1. 初期生い立ちと教育
カタリン・カリコーは、ハンガリーのヤース・ナジクン・ソルノク県ソルノクで生まれ、キシュウーイサーッラーシュで育った。彼女の生家は水道、冷蔵庫、テレビもない質素な家だった。
1.1. 出身地と幼少期
彼女の父ヤーノシュは精肉業を営み、母は事務員だった。父は1956年ハンガリー革命に参加したことで処罰を受けている。カリコーは幼少期から「動物の中には何が入っているのか」に強い関心を抱き、鶏の産卵にも興奮を覚えるような子供だった。
1.2. 教育と科学への初期の関心
初等教育では科学に秀でており、ハンガリー全国の生物学コンテストで3位に入賞した。8年制義務教育の国立アラニュ・ヤーノシュ街小中学校で生物学に興味を持ち、4年制の国立モーリツ・ジグモンド高等学校では生物学で最優秀の生徒に与えられる第1回イェルミ・グスターヴ賞を受賞した。

1973年にチョングラード・チャナード県セゲドの国立ヨージェフ・アティッラ大学(現在のセゲド大学)に入学し、1978年に生物学の学士号を取得した。1975年から1978年までは「人民共和国奨学金」を得ていた。その後、1982年に同大学で生化学の博士号を取得した。当時、ハンガリーでは日本の大学院のような博士課程養成機関は存在せず、博士号取得のためには大学の研究室や研究所に所属して研究を続け、博士論文を執筆する必要があった。彼女はトマス・イェネーのもとで博士課程の研究に従事し、ハンガリー科学アカデミー付属セゲド生物学センター(現在のセゲド生物学研究センター)で博士研究員としての研究を続けた。トマス・イェネーはアメリカのロックフェラー大学名誉教授トマス・シャーンドルの実弟である。1978年から1985年まで、彼女は共産主義のハンガリー内務省の秘密警察によって情報資産としてリストアップされていたが、彼女はキャリアへの悪影響や父親への報復を恐れて脅迫されたものであり、情報を提供したり、活動的なエージェントとして行動したりしたことはないと主張している。
2. 経歴と研究活動
カタリン・カリコーは、科学者としてのキャリアを通じて、特にmRNA研究に焦点を当て、数々の困難に直面しながらも、その粘り強さで画期的な発見を成し遂げた。
2.1. ハンガリーでの初期キャリアと移住
1985年、彼女が所属していたセゲド生物学センターの研究室は資金を失い、彼女は同年1月17日の30歳の誕生日に解雇通知を受け失業した。共産主義経済の行き詰まりから、海外の学会への出席も認められなくなった。求職中に欧米各地の教授に手紙を書き、アメリカ合衆国フィラデルフィアのテンプル大学から博士研究員としての受け入れが認められた。
彼女は「自分が何者で、どんなことができるのか」を書いたと語っている。当時の全財産は、知人に車を売却して得た約900 GBPで、当時のハンガリー人民共和国政府は100 USD相当以上の現金を国外に持ち出すことを禁じていたため、2歳の娘が持っていたテディベアの中に隠して出国した。アメリカには親戚もおらず頼れる者がいなかったため、最初の給与が出るまでの30日間をこの資金で生活した。ハンガリーからソ連と対立関係にあるアメリカへ「大学で研究をするという正式なオファー」を理由に、エンジニアの夫と娘という家族全員で出国許可を得られた。夫はゼロからのスタートとなり、清掃職に就いた。夫が研究職への理解と支えをしてくれるタイプだったため、金銭的・社会的な不安を抱えながらも研究を続けることができた。アメリカ到着の翌日から働き始めたが、「(大学では)みんなドアの開閉は乱暴だし、大声でしゃべる。実験室はセゲドの研究室の方が、よっぽど設備が整っていた。ハンガリーの自宅には洗濯機があったが、アメリカではコインランドリーに行くしかなかった。生活レベルは下がりましたね」と語り、最初の1週間で逃げ出したいと思ったと振り返っている。
2.2. ペンシルベニア大学での研究と苦難
1985年から1988年まで、カリコーはフィラデルフィアのテンプル大学で博士研究員を務めた。彼女は、エイズ、血液疾患、慢性疲労症候群の患者を二本鎖RNA(dsRNA)で治療する臨床試験に参加した。当時、dsRNAによるインターフェロン誘導の分子メカニズムは不明だったが、インターフェロンの抗ウイルス作用と抗腫瘍作用は十分に文書化されており、これは画期的な研究と見なされていた。
1988年、カリコーはジョンズ・ホプキンス大学から仕事のオファーを受けたが、テンプル大学の上司であるロバート・J・スハドルニクに事前に知らせなかった。スハドルニクは彼女がジョンズ・ホプキンス大学に行けば国外追放させると告げ、後に米国移民当局に「不法滞在」であると報告した。その結果生じた国外追放命令に異議を唱え、それが成功するまでの間に、ジョンズ・ホプキンス大学は仕事のオファーを撤回した。スハドルニクは「カリコーの悪口を言い続け、他の機関で新しい職を得ることを不可能にした」が、彼女は「スハドルニクとの間に困難な歴史を持つ」ベセスダ海軍病院の研究者に出会った。カリコーは後に、この事件がズッカーマンの著書に記述されている通りに起こったことを確認したが、「最も重要なことは、1985年にIAP66フォームを送ってくれたこと、彼の研究室で働く機会を与えてくれたことに常に感謝している」と強調し、「数年後に(テンプル大学で)講演した際、彼から学んだ科学について感謝した」と述べている。1988年から1989年まで、彼女はメリーランド州ベセスダの合衆国軍保健科学大学で働き、そこで信号タンパク質であるインターフェロンの研究に従事した。
1989年、彼女はペンシルベニア大学に雇われ、心臓病学者のエリオット・バーナサンとともにメッセンジャーRNA(mRNA)の研究を行った。1990年、ペンシルベニア大学ペレルマン医学大学院の非常勤教授として、カリコーはmRNAベースの遺伝子治療の確立を提案する最初の助成金申請書を提出した。それ以来、mRNAベースの治療法はカリコーの主要な研究対象となった。しかし、1990年代には、多くの研究者、バイオテクノロジー企業、製薬会社がmRNAの可能性を疑い、mRNAは不人気となった。エリオット・バーナサン(1997年にペンシルベニア大学を退職)とデイヴィッド・ランガー(後に彼女を雇った)に支持されていたものの、カリコーは資金を獲得するのに苦労した。彼女は当初、正教授になる予定だったが、助成金申請が繰り返し却下されたため、1995年に大学によって降格された。それにもかかわらず、彼女は留まり、mRNA研究を続けることを選択した。ペンシルベニア大学での研究生活が安定していたのは2年だけだったと後に語っている。1997年には研究費不足でカリコーが所属するエリオットのチームは解体され、エリオットもペンシルベニア大学を辞め、バイオテクノロジー企業に転職した。当時について、「(エリオットと)やっていることがあまりに斬新すぎて、お金をもらえなかった」と語っている。
ペンシルベニア大学の上司らは、彼女が「成果を出すことができず、社会的意義のある研究とも思えない」「教員に適しない」との理由で、1995年に退職か降格かの選択を迫った。彼女は「研究室のリーダー職」から、大幅減給を受け入れ、研究を続けることを選択した。正教授への道を望んでいたカリコーにとって、それは屈辱的な選択だった。ここで辞職していたら、mRNAを使用し、多くの慢性疾患に対する新しいワクチンや治療薬を開発するというカリコーの夢は途絶えていた。エリオットの後任者はカリコーを不要と判断し、解雇しようとしたが、そのとき彼女を救ったのが、かつての教え子でカリコーの仕事ぶりを見ていた研修医(当時脳神経外科のインターン中)のデイヴィッド・ランガーであった。ランガーはカリコーを迎え入れるよう自分の上司である同大学脳神経外科のトップに掛け合い、彼女の研究にチャンスを与えてくれるよう頼んでくれた。資金力が豊富だった脳外科へ移籍することで、研究のための小部屋と年間4.00 万 USDの給料を得られた。ペンシルベニア大学在職中もクリスマスと大晦日を実験と助成金申請書の作成に費やしていた。しかし、ペンシルベニア大学による最後通牒の背景には、他の同分野の多くの科学者もこの分野から遠ざかり、ペンシルベニア大学側は、mRNA研究は時間を無駄にしていると感じていたからである。降格騒動時期に癌も判明したため、2つの手術を控えていて、夫もグリーンカードを取りにハンガリーに一時帰国していたが、ビザの問題で現地で立ち往生しており、6か月間帰国できなかった。この時期について、「私は本当に苦労していましたが、彼らは私にこう言いました」と語っている。手術の間、カリコーは自分の選択肢を検討し、留任を選び、降格という屈辱を受け入れ、同分野の研究し続けることを決意した。このペンシルベニア大学を辞めなかった選択が、彼女のキャリアと科学の進路を変えることになる偶然のドリュー・ワイスマンとの出会いにつながった。
2.3. ドリュー・ワイスマンとの協力と主要な発見
1997年、彼女はペンシルベニア大学に新しく着任した免疫学者のドリュー・ワイスマンと出会った。当時は、科学出版物がオンラインで入手できるようになるずっと前で、科学者が最新の研究を閲覧する唯一の方法は雑誌からコピーすることだけだった。ワイスマンは1998年のカリコーとの出会いについて、「気づいたら、部門内でカタリン・カリコーという科学者とコピー機を巡って争っていた」「それで私たちは話し始め、お互いの行動を比較し始めました」と語っている。ペンシルベニアにおけるカリコーの学術的地位は低いままだったが、ワイスマンは彼女の実験にも提供できるくらいの資金を持っていたため、二人は研究協力を開始した。ワイスマンの資金は、カリコーが研究を継続し、拡大する上で極めて重要であり、ワイスマンの免疫学とカリコーの生化学の組み合わせは非常に効果的だった。彼らは技術を進歩させ、問題を一つずつ解決し、最終的に認知を得た。ワイスマンは「私たちは常に戦い続けなければならなかった」とコメントしている。カリコーの粘り強さは、学術研究の労働条件の規範に反して例外的であると評価された。エリオット・バーナサンは彼女を「信じられないほど好奇心旺盛で、貪欲に読書し、常に最新の技術や論文を知っていた」と評した。

2005年以前、mRNAの治療用途における大きな問題は、生体内での使用が炎症反応を引き起こすことだった。重要な洞察は、カリコーが実験の対照群として使用された転移RNA(tRNA)がmRNAと同じ免疫反応を引き起こさなかった理由に焦点を当てたときに得られた。2005年以降の一連の画期的な研究により、合成mRNAが非常に炎症性であるのに対し、tRNAは非炎症性であることが示された。カリコーとワイスマンは、特定のヌクレオシド修飾がmRNAの免疫応答をどのように減少させるかを特定した。それは、ウリジンをシュードウリジンに置き換えることだった。彼らの主要な発見である、mRNAを非免疫原性にするための化学修飾に関する論文は、科学雑誌『ネイチャー』と『サイエンス』に却下されたが、最終的に『イミュニティ』に受理された。
研究者たちのもう一つの重要な成果は、mRNAを脂質ナノ粒子に封入する送達技術の開発だった。これは、mRNAのための新しい製薬送達システムである。mRNAは、小さな脂肪滴(脂質ナノ粒子)に注入され、それが壊れやすい分子を保護し、体の目的の領域に到達させる。彼らは動物でその有効性を実証した。
カリコーとワイスマンはRNARxという小さな会社を設立し、2006年と2013年に、mRNAに対する抗ウイルス免疫応答を減少させるためのいくつかの修飾ヌクレオシドの使用に関する特許を取得した。その後すぐに、ペンシルベニア大学は知的財産ライセンスを、最終的にセルスクリプトとなる研究室用品会社の責任者であるゲイリー・ダールに売却した。数週間後、モデルナを支援するベンチャーキャピタル企業であるフラッグシップ・パイオニアリングが特許のライセンス供与を求めて彼女に連絡したが、その時点でカリコーはそれがもはや利用できないことを伝えなければならなかった。
2006年、カタリン・カリコーは生化学者のイアン・マクラクランに連絡を取り、化学的に改変されたmRNAに関する共同研究を打診した。当初、マクラクランとテクミラは共同研究を断った。カリコーはイアン・マクラクランと協力したいと考えていた。なぜなら、彼がmRNA技術の進歩に貢献したチームのリーダーだったからである。カリコーは、混合プロセスを通じてmRNAを密な粒子に封入する固体脂質ナノ粒子送達システムの確立に取り組んでいた。
2.4. バイオンテックでの活動
2013年初頭、カリコーはモデルナがアストラゼネカと血管内皮増殖因子mRNAを開発するために2.40 億 USDの契約を結んだことを知った。カリコーは、ペンシルベニア大学でmRNAに関する自身の経験を活かす機会がないことを悟り、バイオンテックRNAファーマシューティカルズの副社長の職を引き受け(後に2019年には上級副社長に昇進)、大学では非常勤教授の職を維持した。
2023年10月現在、カリコーはハンガリーのセゲド大学の教授である。
3. 科学的貢献と研究成果
カリコーの研究とその専門分野は、多能性幹細胞の生成、メッセンジャーRNAベースの遺伝子治療、そして「新しい種類の医薬品」など、広範な分野に潜在的な影響を与えている。
3.1. mRNA技術の進歩
カリコーの研究は、バイオンテックとモデルナが免疫応答を誘導しない治療用mRNAを作成するための基礎を築いた。2020年、カリコーとワイスマンの技術は、バイオンテックとそのパートナーであるファイザー、そしてモデルナが製造したCOVID-19ワクチンに使用された。mRNAワクチンは前例のない速さで開発・承認され、90%以上の有効性を示した。感染症に対するワクチンに加えて、mRNAは癌、心血管疾患、代謝性疾患、虚血の治療にも応用される可能性がある。しかし、2024年5月のレビューでは、mRNA療法の免疫原性を低下させるための主要なメッセンジャー修飾、すなわちCOVID-19に対するmRNAワクチンの開発を可能にしたN1-メチルシュードウリジンの導入が、少なくともメラノーマワクチンにおいては、修飾されていないmRNAワクチンと比較して、100%のメチルシュードウリジン導入が癌の増殖と転移を引き起こしたと報告されている。
3.2. COVID-19ワクチン開発への貢献
2020年のCOVID-19パンデミックにより、前例のない規模のワクチン開発が必要となったため、彼らの研究がmRNAの臨床研究に貢献したことが注目されだした。彼女らの研究成果のおかげで、新型コロナウイルス(COVID-19)のゲノム情報解読から2日後の2020年1月13日にはワクチンの基本設計が完成した。人での安全性を確かめる臨床試験も、日本での全国的なコロナ流行第一波前の同年3月16日に始めることができた。彼らの研究成果が活用される「新型コロナ以前」のmRNAワクチン開発の歴史は対照的に長期間試行錯誤の連続であった。
4. 逆境と克服:科学的粘り強さと献身
カタリン・カリコーの科学者としてのキャリアは、長期間にわたる逆境と、それを乗り越えるための並外れた粘り強さと献身によって特徴づけられる。彼女は、研究がほとんど注目されず、資金獲得に苦労し、職位の降格といった制度的な困難に直面した。
ハンガリーからアメリカへの移住は、彼女の全財産を娘のテディベアに隠して密かに持ち出すという、経済的な苦難を伴うものだった。アメリカに渡ってからも、彼女の研究は主流から外れていると見なされ、何度も助成金申請を却下された。1995年には、ペンシルベニア大学から「成果を出せず、社会的意義のある研究とも思えない」という理由で、テニュア(終身在職権)を剥奪され、大幅な減給を伴う降格を迫られた。この時期には癌の診断も受け、夫がビザの問題で海外に足止めされるなど、個人的な困難も重なった。
しかし、カリコーは決して研究を諦めなかった。降格を受け入れ、研究を続けることを選択し、脳神経外科の同僚の助けを借りて、研究のためのわずかなスペースと資金を確保した。彼女はクリスマスや大晦日も実験や助成金申請書の作成に費やすなど、並々ならぬ努力を続けた。ドリュー・ワイスマンとの出会いと共同研究は転機となったが、それでも彼らの画期的な発見は当初、主要な科学雑誌に却下され、学会での注目も集まらなかった。
彼女はRNARxという小さな会社を設立し、アメリカ国立衛生研究所(NIH)から100.00 万 USDの資金援助を得たが、これが彼女にとって「最初で最後に獲得できた助成金」だったと語っている。大学が彼女らの研究成果に関する知的財産権を売却し、彼女がバイオンテックへの移籍を決断した際も、ペンシルベニア大学からは「バイオンテックには公式ウェブサイトすらない」と嘲笑された。
これらの経験は、社会的弱者や非主流の科学者が直面する困難を浮き彫りにしている。カリコーの物語は、科学的探求における粘り強さ、信念、そして逆境を乗り越える献身的な努力が、最終的に世界を変えるような画期的な成果につながる可能性を示すものである。彼女は後に、「私は称賛を受けることは、それほど重要ではない。うれしいのは、私の研究によって誰かが救われたということだ」と語り、自身の動機が常に病気の人々を助けることにあったことを強調している。
5. 受賞歴と栄誉
カリコーは、その先駆的で世界的に重要な生化学分野の業績に対し、130以上の国際的な賞と栄誉を受けている。
5.1. ノーベル生理学・医学賞
カロリンスカ研究所のノーベル委員会は、2023年10月2日、ノーベル生理学・医学賞をカタリン・カリコーとドリュー・ワイスマンに、mRNA技術の開発の功績により授与すると発表した。
カタリン・カリコーは、2024年4月16日にノーベル賞で受け取った50.00 万 USD以上の賞金を、母校であるセゲド大学に寄付した。
5.2. その他の主要な受賞歴と栄誉
カリコーはノーベル賞以外にも、数多くの権威ある賞を受賞している。
- 2020年:公共メディア年間人物賞、ローゼンスティール賞
- 2021年:ヴィルヘルム・エクスナー・メダル、アストゥリアス皇太子賞学術・技術研究部門、セーチェーニ賞、ゼンメルワイス賞、ハンガリー精神賞、人間の尊厳賞、ルイザ・グロス・ホロウィッツ賞、オールバニ・メディカルセンター賞、慶應医学賞、ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞、国際ポール・ヤンセン生物医学研究賞、ウィリアム・コーリー賞、グランドメダル、プリンス・マヒドール賞、ドイツ免疫学会賞、BBVA財団知識のフロンティア賞、マイエンブルク賞、ハーヴェイ賞、タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。
- 2022年:ヴィルチェク優秀賞、生命科学ブレイクスルー賞、パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞、パール・マイスター・グリーンガード賞、ロレアル-ユネスコ女性科学賞、ベンジャミン・フランクリン・メダル、ルイ=ジャンテ医学賞、ヘルムホルツ・メダル、ジェシー・スティーヴンソン・コヴァレンコ・メダル、日本国際賞、ガードナー国際賞、ウォーレン・アルパート財団賞、唐奨バイオ医薬部門、欧州発明家賞。
- 2023年:全米発明家殿堂入り。
- 2024年:パウル・カラー・ゴールドメダル、タイム誌の「健康分野で最も影響力のある100人」に選出、BBCの「100人の女性」リストに選出。
彼女はまた、2020年にはキシュウーイサーッラーシュ市名誉市民、2021年にはチョングラード・チャナード県とセゲドの名誉市民、2021年にはセゲド大学から名誉博士号を授与されている。
6. 私生活
カリコーはフランツィア・ベーラと結婚しており、二度のオリンピック金メダリストであるボート競技選手スーザン・フランシアの母親である。夫のベーラ(Francia Bélaハンガリー語)はエンジニアだが、アメリカ移住後は清掃職に就き、献身的に研究者の妻を支えた。彼女はハンガリーとアメリカの二重国籍であり、スーザン・フランシア(Susan Francia)として知られている。2021年2月には、娘と義理の息子である建築家ライアン・エイモスの間に孫が生まれた。カリコーの母親は2018年に亡くなっている。

7. メディア露出と回顧録
2021年4月、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、COVID-19パンデミックと戦うためのmRNAワクチンの基礎を築いた彼女のキャリアを特集した。
2021年6月10日、『ニューヨーク・タイムズ』のポッドキャスト『ザ・デイリー』は、カリコーのキャリアを特集し、彼女の業績が認められるまでに乗り越えなければならなかった数々の困難を強調した。
2021年11月、アメリカのオンライン出版物『グラマー』は彼女を「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選出した。
2023年には、彼女に関する2冊の児童書が出版された。デビー・ダディとジュリアナ・オークリーによる『Never Give Up: Dr. Kati Karikó and the Race for the Future of Vaccines』と、ミーガン・ホイトとヴィヴィアン・ミルデンバーガーによる『Kati's Tiny Messengers: Dr. Katalin Karikó and the Battle Against COVID-19』である。

カタリン・カリコーの自伝『Breaking Through: My Life in Science』は、彼女がノーベル賞を受賞したわずか数日後の2023年10月10日にクラウン・パブリッシング・グループから出版された。この本は2023年にハンガリーで最も売れたノンフィクション書籍となり、2024年6月にはリブリ文学賞を受賞した。この時までに、彼女の回顧録は9カ国語に翻訳されていた。
8. 主要論文
- Karikó, K., Buckstein, M., Ni, H., & Weissman, D. (2005). Suppression of RNA Recognition by Toll-like Receptors: The Impact of Nucleoside Modification and the Evolutionary Origin of RNA. Immunity, 23(2), 165-175.
- Karikó, K., Muramatsu, H., Welsh, F. A., Ludwig, J., Kato, H., Akira, S., & Weissman, D. (2008). Incorporation of pseudouridine into mRNA yields superior nonimmunogenic vector with increased translational capacity and biological stability. Molecular Therapy, 16(11), 1833-1840.
- Anderson, B. R., Muramatsu, H., Nallagatla, S. R., Bevilacqua, P. C., Sansing, L. H., Weissman, D., & Karikó, K. (2010). Incorporation of pseudouridine into mRNA enhances translation by diminishing PKR activation. Nucleic Acids Research, 38(17), 5884-5892.
- Karikó, K., Weissman, D., & Welsh, F. A. (2004). Inhibition of toll-like receptor and cytokine signaling-a unifying theme in ischemic tolerance. Journal of Cerebral Blood Flow and Metabolism, 24(11), 1288-1304.
- Karikó, K., Ni, H., Capodici, J., Lamphier, M., & Weissman, D. (2004). mRNA is an endogenous ligand for Toll-like receptor 3. The Journal of Biological Chemistry, 279(13), 12542-12550.
9. 関連人物・トピック
- RNAワクチン
- ヌクレオシド修飾メッセンジャーRNA
- ドリュー・ワイスマン
- ウール・シャヒン - バイオンテック共同創設者
- オズレム・テュレジ - バイオンテック共同創設者
- スーザン・フランシア - 実娘、オリンピック金メダリスト
- トジナメラン - ファイザー/バイオンテックのCOVID-19ワクチン(商品名コミナティ)