1. 概要
オーガスタス・ケッペル(Augustus Keppel, 1st Viscount Keppelオーガスタス・ケッペル、初代ケッペル子爵英語、1725年4月25日 - 1786年10月2日)は、イギリス王立海軍の提督であり、庶民院議員を1755年から1782年まで務めた政治家である。彼はオーストリア継承戦争中に様々な艦船の指揮を執り、七年戦争では北米および西インド諸島艦隊の代将、次いでジャマイカ基地の総司令官を務めた。その後、海軍本部の海軍卿、そして海峡艦隊の総司令官を歴任した。
特にアメリカ独立戦争初期の1778年7月に発生したウェサン島の海戦では、彼の次席指揮官であったヒュー・パリサー卿との間で、その行動を巡る悪名高い論争が勃発した。この論争はケッペルとパリサー双方の軍法会議に発展したが、最終的に両者とも無罪となった。アメリカ独立戦争の末期には、ケッペルは海軍大臣を務めた。彼は生涯未婚で、子孫を残すことなく1786年に死去した。
2. 初期生涯と背景
オーガスタス・ケッペルは、貴族としての出自と海軍での初期の経験を通じて、その後のキャリアの基盤を築いた。
2.1. 出生と家族
オーガスタス・ケッペルは、1725年4月25日に生まれた。彼は第2代アルベマール伯爵ウィレム・ヴァン・ケッペルと、初代リッチモンド公爵(チャールズ2世の庶子)の娘であるアン・ヴァン・ケッペルの次男であった。ケッペル家は、1688年にウィレム・オブ・オレンジと共にイングランドに渡来した、ホイッグ党を代表する貴族の家系であった。
2.2. 教育と海軍入隊
ケッペルはウェストミンスター・スクールで短期間教育を受けた後、10歳で海軍に入隊した。1740年にアンソン卿の世界一周航海にセンチュリオン号の乗組員として参加した際には、既に5年間の軍務経験があった。この航海中、彼はパイタの占領(1741年11月13日)で命からがら逃れるという危機を経験し、1742年3月には海尉心得に昇進した。この航海では、後に親友となるジョン・キャンベルと出会ったが、航海中に蔓延した壊血病により多くの歯を失った。


世界一周航海から帰還した1744年11月、彼は中佐に昇進し、その後すぐに14門スループのウルフ号の勅任艦長となった。彼は1744年12月にグレイハウンド号に、1745年2月にサファイア号に、そして1745年11月にはメイドストーン号に転属となった。
3. 海軍経歴
ケッペルは、オーストリア継承戦争からアメリカ独立戦争に至るまで、主要な海戦や遠征に海軍士官として参加し、その軍歴を重ねた。
3.1. オーストリア継承戦争
ケッペルは1748年に和平が締結されるまで、オーストリア継承戦争の残りの期間を通じて積極的に軍務に就いた。1747年6月には、フランス艦を追跡中に自身の艦であるメイドストーン号をベルイル沖で座礁させる事故を起こしたが、軍法会議で名誉ある無罪判決を受け、アンソン号の指揮官として再任された。
1749年初頭、ケッペルはジョシュア・レノルズ卿に紹介された。1749年5月11日、ケッペルが地中海艦隊の代将として(旧艦センチュリオン号にペナントを掲げ)プリマスから地中海へ出航した際、レノルズはメノルカ島まで彼に同行し、そこでケッペルの最初の肖像画(計6点のうちの1点)を描いた。レノルズはその後も同島に滞在し、イギリス駐屯地の士官たちの肖像画も描いた。ケッペルはアルジェに到着すると、バーバリ海賊の活動を抑制させるべく太守との交渉に臨んだ。この際、太守が「イギリス国王は髭も生えていない少年を派遣してきた」と不満を漏らすと、ケッペルは「髭を生やしていなければいけないのであれば、雄ヤギを連れて来ればいい」と切り返したという。交渉は成功し、イギリスの通商を保護する協定が結ばれた。トリポリとチュニスでも条約交渉を終えたケッペルは、1751年7月にイングランドに帰国した。
3.2. 七年戦争
七年戦争中、ケッペルは常に軍務に就いた。彼は1751年から1755年まで、ノリッジ号にブロードペナントを掲げて北米および西インド諸島艦隊の代将を務めた。
3.2.1. 北米および西インド諸島艦隊司令官
北米および西インド諸島艦隊司令官としての任期中、ケッペルは広大な海域での任務を遂行し、フランス海軍との対峙や植民地防衛といった課題に直面した。
3.2.2. ゴレー島遠征およびキブロン湾の海戦
1756年にはフランス沿岸で活動し、1758年にはアフリカ西海岸沖のフランス領ゴレー島を占領するための遠征に派遣された。1759年11月のキブロン湾の海戦では、彼の指揮する74門艦トーベイ号が最初に戦闘を開始した。
1757年、彼はジョン・ビング提督を死刑に処した軍法会議の一員であったが、ビングの恩赦を確保しようと積極的に活動した。しかし、彼も彼に協力した者たちも、判決が執行されないべきとする真剣な理由を提示することはできなかった。1761年3月、ケッペルはヴァリアント号(三等級艦)に転属となり、ベルイルを陥落させるための戦隊の指揮を執り、1761年6月にこれを成功させた。
3.2.3. ハバナ遠征
1762年にスペインがフランス側に立って参戦すると、ケッペルはジョージ・ポコック卿の次席指揮官としてイギリス軍のキューバ遠征に参加し、ハバナを占領した。この遠征では、兵士や水兵の膨大な数が犠牲となった熱病により、彼の健康も損なわれた。しかし、この遠征で得た2.50 万 GBPの捕獲賞金は、彼を「父親の浪費によって破産した家庭の次男」という不快な状況から解放した。

3.3. 提督への昇進
1762年10月21日に少将に昇進したケッペルは、同年後半にジャマイカ基地の総司令官となった。彼は1765年7月から1766年11月まで第1次ロッキンガム内閣の海軍本部委員を務め、1766年9月からはチャタム内閣の海軍卿を務めたが、1766年12月には海軍本部を離れた。1768年にはサフォーク州エルヴェデン・ホールを取得した。1770年10月24日には中将に昇進した。1770年にフォークランド危機が発生した際には、スペインに対抗する艦隊の指揮を執る予定であったが、紛争が解決されたため、実際に将旗を掲げる機会はなかった。

3.4. アメリカ独立戦争
彼の生涯で最も注目され、議論を呼んだ時期は、アメリカ独立戦争の初期にあたる。ケッペルは、ロッキンガム侯爵とリッチモンド公爵が率いるホイッグ党との強い結びつきを支持しており、当時ジョージ3世の断固たる意思により政権から排除されていたホイッグ党の主張に全面的に共感していた。
1755年から1761年までチチェスター、1761年から1780年までウィンザー、そして1780年から1782年までサリー選出の庶民院議員であったケッペルは、国王の友に敵対するホイッグ党の党員であった。ホイッグ党員たちは、国王の閣僚、特に当時の海軍大臣であったサンドウィッチ伯爵が「どのような悪事でもやりかねない」と信じていた。1778年1月29日に提督に昇進し、フランスに対抗する主力艦隊である西部戦隊の指揮官に任命された際、ケッペルは海軍大臣が自身の敗北を望んでいると考えていた。
1778年以前、ケッペルはサンドウィッチに技術的な困難を無視して「わずかな艦船だけでも銅板張りにする」よう説得したが失敗した。彼は後に、1781年3月の『ロンドン・マガジン』でこの件を政治的に利用し、不公平な批判を行った可能性がある。彼は銅板張りが「海軍にさらなる強度を与える」と述べ、かつて自身の要請を拒否しながら、その後海軍全体に銅板張りを命じたサンドウィッチ伯爵を非難した。海軍の銅板張りの遅れは、イギリスが13植民地を失う主要な理由の一つであった。
ケッペルの部下の一人に、海軍本部委員であり庶民院議員でもあったヒュー・パリサー卿がいた。ケッペルは、パリサーが同僚たちと共に王立海軍の劣悪な状態の責任を負っていると考えていた。1778年7月27日にケッペルがフランス艦隊と戦った第一次ウェサン島の海戦は、結果として不満足なものに終わった。その原因にはケッペル自身の指揮の問題もあったが、パリサーが命令に従わなかったことも含まれていた。ケッペルは自分が意図的に裏切られたと確信するようになった。
3.5. ケッペル・パリサー事件と軍法会議

ケッペルは公式の報告書ではパリサーを賞賛したものの、私的には彼を攻撃した。ケッペルの友人たちと結託したホイッグ党系の報道機関は、パリサーに対する中傷キャンペーンを開始した。これに対し、政府系の新聞も同様の論調で反論し、両陣営は互いを意図的な反逆罪で告発し合う事態となった。その結果、議会ではスキャンダラスな場面が連続し、一連の軍法会議が開催された。
まずケッペルが軍法会議にかけられ、1779年2月11日に無罪となった。彼は1779年3月に海峡艦隊の職を辞した。その後、パリサーも軍法会議にかけられたが、彼もまた無罪となった。ウェサン島の海戦とその後に続く醜聞は、当時のイギリス海軍の凋落を示す出来事として受け止められている。ケッペルの無罪を記念して、ロッキンガム侯爵がジョン・カーに依頼してケッペルズ・コラムが建設された。
4. 政治経歴
ケッペルは海軍士官としての職務と並行して、庶民院議員や海軍大臣として政治の世界でも重要な役割を担った。
4.1. 国会議員
ケッペルはノース内閣が崩壊するまで庶民院議員を務めた。彼は1755年から1761年までチチェスター選挙区、1761年から1780年までウィンザー選挙区、そして1780年から1782年にかけてはサリー選挙区から選出されていた。彼はホイッグ党の党員として、国王の友とは常に対立関係にあった。
4.2. 海軍大臣
1782年にノース内閣が倒れると、ケッペルは海軍大臣に就任し、サフォーク州エルヴェデン・ホールのケッペル子爵に叙せられ、枢密顧問官に任命された。大臣としての彼の経歴は特筆すべきものではなく、1783年のパリ条約に抗議して辞任することで、かつての政治的盟友たちとの関係に亀裂が生じた。彼はその後、ノース=フォックス連立内閣に参加したことで政治的信用を失い、1783年12月の内閣崩壊と共に公職から引退した。

5. 思想と信条
オーガスタス・ケッペルは、その家族的背景と個人的な信念から、ホイッグ党の思想を強く支持していた。彼はロッキンガム侯爵やリッチモンド公爵が率いるホイッグ党との結びつきを重視し、当時のジョージ3世の強硬な意思によって政権から遠ざけられていたホイッグ党の主張に全面的に共感を示していた。
彼は、国王の友と呼ばれる国王の側近たちに敵対的な姿勢をとり、特に当時の海軍大臣であったサンドウィッチ伯爵をはじめとする国王の閣僚たちが「どのような悪事でもやりかねない」と強く信じていた。この思想は、彼がアメリカ独立戦争中にフランス艦隊との決戦を控えていた際、サンドウィッチ伯爵が自身の敗北を願っているとまで考えていたことにも表れている。彼の政治的行動は、議会でのホイッグ党員としての活動や、パリ条約への抗議による海軍大臣辞任、そしてその後のノース=フォックス連立内閣への参加といった形で、彼の反国王派的なホイッグ党の信条を反映していた。
6. 私生活
オーガスタス・ケッペルの私生活は、彼の公的なキャリアとは対照的に、比較的簡素なものであった。
6.1. 結婚と死
ケッペルは生涯未婚のままであり、子孫を残すことはなかった。彼は1786年10月2日に死去した。彼の爵位は彼と共に廃絶した。彼を深く敬愛していたエドマンド・バークは、ケッペルについて「彼には生まれつき高貴なものがあり、それは荒々しいプライドの株に、最も優しい心の美徳が接ぎ木されたような人間であった」と感傷的に評した。
7. 評価と遺産
オーガスタス・ケッペルは、その生涯を通じて様々な評価を受け、後世にその名を残している。
7.1. 肯定的な評価と無罪判決
ウェサン島の海戦後の軍法会議において、ケッペルは無罪判決を受けた。この判決は、当時の世論から広く支持され、彼の名誉を回復する出来事となった。彼の無罪を記念して、ロッキンガム侯爵の依頼により、ジョン・カーの設計でケッペルズ・コラムが建設された。これは、彼の功績と、彼が直面した政治的迫害からの解放を象徴するものである。
7.2. 批判と論争
一方で、ウェサン島の海戦におけるケッペルの指揮については、批判的な見方も存在する。海戦が不満足な結果に終わった主な原因は、ケッペル自身の不適切な指揮によるものであったと指摘されている。また、次席指揮官であったヒュー・パリサー卿との間に生じた論争は、双方を巻き込むスキャンダルに発展し、議会や軍法会議を巻き込んだ。この事件は、当時のイギリス海軍の組織的な問題や政治的対立が表面化したものとして、海軍の凋落を示す出来事と受け止められている。
7.3. 影響と記念
ケッペルの功績と名声は、後世に様々な形で記念されている。オーストラリアのグレート・ケッペル島とケッペル湾、そしてフォークランド諸島のケッペル島は、彼にちなんで名付けられた地名である。また、ロザーラムに建てられたケッペルズ・コラムは、彼の軍法会議での無罪判決を記念して建設されたものである。これらの地名や記念碑は、彼がイギリス海軍史において果たした役割と、その名が広く知られていたことを示している。
8. 大衆文化
オーガスタス・ケッペルは、パトリック・オブライアンの1956年の小説『黄金の海』に、センチュリオン号の士官候補生として登場する。作中では、航海の様々な苦難により、髪が抜け落ち、歯を失うなど、しばしばコミカルな役柄として描かれている。