1. 概要
アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・メドベジ (Александр Васильевич Медведьロシア語、Аляксандр Васілевіч Мядзведзьアリャクサンドル・ヴァシレヴィチ・ミャズヴェズベラルーシ語、1937年9月16日 - 2024年9月2日) は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現在のウクライナ)出身のソビエト連邦およびベラルーシのフリースタイルレスリング選手、指導者、そしてスポーツ行政官である。そのロシア人としての血統を持つ彼は、世界レスリング連合(FILA)によって「史上最も偉大なレスリング選手の一人」と称えられた。1962年から1972年にかけて、彼はオリンピックで3つの金メダル、世界選手権で7つの金メダル、ヨーロッパ選手権で3つの金メダルを獲得し、その圧倒的な強さを示した。現役引退後はレスリングのコーチや審判として活動し、1980年モスクワオリンピックの開会式では審判宣誓を務めた。また、1972年ミュンヘンオリンピックではソビエト連邦の、2004年アテネオリンピックではベラルーシの旗手を務めるなど、スポーツ界における重要な役割を担った。ソビエト連邦の崩壊後は、独立したベラルーシでレスリング指導者として、またベラルーシオリンピック委員会の副会長やベラルーシレスリング連盟の会長として、スポーツ行政に貢献した。
2. 生涯と背景
アレクサンドル・メドベジの生涯は、彼の生まれ持った体格と、レスリングというスポーツへの情熱によって形作られた。
2.1. 出生と幼少期
アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・メドベジは、1937年9月16日にソビエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国、キーウ州、ビーラ・ツェールクヴァで生まれた。彼の民族的背景はロシア人である。メドベジの家族は皆、体格が大きく、祖父母はロシア出身で、祖母の身長は約195 cm、祖父はそれ以上に高かったという。メドベジ自身も身長190 cm、体重104 kg以上の巨体であり、その姓「メドベジ」(Медведьロシア語)がロシア語で「クマ」を意味することにふさわしい体格であった。この姓はベラルーシ語やウクライナ語でもわずかな違いで同様の意味を持つ。
2.2. 教育とレスリングへの入門
メドベジは1950年代後半にソビエト連邦軍で兵役を務めた。軍での経験は彼の規律と身体能力をさらに高めたと考えられる。レスリングを始めた具体的な経緯については詳細が少ないものの、彼の天賦の才と努力が、やがて彼を世界トップクラスの選手へと押し上げた。後に彼はベラルーシ国立情報無線電子大学で教鞭を執り、学術的な側面でも貢献した。
3. レスリングキャリア
アレクサンドル・メドベジのレスリングキャリアは、その圧倒的な強さと数々の栄光に彩られている。彼は1960年代から1970年代初頭にかけて、世界のフリースタイルレスリング界を席巻した。
3.1. 主要大会の受賞歴
メドベジは1962年から1972年までの間に、オリンピックで3つの金メダル、世界選手権で7つの金メダル、ヨーロッパ選手権で3つの金メダルという驚異的な記録を打ち立てた。彼の主要な受賞歴は以下の通りである。
| 大会 | 年 | 開催地 | 階級 | メダル |
|---|---|---|---|---|
| オリンピック | ||||
| 1964年東京オリンピック | 1964 | 東京 | 97 kg | 金 |
| 1968年メキシコシティーオリンピック | 1968 | メキシコシティ | 97 kg+ | 金 |
| 1972年ミュンヘンオリンピック | 1972 | ミュンヘン | 100 kg+ | 金 |
| 世界選手権 | ||||
| 1961年世界レスリング選手権大会 | 1961 | 横浜 | 87 kg+ | 銅 |
| 1962年世界レスリング選手権大会 | 1962 | トレド | 97 kg | 金 |
| 1963年世界レスリング選手権大会 | 1963 | ソフィア | 97 kg | 金 |
| 1965年世界レスリング選手権大会 | 1965 | マンチェスター | 97 kg | 銀 |
| 1966年世界レスリング選手権大会 | 1966 | トレド | 97 kg | 金 |
| 1967年世界レスリング選手権大会 | 1967 | ニューデリー | 97 kg+ | 金 |
| 1969年世界レスリング選手権大会 | 1969 | マル・デル・プラタ | 100 kg+ | 金 |
| 1970年世界レスリング選手権大会 | 1970 | エドモントン | 100 kg+ | 金 |
| 1971年世界レスリング選手権大会 | 1971 | ソフィア | 100 kg+ | 金 |
| ヨーロッパ選手権 | ||||
| 1966年ヨーロッパレスリング選手権大会 | 1966 | カールスルーエ | 97 kg+ | 金 |
| 1968年ヨーロッパレスリング選手権大会 | 1968 | ソフィア | 97 kg+ | 金 |
| 1972年ヨーロッパレスリング選手権大会 | 1972 | カトヴィツェ | 100 kg+ | 金 |
3.2. 主要なライバル関係
メドベジの選手生活において、最も注目すべきライバル関係の一つは、1967年から1972年にかけてのトルコ系ブルガリア人レスリング選手オスマン・デュラリエフとのものである。彼らは主要な国際選手権の決勝で8回対戦したが、メドベジは全ての試合で勝利を収め、その強さを示した。特に、1971年にソフィアで開催された世界選手権では、メドベジはデュラリエフに敗れる寸前まで追い込まれた。試合終了まで残り43秒の時点でデュラリエフが4対3でリードしていたが、メドベジは土壇場で同点に追いつき、体重がより軽かったためというルール上の利点によりタイトルを獲得した。この試合は、彼の卓越した技術だけでなく、精神的な強さと諦めない姿勢を象徴するエピソードとして語り継がれている。
4. 引退後の活動
1972年に競技生活から引退した後も、アレクサンドル・メドベジはレスリング界に深く関わり続け、指導者およびスポーツ行政官として多大な貢献をした。
4.1. コーチおよび指導者としての活動
競技から引退した1972年、メドベジはベラルーシに移住し、そこでナショナルチームのコーチとして活動を開始した。彼の豊富な経験と知識は、多くの若手選手の育成に役立った。また、彼はベラルーシ国立情報無線電子大学で教鞭を執り、スポーツ科学の分野でも貢献した。ソビエト連邦の崩壊後も、独立したベラルーシにおいてレスリング指導者としての活動を継続し、ベラルーシのレスリング界の発展に尽力した。
4.2. スポーツ行政およびその他の活動
メドベジは、コーチングの傍ら、スポーツ行政の分野でも重要な役割を担った。彼はベラルーシオリンピック委員会の副会長を務め、国内のスポーツ振興に貢献した。さらに、ベラルーシレスリング連盟の会長も務め、ベラルーシにおけるレスリングの普及と発展に指導的な役割を果たした。また、彼は1980年モスクワオリンピックの開会式において、オリンピック宣誓の審判宣誓を行うという栄誉ある役割を担い、その歴史的な瞬間に立ち会った。
5. 受賞歴と栄誉
アレクサンドル・メドベジは、その輝かしい功績により、国内外から数多くの賞と栄誉を受けている。
5.1. 国家勲章および表彰
ソビエト連邦時代、メドベジは国家から複数の高位勲章を授与された。
- レーニン勲章(1964年)
- 労働赤旗勲章(1970年)
- 名誉記章勲章(1964年、1969年、1985年)
5.2. 国際的な名誉と認知
彼の国際的な功績は、世界的な団体からも高く評価されている。
- 2001年には「20世紀最高のベラルーシ人アスリート」に選出され、その偉大さが改めて認識された。
- 2003年には、世界レスリング連合(FILA)の国際レスリング殿堂に、最初に殿堂入りした10人のうちの1人として名を連ねた。これは、彼がレスリング史上における不朽の存在であることを示すものである。
5.3. ミンスク名誉市民権および記念大会
メドベジは、引退後に居住したミンスクにおいて、その功績を称えられ名誉市民の称号を授与された。また、1970年代以降、彼の栄誉を称える年次レスリング大会がミンスクで開催されており、彼の名前はベラルーシのスポーツ史に深く刻まれている。

6. 私生活
アレクサンドル・メドベジの私生活については、公に知られている情報は限られているが、彼の家族は彼と同様にスポーツに深い関わりを持っていた。
6.1. 家族関係
メドベジはタチアナと結婚し、娘のエレナと息子のアレクセイをもうけた。娘のエレナはベラルーシのテニスチャンピオンとして活躍し、息子のアレクセイもまた、1987年にジュニア世界レスリング選手権で優勝するなど、父の足跡を追ってレスリング界で成功を収めた。
7. 死没
アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・メドベジは、2024年9月2日、86歳でベラルーシのミンスクにてその生涯を閉じた。
8. 遺産と影響力
アレクサンドル・メドベジの功績は、レスリング界だけでなく、オリンピック運動全体に多大な影響を与えた。
8.1. レスリング界への影響
世界レスリング連合(FILA)によって「史上最も偉大なレスリング選手の一人」と称されたメドベジは、その圧倒的な成績と卓越した技術で、後世のレスリング選手たちに計り知れない影響を与えた。オリンピック3連覇、世界選手権7回優勝という彼の記録は、多くの選手にとって目標となり、レスリングというスポーツの発展に大きく貢献した。特にオスマン・デュラリエフとのライバル関係における粘り強さと、極限状況での勝利は、彼の精神的な強さと決意の象徴として語り継がれている。引退後もコーチやスポーツ行政官として、彼はベラルーシのレスリング界の基盤を築き、次世代の才能を育成することに尽力した。
8.2. オリンピック開会式旗手としての役割
メドベジは、オリンピックの開会式において、二つの異なる国の旗手を務めるという稀有な経験を持つ。
- 1972年のミュンヘンオリンピックでは、当時のソビエト連邦の旗手として、選手団を率いて入場した。
- ソビエト連邦の崩壊後、2004年のアテネオリンピックでは、独立したベラルーシの旗手を務め、新たな国家の象徴としてその存在感を示した。
また、1980年モスクワオリンピックの開会式では、オリンピック宣誓の審判宣誓を行い、スポーツマンシップと公正な競技の精神を世界に訴えた。これらの役割は、彼が単なる偉大な選手であるだけでなく、スポーツの理想を体現する人物として、国際社会から広く尊敬されていたことを示している。
