1. 個人史
アンドレ・ブリュネの個人的な生活と家族背景は、彼女の競技キャリアと密接に結びついていた。
1.1. 出生と家族
アンドレ・ブリュネは、旧姓をジョリー(Jolyジョリーフランス語)といい、1901年9月16日にフランスのパリで生まれた。身長は165 cmであった。彼女はフィギュアスケートのパートナーであったピエール・ブリュネと1927年に結婚した。結婚後は、旧姓のジョリーではなく、夫の姓であるブリュネを名乗って競技に出場した。
1.2. 子供
アンドレとピエール・ブリュネ夫妻には、ジャン=ピエール・ブリュネ(Jean-Pierre Brunetジャン=ピエール・ブリュネ英語)という息子がいた。ジャン=ピエールもフィギュアスケート選手となり、1945年と1946年には全米フィギュアスケート選手権のペア部門でドナ・J・ポスピシルと共に優勝を果たした。
2. 競技経歴
アンドレ・ブリュネは、シングルスケーティングとペアスケーティングの両方で国際的に活躍し、特にペアスケーティングではその革新的なアプローチでフィギュアスケートの歴史に名を刻んだ。
2.1. シングルスケーティング
アンドレ・ブリュネは、ペアスケーティングでの輝かしい成功に加え、シングルスケーティングでも優れた成績を収めた。彼女は1921年から1930年まで、フランス国内選手権で女子シングルのタイトルを10年連続で獲得した。また、1924年シャモニーオリンピックでは女子シングルで5位、1928年サンモリッツオリンピックでは11位という成績を残した。
2.2. ペアスケーティング
アンドレ・ブリュネとピエール・ブリュネのペアは、フィギュアスケート界に革命をもたらした。彼らは、それまでのペアスケーティングには見られなかった数多くの革新的な技術を開発し、導入した。
彼らが特に評価されたのは、ミラー・スケーティングと呼ばれる、二人の選手が鏡像のように同じ動きをする技術や、新しいジャンプ、リフト、スピンの考案である。彼らの演技は、単なる要素の羅列ではなく、芸術性と技術が融合したものであった。

彼らが初めて出場した1924年シャモニーオリンピックでは、これまでのどのペアよりも多くの技術を披露した。しかし、当時の審査員は彼らの演技が「あまりにも多くのトリックを盛り込みすぎている」と判断し、結果として銅メダルに終わった。しかし、他のスケーターたちは彼らの革新的なスタイルに注目し、ジョリーとブリュネのスタイルは瞬く間にこの競技の主流となっていった。
彼らはその後もペアスケーティングで前例のない技術を披露し続けた。また、アンドレ・ジョリーは、パートナーの衣装に合わせて黒いドレスを着用した最初の女性スケーターの一人としても知られている。これは、それまでの伝統的な白いドレスとは一線を画すものであり、フィギュアスケートの衣装デザインにも影響を与えた。
ブリュネ夫妻は、フランスのフィギュアスケート選手として初めて、世界選手権、ヨーロッパ選手権、そしてオリンピックの全てで金メダルを獲得したペアである。彼らは1925年世界選手権でオーストリアのヘルマ・サボーとルートヴィヒ・ブレーデに次ぐ2位となったが、これはフィギュアスケート史家のジェームズ・R・ハインズが「ペアスケーティング史上最も接戦の一つ」と評するものであった。この大会以降、彼らは出場した全ての主要大会で優勝を飾った。
2.3. 主な大会成績
アンドレ・ブリュネは、シングルおよびペアの両種目で数多くの国際大会に出場し、輝かしい成績を収めた。
2.3.1. オリンピック
大会 | 1924 | 1928 | 1932 |
---|---|---|---|
ペア | 3位 | 1位 | 1位 |
女子シングル | 5位 | 11位 |
2.3.2. 世界選手権
大会 | 1925 | 1926 | 1928 | 1930 | 1932 |
---|---|---|---|---|---|
ペア | 2位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 |
2.3.3. ヨーロッパ選手権
大会 | 1932 |
---|---|
ペア | 1位 |
2.3.4. フランス選手権
大会 | 1921 | 1922 | 1923 | 1924 | 1925 | 1926 | 1927 | 1928 | 1929 | 1930 | 1931 | 1932 | 1933 | 1934 | 1935 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
女子シングル | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | |||||
ペア | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 |
2.4. 政治的立場と大会不参加
アンドレとピエール・ブリュネ夫妻は、競技においてもその強い信念を示した。彼らは、1936年冬季オリンピックへの参加を辞退した。この決定は、当時のナチス・ドイツ政権に対する抗議の意思を示すものであった。彼らは、人権を侵害し、差別を助長する体制下で開催される大会に参加しないという毅然とした態度を取り、スポーツ選手としての倫理的責任を果たした。この行動は、彼らが単なるアスリートではなく、社会的な問題に対しても明確な意見を持つ人物であったことを示している。
3. 引退後の活動
競技キャリアを終えた後も、アンドレ・ブリュネはフィギュアスケート界に貢献し続けた。
3.1. プロ活動とコーチング
1936年に競技から引退しプロに転向したアンドレとピエール・ブリュネ夫妻は、ヨーロッパやカナダを巡るプロスケートツアーに参加した。その後、1940年にアメリカ合衆国のニューヨークへ移住した。
アメリカでは、彼らは著名なフィギュアスケートコーチとして成功したキャリアを築いた。彼らの指導を受けた選手の中には、1960年スコーバレーオリンピックの金メダリストであるキャロル・ヘイスや、1984年サラエボオリンピックの金メダリストであるスコット・ハミルトンといった、後にオリンピックチャンピオンとなる選手たちがいた。彼らはニューヨーク、イリノイ州、ミシガン州で指導にあたり、1979年に引退するまで多くの才能を育成し、フィギュアスケートの発展に寄与した。
4. 受賞歴と殿堂入り
アンドレ・ブリュネは、フィギュアスケートへの多大な貢献に対して、その功績が称えられた。
4.1. 世界フィギュアスケート殿堂
アンドレとピエール・ブリュネ夫妻は、その革新的な技術と輝かしい競技成績、そして引退後のコーチとしての貢献が評価され、1976年に創設された世界フィギュアスケート殿堂の最初の殿堂入りメンバーの一員として名を連ねた。これは、彼らがフィギュアスケートの歴史において、いかに重要な存在であったかを示すものである。
5. 死去
アンドレ・ブリュネは、1993年3月30日にアメリカ合衆国ミシガン州ボインシティでその生涯を閉じた。