1. 生涯と背景
鈴木弘は愛知県岡崎市で生まれ、幼少期に水泳を始め、学生時代には地元のプールで練習に励み、日本大学へ進学した。
1.1. 幼少期と水泳の始まり
鈴木弘は1933年(昭和8年)9月18日に愛知県岡崎市元能見町で生まれた。水泳を始めた原点は、友人と共に乙川の別称である大平川で泳いだ経験にある。遊びであっても夢中になって泳ぎを磨いたという。
1.2. 教育と初期のキャリア
高校時代には、1936年(昭和11年)に岡崎市連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に建設された市内初のプールで練習に励んだ。このプールは長さ25 m、幅9 mであった。

愛知県立岡崎北高等学校在学中の1950年(昭和25年)8月には、東西対抗高校水泳大会の100メートル自由形で3位を記録した。同年9月には、第5回国民体育大会の100メートル自由形でも3位(1分2秒2)を記録している。
日本大学第三高等学校水泳部の熱心な勧誘を受け、1951年(昭和26年)3月に同校へ転校した。その後、1956年(昭和31年)に日本大学経済学部を卒業した。
2. 水泳選手としてのキャリア
鈴木弘は、オリンピックやアジア競技大会において輝かしい成果を残した。

2.1. オリンピックへの出場
鈴木は1952年の1952年ヘルシンキオリンピックに日本代表として出場し、2つの銀メダルを獲得した。
男子100メートル自由形では、アメリカ合衆国のクラーク・スコールズClarke Scholesクラーク・スコールズ英語と全くの同タイムを記録したが、審判員の判定によりスコールズが金メダル、鈴木が銀メダルとなった。また、男子4×200メートル自由形リレー(800メートル自由形リレー)でも銀メダルを獲得した。
1956年の1956年メルボルンオリンピックにも出場し、男子100メートル自由形では準決勝で5位となり、惜しくも決勝進出はならなかった。男子4×200メートル自由形リレーでは4位に入賞した。
2.2. アジア競技大会への出場
1954年にフィリピンのマニラで開催された1954年アジア競技大会では、男子100メートル自由形において、日本の谷川禎次郎やシンガポールのネオ・チウィ・コック네오 치위콕ネオ・チウィ・コック韓国語を抑えて金メダルを獲得した。さらに、男子4×200メートル自由形リレーでも金メダルを獲得し、アジアの舞台でその実力を示した。
3. 引退後の活動
選手引退後、鈴木弘は実業界に進出し、また故郷の地域社会にも貢献した。
3.1. 企業でのキャリア
競泳選手を引退した後、鈴木は日通商事Nittsu Shoji日通商事英語に入社し、専務の要職を務めた。
3.2. 地域社会での功績
出身地である岡崎市からは、その功績を称え「三州岡崎葵市民」の称号が贈られている。2008年の時点では、50年ぶりに故郷の岡崎市に戻ったと記されている。
4. 評価と影響
鈴木弘は、オリンピックで2つの銀メダル、アジア競技大会で2つの金メダルを獲得した、日本の競泳界における重要な選手の一人である。その活躍は、当時の日本のスポーツ界に大きな影響を与え、後進の選手たちに多大なインスピレーションを与えた。