁親王は朝廷に持ち込まれる様々な訴訟に深く関与するようになった。特に、絹衣相論や興福寺別当相論においては、その中心的な役割を担った。後者の興福寺別当相論では、織田信長が正親町天皇の意見が無視されたことに憤りを感じていることを知ると、親王は直ちに天皇に代わって信長に謝罪の書状を送るなど、その仲介役を務めた。また、石山合戦においては、信長と顕如との講和の仲介者として度々登場し、天正8年(1580年)に勅命講和によって最終的な解決が図られた際には、顕如に石山本願寺からの退去を説得する書状を送るなど、重要な役割を果たした。
天正7年(1579年)11月以降、誠仁親王は織田信長が献上した「二条新御所」と呼ばれる邸宅に居住するようになった。この邸宅は元々二条家のものであったが、信長が譲り受けて大規模な改造を施し、自身の居館としていたものを親王に与えたものである。これは後に徳川家康が築城した二条城とは別の建物である。二条新御所は、正親町天皇の居住する「上御所」に対して「下御所」と称され、禁裏(上御所)と同様に小番も整備されていた。正親町天皇も朝廷の意思決定に際しては、必ず誠仁親王に意見を求めるようになり、この邸宅はさながら「副朝廷」のような様相を呈した。奈良の興福寺の僧侶が記した日誌である「多聞院日記」や「蓮成院記録」では、誠仁親王を「王」や「主上」、「今上皇帝」などと呼ぶ例が見られ、当時の人々が親王を事実上の天皇(共同統治者)とみなしていたことがうかがえる。
正親町天皇は当時すでに高齢であり、誠仁親王もいつ即位してもおかしくない年齢であったが、譲位に伴う一連の儀式を朝廷が自力で執り行う経済力はなかった。また、後柏原天皇、後奈良天皇、そして正親町天皇自身のように、全国の戦国大名から広く寄付を募るという手法も、信長の覇権の下ではもはや用いられなかった。朝廷は譲位の実現を信長に働きかけざるを得ず、左大臣への推薦や三職推任といった破格の交換条件を提示して信長を動かそうとした。しかし、信長は明示的に拒絶こそしなかったものの、その死に至るまで譲位には消極的な態度をとり続けた。ただし、安土城には天皇の行幸を迎えるための「御幸の間」が設けられており、これは誠仁親王の即位を想定したものと推測されている。
本能寺の変の際、信長の嫡男である織田信忠は、自身の宿所であった妙覚寺を放棄し、軍事施設としてより優れていた二条新御所に立て籠もった。「イエズス会日本年報」によれば、明智光秀の軍勢が御所を包囲する中、誠仁親王は光秀に対して「自分も腹を切るべきか」と尋ねたという。これは、親王が自身を信長に擁立され、その存在を信長に依存していたと捉えており、信長が倒されればそれに殉じることもあり得るという立場を意識していたためである。幸いにも、信忠に同行していた村井貞勝の交渉により、誠仁親王とその妻子、そして宿直の公家たちは御所を脱出し、禁裏へと避難することができた。光秀は誠仁親王一行に紛れ込んで逃亡する者がいることを警戒し、馬や乗り物の使用を禁じたため、親王は徒歩での移動を強いられた。しかし、同行していた連歌師里村紹巴がどこからか粗末な荷運び用の輿を調達したため、誠仁親王だけは途中からそれに乗ることができたと伝えられている。
天正12年(1584年)1月には、三品に叙せられている。
1.3. 薨去
信長の後継者となった豊臣秀吉は、譲位して上皇となる正親町天皇のための「院御所」の建設に着手するなど、譲位に積極的な姿勢を示したが、誠仁親王は譲位を待たずに天正14年9月7日(1586年旧暦7月24日)に突然の死を遂げた。このあまりにも突然の死は当時の社会に大きな衝撃を与え、「秀吉が誠仁親王の側室と密通したことに抗議して自殺したのだ」あるいは「誠仁親王に代わって秀吉が天皇になるつもりだ」などといった様々な噂が流れた。また、誠仁親王の死は父である正親町天皇にも大きな衝撃を与え、数日間にわたって食事を摂ることができないほどであったとされ、世間には絶食のあまり餓死した、または誠仁親王の後を追って切腹したという噂まで広まるほどであった。
2. 人物像と文化的活動
誠仁親王は、学問的、芸術的才能に恵まれ、様々な文化的活動を行った。特に、和歌や雅楽、書道といった伝統文化に深く通じ、それらを自ら実践するとともに、大規模な行事を主催するなど、当時の宮廷文化の発展に貢献した。
2.1. 蹴鞠大会
天正3年(1575年)、誠仁親王は京都において大規模な蹴鞠大会を主催した。この大会は『信長公記』によれば、正規の儀礼に準じた非常に華やかなものであったと記録されている。織田信長もこの大会に参加しており、女官を通じて正親町天皇より盃を賜るという栄誉に浴した。
2.1.1. 見物者
- 正親町天皇
- 五摂家の人々
- 清華家の人々
- 織田信長とその馬廻り
- 別所長治
- 別所重宗
- 三好康長
- 武田元明
- 逸見昌経
- 粟屋勝久
- 熊谷直之
- 山県盛信
- 内藤重政
- 白井光胤
- 塩河長満
2.1.2. 蹴鞠の参加者
この大会では、以下の人物が蹴鞠に参加し、それぞれに指定された服装を着用していた。
- 1回目
- 誠仁親王
- 飛鳥井雅敦 - 玉虫色の水干、葛袴
- 勧修寺晴右 - 檜皮色の狩衣、指貫
- 高倉永相 - 紫色の水干、葛袴
- 飛鳥井雅教 - 紫色の水干、葛袴
- 五辻為仲
- 庭田重保 - 萌黄色の狩衣、葛袴
- 三条西実枝 - 白色の直衣、指貫
- 2回目
- 勧修寺晴豊 - 蜥蜴(とかげ)色の水干、葛袴
- 日野輝資 - 紫色の水干、葛袴
- 竹内長治 - 萌黄色の水干、葛袴
- 甘露寺経元 - 玉虫色の水干、葛袴
- 三条公宣 - 地模様付き紺色の水干、葛袴
- 三条西公明 - 萌黄色の水干、葛袴
- 飛鳥井雅敦
- 山科言経 - 紫色の水干、葛袴
- 3回目
- 薄以継 - 素襖
- 水無瀬親具 - 萌黄色の紋紗、葛袴
- 広橋兼勝 - 萌黄色の紋紗
- 五辻元仲 - 柳色の水干
- 万里小路充房 - 黄色地に緑青模様の水干、葛袴
- 庭田重通 - 紫色の水干、葛袴
- 高倉永孝 - 金紗の水干、葛袴
- 中院通勝 - 冠、束帯
- 4回目
- 誠仁親王
- 高倉永相
- 三条西実枝
- 五辻為仲
- 勧修寺晴右
- 烏丸光宣 - 紫色の紋紗、葛袴
- 飛鳥井雅敦
- 飛鳥井雅教
3. 没後の敬意と影響
誠仁親王は生前に皇位に就くことはなかったものの、その子孫が今日の皇室へと続く重要な血統となり、没後には特別に尊号が追贈されるなど、日本の皇室と歴史に大きな影響を与えた。
3.1. 追尊の経緯
誠仁親王の薨去後、その遺児である和仁親王が同年11月に祖父である正親町天皇の猶子とされて皇位を譲り受け、後陽成天皇として即位した。時期は明確ではないものの、後陽成天皇は早世した実父である誠仁親王に対し、「陽光院」と追号し、「太上天皇」の尊号を追贈した。生前に皇位に就くことがなかった親王に太上天皇の尊号が贈られたことは、後陽成天皇自身が「天皇の実子」としての立場を得るための重要な意義を持っていたとされる。
3.2. 皇室への影響
誠仁親王の直系子孫が、現代の日本の皇室の男系血統へと繋がっている。親王の五男である興意法親王は織田信長の猶子となり、六男である智仁親王は豊臣秀吉の猶子となっている。なお、誠仁親王自身が信長の猶子となったという説も存在するが、これは親王と興意法親王の双方が「五宮」と呼ばれていたことによる誤解であるとされている。しかし、正親町天皇の息子で成人したのは誠仁親王以外には知られておらず、そもそも誠仁親王が「五宮」と呼ばれたという事実自体、疑わしいとする見方もある。
3.3. 関連する論争と噂
親王の女房の一人であった典侍局は、天正10年(1582年)に誠仁親王のもとを去り、本願寺門主顕如光佐の次男である興正寺門主顕尊佐超と結婚した。この結婚を巡っては、縁談に積極的だった織田信長と、消極的だった誠仁親王との間で意見の対立があったとされる。この対立が、典侍局の実家である上冷泉家の当主で兄の冷泉為満、実兄で四条家を継いだ四条隆昌、そして姉婿の山科言経の3人が、天正13年(1585年)に勅勘を蒙った事件と関連があるのではないかという桐野作人の説がある。
4. 系譜
誠仁親王は正親町天皇の第一皇子として生まれ、皇室の重要な血統を担った。彼の祖先は歴代天皇に繋がり、妃との間には多数の王子女を儲けた。
4.1. 祖先
誠仁親王の祖先は以下の通りである。
世代 | 関係 | 氏名 |
---|---|---|
1 | 誠仁親王 | |
2 | 父 | 正親町天皇 |
2 | 母 | 万里小路房子 |
3 | 父方の祖父 | 後奈良天皇 |
3 | 父方の祖母 | 万里小路栄子 |
3 | 母方の祖父 | 万里小路秀房 |
4 | 父方の曾祖父 | 後柏原天皇 |
4 | 父方の曾祖母 | 勧修寺藤子 |
4 | 母方の曾祖父 | 万里小路賢房 |
5 | 父方の高祖父 | 後土御門天皇 |
5 | 父方の高祖母 | 庭田朝子 |
5 | 父方の高祖父 | 勧修寺教秀 |
5 | 父方の高祖母 | 飛鳥井雅永の娘 |
5 | 母方の高祖父 | 勧修寺教秀 |
4.2. 妃と王子女
誠仁親王の母は内大臣万里小路秀房の娘である准三宮万里小路房子である。
親王の妃や王子女は以下の通り。
- 女房:勧修寺晴子(新上東門院)(1553年 - 1620年) - 勧修寺晴右の娘
- 王女:永卲女王(1569年 - 1580年)
- 第一王子:和仁親王(後の後陽成天皇)(1571年12月31日 - 1617年9月25日)
- 第二王子:空性法親王(定輔)(1573年 - 1650年) - 四天王寺別当
- 第三王子:良恕法親王(勝輔)(1574年 - 1643年) - 天台座主
- 第四王子:某(1575年) - 夭逝
- 第五王子:興意法親王(邦慶)(1576年 - 1620年) - 織田信長の猶子
- 王女:某(1577年 - ?)
- 第六王子:智仁親王(初代 八条宮)(1579年2月3日 - 1629年5月29日) - 豊臣秀吉の猶子
- 王女:某(1580年 - ?)
- 王女:某(1581年 - 1584年)
- 王女:某(1583年 - ?)
- 王女:某(1585年 - ?)
- 王女:某(? - ?)
- 女房:典侍局(宝寿院祐心尼)(1565年 - 1616年3月9日) - 冷泉為益の娘。のち興正寺顕尊と婚姻
- 王女:某(安禅寺宮) - (? - 1579年) - 安禅寺
- 第三王女:心月女王(1580年 - 1590年) - 安禅寺
5. 陵墓
誠仁親王の墓所は、太上天皇を追尊されたことにより「陵」と称される。その陵(みささぎ)は、宮内庁によって京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は無方塔である。月輪陵では、親王の没後13周忌にあたる慶長3年8月21日から8月25日(1598年旧暦7月20日から旧暦7月24日)にかけて、仏教儀式が仙洞御殿の清涼殿で執り行われた。