1. 生涯
金永棹は、1924年10月18日に平安北道定州郡(現在の定州市)で生まれ、2023年10月21日に99歳でその生涯を終えた。彼の人生は、学問、軍務、教育、政治、そして特に山岳活動という多様な分野にわたる顕著な業績に彩られている。
1.1. 幼少期と教育
金永棹は、日本統治時代の平安北道定州郡に生まれた後、5歳の時に平壌へ移住した。幼少期より読書に親しみ、特に大島亮吉の著作を通じて登山への深い興味を抱くようになった。彼は、この興味をさらに深めるため、積極的に英語、日本語、ドイツ語で書かれた登山関連の書籍を読み漁った。学業面では、平壌高等普通学校を卒業後、ソウル大学校文理科大学哲学科に進学し、哲学の専門教育を受けた。
1.2. 兵役と初期の職歴
朝鮮戦争が勃発すると、金永棹は学徒志願兵として陸軍に入隊し、通訳士官として従軍した。1955年には大尉の階級で予備役に編入され、軍務を終えた。その後、1956年から1963年までの間、城東高等学校で教員を務め、さらに陸軍士官学校では哲学の教授として教鞭を執り、初期の職業活動において教育者としての道を歩んだ。
2. 政治家としての活動
金永棹は、教育者としてのキャリアを経て、政治の舞台へと足を踏み入れた。
2.1. 政治への参入と党内での役割
1963年、金永棹は民主共和党に入党し、本格的に政界に進出した。彼は党内で宣伝部長、企画調整室長、事務次長などの要職を歴任し、党の政策立案や広報活動において重要な役割を果たした。これらの職務を通じて、彼は政治的経験と実務能力を培っていった。
2.2. 第9代国会議員としての活動
1973年から1979年までの6年間、金永棹は維新政友会所属の第9代国会議員(統一主体国民会議による指名)として活動した。この時期は、朴正煕大統領の下で「維新体制」が敷かれていた時代であり、維新政友会は体制を支える役割を担った。国会においては、立法活動や政策立案に携わり、様々な議案審議に参加した。彼の議員としての活動は、この時代の政治状況の中で行われた。
3. 登山家・探検家としての活動
金永棹は、韓国における山岳活動の先駆者の一人であり、その貢献は多岐にわたる。彼は、韓国の山岳インフラ整備に尽力し、複数の重要な探検隊を率いた。
3.1. 山岳インフラ整備と山岳団体への貢献
1970年から1971年にかけて、金永棹は韓国全土の主要な山々に34か所の山小屋建設を主導し、登山環境の改善に大きく貢献した。これは、登山者の安全確保と利便性向上に不可欠な基盤整備であった。
また、大韓山岳連盟の発展にも深く関与した。1971年にはヒマラヤ山脈のローツェ・シャール峰遠征隊の費用を支援し、韓国の高所登山活動を後押しした。その功績が認められ、1971年から1976年まで大韓山岳連盟副会長を務め、1976年10月からは第7代会長に就任し、1980年12月までその職を務めた。会長在任中、彼は連盟の組織力強化と山岳活動の普及に尽力した。
3.2. 主要な探検活動
金永棹は、隊長として、韓国山岳史における二つの画期的な探検活動を率いた。
3.2.1. 1977年エベレスト遠征隊
1977年、金永棹はエベレスト遠征隊の隊長として、韓国登山界の長年の夢であったエベレスト登頂に挑んだ。彼の指揮の下、遠征隊は綿密な準備を進め、隊員18人を率いて厳しい自然条件と対峙した。そして1977年9月15日、隊員の高相敦が韓国人として初めてエベレスト登頂に成功した。この歴史的偉業により、韓国は世界で8番目にエベレスト登頂者を輩出した国となり、韓国山岳史に金字塔を打ち立てた。この成功は、韓国国民に大きな感動と誇りをもたらし、国内の登山ブームを加速させるきっかけとなった。
3.2.2. 1978年北極探検隊
1978年には、金永棹は韓国初となる北極探検隊の隊長を務めた。この遠征では、韓国人として初めてグリーンランドの探検を行い、北極圏内である北緯80度2分7秒に到達するという画期的な成果を上げた。この探検は、極地探検における韓国の可能性を示し、その後の科学的探査や探検活動に道を開いた。
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3.3. 韓国登山研究所所長
1982年からは、金永棹は韓国登山研究所の所長を務めた。同研究所では、山岳に関する研究・教育活動を主導し、登山技術の科学的分析や安全対策の研究、次世代の登山家育成のための教育プログラム開発に貢献した。彼のリーダーシップの下、韓国登山研究所は山岳界の知識と技術の向上に寄与した。
4. 著作と翻訳
金永棹は、自らの山岳経験と哲学を綴った著作を多数発表し、また著名な登山家の著書を翻訳することで、韓国の山岳文化の発展に貢献した。
4.1. 主要著作
彼の主要な著作としては、登山に関する思索を深めた随筆集『私たちは山に登っているのか』(우리는 산에 오르고 있는가)、『山の思想』(산의 사상)、そして『私のエベレスト』(나의 에베레스트)などがある。これらの作品を通じて、彼は単なる登山の記録に留まらず、山が人間に与える精神的な影響や、現代社会における山の意味について独自の思想を展開した。
4.2. 翻訳活動
金永棹は、海外の著名な登山家の著書を韓国語に翻訳する活動も積極的に行った。彼が手掛けた翻訳書には、ラインホルト・メスナー、イヴォン・シュイナード、エドワード・ウィンパー、ジョン・ハントといった世界的に知られた登山家たちの作品が含まれる。これらの翻訳は、韓国の登山愛好家が世界の最先端の登山思想や技術に触れる機会を提供し、韓国山岳文化の国際化に大きく貢献した。
5. 人物
金永棹は、1924年10月18日に生まれ、本貫は金海金氏である。彼はキリスト教徒であった。
6. 受賞と栄誉
金永棹は、その長年にわたる功績に対し、数々の賞と栄誉を受けた。
2012年には、大韓山岳連盟創立50周年を記念して選定された「大韓山岳連盟を輝かせた50人」の一人に選出された。
2023年には、「蔚山蔚州世界山岳映画祭」で特別功労賞を受賞した。この授賞式は、彼の死去の前日である10月20日に開催されたが、本人は参加できず、彼の息子が代理で賞を受け取った。
7. 死去
金永棹は2023年10月21日、京畿道議政府市の自宅にて、老衰のため死去した。享年99歳であった。彼の訃報は、韓国社会、特に山岳界に深い哀悼の意をもたらした。
8. 評価と影響
金永棹は、登山家、政治家、探検家、教育者、文筆家として、韓国社会と歴史に多大な影響を与えた人物である。
登山家としては、韓国山岳界の近代化と国際的な地位向上に決定的な役割を果たした。特に、韓国人初のエベレスト登頂を指揮した功績は、国民に大きな誇りと希望を与え、国内の登山ブームを牽引した。また、山岳インフラの整備や大韓山岳連盟の会長としての活動は、アマチュア登山家を含む幅広い層が安全かつ持続的に山岳活動を楽しめる環境を築く上で不可欠であった。
政治家としては、維新体制下の国会議員として活動したが、彼の山岳界における貢献は、体制を超えた国民的功績として広く認められている。教育者としての役割も重要であり、若者たちの育成を通じて社会に貢献した。
彼の著作や翻訳活動は、国内外の山岳思想や哲学を韓国に紹介し、韓国における山岳文化の奥行きを深めた。金永棹の生涯は、探求心と挑戦の精神に満ちており、その多角的な活動は、現代社会においてもなお、多くの人々に影響を与え続けている。彼の功績は、単なる個人としての偉業に留まらず、韓国社会全体の進歩と発展に寄与したと言える。