1. 生い立ちと背景
ウンベルト・コエリョは1950年4月20日、ポルトガルのポルト県セドフェイタで生まれた。彼のサッカーキャリアは早くから始まり、18歳でリスボンを拠点とするベンフィカのトップチームに加わった。
2. 選手経歴
ウンベルト・コエリョは、その16年間の選手キャリアの大半をベンフィカで過ごし、中央ディフェンダーとして活躍した。ポルトガルサッカー史上最高のストッパーの一人と評価され、攻守両面で貢献した。
2.1. クラブキャリア
コエリョは1968年にポルトガル1部リーグの強豪ベンフィカでプロキャリアを開始した。わずか22歳までにリーグ戦101試合に出場するなど、すぐにチームの中心選手として定着した。ベンフィカでの最初の7年間で、コエリョはリーグ優勝5回(1968-69、1970-71、1971-72、1972-73、1974-75)、リーグ準優勝2回(1969-70、1973-74)、ポルトガルカップ優勝3回(1968-69、1969-70、1971-72)、カップ準優勝3回(1970-71、1973-74、1974-75)という輝かしい成績に貢献した。また、1971-72年のUEFAチャンピオンズリーグではベスト4に進出した。
1975年から2シーズンはフランス1部リーグのパリ・サンジェルマンでプレーし、DFながら攻撃的なプレースタイルで初年度に6得点を挙げた。しかし、チームはリーグ14位に終わった。その後、北米サッカーリーグのラスベガス・クイックシルバーズでも短期間プレーした。
1977年に古巣ベンフィカに復帰し、さらに7年間在籍した。この間、リーグ優勝3回(1980-81、1982-83、1983-84)、リーグ準優勝3回(1977-78、1978-79、1981-82)、リーグ3位1回(1979-80)、ポルトガルカップ優勝3回(1979-80、1980-81、1982-83)、カップベスト4(1981-82)、1980-81年のUEFAカップウィナーズカップベスト4、1982-83年のUEFAヨーロッパリーグ準優勝、そしてスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ優勝(1980年)と準優勝(1981年)を経験した。ベンフィカでの公式戦出場は496試合(リーグ戦355試合)を数え、通算76得点を記録した。
2.2. 代表キャリア
1968年10月27日、1970 FIFAワールドカップ予選のルーマニア戦(3-0で勝利)でポルトガル代表デビューを果たした。その後15年間で64試合に出場し、6得点を記録した。そのうち30試合ではキャプテンを務めた。
国際Aマッチ初ゴールは1970年5月10日のイタリアとの親善試合で記録した。1972年のブラジル独立杯では2得点を挙げ、ポルトガル代表の準優勝に貢献している。また、1974年FIFAワールドカップ欧州予選ではキプロス戦で1得点、1982年FIFAワールドカップ欧州予選ではイスラエル戦でキャリア初の2得点を挙げている。
コエリョにとって最後の代表戦は、33歳で迎えたUEFA欧州選手権1984予選のソビエト連邦戦(0-5で敗戦)であった。ポルトガルはこの予選を突破し本大会出場権を獲得したが、コエリョ自身は重傷を負ったため出場を断念し、これを機に現役を引退した。
2.3. 選手時代の栄誉と個人表彰
ウンベルト・コエリョは選手時代に以下の栄誉と個人表彰を獲得している。
| 大会名 | チーム | 栄誉 | 達成年 |
|---|---|---|---|
| プリメイラ・リーガ | ベンフィカ | 優勝 | 1968-69, 1970-71, 1971-72, 1972-73, 1974-75, 1980-81, 1982-83, 1983-84 |
| タッサ・デ・ポルトガル | ベンフィカ | 優勝 | 6回 (1968-69, 1969-70, 1971-72, 1979-80, 1980-81, 1982-83) |
| スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ | ベンフィカ | 優勝 | 1980 |
| ブラジル独立杯 | ポルトガル | 準優勝 | 1972 |
- ポルトガル年間最優秀選手賞: 1974
3. 監督経歴
選手引退後、ウンベルト・コエリョはサッカー指導者としての道を歩み、主にナショナルチームの監督を務めた。
3.1. 初期
コエリョはブラガとサルゲイロスで監督キャリアをスタートさせた。これらはポルトガル国内のトップリーグクラブであった。
3.2. ポルトガル代表
クラブでの経験を積んだ後、10年以上のブランクを経て1997年にポルトガル代表監督に就任した。彼の指揮の下、ポルトガルはUEFA EURO 2000で4大会ぶりのベスト4に進出し、その指導力が広く評価された。しかし、大会後の契約更新は行われなかった。
3.3. モロッコ代表
2000年10月、コエリョはモロッコ代表監督に就任した。しかし、2002 FIFAワールドカップ予選でセネガルに敗れ、本大会出場を逃したため、2002年5月に解任された。
3.4. 韓国代表
2003年1月、コエリョはフース・ヒディンクの後任として韓国代表監督に就任した。彼は韓国代表に馴染みの薄い4バックシステムを導入し、細やかなパスワークを重視する戦術改革を試みたため、当初は大きな期待が寄せられた。同年5月31日、東京での日本戦で1-0の勝利を収めたが、その後のアルゼンチンやウルグアイとの試合に敗れるなど、徐々に韓国のサッカーファンからの批判が高まった。
特に、2004年AFCアジアカップ予選での成績が議論を呼んだ。韓国で開催された1次ラウンドでは、ベトナムに5-0、オマーンに1-0、ネパールに16-0と3連勝を飾った。しかし、オマーンで開催された2次ラウンドでは、ベトナムに後半のカウンターで0-1と敗れ、オマーンには先制点を挙げながらも後半に3失点を喫し1-3で逆転負けした。辛うじてネパールに7-0で勝利し、AFCアジアカップ本戦には進出したものの、弱小チームに対するこの2度の敗戦によりコエリョは窮地に立たされた。この事態に対し、大韓サッカー協会の技術委員会が試合に委員を派遣しないなど不誠実な態度を示したため、協会はコエリョを再信任し、この件は一時的に収束した。
その後、11月にはブルガリア2軍との親善試合で0-1と敗れ、再び資質論争が再燃した。しかし、日本で開催された第1回東アジアサッカー選手権では、香港に3-1、中国に1-0と勝利し、日本には0-0で引き分けた結果、2勝1分で優勝を果たした。
それでもなお辞任圧力が収まらない中、2004年には2006 FIFAワールドカップアジア2次予選が始まった。最初の試合であるレバノン戦に先立ち、コエリョは前年に自身とチームに屈辱を与えたオマーン代表との親善試合を強く希望し、それが実現すると5-0の大勝を収めた。レバノンとの1次戦も2-0で勝利し、一時は安定した歩みを見せるかと思われた。
しかし、2004年3月31日に行われたモルディブとのアウェイ戦で、まさかの0-0の引き分けに終わり、レバノンとの勝ち点差わずか1点で辛うじてグループ首位を維持するという危機的状況に陥った。これを受けてサッカーファンからの批判が殺到し、Kリーグからの選手招集拒否や、極端に不足した練習時間などの外部要因が複合的に絡み合った結果ではあったが、最終的にコエリョは自ら辞任する形で監督の座を降りた。彼の在任期間は2003年2月28日から2004年4月19日までのおよそ1年2ヶ月であった。
3.5. その他の代表チームおよびクラブチーム
韓国代表監督を辞任した後、コエリョはポルトガルでサッカー解説者として活動した。2005年7月にはサウジアラビアのアル・シャバブ監督に就任した。アル・シャバブは2006年のAFCチャンピオンズリーグ準々決勝でKリーグの蔚山現代ホランイと対戦し、コエリョは韓国を再訪した。しかし、アル・シャバブは準々決勝第1戦で0-6と大敗し、これが原因でコエリョは解任された。
2008年6月、ロジェ・ルメールの後任としてチュニジア代表監督に任命された。しかし、2010 FIFAワールドカップアフリカ予選を兼ねた2010年アフリカネイションズカップの予選でナイジェリアに競り負け、アフリカネイションズカップ出場にとどまった。特に2009年11月18日のモザンビーク戦での0-1の敗戦が決定打となり、彼は解任された。この敗戦により、チュニジアは1998年大会から続いていたワールドカップ連続出場記録が途絶えることとなった。
3.6. 監督としての栄誉
ウンベルト・コエリョは監督として以下の栄誉を獲得している。
| 大会名 | チーム | 栄誉 | 達成年 |
|---|---|---|---|
| EAFF E-1サッカー選手権 | 韓国 | 優勝 | 2003 |
4. 行政家としてのキャリア
監督業を離れた後、ウンベルト・コエリョはポルトガルサッカー連盟で行政家としてのキャリアをスタートさせた。現在、同連盟の副会長を務めている。
5. 私生活
ウンベルト・コエリョは1975年にパリへ移住した後まもなく、後に妻となるローレンスと出会った。彼女はRTLのフリーランス記者として働いていた。コエリョとローレンスの間には2人の娘がおり、それぞれ1980年と1986年に生まれた。
6. 評価と遺産
ウンベルト・コエリョのサッカー界におけるキャリアは、選手、監督、行政家という多岐にわたる側面から評価される。
6.1. 功績と肯定的な評価
選手としては、ポルトガルサッカー史上最高のストッパーの一人として広く認識されている。特にベンフィカでの長年にわたる活躍と、8度のプリメイラ・リーガ優勝という圧倒的な実績は、彼の選手としての偉大さを示している。また、長年にわたりポルトガル代表の最多出場記録を保持していたことからも、彼の代表チームへの貢献は計り知れない。
監督としては、UEFA EURO 2000でポルトガル代表をベスト4に導いた手腕は高く評価されている。この成功は、当時のポルトガルサッカーの国際的な地位向上に大きく貢献した。東アジアサッカー選手権での韓国代表の優勝も、彼が困難な状況下でタイトルを獲得した具体的な功績として挙げられる。
6.2. 批判と論争
コエリョの監督キャリアにおいては、特に韓国代表監督時代に多くの批判と論争に直面した。就任当初は新しい戦術やアプローチへの期待が高かったものの、AFCアジアカップ2004予選におけるベトナムやオマーンといった格下相手への連敗、そして2006 FIFAワールドカップ予選でのモルディブ戦での無得点引き分けは、国民的な失望を招いた。これらの結果は、彼の指導方針や選手管理能力に対する疑問を投げかけるものとなり、最終的に辞任に至った。
また、モロッコ代表やチュニジア代表でも、FIFAワールドカップ予選突破という目標を達成できずに解任されており、国際大会での予選突破における失敗が彼の監督キャリアにおける否定的な側面として指摘されることが多い。サウジアラビアのアル・シャバブ時代も、AFCチャンピオンズリーグでの大敗が解任の引き金となった。これらの経験は、彼がトップレベルでの継続的な成功を収めることができなかったという批判の根拠となっている。