1. 概要
霍光(霍光かくこう中国語、? - 紀元前68年)は、前漢中期の政治家であり、武帝の死後、幼帝である昭帝の摂政として国政を主導し、その後の宣帝時代にも実質的な権力者として漢王朝の安定に大きく貢献した。彼は、名将霍去病の異母弟にあたり、武帝の皇后衛子夫の甥という血縁関係から官界に進出した。武帝の遺言により金日磾、上官桀らと共に幼い昭帝の補佐を任され、その中でも最も強い権力を握り、国政を統括した。
霍光の統治は、国家の安定と経済の回復に寄与し、「昭宣中興」と呼ばれる繁栄期を築き上げた功績は大きい。特に、昭帝の急死後、不適格と判断した昌邑王劉賀をわずか27日で廃位し、代わりに有能な宣帝を擁立したことは、中国史上前例のない決断として高く評価されている。しかし、その一方で、権力を独占し、一族を要職に就けるなど専横的な側面も持ち合わせていた。彼の死後、その権勢を笠に着た霍氏一族の傲慢な振る舞いや、宣帝の皇后毒殺未遂事件、さらには帝位簒奪を企む陰謀が発覚し、最終的に宣帝によって一族が粛清され滅亡するという悲劇的な結末を迎えた。霍光の生涯は、国家の安定に尽力した功績と、権力者の家族がもたらす弊害という二面性を示している。
2. 生涯と背景
霍光の生涯は、その血縁関係と初期のキャリアが、後の政治的台頭の基盤となった。
2.1. 出生と家族関係
霍光の正確な出生年は不明であるが、兄である霍去病が紀元前141年に生まれたことから、紀元前130年代に生まれたと推測される。彼は河東郡平陽県(現在の山西省臨汾市平陽県)の出身である。父は霍仲孺かくちゅうじゅ中国語。霍光には異母兄の霍去病がおり、霍去病は霍仲孺が平陽侯曹寿の妾であった衛少児(衛子夫皇后の異母姉)との間に生まれた子である。霍去病が紀元前121年に匈奴討伐の遠征中に平陽県で父の霍仲孺と再会した際、霍光は初めて異母兄と対面した。この時、霍去病は霍光を長安に連れて帰り、漢の武帝に推薦した。霍光の母方の祖母は武帝の皇后である衛子夫であり、霍光は衛子夫の甥にあたる名将霍去病の異母弟という、当時の漢王朝の有力な外戚である衛氏一族と深い血縁関係を持っていた。
2.2. 初期キャリア
霍光の官界における初期のキャリアに関する詳細はあまり記録されていないが、兄霍去病の推薦により、10歳前後で郎官(郎君)、曹官、侍中といった職に就いたとされる。霍去病が紀元前117年に死去した後も、霍光は武帝の信任を受け続け、奉車都尉や光禄大夫といった高位の官職を歴任した。これらの職を通じて、彼は武帝の側近として宮廷での経験を積み、政治的影響力を徐々に高めていった。
3. 武帝時代における活動
霍光は、漢の武帝の治世末期にその政治的才能を認められ、次代の皇帝を補佐する重責を担うことになった。
武帝の晩年、皇太子劉拠が紀元前91年の巫蠱の禍で失脚した後、武帝は幼い末子である劉弗陵(後の漢昭帝)を皇太子に指名した。この際、武帝は劉弗陵の若さを考慮し、彼を補佐するに足る人物として霍光を選んだ。
紀元前89年、武帝の寵臣であった中僕射の何羅が反乱を企てた際、霍光は金日磾、上官桀らと共にこの陰謀を鎮圧することに貢献した。この功績により、彼らは列侯に封じられ、霍光は博陸侯となった。
紀元前87年、武帝が病に倒れると、彼は霍光を大司馬大将軍に任命し、金日磾、上官桀、桑弘羊の三人と共に、当時8歳であった幼い皇太子劉弗陵の補佐を託した。この中で、霍光は実質的に国政の最高責任者としての権限を与えられ、「秉政へいせい中国語」と呼ばれる絶大な権力を掌握した。武帝の死後、劉弗陵が昭帝として即位すると、霍光は遺詔に基づき、摂政として漢王朝の国政を担うことになった。
4. 昭帝時代の摂政と権力掌握
武帝の死後、霍光は幼い昭帝の摂政として国政を担い、その過程で自身の権力を確立・強化していった。
4.1. 摂政への任命と権力確立
紀元前87年、武帝が崩御すると、その遺詔により霍光は金日磾、上官桀、桑弘羊と共に幼い昭帝の補佐を命じられた。この四人の中でも、霍光は武帝から最も信頼され、大司馬大将軍の職を与えられ、実質的に国政の最高責任者として「秉政」の権限を掌握した。昭帝はまだ8歳と幼く、自ら政務を執ることができなかったため、霍光が朝廷の全ての実権を握り、国の運営を指揮した。彼は自らの地位を固めるため、家族や忠実な部下を要職に配置し、権力基盤を強化していった。この時期、昭帝は霍光の助言をほぼ全面的に受け入れ、霍光は終生にわたり昭帝の主要な助言者であり政治的指導者であり続けた。
4.2. 金日磾、上官桀、桑弘羊との関係
霍光は摂政として、金日磾、上官桀、桑弘羊と共に国政を担ったが、彼らとの関係は協力から対立へと変遷していった。
金日磾は匈奴出身の官僚で、穏健な性格から共同摂政間の調停役を務めたが、紀元前85年に死去した。彼の死後、上官桀は霍光の権力増大に嫉妬を抱くようになった。かつて霍光は上官桀の息子である上官安に自身の娘を嫁がせるなど、両家は友好的な関係にあった。しかし、上官桀は自らの権力強化を図るため、紀元前84年には当時5歳であった自身の孫娘(霍光の孫娘でもある)を11歳の昭帝の皇后として入内させ、紀元前83年には正式に皇后に立てた。これにより、上官氏の勢力は増大し、霍光との間に権力闘争が勃発した。
また、桑弘羊は武帝時代からの財政官僚であり、塩鉄専売などの財政政策を推進していたが、霍光とは財政政策や対外政策を巡って意見の対立があった。
4.3. 上官桀による謀反未遂事件
霍光と上官桀の間の対立は、紀元前80年に上官桀一派による謀反未遂事件として頂点に達した。上官桀は、昭帝の兄で帝位に就けなかったことを恨んでいた燕王劉旦、昭帝の姉で後見人を務めていた鄂邑公主、そして桑弘羊らと共謀し、霍光に対して反逆罪の虚偽の告発を行った。彼らは昭帝に対し、霍光が反乱を企てていると讒言したが、霍光を深く信頼していた昭帝はこれを取り合わなかった。
告発が失敗に終わると、共謀者たちはクーデターを計画した。彼らは兵を伏せて霍光を討ち、昭帝を廃位しようと企んだが、この陰謀は事前に発覚した。結果として、上官桀をはじめとするほとんどの共謀者は処刑され、燕王劉旦と鄂邑公主は自殺を強要された。上官桀の一族で生き残ったのは、霍光の娘を母とする皇后上官氏(上官皇后)のみであった。この事件により、霍光は政敵を排除し、国政における自身の絶対的な地位を確立した。
4.4. 娘の皇后冊立
霍光は、自身の権力基盤を固めるため、娘を昭帝の皇后に立てることに成功した。霍光の娘は、上官桀の息子である上官安に嫁ぎ、その間に生まれた娘(霍光の孫娘)が、紀元前84年に昭帝の皇后として入内した。彼女は当時5歳という幼さであったが、紀元前83年には正式に皇后に冊立された。この皇后は後に上官皇后として知られるようになる。この婚姻により、霍光は皇帝の外戚としての地位も獲得し、彼の権力はさらに強固なものとなった。
5. 昌邑王の廃位と宣帝の即位
昭帝の急死後、霍光は漢王朝の安定のため、大胆な帝位の廃立を行った。
紀元前74年6月、昭帝は21歳で嗣子なくして急逝した。霍光は、武帝の存命中の兄たちを調査したが、彼らが皇帝の器ではないと判断した。そこで、昭帝の甥にあたる昌邑王劉賀を新たな皇帝として擁立することを決定した。
しかし、劉賀は即位後わずか27日の間に、昭帝の喪中に不適切な行動を繰り返し、放蕩の限りを尽くした。記録によれば、劉賀は200人もの部下を長安に連れて入り、即位後も享楽にふけり、朝政を顧みず、昭帝の宮女と関係を持ち、皇太后の車を奴婢に与えるなど、宮廷の秩序を著しく乱した。わずか27日間で1127もの不適切な行為があったとされる。
これに対し、霍光は中国史上前例のない決断を下した。彼は上官皇太后(霍光の孫娘)の詔と称して、劉賀を皇帝の位から廃位し、元の昌邑王の領地へ追放した。この廃位は、漢王朝の安定を最優先する霍光の強い意志を示すものであった。
劉賀の廃位後、霍光は新たな皇帝の選定に乗り出した。別の高官である丙吉の助言もあり、霍光は武帝の曾孫である劉病已(劉詢、後の漢宣帝)を皇帝に擁立した。劉病已の祖父である劉拠は、かつて武帝の皇太子であったが、巫蠱の禍で失脚し命を落としていたため、劉病已の一族は皇室から除外されていた。しかし、霍光は彼の資質を見抜き、新たな皇帝として即位させた。これにより、漢王朝は再び安定を取り戻すことになった。
6. 宣帝時代の活動
宣帝が即位した後も、霍光は摂政として国政を主導し、皇帝と権力を分担しながら統治を行った。
6.1. 皇帝との権力分担
紀元前73年、宣帝が即位すると、霍光は自身の権限を皇帝に返上しようと申し出た。しかし、宣帝はこれを辞退し、全ての重要な政務はまず霍光に報告され、その後霍光が皇帝に上奏するという体制を維持するよう命じた。これにより、霍光は宣帝即位後も実質的な権力者として国政を運営し続けた。宣帝は霍光に対し表面上は深い敬意を払っていたが、内心では霍光の絶大な権力を「背中に刺さった芒(とげ)」のように恐れていたと記録されている。
霍光は自身の息子である霍禹かくう中国語や、霍去病の孫にあたる甥の霍雲かくいん中国語と霍山かくざん中国語を要職に就けた。また、娘婿の范明友はんめいゆう中国語や鄧廣漢とうこうかん中国語も高位の軍司令官に任命されるなど、霍氏一族は引き続き朝廷で重要な地位を占めた。この数年間、霍光と宣帝は事実上、帝国の権力を分担する形で統治を行った。
6.2. 霍氏一族の行動
霍光の死後、霍氏一族の傲慢な行動が目立つようになり、それが彼らの没落を招く大きな要因となった。
紀元前71年、霍光の妻である顕夫人けんふじん中国語は、自身の娘である霍成君を宣帝の皇后にしようと画策した。当時、宣帝の皇后は許平君であったが、顕夫人は許平君の主治医である淳于衍じゅんうえん中国語を買収し、彼女に毒を盛って殺害させた。許平君は妊娠中であり、毒により母子ともに命を落とした。宣帝は霍氏の絶大な権力を前に、この件を追及することができなかった。
紀元前70年4月、顕夫人の目論見通り、霍成君は宣帝の皇后に冊立された。これにより霍氏一族はさらなる権勢を誇るようになった。霍光の死後も、彼の息子、娘婿、甥たちは重要な官職に留まり、列侯に封じられた。霍氏一族は皇帝一家に匹敵するほどの贅沢な生活を送るようになり、その傲慢な振る舞いは宣帝の不満を募らせた。
7. 死と霍氏一族の没落
霍光の死は、彼が築き上げた権力構造の転換点となり、その後に続く霍氏一族の悲劇的な没落へと繋がった。
7.1. 霍光の死
紀元前68年4月、霍光は病に倒れ、死去した。享年63歳。宣帝と上官皇太后(霍光の孫娘)は、異例ともいえる自ら霍光の通夜に参列し、彼の死を深く悼んだ。宣帝は霍光の功績を称え、彼のために壮麗な陵墓を築かせた。霍光は宣成せんせい中国語と諡され、茂陵に手厚く葬られた。彼の死後も、息子である霍禹が博陸侯の爵位を継ぎ、霍去病の後継として甥の霍山が3000戸を領するなど、霍氏一族の主要なメンバーは引き続き重要な官職に留まり、その権勢は維持されているかに見えた。
7.2. 一族の傲慢と陰謀
霍光の死後、霍氏一族は彼の威勢を笠に着て、さらに傲慢な振る舞いが目立つようになった。彼らは皇帝一家に匹敵するほどの贅沢な生活を送り、その権勢を誇示した。宣帝は霍氏の傲慢さに不満を抱き、彼らの形式的な官位は維持させつつも、実権を徐々に剥奪し始めた。
紀元前67年5月、宣帝は亡き許平君皇后との間に生まれた息子である劉奭りゅうし中国語(後の漢元帝)を皇太子に冊立した。この決定は、霍光の妻である顕夫人の怒りを大いに買った。顕夫人は、自身の娘である霍成君(宣帝の皇后)に対し、皇太子を毒殺するよう命じた。皇后霍成君は何度か皇太子殺害を試みたが、いずれも失敗に終わった。この頃、宣帝は霍氏が許平君皇后を殺害したという噂を耳にするようになり、霍氏からさらに実権を奪うこととなった。
紀元前66年、顕夫人は息子や甥たちに対し、自身が許平君皇后を殺害した事実を明かした。皇帝が真相を知れば、霍氏一族が滅ぼされることを恐れた顕夫人、その息子、甥、娘婿たちは、宣帝を廃位する陰謀を企てた。彼らは、劉奭皇太子、丞相魏相ぎしょう中国語、許平君皇后の父である昌成君許広漢きょこうかん中国語を殺害し、霍山を新たな皇帝に擁立しようと計画した。
7.3. 霍氏一族の粛清
霍氏一族の陰謀は発覚し、宣帝によって徹底的な粛清が行われた。
紀元前66年7月、霍氏一族の陰謀が露見すると、宣帝は直ちに霍禹を逮捕して腰斬に処し、霍山と霍雲には自殺を命じた。顕夫人を含む霍氏一族の主要なメンバーは軒並み処刑され、その数は1000人以上に及んだ。霍光の娘である皇后霍成君も廃位され、昭台宮に幽閉された後、紀元前56年に自殺した。この事件により、霍氏一族は完全に滅亡した。
この粛清は、後世の歴史家から批判の対象となることもあった。例えば、司馬光は『資治通鑑』において、宣帝の霍光への恩義を忘れた行為として批判している。しかし、宣帝は霍氏一族を滅ぼした後も、霍光自身の功績は高く評価し続けた。紀元前51年には、宮殿の麒麟閣に自身の治世における11人の功臣の肖像画を飾らせた際、霍光の肖像画は他の10人の功臣とは異なり、唯一爵位と姓のみが記され、その名は記されなかった。これは、霍光への最大限の敬意を表すものであったとされる。
8. 歴史的評価と遺産
霍光という人物は、後世の歴史家や社会から多角的に評価されている。
8.1. 公績と肯定的な評価
霍光は、漢王朝の安定に大きく貢献した功績により、高く評価されている。彼は、武帝の死後、幼い昭帝の摂政として国政を主導し、国家を平穏に保った。特に、昭帝の急逝後、わずか27日で昌邑王劉賀を廃位し、代わりに有能な宣帝を擁立したことは、中国史上前例のない英断として称賛されている。この行動は、個人の権力欲ではなく、国家の利益を最優先した自己犠牲的な行為と見なされた。
霍光の統治下では、大赦の実施、対匈奴政策の緩和、有能な官僚の登用、農業の奨励、食糧備蓄の確保など、多くの革新的な政策が推進された。これにより、武帝時代の度重なる遠征で疲弊した国家経済は回復し、「昭宣中興」と呼ばれる漢王朝の繁栄期が到来した。この時期の国力は、漢文帝・漢景帝の時代に匹敵すると評価されている。
後世の歴史家たちは、霍光を殷の伊尹や周の周公旦、蜀漢の諸葛亮、明の張居正といった名宰相や摂政と比較し、その忠誠心、賢明さ、そして決断力を高く評価している。宣帝自身も、霍氏一族を粛清した後も霍光の功績を称え続け、紀元前51年には麒麟閣に描かせた11人の功臣の肖像画の筆頭に霍光を置き、その名ではなく爵位と姓のみを記すことで、彼への特別な敬意を表した。
8.2. 批判と論争
一方で、霍光の統治スタイルや一族の行動に対しては、批判的な視点も存在する。彼は国政を独裁的に運営し、自身の権力を強固にするために家族を要職に就けるなど、縁故主義の傾向が見られた。特に、彼の妻である顕夫人が宣帝の皇后許平君を毒殺し、自身の娘を皇后に立てた事件は、霍氏一族の傲慢さと権勢の濫用を示すものとして、霍光の生涯における大きな汚点とされている。
霍光自身は身を慎んだと評される一方で、彼がその絶大な権力をもって一族の暴走を抑制できなかった点は、多くの歴史家から批判されている。彼の死後、霍氏一族が権勢を笠に着て行った傲慢な振る舞いや、最終的に皇帝廃立を企てた陰謀は、霍光の統治の負の側面として語られる。司馬光は『資治通鑑』において、宣帝が霍光の恩義を忘れ、その一族を滅ぼしたことを批判しているが、これは霍光の功績に対する後世の評価の複雑さを物語っている。
また、中国史上では、霍光のように幼帝を補佐して権力を掌握し、時には皇帝を廃立する行為を「伊霍之事(伊霍の事)」と称することがある。しかし、この言葉は肯定的な意味で使われることもあれば、権力者が専横を振るうことへの批判的な意味で使われることもあり、その解釈は歴史を通じて論争の対象となってきた。例えば、王莽のように、霍光の例を真似て権力を掌握し、最終的に帝位を簒奪した者もおり、霍光の行動が後世の権臣たちに悪しき先例を与えたという批判もある。
8.3. 中国史への影響
霍光の行動や政策は、後世の中国史に多大な影響を与え、多くの政治的先例となった。彼の摂政としての成功は、幼帝を補佐する重臣が国家の危機を救い、安定をもたらすことができるという模範を示した。特に、不適格な皇帝を廃位し、新たな皇帝を擁立したという前例のない決断は、後世の権臣たちに大きな影響を与えた。彼らはしばしば、自身の行動を霍光のそれに擬えて正当化しようとした。
しかし、その一方で、霍光の独裁的な統治スタイルや、彼が抑制できなかった一族の暴走は、権力者が権勢を濫用し、最終的に一族の滅亡を招くという教訓も残した。後世の皇帝たちは、霍光の例から、功臣や外戚の権力拡大を警戒し、彼らを抑制する重要性を学んだ。
また、霍光の故事は中国だけでなく、周辺国の歴史にも影響を与えた。例えば、高麗末期には、李成桂(後の朝鮮太祖)が禑王を廃位する際に、『漢書』の「霍光伝」が引用され、霍光が昌邑王劉賀を廃位した故事が正当化の根拠として用いられた。ベトナムの陳朝時代には、Hồ Quý Ly胡季犛ベトナム語が権力を掌握した際、Trần Duệ Tông陳睿宗ベトナム語が霍光を含む「四輔」の肖像画を胡季犛に与え、忠誠を促したが、胡季犛は最終的に陳朝を簒奪している。これらの例は、霍光の人物像とその行動が、後世の政治的議論や権力闘争において、重要な参照点として機能したことを示している。
9. 私生活
霍光は公的な業績とは別に、いくつかの私生活に関する側面が知られている。彼は性格が沈着で、背が高く肌が白く、眉毛が薄く美しい髭を持つ美男子であったと『漢書』に記されている。
彼の妻は顕夫人けんふじん中国語と呼ばれる人物で、霍光は元々東閭氏と結婚していたが、東閭氏の死後、顕夫人が家事を司るようになった。顕夫人は霍光の死後、彼の奴隷頭であった馮子都ふうしと中国語と情熱的な関係を持ったとされている。
霍光には息子に霍禹がおり、娘は少なくとも7人いたとされる。長女は上官桀の息子である上官安に嫁ぎ、その間に生まれた娘が昭帝の皇后、後の上官皇太后となった。末娘は霍成君で、後に宣帝の皇后となった。
10. 霍光と日本の関白
霍光の存在は、日本の歴史、特に「関白」という役職名の由来に深く関わっている。
宣帝が即位した当初、彼は霍光に政権を委ねる詔を発した。この詔の中で用いられた文言「関(あずか)り白(もう)す」が、後に日本の実質的な宰相であった関白の名の由来になったとされている。これは、天皇に代わって政務を「関与し奏上する」という意味合いを持つ。
また、関白の異名として「博陸(はくろく)」という言葉が用いられることがあるが、これは霍光が博陸侯であったことに由来している。
日本の初代関白である藤原基経は、陽成天皇を廃位し、皇族の長老であった光孝天皇を擁立した。この基経の行動は、『神皇正統記』において、昌邑王劉賀を廃位して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えられ、その正当性が讃えられている。これは、日本の政治史においても、霍光の事例が権力者の模範、あるいは正当化の根拠として認識されていたことを示している。
11. 墓所と記念
霍光は紀元前68年に死去した後、漢の都長安近郊の茂陵に手厚く葬られた。彼の墓所は、現在の陝西省西安市に位置し、「霍光墓」として知られている。宣帝は霍光の功績を称え、異例の厚葬を行った。

後世においても、霍光は功臣として記憶され、記念されることがあった。紀元前51年に宣帝が麒麟閣に功臣の肖像画を飾ったことはその最たる例である。また、漢平帝の時代である紀元後2年には、霍光の功績を記念し、彼の弟の曾孫である霍陽かくよう中国語が博陸侯に封じられ、霍光の祭祀を司る役目を担った。
現代においても、霍光は中国史の重要な人物として認識されており、上海の城隍廟には彼の像が祀られている。