1. 概要
シドニー・ウィックス(Sidney Wicksシドニー・ウィックス英語、1949年9月19日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元バスケットボール選手である。パワーフォワードおよびセンターのポジションで、身長203cm、体重102kgの体格を活かし、NBAで活躍した。彼は、UCLA時代に伝説的なNCAAトーナメント3連覇に貢献した中心選手として名を馳せた後、1971年のNBAドラフトで全体2位指名を受けてポートランド・トレイルブレイザーズに入団。ルーキーシーズンに新人王を獲得し、4度のNBAオールスターに選出されるなど、リーグ屈指の若手選手として高い評価を受けた。ブレイザーズでの成功後、ボストン・セルティックス、サンディエゴ・クリッパーズでプレイし、イタリアリーグでの短い期間を経て、1981年に現役を引退した。ウィックスのキャリアは、その卓越した才能とチームへの貢献、そして特にUCLAとブレイザーズ初期に残した輝かしい功績によって特徴づけられる。本稿では、彼の幼少期から大学、プロキャリア、そして引退後の活動に至るまでを詳細に記述し、その功績とバスケットボール界への影響を包括的に評価する。
2. 幼少期と大学でのキャリア
シドニー・ウィックスは、カリフォルニア州コントラコスタ郡で生まれ育ち、後にロサンゼルスのUCLAで輝かしい大学バスケットボール選手としてのキャリアを築いた。
2.1. 幼少期と教育
シドニー・ウィックスは1949年9月19日にカリフォルニア州コントラコスタ郡で生まれた。ロサンゼルスにあるアレクサンダー・ハミルトン高校に通った後、彼は地元UCLAへの進学を希望したが、高校での成績が基準を満たさなかったため、まず1年間サンタモニカカレッジに通った。その後、1968-69シーズンから念願のUCLAのバスケットボールチームに参加。大学では社会学の学位を取得し、1971年にはAcademic All-Americaにも選出されるなど、学業面でも優秀な成績を収めた。
2.2. UCLAでの選手経歴
身長203cmのパワーフォワード兼センターとして、ウィックスはUCLAで驚異的な活躍を見せた。彼は1969年、1970年、1971年と3年連続でNCAAトーナメント優勝を経験した。特に1970年と1971年の優勝チームでは中心選手として君臨した。
UCLAに入学した1968-69シーズン、チームはルー・アルシンダー(後のカリーム・アブドゥル=ジャバー)を擁し、前年のNCAAトーナメントを制覇していた。この年もUCLAは優勝を果たし、ベンチスタートのウィックスは平均7.5得点を記録したが、当時の関係者の多くは彼を有望な選手とは見ていなかった。しかし、名将ジョン・ウッデンは彼の傑出した運動能力を見抜き、積極的に起用した。
1969年の優勝を最後にアルシンダーが大学を卒業すると、多くの人々は大スター不在のUCLAが3連覇を達成することは不可能だと予想した。だが、ウィックスはアルシンダーの穴を埋める活躍を見せ、1969-70シーズンには平均18.6得点、11.9リバウンドの成績を残した。周囲の予想に反してUCLAはトーナメントを勝ち進み、決勝でジャクソンビル大学と対戦。この大舞台でウィックスは221cmの長身センター、アーティス・ギルモアとマッチアップし、自身よりも二回りも大きいギルモアから5ブロックを奪うなどの活躍を見せ、チームを80-69の勝利に導いた。UCLAは見事に3連覇を達成し、ウィックスは大会MVPにあたるMost Outstanding Playerに選出された。この年、彼はAP通信選出のオールアメリカ3rdチームにも選ばれ、ヘルムズ・アスレチック財団の年間最優秀選手にも輝いた。
翌1970-71シーズンもウィックスは素晴らしいパフォーマンスを継続し、平均21.3得点、12.8リバウンドを記録し、UCLAをNCAA4連覇に導いた。この活躍により、彼は全米バスケットボール記者協会(USBWA)とThe Sporting Newsが選出する年間最優秀選手に輝き、1970年と1971年にはコンセンサス・オールアメリカンに選出された(1970年にはセカンドチーム、1971年にはファーストチーム)。彼の功績を称え、1996年2月1日にはUCLAのホームコートであるポーリー・パビリオンでのハーフタイムセレモニーで、彼の背番号『35』が永久欠番に指定された。さらに、ウィックスは1985年にUCLA Athletics Hall of Fameに、2010年にはCollege Basketball Hall of Fameにそれぞれ殿堂入りを果たした。
3. プロキャリア
ウィックスは、大学での輝かしい実績を引っ提げてNBA入りを果たし、プロ選手としてリーグで活躍した後、イタリアリーグでの短い期間をもってそのキャリアを終えた。
3.1. ポートランド・トレイルブレイザーズ時代
UCLAを卒業したウィックスは1971年のNBAドラフトにエントリーし、全体1位指名が有力視されていた。しかし、どうしてもウィックスを獲得したい2位指名権を持つポートランド・トレイルブレイザーズは、1位指名権を保有していたクリーブランド・キャバリアーズに対し、彼を指名しないよう25.00 万 USDを支払った(キャバリアーズは代わりにオースティン・カーを指名した)。こうしてウィックスは、トレイルブレイザーズから全体2位指名を受け、NBA入りを果たした。また、同時期の1971年にはABAドラフトでもダラス・チャパラールズから指名を受けていた。
ブレイザーズの選択は間違っていなかったように見えた。ウィックスは創設2年目のチームにおいて、ルーキーシーズンの1971-72シーズンからエースとして活躍。平均24.5得点、11.5リバウンドを記録し、オールスターに選出されただけでなく、新人王も受賞した。ブレイザーズはこのシーズン、18勝64敗と大きく負け越したものの、ウィックスに前年の新人王であるジェフ・ペトリーという優秀な若手が揃い、将来を嘱望されるチームとなるはずだった。
しかし、このウィックスとペトリーの仲は極めて悪く、チームの主導権を巡って2人は対立し、時にはメディアを通して互いを間接的に批判し合った。事態を憂慮した球団フロントは、2人を家族同伴でイスラエルへの旅行に行かせ、険悪な関係を解消しようと試みた。そこで偶然にも事件が起こった。ウィックスが湖で溺れかけ、それをペトリーが救い出したのである。ウィックスにとっては不運な事故であったが、2人を送り出した球団にとっては思惑通りとなり、この出来事を契機に2人は打ち解けるようになった。しかし皮肉にも、2人の関係が良好になった時には、ブレイザーズの内情は既に手遅れとなっており、チームケミストリーは崩壊寸前であった。
ウィックスは1971年から1976年までブレイザーズに所属し、その間に1972年から1975年まで4年連続でオールスターに選出された。彼はブレイザーズの1試合におけるリバウンド記録(27リバウンド)を保持していたが、後にエネス・カンター・フリーダムによって更新された。ブレイザーズでの5年間で、ウィックスは平均22.3得点、10.3リバウンドを記録した。
1975-76シーズンには、UCLA出身の大物ルーキー、ビル・ウォルトンが入団し、チームは37勝45敗まで成績を上げたが、目標であったプレーオフ進出は果たせなかった。そしてシーズン終了後、ブレイザーズはウォルトンを中心としたチームを再構築するため、チームを刷新。ヘッドコーチのレニー・ウィルケンズを解任し、ジャック・ラムジーを招聘した。そしてウィックスはボストン・セルティックスへ放出されることになった。さらに皮肉なことに、ブレイザーズは翌1976-77シーズンに初のプレーオフ進出を果たすと、一気にNBAファイナルまで駆け上がり、リーグ優勝を達成した。一方、ペトリーは膝の故障によりこのシーズンを最後に現役を引退した。
3.2. ボストン・セルティックスとサンディエゴ・クリッパーズ時代
ブレイザーズでのNBAデビューから4シーズン連続で平均20得点以上を記録してきたウィックスだが、ルーキーシーズンをピークにその成績は少しずつ下降線を辿っていた。1976年10月、彼の権利はボストン・セルティックスへ売却され、移籍を機に成績はさらに低下した。彼はセルティックスで1976年から1978年までプレイした。
その後、ウィックスはサンディエゴ・クリッパーズへ移籍し、1981年まで在籍した。クリッパーズ移籍後の1978-79シーズンには、平均得点が遂に二桁を割るなど、彼のキャリアは下降の一途を辿った。ウィックスはそのままフェードアウトする形で、1980-81シーズンを最後に現役を引退した。
NBAでの10シーズン全体で、彼は760試合に出場し、通算12,803得点、6,620リバウンド、2,437アシストを記録した。1試合平均では16.8得点、8.7リバウンド、3.2アシストであった。
3.3. 国際リーグでのキャリア
NBA引退後、ウィックスは1シーズンをイタリアのリーグでプレイした。このイタリアでの経験は、彼の選手キャリアの最後の章となった。
4. 引退後のキャリア
NBAを去った後、ウィックスは1年間イタリアで生活した後、アメリカ合衆国に戻った。彼は母校であるUCLAに戻り、ウォルト・ハザードがヘッドコーチを務めた4年間、アシスタントコーチとして指導にあたった。コーチ業を離れた後は、不動産業界に進出した。その後、彼はアトランタ、フロリダ、ノースカロライナ、ロサンゼルスなど、アメリカ各地に居住地を構えた。
5. 私生活
ウィックスは1973年から1979年まで結婚していた。彼にはシバーン・エップスという娘がいる。
1989年5月5日午前9時、カリフォルニア州サンディエゴのミラ・メサで、ウィックスは自動車事故により重傷を負った。積載されたセメント運搬車が赤信号を無視して彼の車の運転席側に衝突したのである。ウィックスはラホヤのスクリップス記念病院で脾臓の破裂により脾臓を摘出する手術を受けた。また、顔に裂傷を負い、軽度の頭部外傷もあった。同乗者も軽度の脳震盪と顔面外傷を負ったが、セメント運搬車の運転手は無傷だった。2006年時点では、ウィックスはノースカロライナ州とロサンゼルスに居住していた。
6. 功績と評価
シドニー・ウィックスは、その類稀なるバスケットボールの才能と献身によって、大学およびプロの舞台で数々の功績を残した。彼はUCLAでの王朝時代を支え、NBAでは新設チームのエースとしてその名を刻んだ。
6.1. 主な業績と栄誉
シドニー・ウィックスは、キャリアを通じて以下のような主要な業績と栄誉を獲得している。
- NCAAトーナメント優勝**: 1969年、1970年、1971年(3回)
- NCAAトーナメント最優秀選手**: 1970年
- ヘルムズ年間最優秀選手**: 1970年(共同)、1971年
- USBWA年間最優秀選手**: 1971年
- The Sporting News年間最優秀選手**: 1971年
- コンセンサス・オールアメリカン**: 1970年(セカンドチーム)、1971年(ファーストチーム)
- NBAルーキー・オブ・ザ・イヤー賞**: 1972年
- NBAオールルーキー1stチーム**: 1972年
- NBAオールスター**: 1972年、1973年、1974年、1975年(4回)
- UCLA永久欠番**: 背番号35
- UCLA Athletics Hall of Fame**: 1985年殿堂入り
- College Basketball Hall of Fame**: 2010年殿堂入り
6.2. 影響とチーム記録
ウィックスは、UCLAではアルシンダー卒業後のチームを牽引し、前例のないNCAA3連覇、そして4連覇という偉業に貢献した。その圧倒的な存在感とリーダーシップは、大学バスケットボールの歴史に深く刻まれている。
NBAにおいては、彼はポートランド・トレイルブレイザーズ創設初期のエースとして、チームの顔となった。特にルーキーイヤーには新人離れした活躍を見せ、チームの礎を築いた。彼はブレイザーズの1試合における27リバウンドというフランチャイズ記録を保持していた(現在は更新されている)。また、2009年時点でブレイザーズにおける通算リバウンド数(4,086)は歴代5位、通算得点数(8,882)は歴代9位という記録を残しており、彼のチームへの貢献度の高さを示している。彼がブレイザーズを去った直後にチームがNBAチャンピオンになったことは、皮肉な巡り合わせであったが、ウィックスがチームの土台作りに果たした役割は無視できない。
7. キャリア統計
シドニー・ウィックスのレギュラーシーズンおよびプレイオフにおける詳細な選手記録を以下に示す。
7.1. レギュラーシーズン
Year | Team | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971-72 | Portland | 82 | - | 39.6 | .427 | - | .710 | 11.5 | 4.3 | - | - | 24.5 |
1972-73 | Portland | 80 | - | 39.4 | .452 | - | .723 | 10.9 | 5.5 | - | - | 23.8 |
1973-74 | Portland | 75 | - | 38.0 | .459 | - | .762 | 9.1 | 4.3 | 1.2 | .8 | 22.5 |
1974-75 | Portland | 82 | - | 38.6 | .497 | - | .706 | 10.7 | 3.5 | 1.3 | 1.0 | 21.7 |
1975-76 | Portland | 79 | - | 38.5 | .483 | - | .674 | 9.0 | 3.1 | 1.0 | .7 | 19.1 |
1976-77 | Boston | 82 | - | 32.2 | .458 | - | .668 | 10.0 | 2.1 | .8 | .7 | 15.1 |
1977-78 | Boston | 81 | - | 29.8 | .467 | - | .660 | 8.3 | 2.1 | .8 | .6 | 13.4 |
1978-79 | San Diego | 79 | - | 25.6 | .462 | - | .650 | 5.1 | 1.6 | .9 | .5 | 9.8 |
1979-80 | San Diego | 71 | - | 30.2 | .423 | .000 | .546 | 5.8 | 3.0 | 1.1 | .7 | 7.1 |
1980-81 | San Diego | 49 | - | 22.1 | .437 | .000 | .507 | 4.6 | 2.3 | .8 | .8 | 6.7 |
Career | 760 | - | 33.9 | .459 | .000 | .685 | 8.7 | 3.2 | 1.0 | .7 | 16.8 | |
All-Star | 4 | 1 | 20.3 | .450 | - | .722 | 8.3 | 1.0 | - | - | 12.3 |
7.2. プレイオフ
Year | Team | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | Boston | 9 | - | 29.0 | .519 | - | .732 | 9.2 | 1.8 | 1.4 | .3 | 13.1 |
Career | 9 | - | 29.0 | .519 | - | .732 | 9.2 | 1.8 | 1.4 | .3 | 13.1 |