1. 概要
徳川家光の長女である千代姫は、寛永14年(1637年)に江戸で生まれ、尾張藩第2代藩主徳川光友の正室となりました。幼少期に重病を患いながらも父家光の深い寵愛を受け、その命を繋ぎました。彼女は家光の異母弟である第4代将軍徳川家綱、甲府藩主徳川綱重、第5代将軍徳川綱吉の異母姉にあたります。後に霊仙院の法名を授けられ、元禄11年(1699年)に62歳で死去しました。
千代姫の血筋は、父家光の直系(女系)として現代にまで続く唯一のものであり、皇室や多くの大名家、公家、旧皇族と繋がりを持つなど、その歴史的意義は非常に大きいと言えます。また、彼女の婚礼調度品である「初音の調度」は国宝に指定されており、日本の美術史においても重要な遺産を残しています。
2. 生涯
千代姫は、江戸時代中期において重要な役割を果たした女性です。彼女の生涯は、将軍の娘として生まれた高貴な出自から、婚姻、子育て、そして文化財の建立に至るまで多岐にわたります。
2.1. 生誕と幼少期
千代姫は寛永14年閏3月5日(1637年4月29日)に江戸で誕生しました。実母は江戸幕府第3代将軍徳川家光の側室である於振之方(おかた、自証院)で、岡重政の娘にあたります。於振之方は寛永17年(1640年)に亡くなりましたが、その後千代姫は家光のもう一人の側室で、後に慶昇院として知られるお万の方(1624年 - 1711年)の養女となりました。
同年7月16日には宮参りが行われ、天台宗の僧である天海によって「千代姫」と命名されました。
千代姫は家光の長女であり、彼のお気に入りの娘とされていました。幼い頃には重病を患い、特に正保2年(1645年)12月11日には水痘、正保3年(1646年)5月には麻疹にかかりましたが、同年6月には回復しました。父家光は、上野国満徳寺の庇護者として深く関わっており、千代姫の病気平癒のために満徳寺の住職である春暢に加持祈祷を行わせました。千代姫が回復した後、春暢や他の尼僧たちは将軍家の女性たちの間で大きな人気を得ました。
2.2. 縁組と婚姻
千代姫と尾張藩第2代藩主徳川光友の縁組は、千代姫がわずか2歳であった寛永15年2月20日(1638年4月3日)に決定されました。翌寛永16年9月21日(1639年10月17日)、千代姫は尾張藩の市谷藩邸へと輿入れし、光友と正式に婚姻しました。この時、千代姫は2歳6か月、光友は14歳でした。
この婚姻の時期については、資料によって異説が存在します。例えば、『徳川諸家系譜』所収の「徳川幕府家譜」では、寛永16年9月21日に光友と縁組し、正保2年(1645年)に輿入れ、正保4年12月29日(1647年1月24日)に婚姻したと記されています。
2.3. 子息と晩年
千代姫は光友との間に4人の実子をもうけました。
- 長男:徳川綱誠(つななり) - 承応元年8月2日(1652年9月4日)生。後の尾張藩主。
- 長女:豊姫(とよひめ) - 明暦元年5月19日(1655年6月23日)生。早世。
- 次男:松平義行(よしゆき) - 明暦2年11月9日(1656年12月4日)生。後の高須藩主。
- 次女:直姫(なおひめ) - 万治元年6月1日(1658年7月1日)生。早世。
また、光友の側室所生の子である松平義昌(よしなお、陸奥国梁川藩主)と松平友著(ともあき、川田窪松平家当主)は、千代姫の養子となっています。
慶安4年(1651年)に父家光が死去した際、千代姫は家光の遺言により、遺金2万両と茶壺を賜りました。
承応元年(1652年)には、亡き実母於振之方(自証院)のために自証院霊屋を建立しました。この霊屋は現在、江戸東京たてもの園に移築され保存されています。
2.4. 最期
千代姫は元禄11年12月10日(1699年1月10日)に江戸の市ヶ谷屋敷で死去しました。享年62歳。彼女の葬儀は増上寺で行われ、同寺に埋葬されました。法名は霊仙院長誉慈光松月大姉とされていますが、「徳川幕府家譜」では「霊仙院殿長誉松月慈光大姉」と記載されており、若干の違いが見られます。
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3. 家族関係
千代姫の家族関係は、彼女が高貴な血筋と婚姻を通じて、日本の歴史においていかに重要な位置を占めていたかを物語っています。特に、彼女の血筋は徳川将軍家の存続に不可欠なものでした。
3.1. 直系家族
千代姫の直系家族は以下の通りです。
- 実父:徳川家光(江戸幕府第3代将軍)
- 実母:於振之方(岡氏、自証院)
- 養母:お万の方(後に慶昇院または永光院)
- 夫:徳川光友(尾張藩第2代藩主)
- 実子:
- 徳川綱誠
- 豊姫
- 松平義行
- 直姫
- 養子:
- 松平義昌
- 松平友著
3.2. 血筋と歴史的意義
千代姫は、徳川家光の長女であり、彼女の異母弟である第4代将軍徳川家綱、甲府藩主徳川綱重、第5代将軍徳川綱吉のいずれの血筋も断絶しているため、家光の血筋で現在にまで伝わるのは、この女系の千代姫の血筋のみです。
この血筋は、日本の皇室にも繋がっており、第126代天皇徳仁は千代姫の女系子孫にあたります。その系譜は、千代姫-徳川綱誠-徳川吉通-信受院(三千君)-二条宗基-二条治孝-九条尚忠-九条道孝-貞明皇后(節子、大正天皇皇后)-昭和天皇-上皇明仁-天皇徳仁と続きます。
また、多くの大名家や公家、さらには旧皇族とも千代姫の血筋を通じて繋がっています。
千代姫は、関ヶ原の戦いで徳川家康と覇権を争った石田三成とも遠い血縁関係にあります。系譜をたどると、石田三成-小石殿(岡重政室)-岡吉右衛門-於振之方(自証院)-千代姫となり、家康が千代姫の曽祖父にあたるのに対し、三成は高祖父にあたるという、歴史の皮肉とも言える繋がりが存在します。
4. 文化財と遺産
千代姫の生涯は、重要な文化財や建築の遺産としても後世に伝えられています。
4.1. 婚礼調度品「初音の調度」
千代姫が尾張藩主徳川光友に輿入れする際に使用された婚礼調度品は、「初音の調度」として知られ、徳川美術館に所蔵されています。この調度品と関連文書類は、平成8年(1996年)に国宝に指定されました。
「初音の調度」は、『源氏物語』「初音」の帖から取材した蒔絵で飾られており、その芸術的価値は極めて高いと評価されています。製作にあたったのは、幕府お抱えの蒔絵師である幸阿弥派の幸阿弥長重です。千代姫が誕生した寛永14年(1637年)から発注を受け、完成までに2年以上の月日を費やしたと伝えられています。調度のデザインについては、岩佐又兵衛が家光に呼び寄せられて担当したという説がありますが、これは現代の研究では疑問視されています。
4.2. 自証院霊屋
千代姫は承応元年(1652年)に、亡き実母於振之方(自証院)のために自証院霊屋を建立しました。この霊屋は、江戸時代初期の建築様式を示す貴重な遺構として知られています。当初は江戸に建てられましたが、現在は東京都小金井市にある江戸東京たてもの園に移築され、保存・公開されています。
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5. 家臣
千代姫には、彼女の身辺を支える多くの家臣がいました。
『史料綜覧』には、光友に嫁ぐ以前から千代姫付きの家臣として大橋親善の名が記されています。大橋は、千代姫の結婚直前の寛永16年9月18日(1639年10月14日)に幕府から1000石を加増され、合計で2120石余の知行を与えられました。この加増は、千代姫が尾張藩に嫁ぐことへの幕府からの配慮、あるいは彼女の家臣に対する処遇の一環と考えられます。