1. 生涯
金達鉉は、激動の時代に独立運動と社会活動に身を投じ、朝鮮の解放後は北朝鮮の初期政治体制において重要な役割を担いましたが、その生涯は悲劇的な結末を迎えました。
1.1. 出生と幼少期
金達鉉は、1884年7月24日に朝鮮の咸鏡南道で生まれました。出生地については、高原郡(コウォン)とする資料と、慶源郡(キョンウォン)東山里(ドンサンリ)とする資料が存在します。
1.2. 学歴と宗教活動
彼は1903年または1907年7月1日のいずれかに、天道教徒の李基完(イ・ギワン)の推薦を受けて天道教に入教しました。また、1931年4月には宝城専門学校を卒業しています。
2. 独立運動と社会活動
日帝強占期において、金達鉉は朝鮮の独立と社会変革を目指す運動に積極的に参加しました。
2.1. 三・一運動への参加
1919年に発生した三・一運動では、慶源郡地域における民族独立運動のデモを主導し、この活動が原因で逮捕されました。
2.2. 初期社会運動団体での活動
1922年1月、彼は尹徳炳(ユン・ドクビョン)、金翰(キム・ハン)、申伯雨(シン・ベクウ)、元友観(ウォン・ウグァン)、李赫魯(イ・ヒョクロ)、白光欽(ペク・グァンフム)ら19人の名義で無産者同志会を発足させ、これは朝鮮における無産者解放運動団体の先駆けとなりました。同年3月には、李英(イ・ヨン)、辛日鎔(シン・イルヨン)らの新人同盟会と合同し、無産者同盟会を発足させました。彼は天道教の教会で講演会を主催するなど、活発な活動を展開しました。1932年からは天道教青年党の幹部を歴任しました。
3. 北朝鮮での政治活動
朝鮮光復後、金達鉉は北朝鮮の政権樹立過程において、複数の主要な役職を歴任しました。
3.1. 天道教青友党での活動
1946年2月には北朝鮮天道教青友党の委員長に就任し、1948年4月の同党第2回党大会で再び委員長に再選されました。当時、地方の道・市・郡人民委員会の副委員長に天道教青友党員が任命されるなど、ある程度の連立政権が形成されました。しかし、朝鮮労働党が政治プロセスに対する支配を強化するにつれて、この短期間の連立は急速に崩壊しました。
3.2. 最高人民会議での活動
1947年2月には最高人民会議常任委員会副委員長に就任し、1948年には最高人民会議第1期代議員および副議長を務めました。朝鮮戦争中の1951年に最高人民会議常任委員会委員長の許憲(ホ・ホン)が死去すると、その葬儀委員会の委員を務め、その後任として最高人民会議の議長代行に任命されました。1953年1月には、彼の側近であり天道教青友党の主要幹部であった金宗柱(キム・ジョンジュ)の葬儀奉仕委員会の委員を務めました。1953年12月22日、最高人民会議第1期第6回会議において、議長職を李永(リ・ヨン)に譲り、副議長からも解任され、内閣の無任所相に異動となりました。1957年には最高人民会議第2期代議員に再選され、内閣の無任所相の地位を維持しました。
3.3. 祖国統一民主戦線での活動
1949年6月には祖国統一民主主義戦線の議長に就任しました。
3.4. 無任所相としての活動
内閣の無任所相として、彼は北朝鮮体制の「傀儡」として様々な集会に参加しました。
4. 粛清と死
金達鉉は、1958年12月にスパイ容疑で粛清され、その生涯を終えました。朝鮮戦争勃発後、北朝鮮の指導部は江界へと後退し、中国人民志願軍の参戦により1951年には平壌に戻るなど、混乱の時期を経験しました。このような状況下で、彼は体制内の権力闘争に巻き込まれ、最終的に排除されたと考えられています。
5. 評価
金達鉉は、日本の植民地支配下で朝鮮の独立を目指した独立運動家として重要な役割を果たしました。特に三・一運動への参加や、朝鮮における初期の無産者運動団体の設立に尽力したことは、彼の社会変革への強い意志を示すものです。
しかし、解放後に北朝鮮の政治体制に組み込まれ、天道教青友党の指導者として活動する一方で、朝鮮労働党の支配が強まる中でその影響力を失っていきました。最終的に「傀儡」と評される立場に置かれ、スパイ容疑で粛清されたことは、朝鮮民主主義人民共和国における個人崇拝と独裁政治の強化、そして思想統制の厳しさを示す一例として、批判的に評価されるべきです。彼の生涯は、激動の近代朝鮮史において、独立への情熱と、その後の権力構造の中で翻弄された個人の悲劇を象徴しています。