1. 選手経歴
ギー・ラコンブは、プロサッカー選手として数々のクラブで活躍し、特にオリンピックでの金メダル獲得という輝かしい功績を残した。
1.1. 出生およびユース時代
1955年6月12日、フランスのアヴェロン県ヴィルフランシュ=ド=ルエルグで生まれた。身長は1.78 m、体重は77 kgで、ポジションはFWであった。20歳になるまで、故郷のヴィルフランシュ=ド=ルエルグにあるクラブでプレーした。
1.2. クラブ
1975年、ディヴィジョン・トロワ(3部相当)のUSアルビに移籍し、プロデビューを果たした。アルビでは29試合に出場し10得点を記録した。
翌1976年には、ディヴィジョン・アン(1部)のFCナントへ移籍。ナントでは1976-77シーズンにリーグ・アンで優勝を経験し、続く2シーズンもリーグ2位という好成績を収めた。また、1978-79シーズンにはクープ・ドゥ・フランスでも優勝し、国内の主要タイトルを獲得した。ナントでは55試合に出場し9得点を記録した。
その後は、RCランス(1979-1981、86試合出場16得点)、FCトゥール(1981-1983、90試合出場10得点)、トゥールーズFC(1983-1985、82試合出場6得点)、スタッド・レンヌ(1985-1986、53試合出場6得点)、リールOSC(1986-1987、23試合出場4得点)、そしてASカンヌ(1987-1989、35試合出場4得点)といったクラブを渡り歩き、1989年に現役を引退した。

1.3. 代表
1984年にはU-23フランス代表の一員として、ロサンゼルスで開催されたロサンゼルスオリンピックに出場した。この大会でフランス代表は金メダルを獲得し、ラコンブ自身も9試合に出場して2得点を記録するなど、チームの優勝に貢献した。
2. 指導者経歴
現役引退後、ギー・ラコンブは指導者の道に進み、多くのクラブで手腕を発揮した。そのキャリアは、若手育成から国内タイトル獲得、そして国際的な舞台での挑戦へと広がる。
1990年から1995年までASカンヌの下部組織で指導にあたり、その後1995年から1997年までASカンヌのトップチームを率いた。その後、1998年から1999年にはトゥールーズFCの、1999年から2002年にはEAギャンガンの監督を務めた。
2.1. FCソショー
2002年から2005年までFCソショーの監督を務めた。この期間、ラコンブはブノワ・ペドレッティやジェレミー・メネスといった才能ある若手選手の発掘とその育成に手腕を発揮したことで知られる。
就任1年目の2002-03シーズンには、チームをリーグ戦5位に導き、クープ・ドゥ・ラ・リーグでは準優勝を果たした。翌2003-04シーズンもリーグ戦で再び5位となり、さらにクープ・ドゥ・ラ・リーグではクラブ史上初の優勝という快挙を成し遂げた。彼の指導の下、ソショーは2度のUEFAカップ出場権を獲得した。
2.2. パリ・サンジェルマンFC
2005年7月にソショーを去った後、同年12月27日にパリ・サンジェルマンFCの監督に就任した。当時のパリ・サンジェルマンはローラン・フルニエ監督を解任し、リーグ戦6位に位置していた。
彼の初陣は2006年1月4日、古巣であるソショーとのパルク・デ・プランスでの一戦で、3-1の勝利を飾った。2005-06シーズンはリーグ戦を9位で終えたものの、クープ・ドゥ・フランス決勝では長年の宿敵であるオリンピック・マルセイユを2-1で破り、優勝を果たした。この優勝により、チームはUEFAカップ出場権を獲得した。
しかし、2006-07シーズンの開幕時、ラコンブはクープ・ドゥ・フランス決勝での得点者の一人でもあったフランス代表のMFヴィカシュ・ドラソーを構想外とした。これに対しドラソーは、雑誌『L'Équipeレキップフランス語』のインタビューで公然とラコンブを批判した。この事態を受け、アラン・カイザック会長は2006年10月にドラソーを解雇するという異例の措置を取った。これはリーグ・アンにおいて選手が所属クラブによって解雇された初の事例として記憶されている。
2007年1月15日、チームが降格圏の1つ上の順位に低迷する中で、ラコンブは監督を解任され、後任にはポール・ル・グエンが就任した。
2.3. スタッド・レンヌ
2007年12月17日、ラコンブはリーグ・アンに復帰し、スタッド・レンヌの監督に就任した。当時のレンヌは、ピエール・ドレオッシ監督の下で6連敗を喫し、リーグ3位から13位へと順位を落としていた。
ラコンブの指導の下、レンヌは2008-09シーズンにリーグ戦で18試合無敗という快進撃を見せた。しかし、シーズン終盤に失速し、最終的にリーグ7位でシーズンを終えた。また、クープ・ドゥ・フランスでは決勝に進出したものの、ダービー・ブルトンのライバルであり当時リーグ・ドゥに所属していたEAギャンガンに2-1で敗れ、準優勝に終わった。この頃、クラブ首脳陣との確執が噂されるようになり、2009年6月3日にレンヌの監督を退任した。
2.4. ASモナコ
スタッド・レンヌ退任から間もない2009年6月2日、ラコンブはASモナコと2年契約を締結し、リカルド・ゴメスの後任として監督に就任した。
モナコでの最初のシーズンである2009-10シーズンには、再びクープ・ドゥ・フランス決勝にチームを導いた。しかし、延長戦の末に元所属クラブのパリ・サンジェルマンFCにギヨーム・オアロのゴールで0-1と敗れ、2年連続での準優勝となった。リーグ戦では中位をさまよう成績が続き、2010-11シーズンもチームは降格圏内に低迷した。さらにクープ・ドゥ・フランスでは5部リーグのシャンベリSFにPK戦で敗れ、ベスト64で敗退した。この成績不振を受け、2011年1月10日にモナコの監督を解任された。
2.5. アル・ワスルFC
2012年11月7日、ラコンブはサッカーキャリアで初めての海外挑戦として、アラブ首長国連邦のアル・ワスルFCの監督に就任した。これは、前任者で同胞のブルーノ・メツが胃がんの診断を受け休養に入ったため、彼の推薦によって実現したものであった。
しかし、アル・ワスルでの指揮は短期間に終わった。2013年2月18日、アル・アハリに0-4で敗れた直後、チームがリーグ9位に低迷していたことから解任された。アル・ワスルでの9試合の指揮で、わずか2勝という成績であった。
3. 監督引退後
アル・ワスルFCの監督を解任された後、ラコンブは指導者としての現場を離れ、管理職の道を歩んだ。
2013年10月1日には、フランスサッカー連盟(FFF)のディレクターに就任し、フランスサッカー界の発展に貢献した。そして2017年10月3日、全ての公職から退き、正式に引退を表明した。
4. 獲得タイトル
ギー・ラコンブは選手としても指導者としても、数々のタイトルを獲得している。
4.1. 選手としての獲得タイトル
- FCナント
- リーグ・アン: 1976-77
- クープ・ドゥ・フランス: 1978-79
- U-23フランス代表
- ロサンゼルスオリンピック 金メダル: 1984
4.2. 指導者としての獲得タイトル
- ASカンヌ
- クープ・ガンバルデッラ: 1995
- FCソショー
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ: 2004
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ 準優勝: 2002-03
- パリ・サンジェルマンFC
- クープ・ドゥ・フランス: 2006
- スタッド・レンヌ
- クープ・ドゥ・フランス 準優勝: 2009
- ASモナコ
- クープ・ドゥ・フランス 準優勝: 2010
5. 評価
ギー・ラコンブのサッカーにおけるキャリアは、選手としてのオリンピック金メダル獲得という最高峰の栄誉と、指導者としての国内カップ戦優勝という実績に彩られている。彼はFCソショーで若手選手の才能を見出し育成する手腕を発揮し、クラブにクープ・ドゥ・ラ・リーグ初優勝をもたらした。パリ・サンジェルマンFCではクープ・ドゥ・フランスを制覇し、強豪クラブでの指導力も示した。
一方で、パリ・サンジェルマン時代にヴィカシュ・ドラソーとの確執が表面化し、ドラソーの異例のクラブからの解雇に繋がった一件は、彼のキャリアにおける議論の的となった点である。この出来事は、リーグ・アンにおける選手とクラブの関係に一石を投じる歴史的な事例となった。スタッド・レンヌやASモナコでの監督時代には、カップ戦で決勝に進出する手腕を見せたものの、リーグ戦での成績不振やクラブ首脳陣との関係悪化が報じられ、短期間での退任が続いた。
監督引退後も、フランスサッカー連盟のディレクターとして、長年にわたりフランスサッカー界に貢献した。ラコンブのキャリアは、選手の才能を見抜く育成力と、カップ戦での勝負強さを持ち合わせる一方で、時に選手やクラブとの間で摩擦を生じる側面も併せ持っていたと評価できる。