1. 生い立ちと学歴
野澤正雄は広島県に生まれた。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)を卒業後、1925年に創設間もない広島高等学校 (旧制)(現広島大学総合科学部)に進学した。その後、東京帝国大学農学部へ進み、学業と並行してサッカー活動に励んだ。
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2. サッカー経歴
野澤正雄は、旧制高校時代から東京帝国大学時代、そして日本代表として、日本のサッカー黎明期において重要な役割を果たした。
2.1. 旧制高校時代
旧制広島高等学校に在学中、野澤はハーフバック(HB)としてチームの主将を務めた。東京帝国大学主催の旧制高校の全国大会である第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)では、1、2年生主体のチームをまとめ上げ、1926年に準優勝を果たした。さらに1928年の第5回大会ではチームを優勝に導いた。この大会では、野澤の幅広い動きと前線への的確なパス供給が、全4試合で合計25得点を挙げる原動力となった。ユニフォームの色から「広高の赤シャツ」と相手チームに恐れられ、決勝では若林竹雄らが所属する松山高等学校 (旧制)(現愛媛大学文理学部)を8対1で破った。この1928年のチームは、インターハイ史上最強のチームと評されている。
2.2. 東京帝国大学時代
東京帝国大学に進学後、野澤は東京大学ア式蹴球部でプレーを続けた。ここでは竹腰重丸、手島志郎、若林竹雄、高山忠雄らと共に活躍し、関東大学リーグの連覇に貢献し、東京大学ア式蹴球部の黄金期を築き上げた。また、野澤は若林と共に招かれ、湘南中学(現神奈川県立湘南高等学校)のサッカー部を指導した経験も持つ。
2.3. 日本代表歴
1930年、野澤はそれまでの単独チームによる代表とは異なり、日本蹴球協会が大々的な選考を経て初めて編成した全日本選抜(日本代表)に選出された。ここでもハーフバックとして、日本の国際大会初優勝に貢献した。
2.3.1. 1930年極東選手権大会
野澤は、1930年に東京で開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー競技に日本代表として参加した。この大会で、彼は2試合の国際Aマッチにフル出場した。
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- 1930年5月25日**:明治神宮外苑競技場(東京都)で行われたフィリピンとのデビュー戦に出場し、日本は7対2で勝利した。
- 1930年5月29日**:同じく明治神宮外苑競技場で行われた中華民国との試合にも出場し、試合は3対3の引き分けに終わった。
これらの試合は、鈴木重義が監督を務める下で行われた。野澤は、竹腰重丸、手島志郎、若林竹雄、竹内悌三らと共に、日本の国際大会における初の優勝に貢献した。
3. プレースタイル
野澤正雄は主にハーフバックとしてプレーした。当時のサッカー界において、彼の「幅広い動き」は随一と評されるほど際立っていた。また、前線の選手に対して「的確なパス」を供給する能力に長けており、攻撃の起点として重要な役割を担っていた。
4. 家族・親族
野澤正雄には、実弟である野澤晁と野澤信韶がいた。野澤信韶は松山高等学校 (旧制)を経て京都帝国大学でサッカーを続けた。野澤正雄、野澤晁、野澤信韶の3兄弟全員が国際大会の代表として出場したという記録は、日本のサッカー史上他に類を見ないユニークな事例として特筆される。
5. 記録
野澤正雄の日本代表としての主な記録は以下の通りである。
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1930 | 2 | 0 |
合計 | 2 | 0 |
6. その後の経歴
サッカー選手としての活動以降の野澤正雄の経歴に関する詳細は、現在のところ不明である。
7. 死去
野澤正雄は1994年11月18日に死去した。享年88歳。
8. 後世の評価
野澤正雄は、日本のサッカー黎明期において、旧制高校および大学サッカーで顕著な成績を収め、日本代表の国際大会初優勝に貢献した選手として評価されている。特に、彼と実弟の野澤晁、野澤信韶の3兄弟が揃って国際大会の日本代表として出場したという事実は、他に例のない稀有な記録として、後世に語り継がれるべき功績である。