1. 概要
キラ・ヴァレンティノヴナ・イワノワ(Кира Валентиновна Ивановаロシア語、1963年1月10日 - 2001年12月18日)は、ソビエト連邦出身のフィギュアスケート選手である。1984年サラエボオリンピック女子シングルで銅メダルを獲得し、ソビエト連邦の女子シングル選手として唯一のオリンピックメダリストとなった。また、世界フィギュアスケート選手権で銀メダルを1回、ヨーロッパフィギュアスケート選手権で銀メダルを4回、ソビエト連邦フィギュアスケート選手権で3回優勝するなど、輝かしい実績を残した。規定演技の強さから「コンパルソリーの女王」と称されたが、私生活ではアルコール依存症に苦しみ、若くして悲劇的な死を遂げた。
2. 人生
キラ・イワノワの人生は、輝かしい競技キャリアと、その裏に隠された個人的な苦悩が交錯するものであった。
2.1. 出生と幼少期
イワノワは1963年1月10日、ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の首都モスクワで生まれた。彼女の幼少期に関する詳細は少ないが、フィギュアスケートの才能を早くから開花させ、若くして競技の道に進んだ。
2.2. 教育とコーチ
イワノワは、主にウラジミール・コバリョフとヴィクトル・クドリャフツェフの指導を受けた。特にコバリョフは、インスブルックオリンピック男子シングル銀メダリストであり、彼女のキャリアに大きな影響を与えた。イワノワはディナモ・モスクワに所属し、厳しいトレーニングを積んだ。17歳の時には、当時20代後半だったコバリョフコーチとの関係が取り沙汰されるなど、競技外でも話題を呼んだ。
2.3. 私生活と死
競技引退後、イワノワはコーチ活動などを行っていたが、晩年はアルコール使用障害に苦しんだとされる。2001年12月18日、イワノワは身長1.59 mであった。モスクワ北郊のオトラドノエ地区にある自宅アパートで、肉切り包丁で刺された状態で亡くなっているのが隣人によって発見された(遺体発見は12月21日)。彼女の死後、ロシアフィギュアスケート連盟のワレンチン・ピセエフ会長は、イワノワが近年アルコール依存症に陥り、何度か治療を受けたものの目に見える効果はなかったと公表した。彼女の死は、ソビエト連邦フィギュアスケート界の元スターの悲劇的な最期として、大きな衝撃を与えた。
3. 選手経歴
イワノワの選手経歴は、規定演技の卓越した技術と、主要国際大会でのメダル獲得によって特徴づけられる。
3.1. ジュニア時代
イワノワはジュニアスケーターとして頭角を現し、1978年世界ジュニアフィギュアスケート選手権で銀メダルを獲得した。この頃、同世代のソビエトの有望株であったエレーナ・ボドレゾワが若年性関節炎の診断を受け、怪我に悩まされるようになったため、イワノワはソビエトフィギュアスケート界の新たな期待の星として注目されるようになった。

3.2. シニアデビューと初期のキャリア
1979年世界フィギュアスケート選手権でシニアの世界選手権にデビューし、18位に終わった。翌年の1980年レークプラシッドオリンピックでは16位という成績であった。1980年の世界選手権には派遣されなかったものの、ボドレゾワの体調不良により、イワノワにはより多くの国際大会への出場機会が与えられた。1981年世界フィギュアスケート選手権では、規定演技で13位と出遅れたものの、ショートプログラムとフリー演技で4位に入り、総合12位という成績を残した。1982年秋にはモスクワ国際フィギュアスケート大会で優勝し、クリーンな3回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させるなど、技術的な進化を見せた。
3.3. 主要大会での実績

イワノワのキャリアの頂点は、1984年サラエボオリンピックでの銅メダル獲得であった。このメダルは、ソビエト連邦、統一チーム、そしてロシアの女子シングル選手が獲得した唯一のオリンピックメダルであり、2002年ソルトレークシティオリンピックでイリーナ・スルツカヤが銀メダルを獲得するまで、その記録は破られなかった。
オリンピック後も彼女の活躍は続き、1985年世界選手権(東京)で銀メダルを獲得した。また、ヨーロッパフィギュアスケート選手権では、1985年ヨーテボリ大会、1986年コペンハーゲン大会、1987年サラエボ大会、1988年プラハ大会と、4年連続で銀メダルを獲得する安定した強さを見せた。
1988年カルガリーオリンピックでは、規定演技で当時のオリンピックチャンピオンであったカタリナ・ヴィットを抑えて1位となる素晴らしいスタートを切った。しかし、ショートプログラムで10位、フリー演技で9位と順位を落とし、総合7位に終わった。
3.4. 特徴と異名
イワノワは、その卓越した規定演技の技術で知られていた。特に、正確で洗練されたコンパルソリーフィギュアは、彼女の最大の強みであり、多くの大会で高得点を叩き出す原動力となった。この規定演技における圧倒的な実力から、彼女は「コンパルソリーの女王」(queen of compulsory figures英語)という異名で称された。
3.5. 論争と制裁
イワノワの競技キャリアは、いくつかの論争によっても影響を受けた。1981年秋から2シーズンにわたり、ソビエト連邦スケート連盟は、コーチとの公的な対立が練習に支障をきたしたとして、イワノワに国際大会への出場停止処分を下したとされている。この処分は、彼女の競技生活に大きな影響を与えたが、処分明けの1984年サラエボオリンピックで銅メダルを獲得し、見事に復帰を果たした。
3.6. 引退後の活動
1988年カルガリーオリンピックを最後にアマチュア競技生活から引退した後、イワノワはイーゴリ・ボブリンが主宰する「アイス・ミニチュア劇場」でスケートを続けた。1991年からはモスクワのディナモ・アリーナで子供たちのコーチを務めるなど、後進の指導にもあたったが、2001年8月にコーチの職を辞している。
4. 大会結果
キラ・イワノワの主要な国際および国内大会における成績は以下の通りである。
| 国際大会 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 大会/年 | 1977-78 | 1978-79 | 1979-80 | 1980-81 | 1981-82 | 1982-83 | 1983-84 | 1984-85 | 1985-86 | 1986-87 | 1987-88 |
| オリンピック | 16位 | 3位 | 7位 | ||||||||
| 世界選手権 | 18位 | 12位 | 4位 | 2位 | 4位 | 5位 | |||||
| 欧州選手権 | 10位 | 11位 | 7位 | 4位 | 2位 | 2位 | 2位 | 2位 | |||
| モスクワ国際 | 2位 | 1位 | 2位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | ||||
| スケートカナダ | ? | 3位 | |||||||||
| 国際大会: ジュニア | |||||||||||
| 世界ジュニア選手権 | 2位 | ||||||||||
| 国内大会 | |||||||||||
| ソビエト選手権 | 2位 J | 1位 | 1位 | 失格 | 2位 | 2位 | 2位 | 1位 | |||
| J = ジュニアレベル; 失格 = 失格 | |||||||||||
5. 評価と影響力
キラ・イワノワは、ソビエト連邦のフィギュアスケート史において、その輝かしい実績と、特に規定演技における圧倒的な強さで記憶されている。彼女が1984年サラエボオリンピックで獲得した銅メダルは、ソビエト連邦の女子シングル選手が獲得した唯一のオリンピックメダルであり、その後のロシアの女子シングルスケーターに道を拓くものとなった。
しかし、彼女の人生は競技の成功だけでなく、私生活における苦悩によっても特徴づけられる。アルコール依存症との闘い、そして若くして悲劇的な死を遂げたことは、彼女の才能が完全に開花しきれなかったこと、そして社会的な支援の重要性を浮き彫りにする出来事として、後世に問いかけを残している。彼女の物語は、スポーツ界の栄光と、個人の脆弱性という二面性を象徴するものとして、ソビエトおよびロシアのフィギュアスケート史に深く刻まれている。