1. 概要
イギリスの長距離陸上選手ジム・ピーターズは、1950年代にマラソンの世界記録を4回更新したことで知られる。特に、史上初めて2時間20分未満での完走を達成した選手であり、これは陸上競技における「4分の壁」を破ることに匹敵する偉業と称された。彼のキャリアにおける最も象徴的な出来事は、1954年のブリティッシュ・エンパイア・アンド・コモンウェルスゲームズバンクーバー大会でのマラソン競技である。この大会では、トップで競技場に到着しながらも、ゴール直前で何度も倒れ込み、完走を断念するという劇的な結末を迎えた。この出来事は、彼の不屈のスポーツマンシップを象徴するものとして語り継がれている。引退後はロードランナーズクラブの会長を務め、また眼鏡技師としても活動した。
2. 生涯初期
ジム・ピーターズは1918年にロンドンで生まれ、エセックス・ビーグルズで陸上競技キャリアをスタートさせた。
2.1. 出生と成長
ジム・ピーターズ(Jim Peters英語、本名:James Henry Peters英語)は、1918年10月24日にイングランドのロンドンにあるハックニーで生まれた。彼の故郷であるハックニーは、かつてロンドン郡に属していた地域である。
2.2. 陸上競技キャリアの開始
ピーターズは、陸上競技、特に長距離走の選手としてそのキャリアをスタートさせた。彼はエセックス・ビーグルズというクラブに所属し、競技生活を送った。
3. 主要陸上競技キャリアと業績
ジム・ピーターズはマラソンの世界記録を4度更新し、オリンピックにも出場した。特に1954年のコモンウェルスゲームズでの劇的な出来事は彼のキャリアの象徴である。
3.1. 世界記録更新
ジム・ピーターズは1950年代にマラソンの世界記録を合計4回更新する偉業を達成した。彼はまた、マラソンを2時間20分未満で完走した史上初の選手である。これは、1マイル4分の壁を破ることに匹敵する、陸上競技界の重要な金字塔と評価された。
彼の主な世界記録は以下の通りである。
- 1952年:ポリテクニックマラソン(ウィンザー - チズウィック間)で2時間20分42秒2を記録し、世界記録を樹立した。
- 1953年:再びポリテクニックマラソンで2時間18分40秒2を記録し、自身の世界記録を更新した。
- 1953年:同年、エンシェデマラソン(オランダ)において往復コースで2時間19分22秒を記録し、この大会でも2時間20分未満での完走を達成した。また、この年には2時間18分34秒8という記録も樹立している。
- 1954年:三度ポリテクニックマラソンに出場し、2時間17分39秒4という自身の最後の世界記録を達成した。
3.2. オリンピック出場
ピーターズは2度のオリンピックに出場した。
- 1948年:地元ロンドンで開催された1948年ロンドンオリンピックに出場。男子10,000メートル走で31分16秒0の記録で8位に入賞した。
- 1952年:ヘルシンキで開催された1952年ヘルシンキオリンピックでマラソン競技に出場したが、このレースでは途中棄権(DNF: Did Not Finish)となった。
| 主要大会成績 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 大会 | 開催地 | 順位 | 種目 | 記録 |
| 1948 | 1948年ロンドンオリンピック | ロンドン、イギリス | 8位 | 10,000メートル | 31:16.0 |
| 1952 | ポリテクニックマラソン | ウィンザー、イギリス | 1位 | マラソン | 2:20:42.2 WR |
| 1952 | 1952年ヘルシンキオリンピック | ヘルシンキ、フィンランド | — | マラソン | 途中棄権 |
| 1953 | ポリテクニックマラソン | ウィンザー、イギリス | 1位 | マラソン | 2:18:40.2 WR |
| 1953 | エンシェデマラソン | エンシェデ、オランダ | 1位 | マラソン | 2:19:22 |
| 1954 | ポリテクニックマラソン | ウィンザー、イギリス | 1位 | マラソン | 2:17:39.4 WR |
| 1954 | 1954年ブリティッシュ・エンパイア・アンド・コモンウェルスゲームズ | バンクーバー、カナダ | 3位 | 6マイル | — |
3.3. 1954年ブリティッシュ・エンパイア・アンド・コモンウェルスゲームズ・マラソン事件
1954年8月7日、バンクーバーで開催された1954年ブリティッシュ・エンパイア・アンド・コモンウェルスゲームズのマラソン競技で、ピーターズは劇的な出来事に見舞われた。彼は先頭を走り、2位の選手に17分もの大差をつけ、当時の大会記録をも10分上回るペースで競技場に姿を現した。しかし、ゴールまで残りわずか約200 mの地点で、身体の限界を迎え、何度も倒れ込んだ。
競技場に入ってから200 mを進むのに11分を要したが、ついに完走を断念し、ストレッチャーで運び出された。このレースが、彼の現役選手としての最後のレースとなった。後にピーターズは、「あの日は死ななくて幸運だった」と語っている。
この大会後、エディンバラ公フィリップはピーターズのスポーツマンシップを称え、「最も勇敢なマラソンランナーへ」と刻印された特別なメダルを彼に贈った。また、彼の競技用品、特に運動靴は、1967年にバンクーバーのスポーツ殿堂に寄贈され、展示されている。
4. 引退後の人生
競技生活を引退後、ジム・ピーターズはロードランナーズクラブの会長を務め、眼鏡技師として活動した。
4.1. ロードランナーズクラブでの活動
競技生活から引退した後、ジム・ピーターズは陸上界への貢献を続けた。彼は、当時結成されたばかりのロードランナーズクラブの会長を1955年から1956年まで務めた。
4.2. 眼鏡技師としてのキャリア
陸上競技の引退後、ピーターズは職業として眼鏡技師の道に進んだ。彼はサリー州ミッチャムとエセックス州チャドウェル・ヒースで眼鏡技師として働いた。
5. 死去
ジム・ピーターズは1999年1月9日に、エセックス州ソープ・ベイで亡くなった。享年80歳であった。
6. 遺産と評価
ジム・ピーターズはマラソン史に貢献し、そのスポーツマンシップは後世に大きな影響を与えた。
6.1. マラソン史への貢献
ジム・ピーターズは、1950年代にマラソンの世界記録を4度も更新し、特に史上初めて2時間20分未満での完走を達成したことで、マラソン競技の歴史に大きな足跡を残した。彼の革新的な記録は、後のランナーたちに新たな目標を示し、マラソンスポーツの発展に多大な貢献をしたと評価されている。
6.2. スポーツマンシップの象徴
1954年のブリティッシュ・エンパイア・アンド・コモンウェルスゲームズでのマラソン競技における彼の壮絶な闘いと、ゴール目前での無念の途中棄権は、スポーツマンシップの象徴として多くの人々の記憶に残されている。勝利を目前にしながらも、限界を超えて倒れ込んだ彼の姿は、結果よりも過程における人間の不屈の精神と、フェアプレーの重要性を示すものとして高く評価されている。
| マラソン 世界記録保持者 | ||
|---|---|---|
| 서윤복ソ・ユンボク韓国語 2時間25分39秒 (1947年) | Jim Petersジム・ピーターズ英語 2時間20分42秒2 (1952年) 2時間18分40秒4 (1953年) 2時間18分34秒8 (1953年) 2時間17分39秒4 (1954年) | Sergei Popovセルゲイ・ポポフロシア語 2時間15分17秒0 (1958年) |