1. 概要
ウラジーミル・レオーンチエヴィッチ・コマロフ(Владимир Леオンтьевич Комаровヴラジーミル・レオーンチエヴィッチ・コマローフロシア語、Vladimir Leontyevich Komarov、1869年10月13日 - 1945年12月5日)は、ロシア帝国およびソビエト連邦の植物学者、探検家である。彼はサンクトペテルブルク大学で植物学の学位を取得し、後に同大学の教授を務めた。生涯を通じて東シベリアや中国東北部、朝鮮半島、カムチャツカ半島、モンゴルといった地域で広範な植物相調査と植物生態研究を行い、多くの学術論文や植物誌を著した。
コマロフは、1914年にロシア科学アカデミーの通信会員に、1920年には正会員に選出され、1936年から死去する1945年までソ連科学アカデミーの総裁を務めた。この間、彼はソ連における科学政策の形成に深く関与したが、時には学者に対する権威的な発言が批判されることもあった。彼の最大の業績の一つは、30巻からなる膨大な植物誌『ソ連植物誌』の編集長としての役割である。
第二次世界大戦中は、ウラル地方の資源供給に積極的に貢献し、その功績によりスターリン賞を2度(1941年、1942年)受賞し、1943年には社会主義労働英雄の称号を授与された。彼の名誉を称え、サンクトペテルブルクにあるコマロフ植物研究所およびコマロフ植物園、またサンクトペテルブルク近郊の集落「コマロヴォ」が命名されている。
2. 生涯
ウラジーミル・コマロフの生涯は、学術的な探求とソビエト連邦における科学組織の発展に捧げられた。彼の幼少期から教育、そして初期の学術活動を通じて、植物学者および探検家としての基礎が築かれた。
2.1. 幼少期と教育
ウラジーミル・レオーンチエヴィッチ・コマロフは、1869年10月13日にロシア帝国のサンクトペテルブルクで生まれた。彼は1890年にサンクトペテルブルク大学に入学し、数学と物理学を専攻した。その後、植物学へと専門を移し、1894年に同大学で植物学の学位を取得して卒業した。
2.2. 初期学術活動
大学卒業後、コマロフは精力的に学術活動を開始した。1895年から1899年にかけては、乾燥標本集『Fungi Rossiae exsiccati』の共同編集者を務めた。1898年からは母校であるサンクトペテルブルク大学の教授として教鞭を執り、その職は1934年まで続いた。
2.3. 探検と植物研究
コマロフは、その生涯において数々の探検に参加し、広範な地域で植物研究を行った。特に、東シベリア、満州(現在の中国東北部)、カムチャツカ半島、モンゴル、そして朝鮮半島といった地域での探検は、彼の植物学的知識を深める上で極めて重要であった。これらの探検を通じて、彼は各地域の植物相の特性や植物生態に関する詳細な研究を進め、その成果は数多くの論文や植物誌として発表された。
3. 主要著作と学術的貢献
コマロフは、その膨大な研究活動を通じて、植物学の分野に多大な貢献を果たした。彼の著作は、植物分類学の発展だけでなく、進化論に対するソビエト科学の見解を形成する上でも重要な役割を担った。
3.1. 主要著作
コマロフの代表的な著作の中でも、特に重要なのは、彼が1934年から1960年にかけて全30巻を監修した壮大な植物誌『ソ連植物誌(Флора СССРフローラ・エスエスエスエルロシア語、Flora of the U.S.S.R.英語)』である。これは、ソビエト連邦全域の植物相を網羅した包括的な学術的著作であり、彼の生涯における最も記念碑的な業績の一つとされている。また、1940年にはチャールズ・ダーウィンの進化論に影響を受けて『植物種の理論』を著し、この著作は翌1941年にスターリン賞を受賞した。
3.2. 植物学研究と理論
コマロフは、植物分類学の分野で卓越した研究を行った。彼は単なる分類に留まらず、植物種の分布、生態、進化の過程についても深く考察した。特に『植物種の理論』では、ダーウィンの進化論をソビエトの科学的文脈で再解釈し、植物の種の形成と変異に関する独自の理論を展開した。彼の研究は、ソビエト連邦における植物科学の基礎を築き、多くの後続研究に影響を与えた。
3.3. 主要論文・著作リスト
- Coniferae of Manchuria. Trudy Imp. S.Peterburgsk. Obsc. 32: 230-241 (1902).
- De Gymnospermis nonnullis Asiaticis I, II. Bot. Mater. Gerb. Glavn. Bot. Sada RSFSR 4: 177-181, 5: 25-32 (1923-1924).
- Florae peninsulae Kamtschatka (1927).
- Flora of the U.S.S.R. 30 vols. (1934-1960). (編集長)
4. 科学アカデミーと公職活動
ウラジーミル・コマロフは、ソビエト科学アカデミーのトップとして、またソビエト連邦の最高政治機関の代議員として、科学と国家運営の両面で重要な役割を担った。彼のリーダーシップは、ソビエト科学の方向性を決定する上で大きな影響を与えた。
4.1. ロシア・ソ連科学アカデミーでの活動
コマロフは、1914年にロシア科学アカデミーの通信会員に選出され、1920年には正会員となった。そして、1936年から1945年に死去するまで、ソ連科学アカデミーの総裁という極めて重要な職を務めた。総裁として、彼はソビエト連邦における科学研究の計画と実行、そして科学政策の策定に深く関与した。
しかし、そのリーダーシップの過程で、彼の行動や発言が一部で批判されることもあった。たとえば、1937年春には、モンゴルへの学術調査を計画していた研究員(N.ポッペらの回想による)の出国許可が拒否された際、コマロフが「我々は貴方方両名がソビエト連邦の忠実な市民であると考え、遠征の将来のメンバーとして選んだ」と発言したことがあった。この発言は、学術的地位の高い研究者に対して、科学アカデミー総裁として不適切なものであったと、関係者から批判的に記憶されている。このエピソードは、当時のソビエト体制下における学問の自由と国家の統制との間の緊張関係を示唆している。
4.2. ソ連最高会議での活動
コマロフは、1938年から1945年の間、ソビエト連邦最高会議の代議員も務め、国家の政治的意思決定過程にも参画した。第二次世界大戦中、彼は特にウラル地方の資源供給計画に精力的に参加し、ソビエト連邦の戦時経済を支える上で重要な役割を果たした。これらの活動は、彼の学術的業績だけでなく、国家への貢献という側面でも高く評価された。
5. 受賞と栄誉
ウラジーミル・コマロフは、その卓越した学術的貢献と国家への奉仕に対し、ソビエト連邦から数々の名誉ある賞と称号を授与された。
彼は1941年と1942年の2度にわたり、ソビエト連邦の最高栄誉の一つであるスターリン賞を受賞した。1941年の受賞は特に、彼の著作『植物種の理論』の功績が認められたものであった。さらに1943年には、労働における最高の栄誉とされる社会主義労働英雄の称号が授与された。
6. 死去
ウラジーミル・コマロフは、第二次世界大戦が終結した直後の1945年12月5日に、モスクワでその生涯を閉じた。享年76歳であった。
7. 遺産と評価
ウラジーミル・コマロフは、ソビエト連邦の植物学と科学組織の発展に計り知れない影響を与えた人物として、その遺産は今日でも多方面で評価されている。彼の功績は、科学的知識の深化と、ソビエト国家の科学インフラの構築の両面に及ぶ。
7.1. 命名された機関と地名
コマロフの功績を称え、彼の名にちなんで多くの場所や機関が命名されている。
- コマロフ植物研究所(Komarov Botanical Institute英語):サンクトペテルブルクにある主要な植物学研究機関。
- コマロフ植物園:同研究所に併設された植物園。
- コマロヴォ:サンクトペテルブルク近郊の集落。
- Komarovia:1939年に植物学者エフゲニー・ペトロヴィッチ・コロヴィン(Evgenii Petrovich Korovin英語、1891-1963)によって、ウズベキスタン産のセリ科の被子植物の属名として命名された。この属名は後にKomaroviopsisに置き換えられている。
7.2. 歴史的評価
コマロフの科学的業績、特に『ソ連植物誌』の編纂は、ソビエト連邦の生物多様性の理解に不可欠な基礎を提供し、国際的な植物学界にも大きな貢献を果たした。彼はまた、ソビエト科学アカデミーの総裁として、戦時中の資源供給への貢献など、国家の発展にも寄与した。
一方で、彼の総裁としての役割には、N.ポッペらの回想に見られるように、ソビエト体制下における学者の活動に対する国家の統制、ひいては学問の自由や個人の権利への影響という側面も存在した。このような事例は、彼の歴史的評価において、功績と同時に、当時の政治的状況下での権力構造と個人の関わりを理解する上で重要な要素となる。全体として、コマロフはソビエト科学の象徴的人物の一人であり、その業績は今日まで植物学の重要な遺産として認識されている。