1. 生涯と背景
ゲオルギオス・パパンドレウは、その生い立ちから初期の政治的信念形成に至るまで、ギリシャの激動の時代と深く結びついています。彼の個人的な背景、教育、そして初期の社会活動は、後の政治家としての基盤を築きました。
1.1. 出生と家族
ゲオルギオス・パパンドレウは、1888年2月13日にギリシャ北西部のアハイア県、カレンツィで生まれました。彼の父は正教会の大祭司であったアンドレアス・スタヴロプロスでした。彼の姓である「パパンドレウ」は、父の洗礼名である「アンドレアス」と、ギリシャ語で「司祭」を意味する「パパス」に由来しています。
1.2. 教育と初期の影響
パパンドレウはアテネで法学を学び、その後ベルリンで政治学を修めました。このドイツでの留学経験は、彼の政治哲学に大きな影響を与え、特にドイツの社会民主主義の思想を深く吸収しました。これにより、彼は王政に断固として反対し、寛大な社会政策を支持するようになりました。同時に、彼はギリシャ共産党の政策に強く反対する、極めて強い反共主義者でもありました。
若い頃から政治活動に参加し、自由党の指導者であったエレフテリオス・ヴェニゼロスの熱心な支持者となりました。その縁で、バルカン戦争後にはヒオス島の知事を務めました。彼の兄弟の一人であるニコスはキルキス=ラハナス間の戦いで命を落としています。
1.3. 私生活
パパンドレウは生涯で二度結婚しました。最初の妻はポーランド人のソフィア・ミネイコで、彼女はジグムント・ミネイコの娘でした。二人の間には、1919年にヒオス島で長男のアンドレアス・パパンドレウが生まれました。アンドレアスも後にギリシャの首相となり、パパンドレウ政治王朝の礎を築きました。彼の二番目の妻は女優のキベレ・アンドリアヌで、二人の間にはゲオルギオス・パパンドレウという名の息子がいました。
2. 政治経歴
ゲオルギオス・パパンドレウは、約50年にわたる長い政治経歴の中で、ギリシャの激動期において中心的な役割を果たしました。初期の政治活動から首相在任期間、そして主要な政治的事件まで、彼の経歴はギリシャの近代史そのものと言えます。
2.1. 初期政治活動と閣僚職

第一次世界大戦へのギリシャ参戦を巡る政治危機、いわゆる国民分裂の期間中、パパンドレウは親ドイツ派のコンスタンティノス1世国王に対するヴェニゼロスの最も親しい支持者の一人でした。1916年にヴェニゼロスがアテネからの逃亡を余儀なくされた際、パパンドレウは彼に同行してクレタ島へ向かい、その後レスボス島に渡って反王政派の支持者を動員し、テッサロニキに樹立された親連合国派の反乱政府に対する支持を結集しました。1921年には、国王コンスタンティノスを批判したことにより投獄され、王党派の過激派による暗殺から辛くも逃れました。
1920年の総選挙ではレスボス選挙区から無所属の自由主義者として出馬しましたが、落選しました。1923年1月から10月にかけては、スティリアノス・ゴナタス内閣で内務大臣を務めました。同年12月の総選挙では、ヴェニゼロス派の自由党所属議員としてレスボス選挙区から選出され、1925年6月にはわずか11日間ながら財務大臣を、1930年から1932年には教育大臣を、1933年には運輸大臣を歴任しました。教育大臣としては、ギリシャの学校制度を改革し、特に希土戦争後の難民の子どもたちのために多くの学校を建設しました。
2.2. 王政と独裁政治への反対
パパンドレウは生涯にわたりギリシャ王政に断固として反対する立場を取りました。テオドロス・パンガロス将軍の独裁時代には再び投獄されました。1935年にはギリシャ民主社会党を設立しました。同年には、王政復古を目指すゲオルギオス・コンディリス将軍による王党派クーデターが発生し、パパンドレウは国内追放処分を受けました。さらに、1938年にはギリシャの王党派独裁者イオアニス・メタクサスによって再び追放されました。
2.3. 第二次世界大戦と亡命政府

第二次世界大戦中の枢軸国によるギリシャ占領下では、イタリア当局によって投獄されました。その後、中東へ逃亡し、主にヴェニゼロス主義者で構成された、エジプトに拠点を置く亡命政府に加わりました。イギリスの支援を受けて、ゲオルギオス2世国王は彼を首相に任命しました。彼の首相在任中には、ギリシャ国内の危機とEAMと非EAM勢力間の紛争(ギリシャ内戦の前哨戦)を阻止し、国民統一政府を樹立するためのレバノン会議(1944年5月)とカゼルタ協定(1944年9月)が締結されました。
2.4. 解放後の首相職と「デケンブリアナ」
枢軸国によるギリシャからの撤退後、パパンドレウはギリシャ陸軍の一部部隊および連合国軍のイギリス軍と共に、亡命政府の首相として1944年10月にアテネに入城しました。同年中には、亡命政府の後継となる国民統一政府の首相に就任しました。彼は、カゼルタ協定に基づき連合軍全軍の責任者であったロナルド・スコビー中将と協力し、EAMと非EAM勢力の間で極度に二極化していた状況を正常化しようと努めました。
しかし、1945年のデケンブリアナ事件後、彼は首相を辞任しました。
2.5. 内戦後の閣僚職
デケンブリアナ事件で首相を辞任した後も、パパンドレウは引き続き要職を歴任しました。1946年から1952年までの間、彼は労働大臣、供給大臣、教育大臣、財務大臣、公安大臣などを務めました。また、1950年から1952年には副首相も務めました。
彼は、ギリシャ内戦が猛威を振るっていた1940年代後期、ギリシャ共産党を民主主義に対する最大の脅威と見なしていました。
1952年から1961年にかけての期間は、パパンドレウにとって非常に困難な時期でした。当時のギリシャ王国における自由主義勢力は、内部の紛争によって深刻な弱体化が進み、保守派からの選挙での敗北を喫していました。パパンドレウは、こうした状況の責任はソフォクリス・ヴェニゼロスの指導力にあると批判し続け、彼の指導力を精彩を欠くものと見なしていました。
2.6. 中央同盟の結成と後期の首相職
1961年、パパンドレウは、古い自由主義者のヴェニゼロス主義者、社会民主主義者、そして不満を抱いていた保守派の連合体である中央同盟を結成し、ギリシャの自由主義を復活させました。1961年の「暴力と詐欺」の選挙の後、パパンドレウは右翼の国民急進連盟(ERE)と、右翼の「パラクラトス」(「深層国家」の意)に対して「容赦なき闘争」を宣言しました。
彼の党は、1963年11月の総選挙と1964年の総選挙に勝利し、特に1964年の選挙では地滑り的な大勝を収めました。彼の首相としての進歩的な政策は、保守的な勢力から多くの反対を引き起こしました。また、彼の息子のアンドレアス・パパンドレウが政治において顕著な役割を果たすようになり、その政策がかなり中道左派と見なされたことも反発を招きました。アンドレアスは多くの重要な問題で父と意見を異にし、より進歩的な政策を推進するために「民主同盟」(Dimokratikoi Syndesmoi)と呼ばれる政治組織のネットワークを構築しました。彼はまた、中央同盟の青年組織の支配権を握ることに成功しました。
パパンドレウは、キプロス共和国の建国につながったチューリッヒおよびロンドン協定に反対しました。ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人のコミュニティ間の衝突を受けて、彼の政府はギリシャ陸軍師団をキプロス島に派遣しました。
2.7. 宮廷との対立と失脚
コンスタンティノス2世国王は公然とパパンドレウの政府に反対し、軍内部での頻繁な極右の陰謀が政府を不安定化させました。最終的に国王は中央同盟の分裂を画策し、1965年7月、国防省の統制を巡る紛争をきっかけに政府を解任しました。この危機は「アポスタシア」または「イウリアナ」として知られています。
2.8. 軍事政権下の逮捕と死

1967年4月にゲオルギオス・パパドプロス率いる陸軍大佐による軍事クーデターが発生した後、パパンドレウは逮捕されました。彼は1968年11月に自宅軟禁中に死去しました。彼の葬儀は、大規模な反独裁デモのきっかけとなりました。彼は息子アンドレアスとともにアテネ第一墓地に埋葬されています。
3. 思想とイデオロギー
ゲオルギオス・パパンドレウの政治思想は、彼の生涯を貫く信念として、ギリシャの政治状況に深く影響を与えました。
3.1. 核心的イデオロギー原則
彼の政治哲学は、ドイツの社会民主主義から強い影響を受けました。この影響により、彼は王政の廃止に断固として反対する立場を取り、国民のための寛大な社会政策を強く支持しました。彼は民主主義の原則のために生涯にわたって戦い続けました。
3.2. 共産主義と民主主義に関する見解
パパンドレウはギリシャ共産党(KKE)に対し、確固たる反共主義的立場をとっていました。彼は、ギリシャ内戦が猛威を振るっていた1940年代後期、ギリシャ共産党を民主主義に対する最大の脅威と見なしていました。この信念は、彼の政治的決定や行動の多くを方向付けるものとなりました。
4. 主要政策と社会改革
ゲオルギオス・パパンドレウは、首相在任期間中にギリシャの社会と経済に大きな影響を与える数々の進歩的な政策イニシアティブと改革を実施しました。
4.1. 教育改革
教育大臣を務めていた時代、パパンドレウはギリシャの学校制度を積極的に改革しました。彼は特に、希土戦争後の難民の子どもたちのために多くの学校を建設する努力をしました。これにより、教育へのアクセスを広げ、社会全体の教育水準の向上に貢献しました。
4.2. 福祉と経済改善
1963年から1965年にかけての首相在任期間中、パパンドレウは幅広い進歩的な社会改革を実施しました。彼の政策は、国民の保健と福祉の改善に重点を置き、教育サービスに対する政府からの家計への移転支出が55%以上増加しました。これにより、中等教育および高等教育機関における生徒の就学率は大幅に向上しました。
経済面では、一人当たりの消費額が1.40 万 GRDから1.70 万 GRDに増加しました。また、彼の政党の所得政策は、賃金と農業所得の増加を目的としており、その結果として所得分配も改善されました。これらの政策は、国民の生活水準の向上と社会の公平性の実現に大きく寄与しました。
5. 遺産と評価
ゲオルギオス・パパンドレウはギリシャの政治史において、その生涯と業績、そして確立した政治王朝を通じて、多大な影響を残しました。彼の評価は、肯定的な側面と批判的な側面の両方を含んでいます。
5.1. 肯定的な評価
パパンドレウは、ギリシャ政治界における最高の雄弁家の一人として広く認識されており、民主主義のために粘り強く戦い続けた人物と見なされていました。軍事政権時代とその死後には、愛情を込めて「ο Γέρος της Δημοκρατίας現代ギリシア語」(オ・イェロス・ティス・ディモクラティアス、「民主主義の長老」の意)と呼ばれ、彼の偉大な指導者としての地位が示されました。
彼の首相在任期間中には、教育、保健、福祉の改善、所得分配の是正など、広範な進歩的社会改革が実施されました。これらの改革は、ギリシャ社会の近代化と国民生活の向上に大きく貢献したと評価されています。
5.2. 批判と論争
一方で、パパンドレウの行動や決定には批判や論争も伴いました。特に、1944年の「デケンブリアナ」事件では、解放直後の政治的二極化を収拾する彼の努力が、結果的に首相辞任につながったという側面がありました。また、1963年から1965年の首相在任中の進歩的政策は、保守層からの強い反発を招きました。
最も大きな論争は、1965年の「アポスタシア」事件(「背信」または「イウリアナ」として知られる)を巡るものです。この事件では、コンスタンティノス2世国王との国防省の支配を巡る対立が深まり、最終的に国王が中央同盟を分裂させ、パパンドレウ政府を解任するという事態に発展しました。この出来事は、国王が民主的に選ばれた政府を排除したという批判的な見方をされています。
5.3. 影響と政治王朝
ゲオルギオス・パパンドレウは、その息子アンドレアス・パパンドレウ、そして孫のゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウとともに、ギリシャの政治において極めて重要な役割を果たした「パパンドレウ政治王朝」の創始者として記憶されています。アンドレアスとゲオルギオス(孫)も後に首相を務め、ギリシャ政治に強い影響を与え続けました。
彼の孫であるゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウが政界に入って以降、現代のギリシャの著述家は、祖父を指す際には伝統的な「Γεώργιος現代ギリシア語」(イェオルイオス)、孫を指す際には短縮形の「Γιώργος現代ギリシア語」(ヨルゴス)を用いる慣例が確立しています。これは、彼の永続的な影響と、パパンドレウ家がギリシャ政治に与えた深い足跡を示すものです。
6. 著作
- The Liberation of Greece (アテネ、1945年)
7. 栄誉と追悼
ゲオルギオス・パパンドレウは、その功績を称え、以下のような栄誉を受けました。
- 1965年、ベオグラード大学より名誉博士号を授与されました。
8. 関連項目
- アンドレアス・パパンドレウ
- ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ
- ギリシャの政治