1. 初期生い立ちと背景
黄寅性は1926年1月9日、日本統治時代の全羅北道茂朱郡で生まれた。学歴としては、陸軍士官学校(4期)を卒業後、国防大学院、ソウル大学校行政大学院で修学した。さらに、米国陸軍参謀大学やピッツバーグ大学でも学び、専門知識を深めた。本貫は昌原黄氏である。
2. 軍歴
黄寅性は陸軍士官学校第4期生として軍人の道を歩み始めた。1958年には陸軍中央経理団団長を務め、翌1959年には陸軍経理学校校長に就任した。1960年には陸軍本部経理監を務め、軍の財政・経理部門で重要な役割を担った。1961年には初代調達庁長に就任し、1963年には国防部財政局長を務めた。1968年には少将の階級で予備役に編入され、軍人としての経歴を終えた。
3. 公職経歴
軍を退いた後、黄寅性は様々な行政・官僚職を歴任し、公職でのキャリアを築いた。
3.1. 主要官職歴
1961年に初代調達庁長を務めた後、1970年には無任所長官室補佐官に就任した。1973年には国務総理秘書室長を務め、同年10月23日から1978年12月25日まで官選の全羅北道知事として約5年間、地域の行政を統括した。
1978年12月22日には第24代交通部長官に就任し、1979年12月14日までこの職を務めた。その後、韓国観光公社社長を経て、1985年2月19日に第37代農水産部長官に就任し、1986年12月31日まで務めた。1987年1月1日に農水産部が農林水産部に改編されると、彼は初代農林水産部長官として1987年5月18日までその職を継続した。
4. 政歴
黄寅性は公職経験を背景に政界に進出し、国会議員として議政活動を行い、主要政党で要職を担った。
4.1. 国会議員としての活動
彼は第11代、第12代、第14代の国会議員を歴任した。
選挙年 | 選挙区分 | 議会代数 | 選挙区 | 所属政党 | 得票数 | 得票率 | 順位 | 当落 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | 総選挙 | 11代 | 全羅北道鎮安郡・茂朱郡・長水郡 | 民主正義党 | 49,690票 | 56.61% | 1位 | 当選 |
1985年 | 総選挙 | 12代 | 全国区 | 民主正義党 | 7,040,477票 | 35.2% | 全国区10番 | 当選 |
1992年 | 総選挙 | 14代 | 全羅北道鎮安郡・茂朱郡・長水郡 | 民主自由党 | 32,280票 | 51.05% | 1位 | 当選 |
国会議員在任中には、国会交通逓信委員長を務めるなど、専門分野での立法活動にも貢献した。
4.2. 政党活動
黄寅性は5・16軍事政変後、政界に転身し、民主正義党に迎え入れられた。民主正義党では全北道委員長を務め、党内での影響力を高めた。1992年の第14代総選挙では民主自由党に所属して当選し、1992年5月21日から1993年2月24日まで民主自由党の政策委員会議長を務めた。その後、新韓国党の常任顧問も務めた。
5. 国務総理(首相)在任期間
黄寅性は金泳三政権の初代国務総理に任命され、文民政府の船出を支える重要な役割を担った。

5.1. 在任と辞任
黄寅性は1993年2月25日に金泳三政権の初代国務総理に就任した。これは大韓民国における文民政府の始まりを告げるものであり、軍人出身でありながら文民政権の要職を担うこととなった。しかし、在任期間はわずか10ヶ月余りであった。
彼の辞任の背景には、ウルグアイ・ラウンドにおける農産物交渉、特に米市場開放問題が大きく影響している。当時、大韓民国は米市場の開放を巡って国内で激しい論争が巻き起こっており、農民団体を中心に強い反発があった。国務総理としてこの問題の責任を負う形となり、1993年12月16日に辞任した。この「米市場開放の波紋」は、彼の政治キャリアにおける最大の論争点となった。
6. 政界引退後と晩年
国務総理辞任後、黄寅性は政界の第一線から退き、財界や社会活動へとその活動の場を移した。
6.1. 企業顧問および社会活動
彼は財界に進出し、アシアナ航空社長を務めたほか、1996年には錦湖アシアナグループの常任顧問に就任し、企業の経営に携わった。
また、社会活動にも積極的に参加し、安重根義士崇慕会理事長を2002年から死去するまで務めた。2008年からは同会の名誉理事長も兼任した。安重根義士の精神を顕彰する活動は、大韓民国の歴史認識や国家のアイデンティティに関わる重要な社会的な議論につながるものであり、彼の晩年の活動はこのような歴史的・文化的側面での貢献が評価される。
7. 評価と影響
黄寅性の公職生活と政治活動は、大韓民国の近代史において多岐にわたる評価を受けている。
7.1. 批判と論争
彼の公職生活において最も大きな批判と論争の対象となったのは、国務総理在任中の米市場開放問題である。ウルグアイ・ラウンド交渉における米市場開放は、国内農業に壊滅的な影響を与えるとの懸念から、農民や市民社会からの強い反発を招いた。国務総理としてこの問題の責任を負って辞任したことは、彼が直面した政治的困難と、当時の大韓民国社会が抱えていた経済的・社会的問題を象徴する出来事であった。
また、彼は5・16軍事政変後に政界に転身し、民主正義党(全斗煥政権下の与党)に所属していた経歴がある。この点は、軍事政権との関連性という歴史的な評価において、批判的な視点から言及されることがある。しかし、金泳三文民政権の初代国務総理を務めたことは、軍人出身者が文民統制下の政府で重要な役割を担った例として、その後の大韓民国の民主化過程における過渡期的な側面を示すものとも解釈される。
8. 死去
黄寅性は2010年10月11日にソウル特別市で老衰のため死去した。享年84歳であった。